アメリカは貯蓄率が低く、アメリカ国民は借金して消費する国だが、それでも、不景気が訪れている。


 それに比べ、日本は、貯蓄率が高く、消費に消極的で、アメリカの失敗で不景気が訪れそうな気配である。


 こうした状況において、果たして、消費を喚起するというお気楽な政策主導でよいのだろうか。


 ただ、金を使えと言われても、お金を援助してもらっても、このままでは貯金するというのが日本人ならではの考え方だろう。


 この不景気を見越して、企業は再び商品を安くで提供しようとしていることは、庶民はチェックすべきだろう。


 不景気の再来ということで、企業は在庫整理をすべく、よい商品を安くで提供している。


 よって、余裕があれば、今のうちに今までほしかった物を手に入れるという方法もある。


 しかし、このとき、着眼点として、よい商品を安く買うということ。


 長く使える良い品を、今のうちに買っておくということだろう。


 たとえば、洋服や時計などデザインの変化しない高品質なものを今のうちに買っておくとよいと考える。


 

 日本は、「人の死」を隠す文化だ。


 我々、日本人は、「死」を頻繁に見ることがない。


 死亡事故があっても、すぐに警察や救急車が死体を搬送するし、病室で人が死んでも、すぐに隔離してしまう。


 そのためか、我々、日本の社会は、誰にでも訪れる「死」についての訓練はおろか、「死」についての考えさえも教わらない。


 どこからが「死」なのか、たとえば、「脳死」は人の「死」なのか。


 それとも、体細胞がすべて死滅するまで「死」ではないかのか。


 現在、日本では、心臓の停止だけでなく、瞳孔の収縮など、いろいろな判断を持って「死」を決定している。


 ただ、科学の進歩により、心停止しても、人工心臓により、心臓の活動を行うことができる状態が可能だ。


 果たして、「人の死」とはなんなのか。


 議論を行う必要がある。

 沖縄というと、日本本土の防衛のために犠牲にされた土地という言い方をされる。


 しかし、これは真実だろうか。


 沖縄以外にも、満州(傀儡政権だが)、朝鮮、そして、南洋の島々も実は、以前は日本であり、激戦地であった。


 よって、沖縄を本土防衛のために犠牲にされたというのはおかしい。


 また、満州や朝鮮に居住していた多くの日本人はまさに悲惨な状態だった。


 殺され、犯され、そして、奪われた。


 沖縄だけではないのである。


 サイパン島でも、日本人住民はたくさん死んでいる。


 そういう中、わざわざ、そういう事実をかくして沖縄の被害のみ主張するのはどういうことであろう。


 日本人同胞としていかがなものか。


 そのことを考えざる得ないのである。


 死刑囚が、何十年も生きることができるということは、結局は、日本の刑事裁判の有効性がないということにはならないだろうか。


 ここで、死刑囚が収容されているうちに人格が更生されるなどという極論は不要だろう。


 そもそも、日本の場合、そう簡単には死刑にはならない。


 そして、死刑となったとしても、税金で生きることができる。


 たしかに、刑事裁判について疑問点がある。


 しかし、通常の刑法犯について、その疑問が当てはまるだろうか。


 もし、当てはまるという部分は、軽い犯罪などだろう。


 窃盗や痴漢などは、映画にもなったとおり、問題となる刑事裁判はありうる。


 似たようなものは、セクハラもあたるだろう。


 セクハラとして処理するよりも、わいせつ犯として処理される方がより法的であり、文明的であろう。


 しかし、人を殺害したなど、明らかな殺人について、こうまでして保護すべきか。


 むごたらしい殺人に対して、刑を執行しないのは、結局は、社会に甘えを巻き起こすのではないか。


 惨殺された個人はどういう罰があってなされたのか。


 命の不公平があってよいのか。


 また、死刑執行と起訴便宜主義を検察が有することに、我々は疑問を覚える必要があるのではないか。


 検察審査会がどれほど機能していないかというのは有名な事実である。


 そろそろ、日本の国の制度を変える必要があるように考える。

 権力に近いかどうかで最終的には決まることがある。


 何か政策を実施する時、権力を手に入れる時、権力に近いほど有利だ。


 これはきれい事ではない。


 また、人間的な感情が最終的な賛否を決めることもある。


 根回しが大切なのもこのためだ。


 迎合だけではだめで、反発も必要だが、最終的に権力にすり寄ることが権力者になるためには重要である。


 その最後のすり寄りができるか、できなかで権力者となることができたり、できなかったりする。


 そのすり寄る行動は、自分自身の政策なり、行動が正しいと確信したとき、どうしても権力を手に入れる必要性がないとできない。


 そういう真摯な気持ちになれるか、そこが分け目だ。


 権力者は、孤独であり、人に理解されたいという気持ちがある。


 その心理を考えて行動しなければいけない。