毒なきは丈夫にあらず(無毒不丈夫) 魯迅
二見伸明氏(誇り高き自由人、元衆院議員)
中国の文豪・魯迅は「私は自己の狭量はよく承知している。(権力に阿る学者、文化人など)その連中が私が書いたものによって嘔吐を催せば、私は愉快である」と書き残した。この「毒」とは、権力を恐れず、肺腑をえぐる、本質を鋭く衝いた批判、反逆心であろう。いわば、政治家、文人、ジャーナリストの原点である。
8月12日の民主・自民両党党首の直接討論は、半分気の抜けたビールみたいなものだった。国を統治する能力のないことが明々白々の麻生総理が、冒頭発言で、起死回生のため、死力を振り絞って、大上段から振りおろした第一撃は「民主党との一番の違いは責任力だ」であった。攻めるべき鳩山代表としては、予想されたこの一撃を「民主党こそ責任力があり、麻生自民党は無責任力」と、切って捨てるもよし、麻生がたじたじとする一撃を浴びせた上で、自公政権の失政を追及し、持論を展開すべきであった。ところが、鳩山は「いろいろといいことも言っているのに、なぜ政権をとっていながら、そのことを果たしてこなかったのかが、一番の気がかりになるところだ」と応じてしまった。本来であれば一撃で麻生を倒すド迫力が必要なのに、世論調査で優位にたっている気の緩みからか、血みどろの権力闘争に、一歩身を退く性格のゆえか、勝者が敗軍の将に語りかける憐れみの言葉だった。
今回の総選挙は、自民、公明が言うような単純な政策選択の選挙ではない。百数十年続いてきた「官僚主権=中央集権国家」を「真の国民主権=地方主権国家」に変革する無血・市民革命的選挙である。しかし、この党首討論を主宰した21世紀臨調や取材したマスコミには、そうした時代認識は希薄だった。いな、単なる政権交代ならともかく、「国のかたち」を変える政権交代に、本音では反対なのではないだろうかとさえ思えた。マニフェストの数字中心の政策論争であるならば、党首ではなく、幹事長、政調会長で十分である。
私は1979年5月、英国の下院選挙――サッチャー保守党党首が労働党政権を

破った歴史的な選挙――を視察した。保守党を支援する大会では「ドイツの移民労働者が、『イギリスはずっと不景気だ。働いても、年金はもらえない』と、わが国に愛想をつかして帰国した」など具体例をあげて労働党政府を痛烈に攻撃した。最後に、サッチャーが「かつては七つの海に君臨した大英帝国を日の沈む国にしたのは労働党だ。私は誇れる国に造り直す」と訴え、その気宇の壮大さ、迫力に、圧倒されてしまったことを鮮明に覚えている。
1月21日未明、オバマ大統領の就任演説を聴き、私の脊髄に電流が走った。

▼政府が大きすぎるか小さすぎるか、ではなく、それが機能するかどうかだ。まっとうな賃金の仕事や、支払い可能な医療・福祉、尊厳をもった隠退生活を各家庭が見つけられるよう政府が支援するのかどうかだ。
▼私たち公金をあつかう者は、賢明に支出し、悪弊を改め、外から見える形で仕事をするという、説明責任を求められる。それによってようやく、政府と国民との不可欠な信頼関係を再建することができる。
▼我々は信じる。古い憎悪はいつか過ぎ去ることを。種族的な境界は間もなく消え去ることを。世界がより小さくなるにつれて、共通の人間性が姿を現すことを。
(以上の引用は「朝日新聞」の訳文)
4月5日、オバマ大統領はプラハで「核兵器廃絶」の歴史的演説をした。
「多くの人々は、この最終破壊兵器を所有する世界で生きていくことを運命づけられている、という。この運命論は不倶戴天の敵である。核兵器の拡散が不可避的だ、と我々が信じ込んでしまえば、次には、我々が自身で核兵器の使用は不可避的だと信じることになる。21世紀では、いかなる場所においても「核の恐怖」から解き放たれて生きる権利を共に闘い取らなければならない。核兵器を使用した唯一の核大国として、アメリカ合衆国には行動する道義的責任がある。この目標(核兵器のない世界)への到達は容易ではない。私が生きている間ではないだろう。それは忍耐と継続が伴う。しかし、いまやわれわれもまた、世界は変えられないと我々に告げる声を無視しなければならない」
オバマ大統領の発言に対する日本政府・与党の反応は、あろうことか「日本はアメリカの核の傘で守ってもらえるのか」だった。麻生総理にいたっては、アメリカが核を先制使用することを期待しているのである。心根はさもしく、下司、下劣である。
自民・公明とマスコミが執拗に「財源」にこだわるのは「霞ヶ関」の入れ知恵である。民主党のマニフェストは財源の裏づけのないバラマキだから日本を駄目にしてしまうという訳である。陰謀のようにしつらえられたマニフェストにかかわる数字ゴッコに眩惑されてはならない。政権交代し、補助金制度が廃止され、地方自治体に自由に使える交付金として移譲されることで最も打撃を受けるのは「霞ヶ関」である。地方をコントロールする術を失うことになるからだ。「霞ヶ関支配」の崩壊である。欧米では当たり前の農業者への「戸別所得保障」は、県、市、農協などを通じることなく、直接農家に支払われるので、農水省が農協などを通して農民を支配する構図が消滅する。それよりも「霞ヶ関」が恐れているのは、民主党政権が省庁に関係なく政策の優先順位にしたがって予算を付ける予算の全面組み替えである。「子供手当て」「農家の戸別所得保障」など重要公約の財源については全く心配ない。そのかわり、優先度の低いもの、無駄と認定されたものは、予算が大幅に削減されたり、凍結されたりするだろう。「霞ヶ関」が予算配分を通して関係業界に影響力を行使してきた官民癒着はズタズタにされる。年末に、業界、団体が大挙して各省庁をまわる予算陳情という世界に例を見ない珍妙な定例行事はなくなる。亀井静香が建設大臣のとき、「陳情」などという用語を使うのはやめようと言ったことがある。10年も前のことであった。そしてこの秋、国のかたちは一変する。
マニフェストは重要だが、「本当に出来るのか」という庶民の不信を払拭するのは党首力である。鳩山由紀夫の祖父・一郎に「傲骨虚心」という扁額がある。「傲骨」とは「意志が強く、容易に自分の主義主張をまげないの意で、気骨のある男を傲(硬)骨漢」をいう。彼は戦前・戦中、軍部・極右政権の弾圧に屈せず、戦後、アメリカの庇護の下にあった日本の総理大臣でありながら、アメリカの不倶戴天の敵、社会主義陣営の盟主・ソ連と国交回復をやってのけた自由主義者である。鳩山一郎の理念「友愛」はフランス革命の「自由、平等、博愛」の「博愛」に由来するという。この「博愛」は人民の血によってあがなわれたものだ。一郎の「友愛」には軍部、極右と闘った凄みと優しさがある。三代目・由紀夫の「友愛」は、いったいなにを意味するのか、不透明である。
今日は8月15日。私は戦争の悲惨さを、肌で体験した最後の世代である。日本が世界の安定と平和のためになにができるのか、真剣に考える日である。インド洋で、「無料のガソリンスタンド」を提供してアメリカに喜ばれるのが、世界の安全に寄与することだと思い込むのでなく、アフガンの民衆の生活を立て直し、守る、大掛かりな対策を講じることによって、テロを撲滅する方策を追求すべきだと思う。
外交・安全保障政策には継続性が大事だと、麻生総理は言う。これは、半分は正しく、半分は間違っている。日米安保体制の根幹維持は政権が交代しても継続すべきである。しかし、日米地位協定の改定など具体的展開は、大胆に変えていい。小沢一郎が主張する「日米・日中正三角形外交」は外交政策の大転換である。国際情勢は大きく変わろうとしている。「核兵器廃絶」「北朝鮮の非核化」のための国家戦略を構築すべきだ。自公政権の骨の髄まで染みついているアメリカの政治的植民地的体質を継続することは「誇り高き日本人 二見伸明」としては我慢ならない。
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※見出しの「毒なきは丈夫にあらず(無毒不丈夫)は、若い頃に読んだ魯迅の文章にあったと記憶しているが、記憶の間違いということもある。本サイトをご覧の碩学のかたに、魯迅の表現かどうか、そうであれば魯迅のどの文章にでてくるかについてご教示をいただきたい。記憶の間違いであれば、誰の文言であるかについてご教示いただければ幸甚である。
【プロフィール】 二見伸明(ふたみ・のぶあき)

1935年2月10日生まれ。69年12月の衆院選に初当選し、以後8期23年。小沢一郎、羽田孜、石井一、森喜朗と同期。公明党政策審議委員長、副委員長、運輸大臣を経て、94年、新進党。97年暮の新進党解体により、小沢の自由党結党に参加。総務委員長、国対委員長。2000年春、自由党分裂に際し、小沢と行動を共にする。小沢対羽田の一騎打ちの新進党党首選では「四海波穏やかなときは羽田がベストだが、激動期は小沢の豪腕がベスト」と表明し、小沢の推薦人になる。
http://www.the-journal.jp/
魯迅(Wikipedia)
(1936年)
誕生 周樹人
1881年9月25日
浙江省紹興市
死没 1936年10月19日(満55歳没)
職業 小説家
国籍 中華民国
活動期間 1918年 - 1936年
主題 小説
代表作 『阿Q正伝』
『狂人日記』
親族 周作人(弟)
表・話・編・歴
魯迅
各種表記
簡体字 鲁迅
繁体字 魯迅
ピン音 Lǔ Xùn
和名表記 ろ じん
発音転記 ルー シュン
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魯迅(ろじん)は中国の小説家、翻訳家、思想家。本名は周樹人(ピンイン:Zhōu Shùrén)で、字は豫才。ペンネームの魯は母親の姓だという。浙江省紹興市出身。4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。
特に『狂人日記』は、文語主体の旧来の中国文学を口語主体とする点で画期的だった他、被害妄想に駆られている狂人の心理を実にリアルに描写する点においても、わずか15頁の短編作ではあるが近代中国文学の最高傑作ともいわれ、日本のみならず欧米諸国の中国文化研究者間では高く評価されているようである。なお、魯迅自身が若い頃日本の仙台医専(現在の東北大学医学部)に留学した経験もあるが、彼の親戚に、本物の被害妄想患者が存在し、彼を見聞したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。
牛込の日本語学校弘文学院にて松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』『藤野先生』)。
当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され[1]、周は無試験で入学している。このため学力不足の留学生は途中で挫折している。特に医学のような学問修得に特別の忍耐と努力を必要とする分野では、卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技[2]であった。当時周には多額の奨学金[3]が支給されており、授業についていけず[4]町で遊興[5]に耽ることもあり、やがて学問に対する興味も薄れていったと考えられる。ニュース映画の場面は多感な年代の彼に大きな影響を与えたことは否定できないが、医学に挫折する自分に対する心理的な合理化(言い訳)としての側面も否定出来ないであろう。
1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を始めるが、文筆は滞っていた。 そこに友人の金心異に小説を書くよう勧められて、魯迅は次のように答えている。
「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」
これは当時の故国の社会を絶対に壊せない鉄部屋に、人々をそこで熟睡したまま窒息して逝こうとしている人々に例え、かなわぬ望みを抱かせる小説など、書かない方がよいのではないか、と言っているのである。 それに対する金心異の答は、
「そうして幾人は已に起き上った。君が著手(ちゃくしゅ)しなければ、この鉄部屋の希望を壊したといわれても仕方がない」
つまり、起きた者が数人でもあるのなら、その鉄部屋を壊す希望が絶対無いとは言い切れないのではないか、という反論であった。魯迅はこうして最初の小説『狂人日記』を書いた、と『吶喊』自序で述べている。
帰国後は、杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。
また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業をすすめていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。
仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。藤野との関係は、小説『藤野先生』にも書かれている。
魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている[6]。中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」が観光地となっており、1998年11月29日には江沢民・中華人民共和国主席も訪問している。訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をしている。その他、同キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)がある。また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くに残されている。
2004年、東北大学は、魯迅の留学100周年を記念して、同大に縁りのある中国要人に『東北大学魯迅賞』、同大大学院に在籍する優秀な中国からの留学生に『東北大学魯迅記念奨励賞』を贈った[7][8]。ただし、諸事情により、翌年から各々『東北大学藤野先生賞』と『東北大学藤野記念奨励賞』に名称変更された。
魯迅の文明観 [編集]
魯迅の欧米崇拝と、(彼の頭の中にあった)中国の伝統へのさげすみは、言語にとどまらず、文明一般にわたっている。
魯迅には、孫文や蒋介石、毛沢東らの革命家達や、梁漱溟のような思想家達がそうであったように、過去の中国で展開された思想、とりわけ中心となった儒教に対し、封建遺制だけでなく、優れた、普遍的な理想も含まれていることを認め、それを新生中国に生かしていこうという姿勢はなかった。彼は中国の過去の思想と、それによって支えられた社会すべてを『封建的』『非科学的』という名の下に、何の価値もないものとして否定した。彼の文学作品に描かれる伝統中国は、腐敗し、何の価値もない因習に縛られたものである。対して彼は、『西洋近代』を崇拝し、西洋近代を、中国の目指すべき理想の世界を現すものとして思い描いていた。
作品リスト [編集]
熱風
華蓋集
華蓋集続編
墳
而已集
三閑集
二心集
偽自由書
南腔北調集
准風月談
花辺文学
且介亭雑文
且介亭雑文二集
且介亭雑文末編
集外集
集外集拾遺
集外集拾遺補編
故郷
小説集
吶喊 - 『狂人日記』や『孔乙己』、『故郷』、『阿Q正伝』といった著名な作品を収める。
彷徨
故事新編
朝花夕拾
野草
その他
両地書
中国小説史略
毒なきは丈夫にあらず(無毒不丈夫) 魯迅、いいことばです。
