1945年8月15日 終戦の日 | 東京リーシングと土地活用戦記

東京リーシングと土地活用戦記

ニーチェ・ツァラトゥストラの言葉「神は死んだ、神なんかもう信じるな」「強い風が吹く所に一人で立て!そこは非常に厳しいけれど、人間自分自身が主人公だ!風を受けて孤独になれ!」「真理などない。あるのは解釈だけ」いいねー。スバム読者申請コメント削除します。

東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記


戦没者追悼式、平和への誓い新たに…終戦64年

全国戦没者追悼式でお言葉を述べられる天皇陛下=冨田大介撮影
 64回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の「全国戦没者追悼式」が、天皇、皇后両陛下をお迎えして、東京・千代田区の日本武道館で正午前から開かれた。

 麻生首相ら各界代表のほか、戦没者遺族ら約6000人が参列した。先の大戦で犠牲になった約310万人の冥福を祈り、平和への誓いを新たにした。

 厚生労働省によると、遺族参列者は昨年より約240人多い約4820人。

 麻生首相は式辞で、これまでの追悼式を踏襲し、「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております」と述べ、反省と哀悼の意を表明。「悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければならない。世界の恒久平和の確立に向けて、積極的に貢献していく」と決意を示した。

 参列者は正午の時報を合図に1分間の黙とうをささげ、天皇陛下が「戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と述べられた。

 父がニューギニア島で戦死した大坪徳広さん(66)(佐賀県小城市)が遺族代表として壇上に上がり、「平和で豊かな今日の礎に、尊く重い犠牲があることを深く胸に刻み、決して忘れてはならない。悲しい歴史を絶対繰り返さないことを固く誓う」と追悼の辞を述べた。

 厚生労働省によると、遺族の当初参列予定は4957人。内訳は軍人・軍属の遺族が4799人、空襲などで亡くなった人の遺族が96人、原爆犠牲者の遺族が62人。参列者の世代交代も一層進み、戦没者との続き柄別では「妻」は過去最少の64人。「父母」は2年連続でなし。最高齢は101歳の妻。

 先の大戦では軍人・軍属約230万人と、一般市民約80万人が犠牲となった。


戦死した夫の写真を手に会場に入る池端志津江さん(15日午前)
 ◆最高齢101歳、初の参列◆

 参列者で最高齢となるのは101歳の池端志津江さん(さいたま市見沼区)。過去の追悼式でも最高齢となる。夫・正雄さんは1944年8月に臨時召集され、輸送船で南方戦線に向かう途中の同12月、台湾・フィリピン間の海峡で潜水艦の雷撃を受けて戦死した。

 2人は当時では珍しい恋愛結婚だった。夫は自分が勤めた染め物工場で妻が働けるよう取り計らい、南方へ旅立った。「子供を頼む」。そう言い残した夫の戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年だった。

 子供は男ばかり3人。生活は苦しかったが、埼玉県内の染め物工場で55歳まで働き、3人を育て上げた。その間も夫と過ごした家を離れようとはしなかった。息子たちが次々に巣立った後も住み続けた。「母はいつか父が帰ってくる。そう信じて生きてきたのだろう」。三男の正之さん(69)はそう思ってきた。しかし95歳の時、硬膜下出血で倒れる。退院した後は愛着のあった家を離れ、長男宅で暮らしている。

 「戦争のことは忘れた」。息子たちにかたくなに言い続けた。何も語ろうとしない。大戦を扱ったテレビ番組も見ない。追悼式の案内が来ても関心を示さなかった。昨夏、新聞で追悼式の記事を読んだ後、「私も出たいわ」とつぶやいた。同じ戦没者の妻たちが高齢を押して参列していることを知り、気持ちが変わった。

 それから1年後のこの日、車いすに乗った志津江さんは正雄さんの遺影を胸に抱え、武道館に入った。「お国のためでしたけど、大変な目に遭った。残念です」と思いを語った。追悼式に初めて参列することは、「あの世にいるお父さんも喜んでいると思います。お父さんのおかげで私は長生きできた。みんなが平和に健康に暮らせることを願っています」と話した。

(2009年8月15日 読売新聞)

東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記


終戦の日(Wikipedia)

第二次世界大戦が終わった日であるが、「終戦の日」の定義は以下の4通りに分けられる。

1945年(昭和20年)8月15日:日本軍の戦争当事者である昭和天皇が、戦争の終結を国民に告げた日。
1945年(昭和20年)9月2日:ポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した日。
1952年(昭和27年)4月28日:日本本土において、第二次世界大戦後の米軍占領が終わった日。
1972年(昭和47年)5月15日:沖縄において、第二次世界大戦後の米軍占領が終わった日。

日本本土が米軍占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上では、ポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。連合国の一員であったアメリカ合衆国では、9月2日を対日勝戦記念日として「V-Jデー」と呼んでいる。
現在、日本では、昭和天皇が国民に終戦を告げる玉音放送が行なわれた8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とし、一般には終戦記念日や終戦の日と称し、政府主催の全国戦没者追悼式や、政治団体、NPO等による平和集会が開かれる。
4月28日については、サンフランシスコ講和条約が発効して米軍占領が終わった日であることから、主権回復の日とも呼ばれている。ただし、沖縄では、この日以降も1972年(昭和47年)5月14日まで、米軍による占領が更に20年も続いたことから、4月28日を「屈辱の日」と呼ぶ人々もいる[1]。
歴史 [編集]

1945年(昭和20年)7月26日、連合軍はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6日広島市への原子爆弾投下、8月8日ソ連対日宣戦布告、8月9日長崎市への原子爆弾投下と重大な事態が続いた。8月10日、日本政府は中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国に確かめた。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の裁断によりポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言受諾の正式な通告(実質的な降伏)がなされた。
1945年(昭和20年)8月15日正午(グリニッジ標準時午前3時)から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」(終戦の詔書などともいう)を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され(いわゆる玉音放送)、国民及び陸海軍にポツダム宣言の受諾と軍の降伏の決定が伝えられた。当日は朝から「賢き辺り(=天皇)にあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされた。天皇の肉声が初めてラジオで放送されことと共に、戦争終結を発表されたと、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべきできごとであり、大きな衝撃を与えた[2]。この日をもって、アメリカ・イギリスとの戦闘は事実上終了した。

1945年(昭和20年)8月16日、日本軍部隊への正式な停戦命令が行われた。

ポツダム宣言受諾の後も、大陸や北方戦線では、ソ連・中国との戦闘が暫く続いた。ソ連軍は北方四島に上陸作戦を展開し、それを阻止する為の戦闘が、中央の命令により現地陸軍守備隊によって行われた。また、戦闘停止命令の届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。さらに、外地の一般市民が難民と化し多くの犠牲者をだした。また、沖縄の久米島では、日本軍による住民の殺害(久米島守備隊住民虐殺事件)もあった。これらの戦闘は、8月下旬になると、おおむね終焉した。
1945年(昭和20年)9月2日、政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が、連合国に対してポツダム宣言受諾の降伏文書に正式に調印した。国際法上の戦争終結は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が発効した1952年(昭和27年)4月28日をもって正式の日付とされる [3]。

法律

8月15日は玉音放送の放送日にすぎなかったが、引揚者給付金等支給法(昭和32年法律第109号)は8月15日を終戦の基準とし、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和42年法律第114号)は8月15日を「終戦日」と呼んでいる。1963年(昭和38年)5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。1982年(昭和57年)4月13日、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われている。
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」について(昭和57年4月13日閣議決定)
趣旨 先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を設ける。
期日 毎年8月15日とする。
行事 政府は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に、昭和38年以降毎年実施している全国戦没者追悼式を別紙のとおり引き続き実施する。
別紙 全国戦没者追悼式の実施について
全国戦没者追悼式は、天皇皇后両陛下の御臨席を仰いで、毎年8月15日、日本武道館において実施する。
本式典における戦没者の範囲及び式典の形式は、昭和56年の式典と同様とする。
本式典には、全国から遺族代表を国費により参列させる。
式典当日は、官衙等国立の施設には半旗を掲げることとし、地方公共団体等に対しても同様の措置をとるよう勧奨するとともに、本式典中の一定時刻において、全国民が一斉に黙とうするよう勧奨する。(全国高等学校野球選手権大会の会場でも、正午の時報直前にプレーを中断し、選手・観客らが1分間の黙祷を捧げる)
地上戦が行われた沖縄では、6月23日に組織的な日本軍の抵抗が終結した。このため、現在、沖縄県では6月23日を慰霊の日として休日としている。アメリカ軍による正式な沖縄戦の終結宣言は7月2日であるが、沖縄征服は6月30日と記録している。しかし、その後も日本軍による抵抗は続いた。9月7日、南西諸島守備軍代表は、嘉手納の米軍第10軍司令部で降伏調印し、沖縄戦は公式に終結した。このため、沖縄県の公式慰霊施設である平和の礎では、沖縄戦終結の日を9月7日としている。

学校教科書における終戦の日 [編集]

小学生用社会科教科書や中学生社会科教科書(歴史的分野)の多くは、戦争終結を8月15日と記している。
しかし、高等学校日本史教科書の多くは、戦争終結を9月2日としている。8月14日はポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通知した日、8月15日は戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日と記されているものが多い。たとえば、高校日本史教科書の山川出版社の詳説日本史では、以下の記述となっている。『昭和天皇のいわゆる「聖断」によりポツダム宣言受諾が決定され、8月14日、政府はこれを連合国側に通告した。8月15日正午、天皇のラジオ放送で戦争終結が全国民に発表された。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府及び軍代表が降伏文書に署名して、4年にわたった太平洋戦争は終了した。』

太平洋戦争の年表 (Wikipedia)

太平洋戦争の年表(たいへいようせんそうのねんぴょう)では、3年8ヶ月に及ぶ日本、満洲国、タイ王国とアメリカ合衆国、イギリス、オランダ、ソビエト連邦ら連合国の戦争の経過を示す。中華民国との間の戦争・事変は日中戦争を参照のこと。

1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の日本の中国平定を警戒する英米仏と日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結し、ヴィシーフランスとの合意のもと仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカは石油輸出全面禁止などの経済封鎖を以て之に答えた。その後数度にわたる日米交渉も難航し、アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノートを日本側に提出した。これを最後通牒と受けた日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃していた大日本帝国海軍連合艦隊に12月8日の戦闘行動開始命令が伝えられた。
1941年(昭和16年)12月8日 日本、英米に宣戦布告(太平洋戦争(大東亜戦争)開戦)
開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)が発せられる。
日本軍、英領マレー半島のコタバル、タイ南部のパタニとソンクラに上陸(マレー作戦の開始)。広東省から英領香港攻撃開始(香港の戦い)。
ワード号事件
真珠湾攻撃
中華民国国民政府、日独伊に宣戦布告。
米領フィリピン上空で航空戦(フィリピンの戦いの開始)。
12月10日 マレー沖海戦。グアムの戦い。日本軍、ルソン島北部(アパリ、ビガン)上陸。グアム、タラワ、マキン占領。
オランダ、日本に宣戦布告。
12月11日 日本軍、ウェーク島攻略失敗(ウェーク島の戦い)。
12月12日 日本軍、香港九龍市を制圧、英軍は香港島へ逃走。
12月15日 日本軍、ペナン島占領。
12月16日 日本軍、マレー半島アロールスター占領。
12月16日 日本軍、北ボルネオ(コタキナバル)に上陸。
12月16日 戦艦「大和」が竣工。
12月20日 日本軍、フィリピンミンダナオ島ダバオに上陸。
12月21日 日本政府、タイと攻守同盟を締結(日泰同盟)。
12月23日 日本軍、ウェーク島占領。
12月25日 日本軍、香港島を制圧、香港のイギリス軍降伏。
1942年(昭和17年)
1月2日 日本軍、ルソン島マニラを無血占領。
1月8日 連合軍、タイ攻撃開始。
1月11日 日本軍、マレー半島クアラルンプール占領。
日本、オランダに宣戦布告。
1月15日 日本軍、英領ビルマ(現ミャンマー)攻撃部隊がタイに集結。
1月23日 日本軍、ニューブリテン島ラバウル占領。
1月24日 バリクパパン沖海戦。
1月25日 タイ、英米に宣戦布告。日本軍、バリクパパン占領。
1月27日 エンドウ沖海戦。
1月31日 日本軍、タイからビルマ侵攻開始。マレー半島ジョホールバル占領。
2月 アメリカ人スティルウィルが中国国民党軍参謀となる。
2月1日 日本軍、シンガポールの石油施設を砲撃。米機動部隊、マーシャル諸島来襲。
2月4日 ジャワ沖海戦。
2月7日 日本軍、シンガポール北東のウビン島に牽制上陸。
2月8日 日本軍、シンガポール北西海岸より上陸(シンガポールの戦い)。
2月14日 日本軍、蘭領東インド(現インドネシア)スマトラ島パレンバンを落下傘部隊で占領。
2月15日 シンガポールの英豪軍が降伏。
2月20日 バリ島沖海戦。ニューギニア沖海戦。
2月24日 米機動部隊、ウェーク島来襲。日本軍伊17潜、カリフォルニア州サンタバーバラを攻撃。
2月26日・28日 スラバヤ沖海戦。
3月 フィリピン統一抗日人民軍(フク団)結成。
3月 米、中国に5億ドル借款成立。
3月1日 バタビヤ沖海戦。日本軍、蘭領東インドジャワ島スランに上陸。
3月4日 米機動部隊、南鳥島来襲。
3月5日 日本軍、ジャワ島バタビア(現ジャカルタ)を占領。
3月7日 東インドのオランダ軍降伏。
3月8日 日本軍、英委任統治領ニューギニア島ラエとサラモアに上陸、占領(東部ニューギニアの戦い)。ビルマ(現ミャンマー)ラングーン(現ヤンゴン)占領。
3月13日 アメリカ軍フィリピン司令官マッカーサー、フィリピンから逃亡。
4月5日 日本軍、セイロン(現スリランカ)コロンボの英軍基地を空襲。セイロン沖海戦(~9日)。
4月18日 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)。以後本土空襲の年表は空襲にて。
5月1日 日本軍、ビルマ中部マンダレー占領。
5月3日 日本軍、ソロモン諸島ツラギ占領(MO作戦始まる)。
5月4日 日本軍、英領ビルマのアキャプ占領、ビルマ制圧完了。南方作戦完遂。
5月7日 米領フィリピン・コレヒドール島の米軍降伏。珊瑚海海戦(~8日)。
5月10日 日本軍、ミンダナオ島を占領。
5月29日 日本軍の特殊潜航艇、マダガスカル島のディエゴスワレスのイギリス軍基地を攻撃(マダガスカルの戦い)。
5月31日 日本軍の特殊潜航艇、オーストラリアのシドニーのイギリス軍艦艇を攻撃。(特殊潜航艇によるシドニー港攻撃)
6月5日 ミッドウェー海戦(~7日)で日本軍敗北。
6月7日 日本軍、米アリューシャン列島キスカ島に上陸、占領。
6月8日 日本軍、アリューシャン列島アッツ島に上陸、占領。
6月16日 日本軍、ニューギニア島ポートモレスビーの連合軍基地を空襲。
6月20日 伊26潜、バンクーバーのカナダ軍基地を攻撃。
6月21日 伊25潜、オレゴン州アストリアの米軍基地を攻撃。
7月 日本軍、フィリピン全土占領。
8月 イギリス領インドで反英暴動。
8月7日 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸(ガダルカナル島の戦い、連合軍の本格的反攻始まる)。
8月8日 第一次ソロモン海戦
8月24日 第二次ソロモン海戦
9月9日 伊25潜より発進した艦載機がアメリカ本土のオレゴン州を空襲。
9月15日 伊19潜、米空母ワスプ撃沈。
9月29日 伊25潜より発進した艦載機、アメリカ本土のオレゴン州を再度空襲
10月 英米、中国における治外法権撤廃を声明、不平等条約を廃止。
10月 重慶で英米中ソ対日作戦会議。
10月11日 サボ島沖海戦
10月13日 ヘンダーソン基地艦砲射撃(ヘンダーソン飛行場艦砲射撃)
10月26日 南太平洋海戦。米軍の稼動空母が0隻になる。
11月12日 第三次ソロモン海戦
11月30日 ルンガ沖夜戦
12月8日 ニューギニア島バサプアの日本軍全滅。
1943年(昭和18年)
1月 レンネル島沖海戦
1月~3月 カサブランカで英米首脳会談。
2月 日本軍、オーストラリアのポートダーウィン爆撃。
2月1日 日本軍、ガダルカナル島撤退(ケ号作戦)(~7日)。
2月10日 日本軍、第一次アキャブ作戦開始(三一号作戦)(~3月下旬)。
3月2日 ビスマルク海海戦
3月26日 アッツ島沖海戦
4月1日 南樺太を内地に編入。
4月7日 い号作戦(~16日)
4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。
5月 日本、学徒戦時動員体制の発表(学徒出陣)。
5月12日 米軍、アッツ島上陸(5月29日、日本軍全滅し「玉砕」の語の使用始まる)。
7月6日 クラ湾夜戦
7月12日 コロンバンガラ島沖海戦
7月29日 日本軍キスカ島から撤退(キスカ島撤退作戦)。
8月 日本軍、バー・モウを首班としてビルマ独立を宣言。
8月 カナダ・ケベックで英米首脳会談。
8月6日 ベラ湾夜戦
9月 イタリア、連合国に降伏。
9月10日 鳥取地震が発生。鳥取市が壊滅し1083名(1100名以上とも)が死亡。情報統制の中、国内外から支援。
9月17日 連合軍、ラエを占領。
9月30日 御前会議で絶対国防圏構想を決定。
10月 日本軍、フィリピン独立を許可。
10月6日 ベララベラ海戦
10月21日 東京・明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催(学徒出陣のはじまり)。
10月24日 スバス・チャンドラ・ボースがシンガポールで自由インド仮政府の成立を宣言。
10月26日 自由インド、英米に宣戦布告。
11月 東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。
11月1日 ブーゲンビル島沖海戦
11月21日 米軍、マキン島・タラワ島上陸(11月23日 日本軍玉砕)。
11月22日~26日 エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)。
11月24日 セント・ジョージ岬沖海戦
11月28日~12月1日 イラン・テヘランで英米ソ首脳会談(テヘラン会談)。
12月5日 マーシャル諸島沖航空戦
1944年(昭和19年)
1月 イラン、英ソと軍事同盟を結び対日断交。
2月3日 日本軍、第二次アキャブ作戦開始。
2月6日 クェゼリン島の日本軍玉砕。
2月17日 トラック島空襲
2月22日 エニウェトク環礁(ブラウン環礁)の日本軍玉砕。
2月26日 日本軍、第二次アキャブ作戦を中止。
3月8日 日本軍、インパール作戦開始。
3月31日 古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職(海軍乙事件)。
4月17日 大陸打通作戦(~12月10日)
5月25日 日本軍、洛陽占領。
6月15日 米軍、サイパン上陸(サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住日本人1万人死亡)。
6月16日 米軍、中国大陸から北九州へ初空襲。
6月19日 マリアナ沖海戦
7月4日 日本軍、インパール作戦を中止。
7月18日 東條英機内閣総辞職。
7月22日 小磯国昭内閣成立。
8月2日 テニアン島の日本軍玉砕。(テニアンの戦い)
8月11日 グアム島の日本軍玉砕。(グアムの戦い)
9月11日 米軍、ペリリュー島上陸。(ペリリューの戦い)
10月10日 米軍、沖縄、台湾を空襲(十・十空襲)。
10月12日 台湾沖航空戦
10月20日 米軍、フィリピン・レイテ島に上陸(レイテ島の戦い)。
10月23日 レイテ沖海戦
10月24日 戦艦武蔵沈没(シブヤン海)。
10月25日 神風特別攻撃隊、レイテで初出撃。東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記

11月10日 汪兆銘、名古屋で病死。
11月10日 日本軍、桂林、柳州占領。
11月24日 米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。
12月7日 東南海地震が発生し、家屋倒壊と津波で1223名が死亡。
情報統制によってほとんど報道されない。
12月10日 日本軍、大陸打通作戦を完了。
12月26日 礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)
1945年(昭和20年)
1月6日 ルソン島の戦い(~8月15日)
1月13日 三河地震が発生し、家屋倒壊と津波で2306名が死亡。情報統制によってほとんど報道されない。
1月24日 イギリス海軍、スマトラの製油施設を空襲(メリディアン作戦)。
2月 クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談)。
2月10日 北号作戦
2月18日 硫黄島の戦い(~3月22日)東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記

3月 イラン・トルコが対日宣戦布告。トルコでは市民が宣戦布告に反対してデモ。
3月3日 米軍、マニラ占領。
3月10日 東京大空襲
3月12日 名古屋大空襲
3月14日 大阪大空襲
3月16日 神戸空襲
3月25日 名古屋大空襲
4月1日 沖縄戦(~6月23日)
4月5日 ソ連、日本に対して翌年期限切れとなる日ソ中立条約を延長しないと通達。小磯国昭内閣総辞職
4月6日 菊水作戦発令
4月7日 戦艦大和沈没 鈴木貫太郎内閣成立。
4月12日 アメリカ大統領のルーズベルト大統領急逝、後継に副大統領ハリー・S・トルーマン。
4月30日 ドイツ総統ヒトラー自殺。
5月2日 ベルリン防衛軍司令官降伏(ベルリン陥落)。
5月7日 ドイツ大統領カール・デーニッツ無条件降伏を受諾、ナチス・ドイツ滅亡。
5月8日 ドイツ陸海空軍代表がベルリン郊外カールスホルストで降伏文書に調印。
5月16日 ペナン沖海戦
5月17日から6月2日 九州大学生体解剖事件
5月29日 横浜大空襲
6月5日 神戸空襲
6月9日 熱田空襲
6月26日 国際連合発足(加盟50カ国)。
7月5日 第1次横手空襲
7月10日 仙台大空襲
7月14日 函館空襲(~7月15日)
7月14日 北海道空襲
7月14日 釜石艦砲射撃
7月15日 室蘭艦砲射撃
7月15日 小樽空襲
7月16日 アメリカが原子爆弾の実験に成功し、マンハッタン計画完成。
7月26日 ドイツのポツダムで英米ソ首脳会談、ポツダム宣言発表、日本これを黙殺。
7月28日 米海軍、呉軍港爆撃(呉軍港空襲)
8月6日 米軍、広島に史上初の原子爆弾投下。
8月8日 日ソ中立条約を破棄し、ソ連対日宣戦布告、満州国と朝鮮半島に侵攻。(ソ連対日参戦)
8月8日 福山大空襲
8月9日 釜石艦砲射撃
8月9日 米軍、長崎に原爆投下。御前会議でポツダム宣言の受諾を決定。
8月9日 大湊湾(大湊町)で海戦(大湊空襲)。事実上最後の海戦となる。
8月10日 第2次横手空襲
8月10日 日本、連合国にポツダム宣言受諾を打電により通告。
8月14日 終戦の詔が出される。中立国にポツダム宣言受諾を通告。中ソ友好同盟条約締結。深夜~15日未明土崎大空襲。
8月15日 日本国民へ玉音放送(終戦の詔)。
支那派遣軍と南方軍これに抗議し戦闘続行。鈴木貫太郎内閣総辞職。
8月16日 ソ連軍、南樺太に侵攻開始(28日占領)。大本営、停戦命令を出す。
8月17日 東久邇宮稔彦王内閣成立。天皇、停戦の勅旨。連合国の許可を得て皇族をサイゴン・シンガポール・南京・北京・新京に派遣し、勅旨を伝える。
8月18日 インドのチャンドラ・ボース、台湾で飛行機事故死。
8月18日 ソ連軍、千島列島の占守島に侵攻。
8月19日 フィリピン・ルソン島の日本軍部隊、停戦命令を受領。関東軍とソ連極東軍が停戦交渉開始。
8月20日 樺太で真岡郵便電信局事件が起こる。
8月21日 占守島の日ソ両軍、停戦する。
8月22日 小笠原丸撃沈。
8月25日 ソ連軍、千島列島の松輪島を占領。
8月26日 満州での戦闘が終わる。
8月28日 ソ連軍、千島列島の択捉島を占領。
8月29日 ソ連軍、千島列島のウルップ島を占領。
8月29日 米軍第一陣150名が横浜に上陸。
8月30日 連合軍最高司令官マッカーサー、厚木飛行場に到着。
9月1日 ソ連軍、千島列島の国後島・歯舞群島を占領。
9月2日 降伏文書調印、太平洋戦争(大東亜戦争)終結。
9月3日 ソ連・中国にとっての対日勝利の日。ルソン島の日本軍降伏。
9月5日 ソ連軍、千島列島の色丹島を占領。ソ連軍が北方四島の占領を完了。関東軍首脳部がハバロフスクへ移動、後に57万人がシベリア抑留となる。
9月中旬 中国大陸の中国派遣軍降伏。 9月9日、中国派遣軍を代表する岡村寧次が以下の内容の降伏文書に南京で署名した。image
10月15日 本土の日本軍、武装解除完了。

東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記



 今日は、終戦記念日ですね。64年前・・

 日本人の戦死者だけでも、310万人・・・

 とてつもない方達が、戦没しています。

 お亡くなりになられたか方々に、

 哀悼を捧げます。



東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記


第2次世界大戦における軍人の戦死者数と民間人の犠牲者数については、諸説があるが、ここでは、タイムズアトラス「第二次世界大戦歴史地図」のデータを元にグラフ化した(日本は厚生労働省資料)。

 戦死者数については、ソ連の1450万人が図抜けて多く、ドイツの280万人、日本の230万人がこれに次いで多くなっている。中国が130万人、そして中東欧のオーストリア、ポーランド、ルーマニアも、それぞれ40~85万人と多い。

 英国、フランス、イタリア、米国は、20万人台であるが、米国が29万人とそのなかでは最も多い。

 民間人の死者数では、中国、ソ連、ポーランドで600~1000万人と犠牲者が多く、ドイツが230万人で続いている。日本80万人の他、オランダ、チェコスロバキア、ルーマニアなども、英国、フランス、イタリアを上回る民間人犠牲者を出している。

 日本、ドイツ、オーストリア、チェコなどで、「もし戦争が起こったら国のために戦うか」という問いに対して、「はい」と答える者が相対的に少ない背景には、これらの国の戦争犠牲者の多さが反映していると考えられる(図録5223参照)。

 なお、アジア太平洋戦争におけるアジアの犠牲者数、及び日本の戦没者の地域別のデータについては、図録5225に掲げた。


東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記