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東京リーシングと土地活用戦記

ニーチェ・ツァラトゥストラの言葉「神は死んだ、神なんかもう信じるな」「強い風が吹く所に一人で立て!そこは非常に厳しいけれど、人間自分自身が主人公だ!風を受けて孤独になれ!」「真理などない。あるのは解釈だけ」いいねー。スバム読者申請コメント削除します。

東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記


官僚たち「すり寄り」の夏

2009年8月17日 AERA

呆れるほど鮮やかな手のひらの返し方である。霞が関の各省は、
まだ自民党の大臣を戴いているのに民主党に露骨にすり寄る。
民主党よ、騙されてはダメである。

 財務省の香川俊介氏(53)はまた一つ出世の階段を上がった。7月14日付で主計局の次長から局長に一歩手前の総括審議官に就いたのである。
 香川氏は東大法学部を卒業後、1979年に旧大蔵省(現財務省)に入った。入省同期には優秀な人材がそろい、安倍晋三元首相の秘書官を務めた田中一穂審議官(主税局担当)や木下康司主計局次長がいる。彼は今回の異動で、これまで同期の先頭を走っていたその2人を追い越し、一足早く局長寸前のポストを射止めた。
 その理由は、彼が民主党の小沢一郎前代表からの信任が厚いことと見られている。香川氏は、小沢氏が87年に竹下内閣で官房副長官になった際に秘書官を務めた。小沢氏が「大蔵省にはこんな優秀な人材がいたのか」と驚いたという逸材で、後に英国の2大政党政治を調べたレポートを執筆し、小沢氏に提言してもいる。
「彼は『新官僚』だな。世の流れの先を見て、政治家に提言する」
 財務省の局長級OBは、そう手放しで称賛した。
 もっとも、こんな評価もある。
「権力に媚びるのがうまい人。私が中枢にいたときには、さして親しくもないのに『ゴロニャン』と接近してきた。香川さんを凄いと思っているようじゃあ、小沢さんのオツムもしれるよ」(別の財務省OB)

信頼厚い財務省小沢番

 香川氏は公共事業担当の主計官を長く務めた。主計官の職務は、厳しい予算査定で無駄を削る印象があるが、実態は当該官庁と族議員の利益代弁者という顔も持つ。「彼は甘い需要予測で査定し、国土交通省と持ちつ持たれつだった」(同)という指摘もある。
 全国紙や放送局の政治取材部門には、有力な政治家に担当記者を張り付ける「番記者」という仕組みがある。最強の官庁の財務省も同様に、有力な政治家には「番」を配する。四六時中政治家と行動をともにする秘書官づとめをすると、当然親密になる。香川氏は小沢番だ。

「小泉色」中和の思惑

 自公両党が野に下るのはもはや避けられそうにない。このままでは民主党の大勝になるかもしれない。「世の流れの先を読む」という鼻のきく官僚たちは、早くも7月初めの段階でその布石を打っている。財務省は、民主党が「格差社会を招いた」と糾弾する小泉内閣で首相秘書官を務めた丹呉泰健氏を主計局長から事務次官に昇格させる一方、小沢氏にパイプを持つ香川氏の抜擢を決めた。丹呉次官の「小泉色」を中和するとともに、霞が関改革を唱える民主党の矛先から財務省を免れさせようという狙いがあるとみられる。
 外務省もまだ麻生自公政権下だというのに、さっそく「鳩山番」を官邸に送り込んだ。北米一課長だった山野内勘二氏(51)を7月21日付で内閣参事官(官房副長官補付)に起用した。山野内氏は、細川連立政権で官房副長官だった鳩山由紀夫現民主党代表の秘書官を務めたことがある。当然、鳩山首相誕生が秒読みと見て、外務省が送り込んだ人事と受け止められている。

 外務省はこの1月には、在ジュネーブ国際機関政府代表部大使兼ジュネーブ総領事だった宮川真喜雄氏(58)を大臣官房審議官兼国際協力局地球規模課題担当として東京に呼び戻してもいる。宮川氏も財務省の香川氏同様、小沢氏の官房副長官時代の秘書官だった。

 経済産業省は一時は望月晴文事務次官を筆頭に省をあげて民主党に接近する動きを見せたが、その策動が自民党の二階俊博経産相の知るところとなり、二階大臣が「これから選挙で戦う相手に対して何事か」と事務方を激しく叱責した。以来、表面的な動きは沈静化したものの、水面下では民主党工作が秘かに繰り広げられている。

 大臣に睨まれたせいか、関係者の口は堅いが、民主党対策に動いているのは大臣官房の課長ら同省中枢の幹部たちだ。該当の課長は「そんなことはしていません。通常業務の範囲内の接触です」というが、応対した民主党議員の関係者は「協力したいということでした」と打ち明ける。

対岡田で要員を確保

 旧通産官僚出身の岡田克也氏が民主党の幹事長職にあることも手伝ってか、岡田氏の同期である76年入省組は今夏の人事で退任する者はいなかった。その下の77年入省組には退任する人がいるのにである。

「岡田さんに働きかけられる要員を確保しておきたいのではないか」
 省内でそう勘ぐられている。
 自民党の大臣を戴いているにもかかわらず、各省は手のひらを返すように敵方の民主党に寝返る(囲み記事参照)。まだ選挙結果が判明していないのに、各省は濃淡はあれ、民主党政権をにらんだ人事を発令している。「官僚を使いこなす」と終始、霞が関に擁護的だったのは自民党の与謝野馨財務相だが、事務方の官僚が民主党対策に動くのを止められない。

「政権党の自民党の大臣がこうした動きを許してしまっているのは不思議です。各省が自律的に自主的に動いている。日本の官僚制のオートノマス(自治権)たるやすごいものです」
 財務官僚出身の森信茂樹中央大大学院教授は、そう指摘する。英国や豪州の官僚が政治家への接触を厳しく制限されているのとは、大違いだという。
 省庁の幹部人事を一元化する内閣人事局設置を盛り込んだ国家公務員法の改正案は、衆院解散によって廃案となった。すると、同法案の取りまとめ作業にあたってきた国家公務員制度改革推進本部事務局は、国家公務員でつくる労働組合への働きかけを強めようとしている。同事務局の松田隆利次長(元総務事務次官)は、公務員労組の上部団体である連合に「パイプを持っている」(官公労系労働団体幹部)と言われる。霞が関のキャリア組も、末端の労組員の公務員も、劇的な改革は願い下げの点では一致する。「55年体制」的な野合も始まっている。

「過去官僚」議員に狙い

 民主党のスター議員周辺は「いったい誰を信じればいいのやら」とこぼすほど、各省のロビイング攻勢にあっている。自薦他薦がひっきりなしで、有力紙論説委員も「信頼できる官僚がいる」と紹介に訪れる。そんな様子を聞いてある脱藩官僚は、
「突然やってくる者を信じちゃダメです。すり寄る官僚に『キミは役所を辞めてついてくる覚悟はあるか』と聞いて、それでも来る者だけを信じればいい」
 とアドバイスする。

 霞が関があてにするのは、民主党内の「過去官僚」たちだ。旧通産省出身の松井孝治参院議員、旧大蔵省出身の古川元久氏、藤井裕久氏ら官僚出身者は、自民党の与謝野氏同様「官僚を使いこなす」ことのほうに力点を置きがちだ。藤井氏は鳩山政権で事務の官房副長官に就くと噂される。旧通産官僚時代に官邸勤務の経験がある松井氏は、民主党がマニフェストで公約した「国家戦略局」などの制度設計に起用されると見られている。官邸や役所のしきたりや有職故実に詳しい彼ら過去官僚は、政権「若葉マーク」の党首脳部から、頼りがいがあるように見えるのだ。

「まな板~」の検事総長

 財務、経産など一流官庁がしたたかに働きかけをする半面、それ以外の省庁は戦々恐々だ。たとえば、民主党の支持基盤のひとつである日教組と対立してきた文部科学省にとって、まるで文科省解体ともいうべき民主党の政策は頭が痛い。
 同党の文教政策は、1教育委員会を見直し、教育行政の監視機関を設置する、2公立小中学校は地域や保護者らが作る「学校理事会」が運営する、3教科書は現在の広域採択から段階的に学校単位の採択に移行する、と文科省の権限を大幅に縮小する内容が目白押しだ。公立高校の無償化や私立高校の授業料の助成、子ども手当など個人に給付する仕組みが多用されている点も、文科省の権限を確実に弱める。文科省は、日本私立学校振興・共済事業団や日本学生支援機構などOBの天下り先団体を通じて税金をピンハネしつつ配分してきたが、個人への直接給付が進めば、こうした間接的なバラマキ機関はいらなくなる。OBたちも優雅な天下り生活を満喫できなくなる。

 日教組の中村譲委員長は民主党マニフェストの2番目に文教政策が盛り込まれたのに驚いた。
「民主党とは議論はしてきましたが、こんな重点政策の扱いになるとは予想していませんでした。教育委員会制度の解消とか、文科省は嫌だろうなあ」


 民主党の文教政策取りまとめにあたった鈴木寛参院議員も、
「公立学校教育のガバナンスを改める時期に来ています。もっと学校現場に権限を与えなければなりません」
 と言う。鈴木氏のもとへは同省の「ハイレベルな論客の官僚」(同氏)が説明に訪れる頻度が、めっきり増えてきた。
 総選挙前に小沢氏の秘書を逮捕し、自公政権延命に力を貸そうとした法務省・検察庁も困惑しているだろう。樋渡利秋検事総長と佐久間達哉東京地検特捜部長はまな板の鯉の心境に違いない。
 民主党は人権重視の政策として1取り調べ過程のビデオ撮影による可視化、2刑事裁判での検察官手持ち資料の一覧表の作成と開示を盛り込んだ。検事が加担した冤罪事件が頻発する中で、法務・検察の透明性確保は国民にとって望ましいことである。

財務省の意向すでに

 民主党は政権掌握後、首相直属の「国家戦略局」を設置し、官民から集めた人材で国家ビジョンの作成や政治主導の予算案づくりにあたることにしている。「行政刷新会議」を設け、官僚社会のムダや非効率の見直しにも取り組む。事務次官会議を廃止し、事務次官や局長など幹部人事は政治主導で決めることにもしている。天下りとわたりも全面禁止する。

 霞が関のありようを抜本的に見直す気構えだが、そうした制度設計には早くも「ぜひ私どももお手伝いしたい」(経産省幹部)などと霞が関の一流官庁が介在しようとしている。

 すでにその兆候はある。たとえば、国家戦略局の役割は、財務省主計局の握る予算編成権を政治が握る点にあると思われてきたが、注意深く同党のマニフェストを読むと、「予算の骨格を策定する」と後退した表現になっている。民主党は、旧来の与党税調を廃止する代わりに、財務大臣の下に政府税調をおく方針を示したが、これでは事務方の財務省に牛耳られるおそれがある。マニフェストづくりの段階からすでに財務省の意向が反映しているように見える。

 ウブな民主党よ、老獪な霞が関に騙されてはいけない。


 そうだー!!! そうだー!!! なめられんなよーーー!!!





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これぞ選挙目当て「自公」マニフェスト騙しの手口

2009/8/16

 自民、公明が12日与党共通のマニフェストを発表した。呆れ返ったのが「年金政策」だ。無年金・低年金対策として、受給資格を得られる最低加入期間を、現行の25年から10年に短縮する。来年の通常国会で法改正するという。

 現在、加入期間が25年に満たず無年金となっている国民や、この先加入を続けても受給権を得られない人は118万人いる。納付した保険料も戻ってこないから、まさに払い損だ。

 加入期間を10年にすれば、無年金という最悪の状態から抜け出せる国民が増えるのは間違いない。本来なら、とっくに国会で審議していておかしくない重要なテーマだ。それを、選挙直前に突然、ぶち上げるなんて「選挙目当て」もいいところだ。

「無年金・低年金は散々問題になってきたのに、自公は『100年安心』とか言って手をつけてこなかった。最低加入期間を短縮したら、25年間納付してきた国民から『不公平だ』と批判が起きかねないし、巨額な財源が必要になると、見て見ぬふりをしてきたのが実態です。なのに、この時期にマニフェストに載せるなんて“票目当て”がミエミエです。だいたい、細田幹事長は『支給額や財源は今後詰める』などといい加減なことを言っているのだから、どこまで本気なのか」(政治評論家・山口朝雄氏)
 自民党は民主党のマニフェストを「夢物語だ」などと批判しているが、マニフェストを詳細に見ると、自民党の方が「選挙目当て」は露骨だ。10年間で可処分所得を100万円増やすというのが典型である。

「自民党のマニフェストを見ると、05年総選挙のマニフェストに掲げた内容が、そっくり載せられている。幼児教育の無償化、非正規労働者対策、道州制……。政権政党として、この4年間に実現できなかった政策を、臆面もなく載せている。なぜ4年間で実現できなかったのか、一言の説明もない。本来、政権政党のマニフェストは実績が評価されるべきなのに、そうした意識が欠けています」(民間シンクタンク研究員)

 自民党は「どうせ国民は4年前のマニフェストなど忘れている」と国民をバカにし、今回も「年金政策」を打ち出したのだろうが、国民がいつまでも騙(だま)されると思ったら、大間違いである。

(日刊ゲンダイ2009年8月13日掲載)

2009/8/16 ネタりか


 

そうだ!!! そうだ!!!




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毒なきは丈夫にあらず(無毒不丈夫) 魯迅

二見伸明氏(誇り高き自由人、元衆院議員)

 中国の文豪・魯迅は「私は自己の狭量はよく承知している。(権力に阿る学者、文化人など)その連中が私が書いたものによって嘔吐を催せば、私は愉快である」と書き残した。この「毒」とは、権力を恐れず、肺腑をえぐる、本質を鋭く衝いた批判、反逆心であろう。いわば、政治家、文人、ジャーナリストの原点である。

 8月12日の民主・自民両党党首の直接討論は、半分気の抜けたビールみたいなものだった。国を統治する能力のないことが明々白々の麻生総理が、冒頭発言で、起死回生のため、死力を振り絞って、大上段から振りおろした第一撃は「民主党との一番の違いは責任力だ」であった。攻めるべき鳩山代表としては、予想されたこの一撃を「民主党こそ責任力があり、麻生自民党は無責任力」と、切って捨てるもよし、麻生がたじたじとする一撃を浴びせた上で、自公政権の失政を追及し、持論を展開すべきであった。ところが、鳩山は「いろいろといいことも言っているのに、なぜ政権をとっていながら、そのことを果たしてこなかったのかが、一番の気がかりになるところだ」と応じてしまった。本来であれば一撃で麻生を倒すド迫力が必要なのに、世論調査で優位にたっている気の緩みからか、血みどろの権力闘争に、一歩身を退く性格のゆえか、勝者が敗軍の将に語りかける憐れみの言葉だった。

 今回の総選挙は、自民、公明が言うような単純な政策選択の選挙ではない。百数十年続いてきた「官僚主権=中央集権国家」を「真の国民主権=地方主権国家」に変革する無血・市民革命的選挙である。しかし、この党首討論を主宰した21世紀臨調や取材したマスコミには、そうした時代認識は希薄だった。いな、単なる政権交代ならともかく、「国のかたち」を変える政権交代に、本音では反対なのではないだろうかとさえ思えた。マニフェストの数字中心の政策論争であるならば、党首ではなく、幹事長、政調会長で十分である。

 私は1979年5月、英国の下院選挙――サッチャー保守党党首が労働党政権を東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記
破った歴史的な選挙――を視察した。保守党を支援する大会では「ドイツの移民労働者が、『イギリスはずっと不景気だ。働いても、年金はもらえない』と、わが国に愛想をつかして帰国した」など具体例をあげて労働党政府を痛烈に攻撃した。最後に、サッチャーが「かつては七つの海に君臨した大英帝国を日の沈む国にしたのは労働党だ。私は誇れる国に造り直す」と訴え、その気宇の壮大さ、迫力に、圧倒されてしまったこと
を鮮明に覚えている。

 1月21日未明、オバマ大統領の就任演説を聴き、私の脊髄に電流が走った。東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記


▼政府が大きすぎるか小さすぎるか、ではなく、それが機能するかどうかだ。まっとうな賃金の仕事や、支払い可能な医療・福祉、尊厳をもった隠退生活を各家庭が見つけられるよう政府が支援するのかどうかだ。

▼私たち公金をあつかう者は、賢明に支出し、悪弊を改め、外から見える形で仕事をするという、説明責任を求められる。それによってようやく、政府と国民との不可欠な信頼関係を再建することができる。

▼我々は信じる。古い憎悪はいつか過ぎ去ることを。種族的な境界は間もなく消え去ることを。世界がより小さくなるにつれて、共通の人間性が姿を現すことを。

 (以上の引用は「朝日新聞」の訳文)

 4月5日、オバマ大統領はプラハで「核兵器廃絶」の歴史的演説をした。

「多くの人々は、この最終破壊兵器を所有する世界で生きていくことを運命づけられている、という。この運命論は不倶戴天の敵である。核兵器の拡散が不可避的だ、と我々が信じ込んでしまえば、次には、我々が自身で核兵器の使用は不可避的だと信じることになる。21世紀では、いかなる場所においても「核の恐怖」から解き放たれて生きる権利を共に闘い取らなければならない。核兵器を使用した唯一の核大国として、アメリカ合衆国には行動する道義的責任がある。この目標(核兵器のない世界)への到達は容易ではない。私が生きている間ではないだろう。それは忍耐と継続が伴う。しかし、いまやわれわれもまた、世界は変えられないと我々に告げる声を無視しなければならない」

 オバマ大統領の発言に対する日本政府・与党の反応は、あろうことか「日本はアメリカの核の傘で守ってもらえるのか」だった。麻生総理にいたっては、アメリカが核を先制使用することを期待しているのである。心根はさもしく、下司、下劣である。

 自民・公明とマスコミが執拗に「財源」にこだわるのは「霞ヶ関」の入れ知恵である。民主党のマニフェストは財源の裏づけのないバラマキだから日本を駄目にしてしまうという訳である。陰謀のようにしつらえられたマニフェストにかかわる数字ゴッコに眩惑されてはならない。政権交代し、補助金制度が廃止され、地方自治体に自由に使える交付金として移譲されることで最も打撃を受けるのは「霞ヶ関」である。地方をコントロールする術を失うことになるからだ。「霞ヶ関支配」の崩壊である。欧米では当たり前の農業者への「戸別所得保障」は、県、市、農協などを通じることなく、直接農家に支払われるので、農水省が農協などを通して農民を支配する構図が消滅する。それよりも「霞ヶ関」が恐れているのは、民主党政権が省庁に関係なく政策の優先順位にしたがって予算を付ける予算の全面組み替えである。「子供手当て」「農家の戸別所得保障」など重要公約の財源については全く心配ない。そのかわり、優先度の低いもの、無駄と認定されたものは、予算が大幅に削減されたり、凍結されたりするだろう。「霞ヶ関」が予算配分を通して関係業界に影響力を行使してきた官民癒着はズタズタにされる。年末に、業界、団体が大挙して各省庁をまわる予算陳情という世界に例を見ない珍妙な定例行事はなくなる。亀井静香が建設大臣のとき、「陳情」などという用語を使うのはやめようと言ったことがある。10年も前のことであった。そしてこの秋、国のかたちは一変する。

 マニフェストは重要だが、「本当に出来るのか」という庶民の不信を払拭するのは党首力である。鳩山由紀夫の祖父・一郎に「傲骨虚心」という扁額がある。「傲骨」とは「意志が強く、容易に自分の主義主張をまげないの意で、気骨のある男を傲(硬)骨漢」をいう。彼は戦前・戦中、軍部・極右政権の弾圧に屈せず、戦後、アメリカの庇護の下にあった日本の総理大臣でありながら、アメリカの不倶戴天の敵、社会主義陣営の盟主・ソ連と国交回復をやってのけた自由主義者である。鳩山一郎の理念「友愛」はフランス革命の「自由、平等、博愛」の「博愛」に由来するという。この「博愛」は人民の血によってあがなわれたものだ。一郎の「友愛」には軍部、極右と闘った凄みと優しさがある。三代目・由紀夫の「友愛」は、いったいなにを意味するのか、不透明である。

 今日は8月15日。私は戦争の悲惨さを、肌で体験した最後の世代である。日本が世界の安定と平和のためになにができるのか、真剣に考える日である。インド洋で、「無料のガソリンスタンド」を提供してアメリカに喜ばれるのが、世界の安全に寄与することだと思い込むのでなく、アフガンの民衆の生活を立て直し、守る、大掛かりな対策を講じることによって、テロを撲滅する方策を追求すべきだと思う。
 外交・安全保障政策には継続性が大事だと、麻生総理は言う。これは、半分は正しく、半分は間違っている。日米安保体制の根幹維持は政権が交代しても継続すべきである。しかし、日米地位協定の改定など具体的展開は、大胆に変えていい。小沢一郎が主張する「日米・日中正三角形外交」は外交政策の大転換である。国際情勢は大きく変わろうとしている。「核兵器廃絶」「北朝鮮の非核化」のための国家戦略を構築すべきだ。自公政権の骨の髄まで染みついているアメリカの政治的植民地的体質を継続することは「誇り高き日本人 二見伸明」としては我慢ならない。

 *    *    *    *    *    *    *

※見出しの「毒なきは丈夫にあらず(無毒不丈夫)は、若い頃に読んだ魯迅の文章にあったと記憶しているが、記憶の間違いということもある。本サイトをご覧の碩学のかたに、魯迅の表現かどうか、そうであれば魯迅のどの文章にでてくるかについてご教示をいただきたい。記憶の間違いであれば、誰の文言であるかについてご教示いただければ幸甚である。


【プロフィール】 二見伸明(ふたみ・のぶあき)東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記
1935年2月10日生まれ。69年12月の衆院選に初当選し、以後8期23年。小沢一郎、羽田孜、石井一、森喜朗と同期。公明党政策審議委員長、副委員長、運輸大臣を経て、94年、新進党。97年暮の新進党解体により、小沢の自由党結党に参加。総務委員長、国対委員長。2000年春、自由党分裂に際し、小沢と行動を共にする。小沢対羽田の一騎打ちの新進党党首選では「四海波穏やかなときは羽田がベストだが、激動期は小沢の豪腕がベスト」と表明し、小沢の推薦人になる。

http://www.the-journal.jp/

魯迅(Wikipedia)
(1936年)
誕生 周樹人
1881年9月25日
浙江省紹興市
死没 1936年10月19日(満55歳没)
職業 小説家
国籍 中華民国
活動期間 1918年 - 1936年
主題 小説
代表作 『阿Q正伝』
『狂人日記』
親族 周作人(弟)
表・話・編・歴
魯迅
各種表記
簡体字 鲁迅
繁体字 魯迅
ピン音 Lǔ Xùn
和名表記 ろ じん
発音転記 ルー シュン
■ ポータル ■テンプレート ■ノート

魯迅(ろじん)は中国の小説家、翻訳家、思想家。本名は周樹人(ピンイン:Zhōu Shùrén)で、字は豫才。ペンネームの魯は母親の姓だという。浙江省紹興市出身。4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。

特に『狂人日記』は、文語主体の旧来の中国文学を口語主体とする点で画期的だった他、被害妄想に駆られている狂人の心理を実にリアルに描写する点においても、わずか15頁の短編作ではあるが近代中国文学の最高傑作ともいわれ、日本のみならず欧米諸国の中国文化研究者間では高く評価されているようである。なお、魯迅自身が若い頃日本の仙台医専(現在の東北大学医学部)に留学した経験もあるが、彼の親戚に、本物の被害妄想患者が存在し、彼を見聞したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。

牛込の日本語学校弘文学院にて松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』『藤野先生』)。
当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され[1]、周は無試験で入学している。このため学力不足の留学生は途中で挫折している。特に医学のような学問修得に特別の忍耐と努力を必要とする分野では、卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技[2]であった。当時周には多額の奨学金[3]が支給されており、授業についていけず[4]町で遊興[5]に耽ることもあり、やがて学問に対する興味も薄れていったと考えられる。ニュース映画の場面は多感な年代の彼に大きな影響を与えたことは否定できないが、医学に挫折する自分に対する心理的な合理化(言い訳)としての側面も否定出来ないであろう。
1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を始めるが、文筆は滞っていた。 そこに友人の金心異に小説を書くよう勧められて、魯迅は次のように答えている。

「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」
これは当時の故国の社会を絶対に壊せない鉄部屋に、人々をそこで熟睡したまま窒息して逝こうとしている人々に例え、かなわぬ望みを抱かせる小説など、書かない方がよいのではないか、と言っているのである。 それに対する金心異の答は、
「そうして幾人は已に起き上った。君が著手(ちゃくしゅ)しなければ、この鉄部屋の希望を壊したといわれても仕方がない」


つまり、起きた者が数人でもあるのなら、その鉄部屋を壊す希望が絶対無いとは言い切れないのではないか、という反論であった。魯迅はこうして最初の小説『狂人日記』を書いた、と『吶喊』自序で述べている。
帰国後は、杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。
また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業をすすめていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。

仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。藤野との関係は、小説『藤野先生』にも書かれている。
魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている[6]。中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」が観光地となっており、1998年11月29日には江沢民・中華人民共和国主席も訪問している。訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をしている。その他、同キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)がある。また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くに残されている。

2004年、東北大学は、魯迅の留学100周年を記念して、同大に縁りのある中国要人に『東北大学魯迅賞』、同大大学院に在籍する優秀な中国からの留学生に『東北大学魯迅記念奨励賞』を贈った[7][8]。ただし、諸事情により、翌年から各々『東北大学藤野先生賞』と『東北大学藤野記念奨励賞』に名称変更された。


魯迅の文明観 [編集]

魯迅の欧米崇拝と、(彼の頭の中にあった)中国の伝統へのさげすみは、言語にとどまらず、文明一般にわたっている。
魯迅には、孫文や蒋介石、毛沢東らの革命家達や、梁漱溟のような思想家達がそうであったように、過去の中国で展開された思想、とりわけ中心となった儒教に対し、封建遺制だけでなく、優れた、普遍的な理想も含まれていることを認め、それを新生中国に生かしていこうという姿勢はなかった。彼は中国の過去の思想と、それによって支えられた社会すべてを『封建的』『非科学的』という名の下に、何の価値もないものとして否定した。彼の文学作品に描かれる伝統中国は、腐敗し、何の価値もない因習に縛られたものである。対して彼は、『西洋近代』を崇拝し、西洋近代を、中国の目指すべき理想の世界を現すものとして思い描いていた。

作品リスト [編集]

熱風
華蓋集
華蓋集続編

而已集
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なきは丈夫にあらず(無毒不丈夫) 魯迅、いいことばです。


東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記


戦没者追悼式、平和への誓い新たに…終戦64年

全国戦没者追悼式でお言葉を述べられる天皇陛下=冨田大介撮影
 64回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の「全国戦没者追悼式」が、天皇、皇后両陛下をお迎えして、東京・千代田区の日本武道館で正午前から開かれた。

 麻生首相ら各界代表のほか、戦没者遺族ら約6000人が参列した。先の大戦で犠牲になった約310万人の冥福を祈り、平和への誓いを新たにした。

 厚生労働省によると、遺族参列者は昨年より約240人多い約4820人。

 麻生首相は式辞で、これまでの追悼式を踏襲し、「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております」と述べ、反省と哀悼の意を表明。「悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければならない。世界の恒久平和の確立に向けて、積極的に貢献していく」と決意を示した。

 参列者は正午の時報を合図に1分間の黙とうをささげ、天皇陛下が「戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と述べられた。

 父がニューギニア島で戦死した大坪徳広さん(66)(佐賀県小城市)が遺族代表として壇上に上がり、「平和で豊かな今日の礎に、尊く重い犠牲があることを深く胸に刻み、決して忘れてはならない。悲しい歴史を絶対繰り返さないことを固く誓う」と追悼の辞を述べた。

 厚生労働省によると、遺族の当初参列予定は4957人。内訳は軍人・軍属の遺族が4799人、空襲などで亡くなった人の遺族が96人、原爆犠牲者の遺族が62人。参列者の世代交代も一層進み、戦没者との続き柄別では「妻」は過去最少の64人。「父母」は2年連続でなし。最高齢は101歳の妻。

 先の大戦では軍人・軍属約230万人と、一般市民約80万人が犠牲となった。


戦死した夫の写真を手に会場に入る池端志津江さん(15日午前)
 ◆最高齢101歳、初の参列◆

 参列者で最高齢となるのは101歳の池端志津江さん(さいたま市見沼区)。過去の追悼式でも最高齢となる。夫・正雄さんは1944年8月に臨時召集され、輸送船で南方戦線に向かう途中の同12月、台湾・フィリピン間の海峡で潜水艦の雷撃を受けて戦死した。

 2人は当時では珍しい恋愛結婚だった。夫は自分が勤めた染め物工場で妻が働けるよう取り計らい、南方へ旅立った。「子供を頼む」。そう言い残した夫の戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年だった。

 子供は男ばかり3人。生活は苦しかったが、埼玉県内の染め物工場で55歳まで働き、3人を育て上げた。その間も夫と過ごした家を離れようとはしなかった。息子たちが次々に巣立った後も住み続けた。「母はいつか父が帰ってくる。そう信じて生きてきたのだろう」。三男の正之さん(69)はそう思ってきた。しかし95歳の時、硬膜下出血で倒れる。退院した後は愛着のあった家を離れ、長男宅で暮らしている。

 「戦争のことは忘れた」。息子たちにかたくなに言い続けた。何も語ろうとしない。大戦を扱ったテレビ番組も見ない。追悼式の案内が来ても関心を示さなかった。昨夏、新聞で追悼式の記事を読んだ後、「私も出たいわ」とつぶやいた。同じ戦没者の妻たちが高齢を押して参列していることを知り、気持ちが変わった。

 それから1年後のこの日、車いすに乗った志津江さんは正雄さんの遺影を胸に抱え、武道館に入った。「お国のためでしたけど、大変な目に遭った。残念です」と思いを語った。追悼式に初めて参列することは、「あの世にいるお父さんも喜んでいると思います。お父さんのおかげで私は長生きできた。みんなが平和に健康に暮らせることを願っています」と話した。

(2009年8月15日 読売新聞)

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終戦の日(Wikipedia)

第二次世界大戦が終わった日であるが、「終戦の日」の定義は以下の4通りに分けられる。

1945年(昭和20年)8月15日:日本軍の戦争当事者である昭和天皇が、戦争の終結を国民に告げた日。
1945年(昭和20年)9月2日:ポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した日。
1952年(昭和27年)4月28日:日本本土において、第二次世界大戦後の米軍占領が終わった日。
1972年(昭和47年)5月15日:沖縄において、第二次世界大戦後の米軍占領が終わった日。

日本本土が米軍占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上では、ポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。連合国の一員であったアメリカ合衆国では、9月2日を対日勝戦記念日として「V-Jデー」と呼んでいる。
現在、日本では、昭和天皇が国民に終戦を告げる玉音放送が行なわれた8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とし、一般には終戦記念日や終戦の日と称し、政府主催の全国戦没者追悼式や、政治団体、NPO等による平和集会が開かれる。
4月28日については、サンフランシスコ講和条約が発効して米軍占領が終わった日であることから、主権回復の日とも呼ばれている。ただし、沖縄では、この日以降も1972年(昭和47年)5月14日まで、米軍による占領が更に20年も続いたことから、4月28日を「屈辱の日」と呼ぶ人々もいる[1]。
歴史 [編集]

1945年(昭和20年)7月26日、連合軍はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6日広島市への原子爆弾投下、8月8日ソ連対日宣戦布告、8月9日長崎市への原子爆弾投下と重大な事態が続いた。8月10日、日本政府は中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国に確かめた。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の裁断によりポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言受諾の正式な通告(実質的な降伏)がなされた。
1945年(昭和20年)8月15日正午(グリニッジ標準時午前3時)から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」(終戦の詔書などともいう)を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され(いわゆる玉音放送)、国民及び陸海軍にポツダム宣言の受諾と軍の降伏の決定が伝えられた。当日は朝から「賢き辺り(=天皇)にあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされた。天皇の肉声が初めてラジオで放送されことと共に、戦争終結を発表されたと、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべきできごとであり、大きな衝撃を与えた[2]。この日をもって、アメリカ・イギリスとの戦闘は事実上終了した。

1945年(昭和20年)8月16日、日本軍部隊への正式な停戦命令が行われた。

ポツダム宣言受諾の後も、大陸や北方戦線では、ソ連・中国との戦闘が暫く続いた。ソ連軍は北方四島に上陸作戦を展開し、それを阻止する為の戦闘が、中央の命令により現地陸軍守備隊によって行われた。また、戦闘停止命令の届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。さらに、外地の一般市民が難民と化し多くの犠牲者をだした。また、沖縄の久米島では、日本軍による住民の殺害(久米島守備隊住民虐殺事件)もあった。これらの戦闘は、8月下旬になると、おおむね終焉した。
1945年(昭和20年)9月2日、政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が、連合国に対してポツダム宣言受諾の降伏文書に正式に調印した。国際法上の戦争終結は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が発効した1952年(昭和27年)4月28日をもって正式の日付とされる [3]。

法律

8月15日は玉音放送の放送日にすぎなかったが、引揚者給付金等支給法(昭和32年法律第109号)は8月15日を終戦の基準とし、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和42年法律第114号)は8月15日を「終戦日」と呼んでいる。1963年(昭和38年)5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。1982年(昭和57年)4月13日、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われている。
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」について(昭和57年4月13日閣議決定)
趣旨 先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を設ける。
期日 毎年8月15日とする。
行事 政府は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に、昭和38年以降毎年実施している全国戦没者追悼式を別紙のとおり引き続き実施する。
別紙 全国戦没者追悼式の実施について
全国戦没者追悼式は、天皇皇后両陛下の御臨席を仰いで、毎年8月15日、日本武道館において実施する。
本式典における戦没者の範囲及び式典の形式は、昭和56年の式典と同様とする。
本式典には、全国から遺族代表を国費により参列させる。
式典当日は、官衙等国立の施設には半旗を掲げることとし、地方公共団体等に対しても同様の措置をとるよう勧奨するとともに、本式典中の一定時刻において、全国民が一斉に黙とうするよう勧奨する。(全国高等学校野球選手権大会の会場でも、正午の時報直前にプレーを中断し、選手・観客らが1分間の黙祷を捧げる)
地上戦が行われた沖縄では、6月23日に組織的な日本軍の抵抗が終結した。このため、現在、沖縄県では6月23日を慰霊の日として休日としている。アメリカ軍による正式な沖縄戦の終結宣言は7月2日であるが、沖縄征服は6月30日と記録している。しかし、その後も日本軍による抵抗は続いた。9月7日、南西諸島守備軍代表は、嘉手納の米軍第10軍司令部で降伏調印し、沖縄戦は公式に終結した。このため、沖縄県の公式慰霊施設である平和の礎では、沖縄戦終結の日を9月7日としている。

学校教科書における終戦の日 [編集]

小学生用社会科教科書や中学生社会科教科書(歴史的分野)の多くは、戦争終結を8月15日と記している。
しかし、高等学校日本史教科書の多くは、戦争終結を9月2日としている。8月14日はポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通知した日、8月15日は戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日と記されているものが多い。たとえば、高校日本史教科書の山川出版社の詳説日本史では、以下の記述となっている。『昭和天皇のいわゆる「聖断」によりポツダム宣言受諾が決定され、8月14日、政府はこれを連合国側に通告した。8月15日正午、天皇のラジオ放送で戦争終結が全国民に発表された。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府及び軍代表が降伏文書に署名して、4年にわたった太平洋戦争は終了した。』

太平洋戦争の年表 (Wikipedia)

太平洋戦争の年表(たいへいようせんそうのねんぴょう)では、3年8ヶ月に及ぶ日本、満洲国、タイ王国とアメリカ合衆国、イギリス、オランダ、ソビエト連邦ら連合国の戦争の経過を示す。中華民国との間の戦争・事変は日中戦争を参照のこと。

1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の日本の中国平定を警戒する英米仏と日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結し、ヴィシーフランスとの合意のもと仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカは石油輸出全面禁止などの経済封鎖を以て之に答えた。その後数度にわたる日米交渉も難航し、アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノートを日本側に提出した。これを最後通牒と受けた日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃していた大日本帝国海軍連合艦隊に12月8日の戦闘行動開始命令が伝えられた。
1941年(昭和16年)12月8日 日本、英米に宣戦布告(太平洋戦争(大東亜戦争)開戦)
開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)が発せられる。
日本軍、英領マレー半島のコタバル、タイ南部のパタニとソンクラに上陸(マレー作戦の開始)。広東省から英領香港攻撃開始(香港の戦い)。
ワード号事件
真珠湾攻撃
中華民国国民政府、日独伊に宣戦布告。
米領フィリピン上空で航空戦(フィリピンの戦いの開始)。
12月10日 マレー沖海戦。グアムの戦い。日本軍、ルソン島北部(アパリ、ビガン)上陸。グアム、タラワ、マキン占領。
オランダ、日本に宣戦布告。
12月11日 日本軍、ウェーク島攻略失敗(ウェーク島の戦い)。
12月12日 日本軍、香港九龍市を制圧、英軍は香港島へ逃走。
12月15日 日本軍、ペナン島占領。
12月16日 日本軍、マレー半島アロールスター占領。
12月16日 日本軍、北ボルネオ(コタキナバル)に上陸。
12月16日 戦艦「大和」が竣工。
12月20日 日本軍、フィリピンミンダナオ島ダバオに上陸。
12月21日 日本政府、タイと攻守同盟を締結(日泰同盟)。
12月23日 日本軍、ウェーク島占領。
12月25日 日本軍、香港島を制圧、香港のイギリス軍降伏。
1942年(昭和17年)
1月2日 日本軍、ルソン島マニラを無血占領。
1月8日 連合軍、タイ攻撃開始。
1月11日 日本軍、マレー半島クアラルンプール占領。
日本、オランダに宣戦布告。
1月15日 日本軍、英領ビルマ(現ミャンマー)攻撃部隊がタイに集結。
1月23日 日本軍、ニューブリテン島ラバウル占領。
1月24日 バリクパパン沖海戦。
1月25日 タイ、英米に宣戦布告。日本軍、バリクパパン占領。
1月27日 エンドウ沖海戦。
1月31日 日本軍、タイからビルマ侵攻開始。マレー半島ジョホールバル占領。
2月 アメリカ人スティルウィルが中国国民党軍参謀となる。
2月1日 日本軍、シンガポールの石油施設を砲撃。米機動部隊、マーシャル諸島来襲。
2月4日 ジャワ沖海戦。
2月7日 日本軍、シンガポール北東のウビン島に牽制上陸。
2月8日 日本軍、シンガポール北西海岸より上陸(シンガポールの戦い)。
2月14日 日本軍、蘭領東インド(現インドネシア)スマトラ島パレンバンを落下傘部隊で占領。
2月15日 シンガポールの英豪軍が降伏。
2月20日 バリ島沖海戦。ニューギニア沖海戦。
2月24日 米機動部隊、ウェーク島来襲。日本軍伊17潜、カリフォルニア州サンタバーバラを攻撃。
2月26日・28日 スラバヤ沖海戦。
3月 フィリピン統一抗日人民軍(フク団)結成。
3月 米、中国に5億ドル借款成立。
3月1日 バタビヤ沖海戦。日本軍、蘭領東インドジャワ島スランに上陸。
3月4日 米機動部隊、南鳥島来襲。
3月5日 日本軍、ジャワ島バタビア(現ジャカルタ)を占領。
3月7日 東インドのオランダ軍降伏。
3月8日 日本軍、英委任統治領ニューギニア島ラエとサラモアに上陸、占領(東部ニューギニアの戦い)。ビルマ(現ミャンマー)ラングーン(現ヤンゴン)占領。
3月13日 アメリカ軍フィリピン司令官マッカーサー、フィリピンから逃亡。
4月5日 日本軍、セイロン(現スリランカ)コロンボの英軍基地を空襲。セイロン沖海戦(~9日)。
4月18日 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)。以後本土空襲の年表は空襲にて。
5月1日 日本軍、ビルマ中部マンダレー占領。
5月3日 日本軍、ソロモン諸島ツラギ占領(MO作戦始まる)。
5月4日 日本軍、英領ビルマのアキャプ占領、ビルマ制圧完了。南方作戦完遂。
5月7日 米領フィリピン・コレヒドール島の米軍降伏。珊瑚海海戦(~8日)。
5月10日 日本軍、ミンダナオ島を占領。
5月29日 日本軍の特殊潜航艇、マダガスカル島のディエゴスワレスのイギリス軍基地を攻撃(マダガスカルの戦い)。
5月31日 日本軍の特殊潜航艇、オーストラリアのシドニーのイギリス軍艦艇を攻撃。(特殊潜航艇によるシドニー港攻撃)
6月5日 ミッドウェー海戦(~7日)で日本軍敗北。
6月7日 日本軍、米アリューシャン列島キスカ島に上陸、占領。
6月8日 日本軍、アリューシャン列島アッツ島に上陸、占領。
6月16日 日本軍、ニューギニア島ポートモレスビーの連合軍基地を空襲。
6月20日 伊26潜、バンクーバーのカナダ軍基地を攻撃。
6月21日 伊25潜、オレゴン州アストリアの米軍基地を攻撃。
7月 日本軍、フィリピン全土占領。
8月 イギリス領インドで反英暴動。
8月7日 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸(ガダルカナル島の戦い、連合軍の本格的反攻始まる)。
8月8日 第一次ソロモン海戦
8月24日 第二次ソロモン海戦
9月9日 伊25潜より発進した艦載機がアメリカ本土のオレゴン州を空襲。
9月15日 伊19潜、米空母ワスプ撃沈。
9月29日 伊25潜より発進した艦載機、アメリカ本土のオレゴン州を再度空襲
10月 英米、中国における治外法権撤廃を声明、不平等条約を廃止。
10月 重慶で英米中ソ対日作戦会議。
10月11日 サボ島沖海戦
10月13日 ヘンダーソン基地艦砲射撃(ヘンダーソン飛行場艦砲射撃)
10月26日 南太平洋海戦。米軍の稼動空母が0隻になる。
11月12日 第三次ソロモン海戦
11月30日 ルンガ沖夜戦
12月8日 ニューギニア島バサプアの日本軍全滅。
1943年(昭和18年)
1月 レンネル島沖海戦
1月~3月 カサブランカで英米首脳会談。
2月 日本軍、オーストラリアのポートダーウィン爆撃。
2月1日 日本軍、ガダルカナル島撤退(ケ号作戦)(~7日)。
2月10日 日本軍、第一次アキャブ作戦開始(三一号作戦)(~3月下旬)。
3月2日 ビスマルク海海戦
3月26日 アッツ島沖海戦
4月1日 南樺太を内地に編入。
4月7日 い号作戦(~16日)
4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。
5月 日本、学徒戦時動員体制の発表(学徒出陣)。
5月12日 米軍、アッツ島上陸(5月29日、日本軍全滅し「玉砕」の語の使用始まる)。
7月6日 クラ湾夜戦
7月12日 コロンバンガラ島沖海戦
7月29日 日本軍キスカ島から撤退(キスカ島撤退作戦)。
8月 日本軍、バー・モウを首班としてビルマ独立を宣言。
8月 カナダ・ケベックで英米首脳会談。
8月6日 ベラ湾夜戦
9月 イタリア、連合国に降伏。
9月10日 鳥取地震が発生。鳥取市が壊滅し1083名(1100名以上とも)が死亡。情報統制の中、国内外から支援。
9月17日 連合軍、ラエを占領。
9月30日 御前会議で絶対国防圏構想を決定。
10月 日本軍、フィリピン独立を許可。
10月6日 ベララベラ海戦
10月21日 東京・明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催(学徒出陣のはじまり)。
10月24日 スバス・チャンドラ・ボースがシンガポールで自由インド仮政府の成立を宣言。
10月26日 自由インド、英米に宣戦布告。
11月 東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。
11月1日 ブーゲンビル島沖海戦
11月21日 米軍、マキン島・タラワ島上陸(11月23日 日本軍玉砕)。
11月22日~26日 エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)。
11月24日 セント・ジョージ岬沖海戦
11月28日~12月1日 イラン・テヘランで英米ソ首脳会談(テヘラン会談)。
12月5日 マーシャル諸島沖航空戦
1944年(昭和19年)
1月 イラン、英ソと軍事同盟を結び対日断交。
2月3日 日本軍、第二次アキャブ作戦開始。
2月6日 クェゼリン島の日本軍玉砕。
2月17日 トラック島空襲
2月22日 エニウェトク環礁(ブラウン環礁)の日本軍玉砕。
2月26日 日本軍、第二次アキャブ作戦を中止。
3月8日 日本軍、インパール作戦開始。
3月31日 古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職(海軍乙事件)。
4月17日 大陸打通作戦(~12月10日)
5月25日 日本軍、洛陽占領。
6月15日 米軍、サイパン上陸(サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住日本人1万人死亡)。
6月16日 米軍、中国大陸から北九州へ初空襲。
6月19日 マリアナ沖海戦
7月4日 日本軍、インパール作戦を中止。
7月18日 東條英機内閣総辞職。
7月22日 小磯国昭内閣成立。
8月2日 テニアン島の日本軍玉砕。(テニアンの戦い)
8月11日 グアム島の日本軍玉砕。(グアムの戦い)
9月11日 米軍、ペリリュー島上陸。(ペリリューの戦い)
10月10日 米軍、沖縄、台湾を空襲(十・十空襲)。
10月12日 台湾沖航空戦
10月20日 米軍、フィリピン・レイテ島に上陸(レイテ島の戦い)。
10月23日 レイテ沖海戦
10月24日 戦艦武蔵沈没(シブヤン海)。
10月25日 神風特別攻撃隊、レイテで初出撃。東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記

11月10日 汪兆銘、名古屋で病死。
11月10日 日本軍、桂林、柳州占領。
11月24日 米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。
12月7日 東南海地震が発生し、家屋倒壊と津波で1223名が死亡。
情報統制によってほとんど報道されない。
12月10日 日本軍、大陸打通作戦を完了。
12月26日 礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)
1945年(昭和20年)
1月6日 ルソン島の戦い(~8月15日)
1月13日 三河地震が発生し、家屋倒壊と津波で2306名が死亡。情報統制によってほとんど報道されない。
1月24日 イギリス海軍、スマトラの製油施設を空襲(メリディアン作戦)。
2月 クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談)。
2月10日 北号作戦
2月18日 硫黄島の戦い(~3月22日)東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記

3月 イラン・トルコが対日宣戦布告。トルコでは市民が宣戦布告に反対してデモ。
3月3日 米軍、マニラ占領。
3月10日 東京大空襲
3月12日 名古屋大空襲
3月14日 大阪大空襲
3月16日 神戸空襲
3月25日 名古屋大空襲
4月1日 沖縄戦(~6月23日)
4月5日 ソ連、日本に対して翌年期限切れとなる日ソ中立条約を延長しないと通達。小磯国昭内閣総辞職
4月6日 菊水作戦発令
4月7日 戦艦大和沈没 鈴木貫太郎内閣成立。
4月12日 アメリカ大統領のルーズベルト大統領急逝、後継に副大統領ハリー・S・トルーマン。
4月30日 ドイツ総統ヒトラー自殺。
5月2日 ベルリン防衛軍司令官降伏(ベルリン陥落)。
5月7日 ドイツ大統領カール・デーニッツ無条件降伏を受諾、ナチス・ドイツ滅亡。
5月8日 ドイツ陸海空軍代表がベルリン郊外カールスホルストで降伏文書に調印。
5月16日 ペナン沖海戦
5月17日から6月2日 九州大学生体解剖事件
5月29日 横浜大空襲
6月5日 神戸空襲
6月9日 熱田空襲
6月26日 国際連合発足(加盟50カ国)。
7月5日 第1次横手空襲
7月10日 仙台大空襲
7月14日 函館空襲(~7月15日)
7月14日 北海道空襲
7月14日 釜石艦砲射撃
7月15日 室蘭艦砲射撃
7月15日 小樽空襲
7月16日 アメリカが原子爆弾の実験に成功し、マンハッタン計画完成。
7月26日 ドイツのポツダムで英米ソ首脳会談、ポツダム宣言発表、日本これを黙殺。
7月28日 米海軍、呉軍港爆撃(呉軍港空襲)
8月6日 米軍、広島に史上初の原子爆弾投下。
8月8日 日ソ中立条約を破棄し、ソ連対日宣戦布告、満州国と朝鮮半島に侵攻。(ソ連対日参戦)
8月8日 福山大空襲
8月9日 釜石艦砲射撃
8月9日 米軍、長崎に原爆投下。御前会議でポツダム宣言の受諾を決定。
8月9日 大湊湾(大湊町)で海戦(大湊空襲)。事実上最後の海戦となる。
8月10日 第2次横手空襲
8月10日 日本、連合国にポツダム宣言受諾を打電により通告。
8月14日 終戦の詔が出される。中立国にポツダム宣言受諾を通告。中ソ友好同盟条約締結。深夜~15日未明土崎大空襲。
8月15日 日本国民へ玉音放送(終戦の詔)。
支那派遣軍と南方軍これに抗議し戦闘続行。鈴木貫太郎内閣総辞職。
8月16日 ソ連軍、南樺太に侵攻開始(28日占領)。大本営、停戦命令を出す。
8月17日 東久邇宮稔彦王内閣成立。天皇、停戦の勅旨。連合国の許可を得て皇族をサイゴン・シンガポール・南京・北京・新京に派遣し、勅旨を伝える。
8月18日 インドのチャンドラ・ボース、台湾で飛行機事故死。
8月18日 ソ連軍、千島列島の占守島に侵攻。
8月19日 フィリピン・ルソン島の日本軍部隊、停戦命令を受領。関東軍とソ連極東軍が停戦交渉開始。
8月20日 樺太で真岡郵便電信局事件が起こる。
8月21日 占守島の日ソ両軍、停戦する。
8月22日 小笠原丸撃沈。
8月25日 ソ連軍、千島列島の松輪島を占領。
8月26日 満州での戦闘が終わる。
8月28日 ソ連軍、千島列島の択捉島を占領。
8月29日 ソ連軍、千島列島のウルップ島を占領。
8月29日 米軍第一陣150名が横浜に上陸。
8月30日 連合軍最高司令官マッカーサー、厚木飛行場に到着。
9月1日 ソ連軍、千島列島の国後島・歯舞群島を占領。
9月2日 降伏文書調印、太平洋戦争(大東亜戦争)終結。
9月3日 ソ連・中国にとっての対日勝利の日。ルソン島の日本軍降伏。
9月5日 ソ連軍、千島列島の色丹島を占領。ソ連軍が北方四島の占領を完了。関東軍首脳部がハバロフスクへ移動、後に57万人がシベリア抑留となる。
9月中旬 中国大陸の中国派遣軍降伏。 9月9日、中国派遣軍を代表する岡村寧次が以下の内容の降伏文書に南京で署名した。image
10月15日 本土の日本軍、武装解除完了。

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 今日は、終戦記念日ですね。64年前・・

 日本人の戦死者だけでも、310万人・・・

 とてつもない方達が、戦没しています。

 お亡くなりになられたか方々に、

 哀悼を捧げます。



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第2次世界大戦における軍人の戦死者数と民間人の犠牲者数については、諸説があるが、ここでは、タイムズアトラス「第二次世界大戦歴史地図」のデータを元にグラフ化した(日本は厚生労働省資料)。

 戦死者数については、ソ連の1450万人が図抜けて多く、ドイツの280万人、日本の230万人がこれに次いで多くなっている。中国が130万人、そして中東欧のオーストリア、ポーランド、ルーマニアも、それぞれ40~85万人と多い。

 英国、フランス、イタリア、米国は、20万人台であるが、米国が29万人とそのなかでは最も多い。

 民間人の死者数では、中国、ソ連、ポーランドで600~1000万人と犠牲者が多く、ドイツが230万人で続いている。日本80万人の他、オランダ、チェコスロバキア、ルーマニアなども、英国、フランス、イタリアを上回る民間人犠牲者を出している。

 日本、ドイツ、オーストリア、チェコなどで、「もし戦争が起こったら国のために戦うか」という問いに対して、「はい」と答える者が相対的に少ない背景には、これらの国の戦争犠牲者の多さが反映していると考えられる(図録5223参照)。

 なお、アジア太平洋戦争におけるアジアの犠牲者数、及び日本の戦没者の地域別のデータについては、図録5225に掲げた。


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衆議院議員総選挙投票率一覧

回数 投票日 政権 投票率 備考
第1回総選挙 1890年 7月 1日(火曜日) 山縣有朋 93.91%
小選挙区制。
選挙権は直接国税15円以上を納めている25歳以上の男性に制限。
第2回総選挙 1892年 2月15日(月曜日) 松方正義1 91.59%
大選挙区制。
第3回総選挙 1894年 3月 1日(木曜日) 伊藤博文2 88.76%  
第4回総選挙 1894年 9月 1日(土曜日) 伊藤博文2 84.84%  
第5回総選挙 1898年 3月15日(火曜日) 伊藤博文3 87.50%  
第6回総選挙 1898年 8月10日(水曜日) 大隈重信1 79.91%  
第7回総選挙 1902年 8月10日(日曜日) 桂太郎1 88.39%
選挙権は直接国税10円以上を納めている25歳以上の男性に制限。
第8回総選挙 1903年 3月 1日(日曜日) 桂太郎1 86.17%  
第9回総選挙 1904年 3月 1日(火曜日) 桂太郎1 86.06%  
第10回総選挙 1908年 5月15日(金曜日) 西園寺公望1 85.29%  
第11回総選挙 1912年 5月15日(水曜日) 西園寺公望2 89.58%  
第12回総選挙 1915年 3月25日(木曜日) 大隈重信2 92.13%  
第13回総選挙 1917年 4月20日(金曜日) 寺内正毅 91.92%  
第14回総選挙 1920年 5月10日(月曜日) 原敬 86.73%
小選挙区制。
第15回総選挙 1924年 5月10日(土曜日) 清浦奎吾 91.18%  
第16回総選挙 1928年 2月20日(金曜日) 田中義一 80.36%
中選挙区制。
普通選挙法(1925年)施行後初の衆議院選挙。
選挙権は25歳以上の男性に制限。
第17回総選挙 1930年 2月20日(木曜日) 浜口雄幸 83.34%  
第18回総選挙 1932年 2月20日(土曜日) 犬養毅 81.68%  
第19回総選挙 1936年 2月20日(木曜日) 岡田啓介 78.65%  
第20回総選挙 1937年 4月30日(金曜日) 林銑十郎 73.31%  
第21回総選挙 1942年 4月30日(木曜日) 東條英機 83.16%
翼賛選挙。
翼賛政治体制協議会は定数466全てに推薦議員を立て、381名を当選させる。非推薦議員は85名が当選。
第22回総選挙 1946年 4月10日(水曜日) 幣原喜重郎 72.08%
大選挙区制制限連規制。
1945年12月の選挙法改正により選挙権は20歳以上の男女となる。
第23回総選挙 1947年 4月25日(金曜日) 吉田茂1 67.95%
新憲法解散。
日本国憲法施行直前に体制を整えるために行われた選挙。
社会党(片山哲委員長)が比較第一党となる。
第24回総選挙 1949年 1月23日(日曜日) 吉田茂2 74.04%
なれあい解散。
昭和電工疑獄などで野党がありであったことや、政権与党が少数であったこと、憲法解釈の問題(69条による解散以外は認めないとする連合国総司令部・民政局の見解)などで衆議院の解散が出来なかったが、話し合いで内閣不信任決議案を可決し、解散するという手法が用いられた解散。
第25回総選挙 1952年10月 1日(水曜日) 吉田茂3 76.43%
抜き打ち解散。
公職追放されていた鳩山一郎グループの影響力が強くなることを警戒した吉田近辺は追放解除組の選挙態勢が固まる前に衆議院を解散した。
第26回総選挙 1953年 4月19日(日曜日) 吉田茂4 74.22%
バカヤロー解散。
衆院予算委員会で吉田茂首相が西村栄一(右派社会党)の質問中に『バカヤロー』と発言。右派社会党は首相懲罰動議を提出、自由党の一部が欠席して可決された。欠席した三木武吉・河野一郎らは自由党を離党。その後、吉田内閣不信任決議案が可決され、解散となった。
第27回総選挙 1955年 2月27日(日曜日) 鳩山一郎1 75.84%
天の声解散。
吉田内閣の総辞職を受けて、鳩山一郎が『早期解散』を約束して、左右社会党の支持を得て首班指名を受けた為、早期の解散となった。
第28回総選挙 1958年 5月22日(木曜日) 岸信介1 76.99%
話し合い解散。
自民党と社会党が『内閣不信任決議案上程、採決前に解散』という合意をした上での解散。
第29回総選挙 1960年11月20日(月曜日) 池田勇人1 73.51%
安保解散。
第30回総選挙 1963年11月21日(木曜日) 池田勇人2 74.14%
所得倍増解散。
第31回総選挙 1967年 1月29日(日曜日) 佐藤榮作1 73.99%
黒い霧解散。
第32回総選挙 1969年12月27日(土曜日) 佐藤榮作2 68.51%
沖縄解散。
第33回総選挙 1972年12月10日(日曜日) 田中角栄1 71.76%
日中解散。
第34回総選挙 1976年12月 5日(日曜日) 三木 武夫 73.45%
任期満了による選挙。
新憲法下初の任期満了による選挙。自民党結党以来、初の過半数割れ。
第35回総選挙 1979年10月 7日(日曜日) 大平正芳1 68.01%
一般消費税解散。
第36回総選挙 1980年 6月22日(日曜日) 大平正芳2 74.57%
ハプニング解散。
社会党提出の大平内閣不信任決議案が自民党の一部欠席により可決。史上初の衆参同日選挙に突入。選挙期間中に大平首相が急逝。
第37回総選挙 1983年12月18日(日曜日) 中曽根康弘1 67.94%
ロッキード解散。
第38回総選挙 1986年 7月 6日(日曜日) 中曽根康弘2 71.40%
死んだふり解散。
公職選挙法改正(定数是正)が成立し、周知期間(30日)が障害となり、解散しにくい状況の中、中曽根首相や藤波孝生官房長官は解散しないと公言していたが、衆参同日選挙が可能なギリギリのところで解散した。
第39回総選挙 1990年 2月18日(日曜日) 海部俊樹1 73.31%
消費税解散。
第40回総選挙 1993年 7月18日(日曜日) 宮沢喜一 67.26%
政治改革解散。
野党が提出した宮沢内閣不信任決議案に自民党の一部(羽田派)が同調して反対票を投じた。決議案は可決され、解散。

回数 投票日 政権 小選挙区 比例区 備考
第41回総選挙 1996年10月20日(日曜日) 橋本龍太郎1 59.65& 59.62%
小選挙区解散。
中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に制度変更。
第42回総選挙 2000年 6月25日(日曜日) 森喜朗1 62.49% 62.45%
神の国解散。
比例議席数を20削減後の選挙。
自民党が271議席から233議席に減、民主党が95議席から127議席に増。
第43回総選挙 2003年11月 9日(日曜日) 小泉純一郎1 59.86% 59.81%
マニフェスト解散。

自民党は10議席減も公明党と合わせて絶対安定多数を確保。民主党は改選前から137議席から177議席に増。
第44回総選挙 2005年 9月11日(日曜日) 小泉純一郎2 67.51% 67.46%
郵政民営化解散。
自民党は衆議院で郵政民営化関連法案に反対した37人を非公認、対抗馬を擁立し、改選前の212議席から296議席に躍進。自民・公明で327議席と衆議院の3分の2以上の議席を獲得。民主党は改選前から177議席から113議席に減。


 しかし、ずいぶん投票率が、下がっているんですねーー!!!

 若い人に、参加してもらった方がいいと思うけどネーー!!





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日経平均が続伸、海外勢の買い観測で年初来高値更新

[東京 14日 ロイター] 東京株式市場で日経平均は続伸。前日の米株式市場の上昇を受け、東京市場もしっかりの展開となっている。オプションSQ(特別清算指数)算出後にもみあった後、年初来高値を更新した。東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記


 堅調な値動きが継続している。先物中心に海外投資家の買いが観測され、海外勢による中国株売り/日本株買いの可能性も指摘されている。ただ、お盆休みを迎え薄商いという。

 前場の東証1部騰落数は値上がり992銘柄に対して値下がり509銘柄、変わらずが183銘柄だった。東証1部売買代金は8302億円。 

 前日米株式市場の上昇を受け、東京市場も続伸で寄り付いた。8月限日経平均オプションの最終決済に関わる日経平均のSQは1万0609円42銭となったと複数の株式市場筋が明らかにしている。日経平均は高値でもみあった後、年初来高値1万0587円36銭を更新し、一時1万0630円38銭に上昇した。

 その後もSQ値を上回る水準で推移した。市場では薄商いながらも「先物に200―300枚単位の買い断続的に入って上値を追う展開。17日発表の4―6月期国内実質GDP速報への期待感も出ている」(大手証券エクイティ部)との声が出ている。先物中心に海外投資家による買いが入っているとの指摘もあった。国内証券のある関係者は「海外ファンドが主体だ。ファンドマネジャーは必ずしも日本株に強気ではないものの、過剰流動性を背景に運用資金・ニーズが増大し、リバランスで小型株も含めて買っているようだ」と述べている。

 中国株式市場の上海総合株価指数.SSECが下落して始まっており、海外勢が中国株売

りと日本株買いを組み合わせたオペレーションを継続しているとの観測
も出ている。準大手証券情報担当者は「海外勢が中国株を利食った資金で出遅れている日本株を買っているようだ。大型株中心の売買であるが、国内機関投資家は依然動いておらず、商いは薄い」と指摘する。

 一方、大和住銀投信投資顧問・投資戦略部長の門司総一郎氏は、ドイツやフランスの第2・四半期GDPが前期比ベースでプラス成長となったことに関連し、「過去1カ月間に世界の株価が上昇する過程で(プラス成長を)ある程度想定していたとはいえ、目先の株式相場にプラス要因となっている」と話した。

 セクター別では機械や卸売、鉱業、非鉄金属が買われる一方、保険やゴム製品が弱い。三越伊勢丹ホールディングス(3099.T: 株価, ニュース, レポート)は2014年までに中国で大型店舗5店を開業し、総店舗数を10店に増やすと報じられ上昇。一時993円まで買われた。

  (ロイター日本語ニュース 吉池 威記者)

日本株、世界の景気敏感株としても海外勢が注目

2009年 08月 14日

 [東京 14日 ロイター] 14日の東京市場は、株高/債券高の展開となっている。ドイツとフランスの4―6月期GDPが前期比ベースで予想外のプラス成長となり、世界的な景気底入れ期待が高まる一方で、米連邦公開市場委員会(FOMC)では超低金利政策の継続を確認し、買い安心感が広がった。

 各市場で過剰流動性相場のシナリオも浮上する中、日本株は世界の景気敏感株としても海外勢から注目されている。

 <4―6月期国内実質GDP速報への期待感も>

 株式市場では日経平均が続伸し、年初来高値を更新している。世界的な景気回復期待を背景に機械、商社などの景気敏感株を中心に買いが先行した。「先物には海外勢とみられる大口買いが入って指数を押し上げた。17日発表の4―6月期国内実質GDP速報への期待感もあるようだ」(大手証券エクイティ部)という。

 欧州連合(EU)統計局が13日発表した4―6月期のユーロ圏域内総生産(GDP)伸び率速報値は、前期比マイナス0.1%となり、1―3月期のマイナス2.5%から減少幅が急速に縮小した。ユーロ圏GDPの改善に寄与したのはドイツとフランスだ。伸び率はともに前期比プラス0.3%と予想外のプラス成長となり、先進国で最も速い景気後退(リセッション)からの脱却となった。国内では17日発表の4―6月期実質GDPも事前予想段階でプラス成長が見込まれている。「米国では景気敏感指標である輸送株指数が上昇傾向を示すなど世界的な景気回復期待が高い。景気敏感株としての日本株は海外勢から注目されやすい局面だ」(大手証券)とみられている。

 為替はやや円高方向に振れているが、「大手輸出企業が想定為替レートを対ドルで90円前半の円高方向に修正しており、95円前後の水準では売り材料にならなくなっている」(みずほインベスターズ証券エクイティ情報部長の稲泉雄朗氏)との指摘もある。

 三菱UFJ証券シニア投資ストラテジストの吉越昭二氏は「米連邦公開市場委員会(FOMC)で金融政策に変化がないことを確認したうえで、世界景気が底入れとなれば投資環境としては悪くない。企業経営者は慎重姿勢を崩していないが、7―9月期の状況が判明する今秋には増額修正に踏み切る企業も増えるだろう。株価をサポートする力は当面消滅しない」と話している。「世界的に流動性と景気回復の度合いがほどよいバランスで株式市場に効いている。過剰流動性を背景にした海外ファンド等の買いが続き、日経平均はジリ高が期待できる」(立花証券執行役員の平野憲一氏)との声も出ている。

 円債市場は、一部海外勢がポジションを解消するかたちで先物を買い上げ、中心限月9月限が一時節目の138円に迫った。「世界的な景気の底入れや株高、日本の財政悪化などが海外参加者の円債投資を弱気に傾けていた」(外資系証券)が、こうしたポジションが解消されたとする見方が有力視されている。

 注目された米連邦公開市場委員会(FOMC)では、年0―0.25%の超低金利政策について「より長い期間」という表現の時間軸を評価する向きが多かった。

 市場には「流動性相場なら株高/債券高とのシナリオを描く参加者が増えてきた可能性がある。予想より金利が上昇せず、買い遅れを意識する最終投資家も少なくないのでは」(別の外資系証券)との声もあった。

 大和住銀投信投資顧問の債券ストラテジスト奥原健夫氏は、米FOMCの結果を受けて債券の買い安心感が広がったとみている。「FRBは国債買い切りを増額しないまでも期限を延ばしており、逆に年内利上げの可能性はなくなってきたという解釈になっている。株価が上昇しても時間軸そのものが短縮していくイメージは出ないので、債券市場には依然として買い安心感がある」と指摘している。

 <為替市場にも過剰流動性の影響が>

 為替市場では、豪中銀総裁発言や中国株などの変動に合わせてクロス円が神経質な上下変動を繰り返す一方、ドル/円は狭いレンジの取引に終始した。豪ドルは、オーストラリア準備銀行(中央銀行)のスティーブンス総裁が、豪リセッションは軽微にとどまる公算であると表明したことを受け、対ドル、対円で上昇。これがクロス円全般の買いを誘発した。買い一巡後、香港株式市場が上昇して始まったことを受けてクロス円全般に小幅反発。「厳密に言えば、香港株とクロス円に何ら関連性はないが、

カネ余りという意味では共通項があるのだろう」(外銀)との指摘もある。

 主要国の中央銀行が大量の流動性供給政策を維持し、金融引き締めに慎重な姿勢を保っていることを背景に、いわゆる「カネ余り」が生じ、香港株式市場や原油相場、クロス円などに余剰資金が流入しているという指摘はこれまでも多く聞かれ、クロス円以外の為替相場にも影響を及ぼしつつある。


!!
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首都・阪神は除外=高速無料化で「修正」-民主幹事長

2009年08月13日 時事通信社

 民主党の岡田克也幹事長は13日夜、同党の衆院選マニフェスト(政権公約)の目玉の一つである高速道路無料化について「われわれはもともと首都高速と阪神高速は無料化するつもりはない。無料化したら(交通に)混乱が起こることは分かり切っている」と述べ、首都高速と阪神高速は除外する考えを示した。都内で記者団に語った。

 同党はマニフェストに「高速道路の原則無料化」を明記し、首都高速と阪神高速には触れていない。一方、マニフェストの下敷きとなる2009年版政策集では「首都高速・阪神高速など渋滞が想定される路線・区間については社会実験を実施して影響を確認しつつ無料化を実施する」としている。

 都市部を貫く2路線について、党内には無料化の対象から外すべきだとの意見があった。岡田氏の発言はこうした意見を踏まえたものとみられるが、公示直前の事実上の修正となるだけに公約との整合性が問われるのは必至だ。 


 アメリカじゃー高速道路無料は、あたりまえ・・

 天下りの温床企業のETCを、国民に、買わせる・・なんて・・

 アメリカじゃー、只で、配ってるって・・・

 だいたい、いっつも、渋滞の首都高なんて、金とるのは、おかしいのにねーーー!! 

 これは、国家ビジョンの問題なんです・・

 でも、もう、マニフェストに「高速道路の原則無料化」を明記してあるからねーー!!

 やるっきゃないねーー!!




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首長グループ:橋下知事ら民主を評価


首長グループとしての政党支持について会見する橋下徹・大阪府知事(右)と中田宏・横浜市長=大阪府庁で2009年8月11日午後6時49分、大西岳彦撮影

 大阪府の橋下徹知事らによる「首長グループ」は11日、自民、民主両党のマニフェストを比較した結果、「民主党を自民党より高く評価し、地方分権に関する政策支持を打ち出す」と発表した。「政治的リーダーシップが発揮される仕組み作りに重きを置いた」(橋下知事)と説明した。橋下知事は衆院選での具体的な選挙支援は見送る方針だ。

 橋下知事と、横浜市の中田宏市長が大阪府庁で記者会見し、2人に加え、中村時広・松山市長▽山田宏・東京都杉並区長▽露木順一・神奈川県開成町長の計5人の連名による文書を発表

「最大の争点は政権の継続か、交代かだ」として、評価は自民、民主両党に限定した。民主が唱える国と地方のあり方を見直す「行政刷新会議」を「霞が関解体の基点となる。不退転の決意だ」と高く評価。自民に対しては「これまでの政治システムを前提としている」と改革姿勢に疑問を投げかけた。【毎日jp】


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 しかし、全国知事会は、民主より、自公のマニュフェストに、ブラス評価でした。

 そして、首長グループとして橋下徹・大阪府知事(右)と中田宏・横浜市長たち5人は、

 民主を評価発表したわけです。

 全国知事会の29人の知事達の半数は、元官僚の現実があるので・・

 しょうがないかもねーーー




「橋下首長連合」舞台裏の虚々実々
2009年8月6日(木)FACTA

「自治体の長は何をのんびりしているんだ」——。総選挙が迫る中、「首長連合」をぶちあげた橋下徹大阪府知事。全国の首長をまとめて国に物を申そうと、横浜市の中田宏市長や松山市の中村時広市長らと連携を組んだはいいが、その前途はかなり険しい。

7月1日には、大阪府内の首長に参加を呼びかけたが、会場に集まったのは43市町村長のうち24人だけ。欠席したある首長は「思いつきで事を進める知事の尻拭いは懲り懲り。知事は『漢字の読み書き、計算の反復練習をきちんとやっていない学校がある。そんな市町村の首長は選挙で落としてほしい』とムチャクチャな発言をしたばかり。誰が馳せ参じますか」と不快感を示す。参加した首長からは「(地方分権への)熱い思いに賛同する」「突撃隊長としてやってほしい」などと、ローカルパーティー結成への賛同が大勢を占めたが、知事がこだわる支持政党の表明には「簡単にはいかない」「ハードルが高すぎる」と反発が相次ぎ、連続10期当選の貝塚市長から「地方自治を国政の踏み台にする『東国原方式』はやるべきでない」と釘を刺される場面も。知事は「(支持政党表明は)選挙で票を失うとズバッと言われた。『行動を起こさないと勇気がない』と言ったのは間違いだった」とグループとしての表明は断念する意向を示した。

実は各首長が支持政党の表明に難色を示すのは自らの選挙事情だけではなく、知事と自民党の深い繋がりを察知しているからだ。「2万パーセントない」と啖呵を切っていた橋下氏を知事選出馬に導いたのは、自民党の古賀誠選挙対策委員長だった。古賀氏は自民党府議団幹部を説得し、自民・公明両党で橋下氏を支える態勢をつくった。また、知事の私設秘書は故・宮沢喜一元首相の秘書で麻生首相ともパイプがある。実際、当初から「麻生首相を支える」との発言を繰り返しており、バックに旧宏池会人脈があると見られる。その裏パイプを警戒する民主党幹部は「橋下知事を支持することはない」と、はっきり距離を置く発言をしている。

ある地方議員は「心底賛成で参加した市長はいない。波に乗らなければという打算と、睨まれたら何をされるかわからないという恐怖。地方分権の御旗に集まることで抵抗勢力のレッテルを貼られずに済むと考えているだけじゃないですか」と言う。

実際、橋下知事が対立候補の応援に回ると思わせるようなケースが出ている。今年9月13日告示の堺市長選挙がそれだ。政令指定都市移行後、初の市長選挙。3選を目指す現職の木原敬介市長(69)はすでに出馬を宣言しているが、大阪府の政策企画部長(7月3日付で退職)(59)が突如、出馬の意志を固めた。さらに、橋下知事が「部下ですからやはり応援したいですよね」と俄かに支持を表明したことから、騒ぎになった。さすがに露骨な応援は首長連合にマイナスになると考えたか「(支援するかは)マニフェストの中身次第」と軌道修正したが、自らの息のかかった「橋下チルドレン」が大阪市に次ぐ政令指定都市・堺の市長になれば、難航する水道事業統合などもやりやすくなるとソロバンを弾いている節がある。こうした動きは、とりわけ民主党の推薦や支持で当選した首長らにとっては脅威だ。民主党出身で全国学力テストの結果公開に応じなかった吹田市長、知事と激しくやりあった柏原市長らも、今回の会合には参加しており、現職首長の苦衷が透けて見える。

ところで、橋下知事は中田横浜市長や中村松山市長らと組んで支持政党を表明する考えだが、民主党に近い中田氏は「さまざまな課題がある」と発言し、距離を感じさせる。結局、橋下氏の狙いは国政で、主要閣僚への抜擢を狙っているとの観測が絶えない。財政再建や水道統合、WTCへの移転問題などが挫折する中、「地方分権」を叫び、マスコミに露出することで、府政の停滞は忘れ去られようとしている。

(月刊『FACTA』2009年8月号)





 



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Japanese-American Friendship Festival

2009年8月22日(土)・23日(日)開催

1949年9月20日に第5空軍誕生7年を祝って一般開放はしていなかったが、地上展示およびエアショーが行われました。
後にJapanese-American Friendship Festivalと呼ばれるようになり、毎年一般公開されるようになりました。

飛行機の展示や、空からパラシュートが降りてきたりと様々なイベントが満載です。
また、屋内・屋外ステージでは、日米のバンド等のパフォーミングが行われ、大変盛り上がります。
アメリカン・グッズの販売、飲食ブースの出店などもお楽しみのひとつです。
ハンバーガー・大きなステーキ・ホットドック・・・
模擬店での買い物は片言の英語でOK!アメリカ気分を楽しんでください。


【横田基地へのアクセス】
基地入口第5ゲート
JR青梅線「牛浜駅」  徒歩約10分

【お車でのアクセス】
国道16号線沿い 詳しくは福生までのアクセスをご覧下さい
★バス駐車場予約受付のご案内★
福生市観光協会では、平成21年8月22日(土)と23日(日)に開催される横田基地友好祭にて、団体でご来場の皆さまのために大型バスも受入れ可能な駐車場を開設いたします。ご予約をいただいた方を優先させていただきますので、ご希望の方はご予約下さいますようご案内申し上げます。
→詳細ご案内ページへ
2009年横田基地公式アナウンス日米友好祭情報

日米友好祭とは?
 在日米空軍横田基地がホストネーションである日本の方々に横田基地の一部を開放し、日米交流を楽しんでいただく基地の一大イベントです。イベント開催中は飛行機の地上展示や横田基地所属機による飛行展示、音楽バンドのステージ演奏、食べ物やグッズ、ゲームの露店などを会場内でお楽しみいただけます。夜には花火の打ち上げを予定しています。
 年に一度のこの機会をぜひ横田基地にお越し下さい。


横田基地日米友好祭は8月22日(土)、23日(日)に開催します。開催中は第5牛浜サプライゲートを一般の方々に開放いたします。イベントの詳細、注意事項は下記の通りです。

開催日時:平成21年8月22日(土)・23日(日)
     ※花火は日曜日午後8時30分頃に予定しています。
開門時間:午前9時から午後8時(友好祭は午後9時まで)
開門場所:第5(牛浜)サプライゲート
アクセス:JR青梅線牛浜駅、ゲートまで徒歩約10分です。

【注意事項】
1.一般車両・自動二輪車の駐車場はありません。一般交通機関をご利用下さい。自転車置き場のみゲート横に設置されます。
2.危険物、アルコール類、ガラス瓶類、ペット、クーラーボックスなどの大型手荷物の持ち込みは出来ません。
3.ゲートで国籍の確認出来る写真付身分証明書の確認と手荷物検査を行う場合があります。成人の方は国籍、氏名が記載されたパスポートや市町村で発行している住民カードなどの写真付身分証明書をご持参下さい。※1
 ※1 ICチップがついた運転免許証をお持ちの場合は申請時に登録したパスワードが必要です。
4.日本、アメリカ合衆国国籍以外の方の来場については、事前に下記広報部までお問い合せ下さい。
5.基地内、会場内指定場所以外での喫煙はご遠慮下さい。
6.開催日は毎年大変暑くなります。必ず熱射・日射病対策をしてお越し下さい。
7.両日ともゲートは午後8時で閉鎖します。
8.障害者手帳をお持ちの方で車両での入場をご希望される方は事前申請が必要です。詳細は横田基地までお問い合せください。

(4月15日現在)

横田基地ウェブサイト
http://www.yokota.af.mil/ (外部リンク)


東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記











横田基地友好祭 今年もあります!!!

実物の飛行機、ギャラクシー輸送機、戦闘機、攻撃機、ヘリコプターなどを

滑走路で、展示しています。

お店なんかも、いっぱいでていて、

いつも、米軍の戦闘機隊のTシャツを買っています。

一歩、基地に入ると、アメリカですよー!!

入場無料、本場炭火焼のステーキ、ハンバーガーも、とってもおいしい!!

牛浜駅の周りに、当日は、臨時駐車場も、いっぱいあります。

ロックバンドとかもやっていて、とっても、楽しいよ!!





東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記


大前研一の「産業突然死」時代の人生論

「わたしのマニフェスト」を一挙公開

2009年8月11日 日経BP

 総選挙の公示を1週間後にひかえ、今回は、わたしが2003 年9月の衆院選の際に自民党の国家戦略本部事務局から頼まれて執筆した自民党用のマニフェスト(政権公約)を全文掲載する。マニフェストには、日本をどういう国にしたいのか、という全体像が描かれていなければ意味がない。その点を念頭に入れ、各政党の気の抜けたマニフェストと読み比べていただきたい。ここに掲載するのは6年前のものであることをお断りしておく。

 なお、このマニフェストの顚末については、文末に書いた。依頼されたので、善意の市民・納税者としてかなりの時間を使って、もちろん無料で作ってあげたが、この「作品」は遂に日の目を見ることがなかった。私としては、政治家がいかにダメか、マニフェスト制作がいかに政治家にとって飾り物に過ぎないか、身につまされる貴重な経験となった。

 マスコミや識者があたかもマニフェストを政党による公約集であるかのごとく縦横斜めに切り刻んで解説しているが、全く意味のない作業である。制作する政党自体(あるいは委託された広告代理店など)にとってマニフェストとは「思いつきアイデア集」、あるいは所属有力議員の「持論集(民主党は表紙にINDEX2009と書いているが、このタイトルではまさに索引、見出し、と自ら認めているようなものだ)」にすぎない。全体を貫く思想も哲学もないし、日本をどういう国にしたいのか、あるいは国民生活のどこにどのような問題があり、それをどうしようとしているのか、が見えない

 若干古いものではあるが、その後何も実現していない(!)ので陳腐化はしていない、ということで、「私が政党の党首ならこのような形で訴える」という雛形として参考にしていただければ幸いである。

■自民党用日本再生ビジョン草案(2003年某月某日)
《総論》
【はじめに】

 小泉首相の「聖域なき構造改革」によって、利権や既得権などを守ろうとする人々の望みは打ち砕かれた。これからは古いものの延命を図るのではなく、新しいものを創り出していく努力が求められている。
 私たちは蓄えた富のほとんどを使ってしまった。それでも足りない場合には「将来」から借りてきた。仕事のやり方や経済の仕組みを変えないまま一時的に持ちこたえていれば、昔の景気や経済成長が戻ってくるという幻想を抱いていた。
 しかし、私たちはいま、より深刻な挑戦を受けている。それは21世紀の経済や外交がすでに現実世界を支配し始めている、ということである。もし、私たちが過去100年に日本が達成した奇跡とも言われた進歩と繁栄を21世紀にも維持したいと望むなら、古い概念、期待、習慣を捨て去り、新しいものを学び始めなければならない。集団で達成した成功や繁栄に代わって、すべての人が個人として国境のなくなった世界の中で競争できる能力を身につけ、地球人としてすべての人々と共存していく道を探さなければならない。また、すべての地域は国に依存した経済単位であることを脱皮し、世界地図の上で意味を持ち、情報、資金、企業、個人が往来することによって繁栄を呼び込む自助努力をしなければならない。
 世界が従来の延長線上にあれば、体制を守る役割を持った官僚に任せておくこともできた。しかし、新しい世界に対応できる新しい社会を創るのであれば、国民すべてが新しいルール作りに参画しなければならない。それは新ビジョンを共有する政治家を国会に送り込む、ということと同義語である。

【基本認識】

 日本は1980年代初頭から迷走が始まり、それが90年のバブル崩壊後の「失われた10年」でさらに加速している。80年代半ばに起きた世界の大きな変化、とりわけボーダレス経済、マルチプル経済、サイバー経済、従来の経済が融合した新しい経済(ニュー・エコノミー)への対応が遅れたからである。いままでの対策のほとんどが、19世紀型の古い経済体制を前提としたものであるため、この10年で300兆円を超える景気刺激策が次々と行われたが、効果はほとんどなかった。経済社会を支配する法則が抜本的に変わったのだ、という現状認識がなかったために、日本はいたずらに持てる資源を浪費してしまい、国力が疲弊してきている。いま自民党は、政権担当の中核政党としてこの事実を危機感を持って自己認識し、反省しなければならない。
 たとえば、日本の景気対策は未だに公共事業が中心である。しかし、統計データによると、公共事業を1使った時のGDP押し上げ効果は0.2に過ぎない。つまり公共事業に10兆円使っても2兆円分しかGDPに寄与しないのである。一方、民間が1使った時は0.6~0.7のGDP押し上げ効果がある。

 景気が良くなるということはGDPが伸びるということである。したがって本来、日本はGDP誘出効果の薄い公共工事などで景気刺激をする代わりに、個人消費や企業の投資意欲を伸ばす徹底的な規制緩和を進めるべきであった。小泉改革ではそのことを謳ってはいたが、実際にレーガン改革やサッチャー革命などに比較してその徹底を欠いていた、と言わざるをえない。日本は子孫からの借金である国債などを発行して景気刺激にこれを浪費するよりも、世界中から企業や資金を呼び込んで、繁栄のメッカとならなくてはならない。しかし、そういう改革は遅々として進んでいない。

 なぜか? 最大の問題は、官僚が政策を立案し、それに予算を付けて実行していくという官僚主導・中央集権の日本型システムにある。このやり方は戦後の復興には効果的であったが、その後経済がより複雑になり、世界との相互依存交易が盛んになり、さらには情報や資金が国境を瞬時にまたぐグローバル経済の時代になるにつれ、その機能と効果は陳腐化してしまった。

 しかも、官僚統制経済は本質的に毎年予算を組む単年度主義である。これは、ソ連邦の崩壊などで見られた計画経済の欠陥を本質的に共有している。日本の場合も長期計画に基づき、1年ごとに若干の修正が加えられるだけで、しかも慣習と既得権が優先されるため、本質的に国も地方も時代に合わせて大きく変化することはできない。政治は官僚に若干先行してビジョンを提示するかたちになってはいるが、実質的には官僚機構の中に組み込まれ、官僚の手のひらに乗せられている、と言わざるをえない。
 しかも、80年代以降は官僚組織そのものが自己目的化し、国全体のことを考えるよりも細分化した官僚組織それぞれが局所最適化を始めてしまったいまや官僚機構は、そのことに自分で気がついて直す「自力更生能力」を完全に喪失している。そのような官僚機構と中央集権を前提にする限り、日本は仮に正しい答えがわかっても前進できない。それほどこの問題は、日本の再生にとって致命的な障害になっている。

 たとえば、北朝鮮問題をはじめとする外交問題について、外務省に新しい外交戦略を期待できるだろうか? 金融機関の不良債権処理問題が、財務省や金融監督庁に任せておいて解決するだろうか? 荒廃した学校教育を改善する良いアイデアが、文部科学省から出てくるだろうか? すべて答えは「NO」である。したがって、日本を再生するためには、官僚機構を全部解体してゼロベースの改革を始めるしかない。

 ところが、考えてみると、それを担う母体がない。官僚組織をリストラクチャリングしようという試みは何度もあった。中曽根政権時代から行政改革が始まり、それ以降のすべての政権が官僚機構を改革しようとした。自民党にとって代わった細川、羽田、村山内閣においてもこうした試みは続けられた。しかし、それらはすべて掛け声倒れに終わり、目的は全く達成されていない。官僚機構のスリム化を目指した橋本行革の省庁再編は役所が引っ越しただけで、減った役人の数はゼロである。これは中央省庁だけでなく、地方自治体においても全く同じことが言える。

 日本の公務員は失業保険を払っていない。つまり、失業を前提としていない。犯罪をおかすなどして懲戒免職にでもならない限り、失業する恐れがないのである。憲法ですべての人の法の下の平等を謳っていながら、あたかも日本人の中に生涯保障で恩給がつく人々の集団(=公務員)という“身分”ができたかのごとくである。

 時あたかも民間企業ではリストラの嵐が吹き荒れ、多くの人々が雇用や給料引き下げなどの不安におののいている時代に、そうした現実世界と無縁の人々が将来計画を立案し、予算を付けている。これでは、世界に伍して競争力を維持していく国家ができるわけがない。そういう組織に改革案を作らせる従来の発想では、何度やっても同じことの繰り返しになるのは火を見るよりも明らかだ。
 したがって今回の「日本再生ビジョン」は官僚機構に作らせるのではなく、国民に選ばれた政治家が官僚機構を前提とせずに作る、というところまで持っていかなければならない。

 小泉首相は官僚主導体制から脱却するために、道路関係四公団民営化推進委員会などの委員会や審議会、諮問会議を連発した。しかし、それらの会議体は提言を出しただけで、フォローして実施していくという仕掛けが全くない。このため、どれもこれも言いっ放しで終わってしまい、実施する頃には官僚機構によって骨抜きにされるという従来と同様のパターンに陥っている。つまり、議論の端緒のやり方が変わっただけで中身は全く変わっていないのだ。

 だから結局、小泉改革は何も成果を生んでいない。郵政三事業の民営化も道路関係四公団の民営化も、本質的には官僚機構の延長線を是認しており、官僚組織から出てきたものが公社などのかたちで延命して残っていく。特区も同様だ。特区は現代の“出島”であり、そこだけ特例を認めるというコンセプトだから、逆に言えば、日本全体は開放したくない、規制・管理したい、という官僚の「目こぼし」思想の賜である。特区という許認可を受けなければならないわけだから、初めに中央集権ありき、官僚機構ありきを認めてしまった制度にほかならない。

 要するに、小泉首相の三大改革はすべて中央集権・官僚機構を前提とし、下手をするとそれに正当性を与えて形を変えながら巨大化・延命化することを助長しかねない。むしろ事態は悪化している、と言っても過言ではないだろう。

 改革は、やらないよりはやったほうがよい、という意見をよく聞く。橋本行革の時もそうだった。その理由は、これまで一度も手を入れたことのない中央官僚組織に、未来永劫同じではないぞということをわからせるだけでも大きな効果がある、というものだった。その論理は、小選挙区制を導入した時の論理とよく似ている。戦後一度も手をつけられなかった中選挙区制を変えるだけで二大政党ができ、政策議論が活発になる、と小選挙区制導入の旗を振った人々は言っていた。しかし「変化そのものに意義があるから変えたほうがよい」という意見は無責任だ。現に、橋本行革にしても小選挙区制にしても現在の小泉改革にしても、変化は起きても良い方向には行っていない。なぜなら、最後の味付けをすべて官僚がやっているからである。官僚組織が持っている“染色体”の恐ろしさを認識するところから、「日本再生」に向けた新しい改革は始まるのだ。

【改革のテコ】
●廃県置道と財源移転


 では、日本を再生する仕掛けとしての“改革のテコ”をどこに求めるのか? 官僚機構や委員会、審議会、諮問会議などの民間に求めないとすれば、いまの日本の制度の中では「クーデター」しかない。振り返れば、明治維新は無血クーデターであった。江戸幕府には変えることができなかった国家体制を、薩長連合がクーデターによって変えたのである。現在の日本も江戸末期と同じような閉塞状況にあるとすれば、明治維新に匹敵するクーデターを起こさなければ変わらないと考えられる。
 小泉政権がその担い手となるためには、まず官僚依存の中央集権から脱するために「第二次廃藩置県(廃県置道)」、つまり「道州制」の導入を推進して統治の単位を地方に移さなければならない。なぜなら、クーデターの具体的な手段は「新・薩長連合」、すなわち「知事連合」しかないからだ。もはや、いつ解散されるかわからない衆議院の順列組み合わせをどのように変えても“改革のテコ”にはなりえない。政権の延命につながるだけである。直接選挙で選ばれて4年間は地位の揺るがない知事たちが連携しながら改革に取り組む必要がある。
 すでにそれに向かって自然発生的に2つの動きが出てきている。1つは、地方交付税の地方移転である。国で集めて地方に配布している税金を、最初から地方に取らせるという案だ。だが、この案には欠点がある。現在の都道府県の単位で税金を持たせてみても、それはモザイクのガラスの中に血管を埋め込むようなものだから、竹下政権の「ふるさと創生」のように矮小で無意味なものになってしまうのだ。したがって財源移転は、世界と交易して経済が自立できる大きな単位の統治機構=道州を作ったうえで行わなければ意味がない。

 自治体の首長などによって「地方自治」という言葉が安易に使われているが、経済的な「自立」なくして「自治」を論じても無意味である。したがって、統治機構の基本単位は雇用創出をするための産業基盤を自前で作れるだけの十分な大きさの単位でなければならない。
 そしてもう1つの自然発生的な動きは、青森、秋田、岩手の3県による道州制を前提とした「県連合」結成の動きである。地方自治体側から見ると、もはやそうでもしなければ地域の将来像が描けなくなっているのだ。九州にも非公式ながら「九州府」を前提とした自治体の予備的な活動が見られた。また、関西の財界は戦後一貫して「府県連合」や「関西府」の設立を提言してきている。
 この自然発生的な2つの動きを、責任与党である自民党は、自らの政策として正面から取り上げるべき時期に来た、という認識を持つ。中央集権を明確に終焉させるために統治機構を再編成し、日本を「道州連邦」の国家とするのである。
 「連邦」と呼ぶ理由は、道州が基本単位で、国家はそれらが共同運営するものだ、という明確な役割分担を想定しているからである。国民の統合の象徴としての天皇制や、憲法で保証している安全、平和、そして人間の尊厳を失わない生活の保障などは、国家の仕事として残ることは言うまでもない。
 道州には産業基盤を確立するための徴税権を与える。国家はコーディネーター的機能を果たすが、教育から税制に至る競争力維持、雇用の維持に関する基本政策の策定、および実施は道州の責任となる。
 自民党は2005年をもって日本を「道州連邦」とし、それを21世紀に栄光ある国家として日本が存続するための大改革のテコにする覚悟である。

●地域間競争の促進

 経済政策は基本的に、国が許認可でもって全国一律に同じルールを当てはめることをやめ、すべて道州レベルに落とすべきである。なぜなら、1985年以降の新しい世界の中では日本全体に通用する最大公約数は見つからなくなってしまったからである。
 したがって、今後は自主財源を持った道州それぞれが、自分たちの地域が経済発展していくためのルール、あるいは政府が掲げる環境と経済発展の調和や世界に負けない国際競争力の維持といった目標を実現していくためのルールを決めていく。なぜなら、産業発展は雇用の維持につながるからである。雇用維持という最も大切な任務は、国の仕事ではなく道州の仕事になるのだ。ただし、道州によって掲げる目標は異なってくるはずだから、ルールも道州ごとの目標に沿ったものになるだろう。
 たとえば、東北地方は工業よりも観光に特化する、北海道は一律の工業化ではなく付加価値の高い第一次産業とプロフェッショナルサービスを中心とした第三次産業に注力する、ということになってくるかもしれない。それぞれの道州が自分たちの特長を生かして地域全体を「特区」にすればよいのである。自分の経営資源が足りない時には、世界中から資金や企業や人や技術を呼び込んでくればよいのである。
 そうすれば、変化は必ず生まれてくる。なぜなら、変化のエンジンが中央の巨大単発エンジンではなく、道州の中型10発エンジンになるからだ。もし、そのうちの7つが不調でも3つは活発に動くから、変化は持続する。そのうちに不調なエンジンも活力を回復して成長しはじめる。そういうパラダイム転換によって地域間の健全な競争を起こすことが、再び活力のある日本を作る必須条件なのである。
 バブル崩壊後の日本は、国が1つの解を求めて何かを解決しようとしてもうまくいかなかった。その最大の理由は、日本のように大きな国に単一の解はないからである。世界で繁栄している地域を見ても、地域連邦制のところか、あるいは人口数百万人の小国で21世紀の情報化社会に素早く対応しているところばかりである。

【国の役割】
●外交と安全保障


 その時、国の役割はどうなるのか。基本的には、外交とそれにまつわる安全保障、国家標準の設立、通貨の発行と供給管理である。
 外交については、地方独自の外交をある程度認める必要がある。北海道の外交と九州の外交が違っていてもかまわない。しかし、日本全体としての外交のコーディネーションは国がやる必要がある。外交にまつわる、より重要な問題の安全保障、すなわち防衛も道州ごとではなく国家全体でやっていかなければならない。
 また、安全保障を長期で考えると、戦後60年近く続いてきた日米安保体制は当然、再考されるべきである。東西冷戦の終焉に伴う新しい世界の枠組みの中で、日本は「アメリカとどう付き合うか」「近隣諸国との距離をどうするか」ということを真剣に考え、再定義しなければならない。
 なぜなら、9・11以降のアメリカが「本土防衛」を国家目標にしたからである。本土防衛しか国家目標にしていない国と安全保障条約を結んでも、日本の安全は保障されない。しかも、アメリカの本土防衛と日本のガイドライン法を結びつけると、アメリカが本土防衛の名目で他国を攻撃する場合、日本は後方支援をする、というふうにつながってしまう。これは冷戦時代の西側同盟国としての日本の立場を前提にしていることから来る矛盾である。日本の安全保障は「日本の本土防衛・安全保障をどうするのか」という視点から、新しい地政学の中で再定義する必要があるのだ。
 その新しい安全保障の方向性は、はっきりしている。いまはアメリカとだけ結んでいる安全保障条約を中国、韓国、ロシアなどの近隣諸国とも結んで集団安全保障体制を構築し、日本の本土防衛と東アジアの安定を図るべきである。新しい日米安保条約がその中で重要な役割を果たすことは言うまでもない。

●日本経験の共有

 もう1つ、日本には非常に大きな安全保障・外交のカードがある。「日本経験の共有」である。戦後の著しい経済発展と経済的な富の蓄積が進んだ日本ならではの世界に対する貢献策として、国作りや人材作りにおいて戦後日本が成果を上げてきた一連の作業、すなわち“繁栄の方程式”を他の国々に移転してあげるのだ。
 日本はいま、経済的に停滞し長期不況にあると一般には信じられているが、人材以外にさして資源のない日本が戦後、世界第二の経済大国となり、国民1人あたりの所得でも世界のトップにあるということは、他の国から見れば羨望と尊敬の対象であり、その国家運営のノウハウは十分な価値を持つ。日本では、いまとなっては行き過ぎた中央集権・産業優先の弊害が出てきているが、これはすべての途上国が一度は通らなくてはければならない道である。

「日本経験の共有」によって未開発国や途上国を真摯に助けることは、日本が単にそれをできるから、ということではなく、相手国から見れば、貧困や混迷の闇から抜け出す貴重な助けとなる。これによって日本は独特な仲間作りができると同時に、場合によってはその延長線上で自由貿易市場や共通通貨などEU型の模索を行うことも可能になる。
 この新しい形態の“援助”を評価してくれる世界中の国々との連帯、また、こうした経験の共有を提供できる立場にある諸国との協調関係、経済発展関係を積極的に促進して互いに経済繁栄を図り、それらの国々と安全保障条約や不可侵条約を結んで集団安全保障体制を確立していく。そういう「武力によらない経済発展の提供」を武器とした外交政策、従来の外交政策を180度転換した新しい発想——日本が世界の中で貢献できることを通じて外交基盤を作り上げていく、という発想——が、21世紀のポスト冷戦時代には必要となる。

●国家標準

 2つ目の国の役割である国家標準の設立とは、道州別に異なっていたら非常に都合の悪いもの、たとえば電圧や周波数などの共通化である。そもそもEUができた理由はこれだった。電気のプラグの形や電圧、周波数が国によって違っていたため、ユーロアトムとヨーロッパ鉄鋼同盟がベネルクス三国から標準化を始めたことが、EUのスタートだった。日本の道州がばらばらに経済発展を始めた時には、昔のヨーロッパのように標準が変わってしまう可能性もあるので、そういうことに関しては国家として標準を決めていかねばならない。
 ここでの国の役割は、官僚が決めて全国に通達する“お上”の役割ではなく、「道州協議体」の“コーディネーター”としての役割である。その役割においても、過度のコーディネーションは避けなくてはいけない。
 すでに日本では東と西で電気の周波数が50サイクルと60サイクルで異なっているが、こうしたことによる不便は今日では技術的に解決されている。したがって、国家標準の目的は、あくまでも国民生活者の利便性と国際競争力の維持にあり、創造性を滅殺するものであってはならない。

●通貨政策・金融政策

 通貨政策と金融政策に関する国の役割も、外交と安全保障や国家標準と同じくコーディネーターである。もちろんマネーサプライや金利の調整は中央銀行の役割として残るが、日本国内での役割は次第に小さくなり、ヨーロッパ中央銀行のようにアジアの広域でその役割を担わなければならなくなってくる。
 つまり、地域通貨やIMFなどを通じ、日本を代表して近隣諸国との関係をコーディネートしていく窓口的な役割を担うわけだ。これ以外に国の役割は残らない。通貨政策と金融政策においても、国の役割は著しく小さくなるのである。
 従来のように、景気刺激のために国債や株式を購入したり、公共工事を通じた有効需要の創造のために債券を発行する、といった必要はなくなる。それらは、道州が自ら経済運営の手法を磨きながら、必要に応じて実行していくことになる。

【税制の抜本改正】

 地方への財源移転に伴い、税制は抜本改正しなければならない。
 新しい税金は2つに簡素化する。1つは道州レベルで産業基盤を確立して雇用を創出する目的のために徴収する「付加価値税」である。これは消費税とは異なり付加価値段階すべて、つまりすべての商行為に漏れなくかける。現在、日本の国民の総付加価値(GDP)は約500兆円強あるから、これに一律5%をかけると税収は25兆円になる。その代わり、法人税などの利益に対してかける税金は全部廃止する。ITを駆使すれば、付加価値の把握は比較的低コストでできるはずだが、過渡期には徴税コストを抑えるために「付加価値税徴収機構」を作り、いったん機構がまとめて徴税してから経済活動に応じて道州に分配すればよい。
 この税金は経済活動に比例して分配額が増減するから、道州にとっては経済発展が大きなインセンティブとなる。その一方で、国税という概念はなくなる。国が徴収した税金を地方に分配するという概念もなくなる。
 もう1つの税金は、コミュニティの安全で快適な社会基盤、生活基盤を作るための「資産課税」である。これは金融資産・固定資産の現在価値に対して毎年1%を課税する。相続税と所得税は廃止する。
 高齢化の進む先進国では所得の伸びが停滞する半面、年金・保険・貯蓄などの金融資産および不動産などの固定資産が増大している。途上国型の税制を持つ日本の場合、このやり方では毎年著しい税収不足が発生している。
 いま日本全体では、個人の資産と企業の資産が合計3000兆円あると言われている。これに一律1%を課税すれば30兆円になるから、それをコミュニティの税収にする。この場合のコミュニティとは、現在の3300市町村を合併や分割によって全国400ぐらいの人口30万人程度の生活基盤としての「市」に再編成したものである。日本は道州とコミュニティの二階層で統治され、それぞれが独自の財源を持ち、またお互いに重複しない重要な機能(道州=産業・雇用基盤の確立、コミュニティ=社会・生活基盤の確立)を持つことになる。
 この2つの税金で合計55兆円になる。そのうち5%=2兆7500億円を国に上納する。それが役割の小さくなった国の年間予算になる。
 以上のように税制を抜本改正すれば、現在の複雑な税体系が非常にすっきりするうえ、例外がなくなって恣意的な脱税、節税もできなくなる。つまり世界一不動産を持っている会社や世界一売上高が大きい企業が、帳簿上の操作で法人税等を逃れているという不公平を是正することができるわけだ。

【官僚制度の改革】

 日本を再生するためには中央・地方を問わず、官僚制度の改革が不可欠だ。官僚制度が持っている前提には、重大な問題が2つある。1つは資格試験を受けて入ってくることである。資格試験は、クオリティの高い人材を採用するためには効果的だが、その一方で、最初に入った組織に一生定着してしまうという大きな弊害を生む。
 つまり、資格試験に受かりさえすれば、定年退職するまで、大半の場合はそれ以降も天下りをしてその資格が使えるという身分制度が出来上がっている。人間は生まれながらにして平等であるはずなのに、日本の場合は23歳にして就業後の身分保障がある人間(公務員)と、ない人間(公務員以外の人々)の間に著しい不平等が生まれているのだ。
 しかし、組織は例外なく流転するものである。すべての組織の寿命が20~30年という時代に23歳から60歳まで40年近くも人間が固定しているわけだから、組織が硬直化するのは当然だ。
 かてて加えて、官僚組織には民間のような「アウトプレースメントや失業の原則」が存在しない。つまり普通の会社の場合、昇進しない人、組織の中にポジションがなくなった人は外に出される。また、新しいスキルを習得しなければ陳腐化され、給料なども当然下がっていく。若い人たちに魅力ある仕事をする機会を与えるためにも、すべての人は自己研修に励み、日々努力しなくてはいけない。
 ところが、官僚組織は、どんな人でも一度採用されればどこかにはめ込むし、失業することもない。これは若い人たちの就業機会を著しく妨げているのみならず、時代の変化に対して最も抵抗する人たちの集団を作ってしまう。官僚機構がなぜ保守的になるのかと言えば、その仕掛けそのものに保守性があるからだ。最も古くからいる人たちが最も堅固に守られる、というルールになっているのである。

 さらに【基本認識】でも述べたように、恩給がついて犯罪でもおかさない限り職を失う恐れがないという身分の安定が江戸時代と同じような階級の固定につながり、いっそう時代の変化を嗅ぎ取らない集団、自ら改革できない集団にしてしまった。この“失業保険のない集団”が日本の基本政策を立案し、地方自治体の運営を行っているのである。だから、彼らの作る最近の施策が一般の民間人の感覚からずれてきてしまったことは、構造上の問題に起因していると考える。
 したがって、官僚制度の改革は「身分制度を作らない」ということを大前提にしなければならない。たとえ資格試験に受かっても、すべての公務員は5年に1回か10年に1回、資格を再取得してリニューアルしない限り身分は保証されない、というルールを作るべきである。

 もっと具体的に言うと、公務員に「ローテーション制度」を導入すべきである。現在、47都道府県、3300市町村の間に職員の正規のローテーションはない。都道府県、市町村に入ったら最後、定年退職するまでその組織に固定される。さらに、同一都道府県の中でも、A市に勤めた人がB市に異動することはない。警察職員が消防職員に転職することもない。消防職員が市立図書館員になることもない。これが地方自治体の組織が硬直化している理由であり、地方の変化と発展を妨げている最大の原因である。
 また、このような前提で人材が職務に張り付くために、それぞれの組織が人員を増加させることになる。本来、一生公務員をやるのであれば、複数の職能をマスターすることは十分、可能であるはずだ。民間の工場では“多能工化”といって、同じ人がいくつものポジションをこなせるようになっている。いまの公務員制度で決定的に欠けているのが、この考え方である。郵便配達にしても、米の品質検定にしても、結局こうした職員の雇用を守るためにIT化や経済のグローバル化に遅れてしまった、という側面があることは否めない。
 地方公務員はせめて都道府県の単位で採用し、各市町村や警察、消防などがキャリアパスになっていくというシステムにすべきなのだ。つまり、公務員を民間のやり方と同じように“多能工化”するのである。それぐらいドラスティックな改革を自民党の責任において断行し、政策の実行部隊である公務員を、自治労まで含めて一気に流動化させなければ、絶対に変化は望めない。それこそが「聖域なき構造改革」の最たるものである。そこに手をつけたら自民党は公務員の票を失うかもしれない。だが、もしそうなっても最大600万票、7000万有権者の1割足らずだ。公務員の造反を恐れていたら「日本再生」は決して実現できないと肝に銘じるべきである。

【提供者の論理から生活者の論理へ】

 道州制の導入と並ぶ“改革のテコ”は、自民党の政策を「提供者の論理」から「生活者の論理」に180度転換することだ。日本人が最も不満を感じているのは、世界で最高水準の給料をもらっていながら、その給料で買えるものが世界で最も見劣りすることである。これが提供者の論理から生活者の論理への転換の「キモ」になる。
 具体的な方法は、世界で最も安くて最も良いものが自由に手に入るようにすることだ。そのためには、生活者に選択権を与えなければならない。国が選んだものや認可したものが安全でもなければ良くもないことは、サリドマイド禍や薬害エイズ事件などで証明されている。したがって、国がこの商品は安全だとか危険だとか良いとか悪いとかは言わない。国が選択して国民に与えるという発想から、選択そのものを生活者に委ねる。その選択肢を増やすことが国の仕事になる。それが「生活者主権」という考え方である。
 もちろん薬その他の安全性や環境との調和などに関しては、十分な情報が民間の機関から一般生活者に届くようにしなければならない。しかし本来、「e‐Japan計画」(IT国家基本戦略)で提示された「すべての国民がインターネットに常時接続できるようにする」という考え方の中身は、こうした具体的な利便性の追求にあったはずである。物理的にインターネットにつながる、というだけのだけの段階から、選挙、買い物、重要な情報の検索など、国民生活のすべてにわたって「生活の中に溶け込んだインターネット」を使って、公共コストを下げながら公共サービスの質を上げることに注力したい。
 資金運用に関しても、国民がお金をどこでどのように運用しようが、国には関係ない。個人のお金に関して、ああしろこうしろ、許すの許さないのと国が言うのは余計なことだ。ただし、資産運用で得た利益や前述した資産課税については、日本で申告して税金を納めるよう要求するのは正しいと思う。
 もしかすると日本は、スイスのように二重国籍を認めるところまで大胆に議論すべきかもしれない。スイスは税金を払っている限りは二重国籍を認める。一方、日本は二重国籍を認めていない。しかし、それは日本にとって得だとは思わない。たとえば、年金生活に入った高齢者には日本で税金を納めることを条件に日本とオーストラリアなどの国籍を認め、両国で幸せな引退生活を送ってもらう。そうすれば社会的な老人福祉コストの負担もかなり軽減される。本格的な高齢化社会に突入すると、世話する人の数とされる人の数が合わなくなって介護者が絶対的に不足する。こうした問題に、外国人労働者の受け入れや高齢者が海外で快適な生活ができるような制度と併せ、いまから真剣に取り組まなければならない。
 提供者の論理から生活者の論理に転換して選択肢を増やしたら、結果的に日本はどのような国になるのか? 大半の人の給料は、3~4割カットされるという方向にいかざるをえない。実際に賃金が下がるのか、それとも円安になってそうなるのかは別にして、そういうレベルまで下がることは避けられないだろう。しかし、その一方で大きく上がる人たちも出てくるだろう。両者の差は、21世紀の新しい産業に追随できるよう自分をリニューアルした人と、そういう努力をしないで学校を卒業した時までの勉強で一生暮らしていこうとしている人たちとの差である。リニューアルにチャレンジする機会は公平に何回も与えられるべきだが、それを拒否した人は給料が下がっても仕方がない。
 ましてや年功序列・生涯雇用という戦後の右肩上がり時代の感性は、ここで明確に払拭しなければならない。国民すべてが今日よりも明日のほうが良い生活、という約束は、多重債務に犯された現在の日本の国にはできない。唯一できることは、日本が世界のどこに比べても安全で快適な国であり、成長しようと努力する人にとっては大きな機会が用意されている、ということだけである。さらに、そうした努力をしてもうまくいかなかった人が人間としての尊厳を失うほどの生活苦にあえぐことになったら、そこに救いの手を差し伸べる憲法で保証された制度が、がっちりと受け止めてくれる。そういう国に、日本は今後10年ぐらいの移行期間をかけて生まれ変わらなければならない。
 また、生活者の選択肢を増やせば、生活費そのものは半減するだろう。とくに住宅部門の規制緩和が値下がりに大きく寄与するはずだ。道州に責任を移し、受験偏差値ではなく人材の質を競う時代になれば、教育コストなども大幅に下がるだろう。


 以上が、私が国家戦略本部事務局から頼まれて書いた自民党用のマニフェスト原案である。2001年4月に小泉内閣が成立し、初めて2003年の総選挙の洗礼を受けることになっていた時期である。国家戦略本部の事務総長は、2001年に発足してからずっと元法務大臣の保岡興治さんであった。

 私の著作を読んでいれば、本草案は何も目新しいものではないし、「平成維新」などと通じる思想体系、世界観で書かれていることが理解されるであろう。自民党にも大きく変わってもらいたいと言う思いがあり、実は事務局も「戦後60年の棚卸しをして自分たちも変わらなくてはいけない」という意識が強かった。
 しかし保岡さんによると、原稿用紙40枚(16000語)にわたる本草案を小泉さんは読まなかった。理由は「長すぎる」ということであった。そこで原稿用紙2枚にしてくれ、と言われて、再び知恵を絞って2ページにしたものを事務局に持っていった。 すると、こんどはその2ページを机の上に置いて、小泉さんは「オレは勘が鋭い。あまり勉強するとその勘が鈍くなる」と言って結局読まなかった、という。

 たしかに小泉さんは政局に関しては鋭い読みがあり、その多くは当たっていた。しかし、政策に関しては必ずしも優れたものを持っていたわけではない。いわば在任の5年間にわたり小泉劇場で波瀾万丈ではあったが、その間、日本は経済的にも外交的にもズルズルと世界における立ち位置を後退させてきただけだった。鋭い政局勘と優れた政策が一致すれば、日本は大きく代われた時期だけに無念である。

 私は政党に関係なく、日本を良くしてくれる政治家がいれば誰にでも協力する、と言ってきている。私が創設した一新塾などでは民主党に行く人が多いが、それは民主党が成長しつつあり、大幅な人材不足であるためにそちらにスカウトされる卒塾生が多いだけのことである。元祖「無党派」「サイレントマジョリティーのための国作り」を20年以上にわたって標榜しているので、当然と言えば当然である。
 今回6年を経てこの草案を公開することに決めた理由は、発表されたマニフェストを読んで自民党も民主党も中心となるブレインがいないことを痛感したからである。マニフェストである以上はこの国をどうしたいのか、誰の立場に立って、何の問題をどう解決したいのか、という思想が一貫していなくてはいけない。予算の裏付けがあるかないか、などと言う批判は枝葉末端である。国民がやろうと思えば、予算は何とでもなる。そのための政策提言であり、選挙なのだ。またマニフェストはあらゆる人々に受け容れられるような癒しの言葉をちりばめてはいけない。少なくとも過去のどこに問題があり、政治はそれをどう変えようとしているのかを示さなくてはいけない。その意味では半数近い人々が反対しても、将来の日本にとって必要と思うことを述べなくてはいけない。いまの民主党みたいに発表して、反応を見ながら臨機応変に変えていくのは、哲学・思想がもともと欠落しているからである。少なくとも私のマニフェストに関して言えば、どんな反論が出ても、(最後の11項目の政策集は除いて)そう簡単には引き下がれないものばかりだ。
 6年経った今、修正することはないのか、という読者からの(予想される)質問に関しては、その後の世界情勢と、予想を上回る日本経済の弱体化、などを踏まえて書いた『最強国家ニッポンの設計図』(小学館、2009年6月発行)をご覧いただきたい。これが私の私的マニフェスト最新版である。今回はどこの政党からの依頼も受けずに、いやすべての政党に使ってもらいたいと思って、力を込めて執筆した。どの政党が政権を取るにせよ、まず落ち着いてこの本くらいを読破し、今度こそは「違いの分かる」国作りをしてもらいたいものと思っている。


 今、自民党でなく、他の政党から、出せばいいとおもいます・・・



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1943年、福岡県に生まれる。早稲田大学理工学部卒業後、東京工業大学大学院原子核工学科で修士号を、マサチューセッツ工科大学大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年、マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社。以来ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を務める。
 2005年4月に本邦初の遠隔教育法によるMBAプログラム(ビジネスブレークスルー大学院大学)が開講、学長に就任。経営コンサルタントとしても各国で活躍しながら、日本の疲弊した政治システムの改革と真の生活者主権の国家実現のために、新しい提案・コンセプトを提供し続けている。
 近著に『さらばアメリカ』(小学館)、『知の衰退からいかに脱出するか』 (光文社)、『ロシア・ショック』(講談社)がある。

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