サンデー毎日の高齢者にあるのは、お金ではなく自由な時間だ。ただ、人にはいつ何が起こるか分からないことは理解しているから、限りある命の時間だけは無駄にしない!と常に肝に銘じている。

 朝日新聞編集委員の近藤康太郎さんの「百冊で耕す」なる本を図書館で借りて読んだ。自分の本棚に、国内外の名著を百冊。近藤さんの百冊と重なるのはほとんどない。まあ、古典的な名作はほとんど読んでないから仕方ない。長く、仕事のための読書ばかりしてきたから、芥川龍之介、夏目漱石、森鴎外も一冊くらいしか読んでない。この本で一番共感したのは「勉強は終わりがない」こと。つまり、本を読むことが勉強のひとつだとすれば、読書だけは自信を持って続けられる。

「本を読むことは、孤独に耐えられるということ。本読みは、人を愛せる。本があれば何とか生きられる人は必ずしも愛されることを必要としない。ただ、人を愛することができる」と近藤さん。そして「人を愛する人こそ、自分を幸せにする人。自分を愛するのが幸せではない。なぜ本を読むか?幸せになるためだ。幸せな人とは本を読む人のこと」と言う。なるほど…。

 太宰治も、読書とは「むごいエゴイストにならないため」だと言っている。確かに、インプットがあってアウトプットができる。仕事ではなく、楽しむための読書になってから、スーッと頭に入りやすくなった気がする。電子新聞と図書館での各紙閲覧だから、常にメモしながらの読書となる。自分の本ならドッグイヤーといって、本の上端、下端を三角に折ることもする。赤線も引く。だが、借り物の読書だと、ノートに書き写すしかない。この手間が勉強だと私は思う。

 評論家の内田樹さんも、無知とは知識の欠如ではなく、ジャンクな情報で頭がギッシリと詰まっていて新しい情報の入力ができない状態のこと。勉強による学びとは、入力がある度にそれを容れる器そのものの形状や容積が変化してゆくことだと…。納得だ。

 近藤さんは「本の世界から外界に出る。世間に戻る。それは「書く」という行為だとも。ネットだろうがインプットしたものを発表することなんですね。

 高齢者にとって、読書という勉強を焦らず騒がずにできるって、こんな安上がりで贅沢なものはない!それこそが勉強なのだと思う。