戦時中は「人生二十年時代」。そう書いたのは、作家の森村誠一さん。認知症になられてから書いた「老いの正体」(KADOKAWA)にある。
昭和20年8月15日午前0時23分。終戦の日の深夜、熊谷市は日本最後の空襲を受けた。焼夷弾で家の周りは真昼のような明るさ。自宅近くの星川に向かうと避難民でビッシリ。森村さんの父親は、群れは逆に危険だと猛火に包まれている町なかを家族で突っ切り市外に逃げた。翌日、自宅に戻る途中、星川は死屍累々。川底も見えなかった。父親の判断で12歳の森村さんは生き残った。
閑話休題。先日、妻の運転する車で鹿児島県南さつま市に旅した。この地は、かって加世田市だった。一度、祖父の生誕地をみておきたかった。
人口3万1千人。今、私の住む日南市(人口4万7千人)とそう変わらない静かな町だった。車で10分少しの地に「万世特攻平和祈念館」があった。特攻機が飛び立つ基地も知覧飛行場だけでは足りないと昭和19年末に突貫工事で造られた。翌年の7月に、沖縄方面に全部隊が出撃201名が戦死した。有名な知覧もこの後に訪ねたが、ここからは1036人が神風特別攻撃隊として沖縄の海に散った。あまり、知覧ほど知名度がないため「幻の特攻基地」と呼ばれる万世特攻基地。零式水上偵察機(1423機作られた)の残骸が入館すると目の前に展示してある。201名の少年兵の顔写真と遺書。ほとんど肉親への別れの手紙。すれ違う女性も男性も目を赤くして鼻をすする音が充満していた。妻も「かわいそうだね」と泣いていた。知覧には、20代半ばの妻帯者の手紙に、お母さんを大切にしてしっかりと生きなさい!と、幼な子の名前が書いてあった。
戦争は老人がはじめて若者が死ぬこと。そう言ったのは大橋巨泉さんだった。命令する者は安全地帯にいて、未来のある若者たちを平気で戦場へ送る。
今もし、高市総理が命令したら若き自衛隊員が戦地へ送られて戦死するわけだ。万世も知覧も、ほとんどが17~20歳の少年兵士ばかり。私は悲しさより、怒りが込み上げてきた。森村さんも書いている。
「自分の未来図を思い描いていた若者たちが、ある日突然、赤紙と呼ばれる招集令状によって戦場に引きずり出されるとそのまま帰ってくることができなかった」
知覧の特攻平和会館となりに三角兵舎跡がある。空襲を避けるために、飛行場から少し離れた松林の中に半地下のバラック建てがある。10人が5人ずつ向かい合う木片のベッドに寝て出撃を待つ。ここで、遺書を腹ばいになりながら書いた。明日の朝早く出撃することは、死の旅に向かうこと。眠ることなどできなかったに違いない。何と残酷な兵舎だろうか。
今も、笑顔の無邪気な少年兵士たちの顔が頭から離れない!