「人質の法廷」(里見蘭/小学館)は、599ページあり、本の厚みも4センチある。幼少からイジメられ、大人ではなく、女子中学・高校生に興味を抱く母子家庭育ちの新聞販売員。16年前に、中学校の女子更衣室に入り逮捕されたが不起訴処分。それが、二人の女子中学生が乱暴され殺害されると、たまたまコンビニに前後して写っていたことと、前歴から44歳の販売員が逮捕される。

 二人目の被害者が、16年前に入りこんだ中学校のソフトボール部員だった。真犯人は、小説の半ば頃にガーデンデザイナーの男であることが犯行状況も具体的に書かれる。この小説は犯人探しではなく、いかにして警察、検察、そして裁判官までが一蓮托生として冤罪を作っていくのか?が描かれている。

「人質司法」(高野隆/角川新書)なる名著があるが、まさにこの小説ではここがポイントとなる。今の日本では、被疑者・被告人は異例なまでに厳重なる身体拘束をされる。捜査機関は今も自白こそ「証拠の王」と考えているから、何としても自白偏重のために、怪しい人物を逮捕して身柄を自分たちの管理下に置こうとする。これは、今の刑事ドラマでも必ず出てくる。取り調べの時間を警察は検察に求める。ほとんどの場合、検察は認めて勾留状という令状を発行する。自白さえ取れれば、裁判の手続きも便速に進む。まあ手間が省けるわけです。こうした、警察・検察・裁判所によるチームワークこそが「人質司法」である。

 最近、BSで24年前の「はぐれ刑事純情派」を見ていると、警察署内での取り調べシーンかろ必ず出てくる。まさに密室に二人の刑事と容疑者が椅子に座る。だが、今は、取り調べ中には、ドアを開けておくことになっているそうだ。ドアが閉まっているだけで、密室の中では恫喝や身体への軽い暴力があるかもしれない。そこでの供述調書作成には警察側の思うままの内容となるかもしれない。小説の中で若い弁護士が最後に陪審員に言う。

「冤罪は国家が犯す最悪の犯罪です。間違った逮捕や起訴は、この国に住むすべての人たちにいつまた降りかかってもおかしくない。皆さんはそこにブレーキをかけることのてろきる唯一のパワーを持った存在なんです」と…。

 作者は、法曹関係者ではなく、編集プロダクションを経て作家になった。参考文献のリストが出ているが、かなり取材しないとここまでリアルに書けない。久しぶりに一気に読んだ小説。面白い!

 

 私はNHKラジオ深夜便の愛聴者だ。午前3時からの作詞家、作曲家特集や故人の歌手の1時間は楽しい!時々、この深夜便のテキストも本屋で買うこともある。そこに「気になる日本語」の連載企画が面白い。

「一階「二階」「三階」をどう読みます?「いっかい、にかい、さんがい」ですか。所が、今の若い人たちは「三階」を「さんかい」と濁らず読むそうです。以前、東京マンション時代に、先にエレベーターに乗っていて走りこんできた年配者に「何階ですか?」と聞くと「さんがい」とたいてい答えた。一階から十階までのうち、濁るのは「三階」だけですが、これも今は少数派だ!と記事にありました。確かに「三本」も(さんぼん)も今は(さんほん)とか。同様に「三杯」も(さんはい)。記事を書いたNHK放送文化研究員の塩田さんによると「少数派(濁る)が多数派(濁らない)に引っ張られて均一化する例は多い!」と。呼び方が濁ろうが濁らずとも何も大きく生活に支障をきたすことはありません。ただ、これと関連して(いるとわたしは思うのですが)、最近の日本人のしゃべり方には異論があります。あの「?」の会話です。先日、夕方のニュースで小学生が多く参加した催し物会場からのレポートでのこと。女子アナがマイクを差し出し意見を求めると、小学3~4年の男女が2人こう答えた。

「多くの人が?楽しんで?よかった!」「初めて?野菜?土のまま触って?驚いた」私は、この小学生の頭を引っ叩きたくなりました。これ、親が普段から使っているから真似ているだけなんでしょう。今や、アナウンサーも当たり前のように使っていますが私をその都度、不愉快になります。

 スマホの交換にドコモに行った時も、20代の女性店員が、このクエスチョン会話オンリーで途中で席を立とうとしましたが、パートナーに止められました。私がこの会話に不愉快なのは、?しなくても何の不自然さがないのに、あえて使う人というのは、この話し方が今風だと思っているからです。私は、小さい頃、先生から上から目線で説教されているような圧力を感じるのです。たとえ、言い方は強くなくともその場を取り仕切っている雰囲気がありますよ。

 いい歳した高齢者がこのしゃべり方をすると、もうそれだけで「ああ、この人はおバカだなあ」と、聞く気にもなりません。本人は、たぶん、いま風だと思っているんですね。

 もう普通に話す(これ事態が少数派)時代はこないのでしょうか?音楽もそうですが、昭和歌謡はよかった!と言う私はここでも少数派です!

 

 70歳になり民生委員も2年目。いまの仕事は毎朝の旗振り(交通指導員でもある)と地域の福祉活動だ。残りの時間は読書とギターと歌の練習のみ。

 先日、宮崎日日新聞に「日南の民生委員加世田さん歌届ける」で三段記事になった。以下、その全文です。

「加世田さんは元週刊誌記者。約10年前に帰郷し、2022年12月から民生委員を務めるなど地域活動にちからを入れている。

 出前ライブのきっかけは民生委員が主催し油津赤レンガ館で開催したライブ。その際、高齢者から「行きたいけれど足が悪くて」との声を聞き、「ならば自分が出向けば」と思い立って活動をスタートさせた。

 加世田さんはボーカル兼ギター。レパートリーは約70曲て、そのほとんどが昭和歌謡。「誰もが知っていて、口ずさめる曲しかやらない」のがこだわりという。妻の悦子さんがキーボードで参加する時もある。

 6月中旬、近所の高齢者宅を訪れ「昴」「君といつまでも」「フェニックス・ハネムーン」など8曲を披露。郎らかで優しい歌声と郷愁誘うギターの音色で2人の観客を楽しませた。終了後はお茶を飲みながら談笑も。2人は「歌を聞いていたら、昔を思い出せて楽しかった。元気をもらえた」と笑顔を見せていた。加世田さんは「自分の趣味を生かせて、みんなに喜んでもらえるのはこの活動しかない。要望があれば、市外でもどこでも出向く」と話している」

 新聞掲載後、日南市外から2件。市内からは、夏祭り、敬老会への出演依頼が5件あった。なかには、尺八歴48年の男性から一度お手合わせできないか!との電話もあった。東京住まいの頃は、一人弾き語りでレパートリー30曲あった。デュオでのレパートリーは増え続けて、今は95曲になっている。これからは、レパートリーメニュー表を会場に回して、その中からリクエストしてもらい歌う形にして行きたい。私のモットーは、10人いたら10人が知っている曲しか演奏しない!こと。英語の歌はやめました。ただ、テネシーワルツ、ホテル・カリフォルニアは日本語訳にして歌っている。出前ライブがライフワークになりそうだ。

 

「日本は偉大なる愚民国家として繁栄してきたと思っている」

 これは2019年の4月4日朝日新聞で作家・真山仁さんが「視線」に書いた。つまり、国家のかじとりはおかみに任せて、ひたすら真面目に働き愚直に生きる。このような社会の成り立ちは、世界でも稀にみる一体感と成長を生んだという背景を指摘している。そして、あれから5年経過した今でも同じ社会状況下にある。自民党政権を支持し、当選したその国会議員たちは今まで何をしてきたか。闇献金稼ぎに精を出し国を滅茶苦茶にしてきた。そして、まだ同じ社会政治体制を維持しょうとしている。何も反省していない。首相の岸田はボンクラだが、また石破だ河野、小泉とか騒いでいる。

 真山さんが言う「政治家、官僚、メディアインテリ…ひと言でいえば偽政者と呼ばれる存在」こそが、この国を牽引してきた、その結果ということになる。いつも言われる、自民党もダメだが野党はもっとダメだから、取り敢えず自民党しかない!この判断が甘い汁しか生み出さない与党政権の驕りしか生み出さなかった。

「凡人のためのあっぱれな最期」を書いた樋口裕一さんが「日本人はものごとを曖昧にしてイエス、ノーをはっきり言わず空気を読んで周囲に合わせる。集団で固まる傾向が強く個人意識が弱い。不快であってもその場ではそれを口にしないで陰でこそこそ言うことが多い」

 何だかんだ言っても、今だにタテ社会で空気を読んで、しっかり意見を言わない私たち日本人が今日の日本を作ってきたのだ。自民党与党政権は、無党派層はとにかく黙っていて欲しい!選挙でも支持政党員だけで何とか乗り越えていける!と。我々はバカにされ無視されている。

 2019年からの日記ノートを再読していて、なーんも変わっていないこの日本にはため息しか出てこないで、嘆いている。変えないと!!

 

「歌う民生委員」60年近くギターを弾いている私は、自称も含め今はそう呼ばれている。結婚して10年間、全くギターを弾かない時期があった。40歳から、四十雀(四十から)なるバンドを結成したが一年で自然消滅。社会人だと仕事が優先してなかなか集まれない。以後、エレキギターからアコーステックギターに代わり弾き語りの道に!

 民生委員は、個別訪問する。けど、自宅の中ではなく、玄関先で!と就任時に言われた。個人情報がうるさくなり、靴下の上から肌をかくようなイライラ感が拭えない。民生委員仲間が、自分の担当地域の人たちを公民館に集めて憩いの時間を計画した。そこで、ライブをして欲しい!との依頼を受けて1時間演奏した。「歌う民生委員によるよみがえれ青春の歌」のポスターが作られて、大正時代に建築(2010年耐震工事しリニューアル)された日南市の産業遺産場所の油津赤レンガ館に35人が来てくれた。この地区では、年4回のコンサートが決定している。そんな時、近所のおばさん(私より10歳上)から、「外出できない(緑内障で失明)けど聴きたいなあ」と言われた。思ったのは、健康な私が、外出したくとも出来ない人の所へ出前演奏すればいい!そう決めた。

 宮日新聞も取材にきてくれた。私の持ち歌は70曲近くある。どの曲も10人いたら10人が知っている歌しか演奏しない。横文字の歌もなし!「ダイアナ」は漣健児さんの訳詞。イーグルスの「ホテルカリフォルニア」だって私自身が日本語に訳詞した。今回の自宅ライブの観客は、80歳と77歳。昭和35年~40年が青春時代。当然、坂本九(上を向いて歩こう)や橋幸夫(いつでも夢を)ペギー葉山(学生時代)加山雄三(君といつまでも)からスタートした。

 ご当地ソングの「女ひとり」(京都)と宮崎の「フェニックスハネムーン」初夏らしい「思い出の渚」(ワイルドワンズ)で一部終了。

二人とも、「全部知っていました!」との感想。こうした、外出できない人の自宅ライブはスタートしたばかり。私はどこへにも出かけて行くつもりだ。