ジャスパー・ジョーンズ / ホイットニー美術館展(3)
兵庫県立美術館でやっているこの展覧会は、今日が最終日ですね。
で、このホイットニー美術館展で、これはあれか、と思ったもの。
宮島達夫(wiki /web )を思い出して、それから図と地の反転(ルビンの壷や、ウサギ・アヒル図)を思った。
ジャスパー・ジョーンズの 0 through 9。(右は、見たのとは違うけれど同じシリーズの作品)
ジャスパー・ジョーンズ(JOHNS,Jasper 1930- wiki )
ロバート・ラウシェンバーグとともに「ネオ・ダダ」(wiki )に分類されるそうです。
反芸術のようなもの、らしい(てきとー)
彼の作品は、記号や数字を使うところが特徴です。たとえば、アメリカ国旗を描いたようなものや、アルファベット(これは直島のベネッセハウス にあります。確か観たはず…「ホワイトアルファベット」1968)や数字をならべたものなど。
こういうことを考えると、この数字を重ねた作品も、意図としては、記号を絵画として表現することによる、意味の消滅を狙っているのかな、と見受けられます。何かを写し取るのが絵画なら、それはこの時代の象徴としても読み取れます。数字を並べたところにどれだけの意味があるかというと、たとえばそれはデジタル時代の到来を示していてもいい。結局、どんな数字も0から9までを並べただけだというアイロニーにとることも出来ます。
しかし、このキャンバスに描かれ、塗られた0から9を眺めるとき、運動を感じるところがこの絵のみそかなあと思います。それは、固定された絵の中で、いろいろな数字が私によって「見られる」ことを示しています。それは、私自身の意識の働きによってです。私の見方―意識によって、浮かび上がる数字は変化します。その巧みなだまし絵のような作品に、目は奪われる。
コンテンポラリー・アーティストの宮島達男の一連の作品は、それぞれ違ったはやさで1-9までの数字が順に表示する、LEDのディジタルカウンターを並べたものだが、これもまた、数字という主題でこの作品に共通する。宮島の作品には0が登場しないが、そのかわりに、0が表示されるべき時間、カウンターは暗くなる。運動を運動そのままとして提示するディジタル・カウンターと、錯視のようなジャスパー・ジョーンズの絵画は、同じモチーフを扱いながら、また違った様相を呈するわけです。
さて、この作品、私は以前に見たような気がしていたのですが、どこでだったか、よく思い出せずにいました。
でもすごいタイミングで、他の用事で手に取った本に載っていて、笑ってしまいました。武満徹(1971)「音、沈黙と測りあえるほどに」(amazon )です。この本を手に取るのは二回目でしたが、一度目はざっと目を通しただけでした。でもなにか記憶に残っていたのでしょう。(また別のところでも出会っていたのかもしれませんが)
武満は、見ること、眼に関してジャスパー・ジョーンズの絵画から考えさせられたようである。断章的に書かれたこの言葉たちは、日本語で武満が書いた断章を、英訳してもらい、さらに、それを原文を知らない人(大岡信)に再度日本語に訳してもらうという作業を経て、本に掲載されるにいたっている。これはまた、ことばは誰のものか、ということ、記述と解釈という行為の往復によって、ジャスパー・ジョーンズの絵画によってなされる、目と作品と、私と作者のあいだの往復運動を追っているともいえよう。
「目は誰のものでもない。」
「Johnsの反絵画的なモチーフは、彼の絵画として描かれることによって通常の視線を拒んでいるが、そのために反って純粋な視線を保っているといえる。」
「ぼくにとってその絵画はJasper Johnsの視線を通してみたものであるのか、僕は彼の背でさえぎられたものを見ているのか、Jasper Johnsはぼくの眼を見ているのではないか――と思ったりする。」
このイリュージョン的な意味の重なり合いを示す絵画に武満が抱く感想は、やはりあの不思議な感覚の解釈である。その絵は「多忙な原理」をもつと彼は言う。
そして、「彼の絵画からは何ものもあらわれはしないだろうが、ぼくは見ることをやめようとは思わない。Disappear Johns」と言う。
私は、その意味の過剰(多忙)なゆえの運動を武満が示しているのを見つけ出したことを嬉しく思う。
**
ところで、今月の芸術新潮(web )は、武満徹(wiki )が巻頭特集でした。没後十年ということで、東京では展覧会が開かれている模様(web )。いきたーい!(けどいけない) 関西への巡回はないものか…
---
武満徹―Visions in time展
期間:2006.4.9[日]─ 6.18[日]
会場:東京オペラシティアートギャラリー
開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)
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で、このホイットニー美術館展で、これはあれか、と思ったもの。
宮島達夫(wiki /web )を思い出して、それから図と地の反転(ルビンの壷や、ウサギ・アヒル図)を思った。
ジャスパー・ジョーンズの 0 through 9。(右は、見たのとは違うけれど同じシリーズの作品)
ジャスパー・ジョーンズ(JOHNS,Jasper 1930- wiki )
ロバート・ラウシェンバーグとともに「ネオ・ダダ」(wiki )に分類されるそうです。
反芸術のようなもの、らしい(てきとー)
彼の作品は、記号や数字を使うところが特徴です。たとえば、アメリカ国旗を描いたようなものや、アルファベット(これは直島のベネッセハウス にあります。確か観たはず…「ホワイトアルファベット」1968)や数字をならべたものなど。
こういうことを考えると、この数字を重ねた作品も、意図としては、記号を絵画として表現することによる、意味の消滅を狙っているのかな、と見受けられます。何かを写し取るのが絵画なら、それはこの時代の象徴としても読み取れます。数字を並べたところにどれだけの意味があるかというと、たとえばそれはデジタル時代の到来を示していてもいい。結局、どんな数字も0から9までを並べただけだというアイロニーにとることも出来ます。
しかし、このキャンバスに描かれ、塗られた0から9を眺めるとき、運動を感じるところがこの絵のみそかなあと思います。それは、固定された絵の中で、いろいろな数字が私によって「見られる」ことを示しています。それは、私自身の意識の働きによってです。私の見方―意識によって、浮かび上がる数字は変化します。その巧みなだまし絵のような作品に、目は奪われる。
コンテンポラリー・アーティストの宮島達男の一連の作品は、それぞれ違ったはやさで1-9までの数字が順に表示する、LEDのディジタルカウンターを並べたものだが、これもまた、数字という主題でこの作品に共通する。宮島の作品には0が登場しないが、そのかわりに、0が表示されるべき時間、カウンターは暗くなる。運動を運動そのままとして提示するディジタル・カウンターと、錯視のようなジャスパー・ジョーンズの絵画は、同じモチーフを扱いながら、また違った様相を呈するわけです。
さて、この作品、私は以前に見たような気がしていたのですが、どこでだったか、よく思い出せずにいました。でもすごいタイミングで、他の用事で手に取った本に載っていて、笑ってしまいました。武満徹(1971)「音、沈黙と測りあえるほどに」(amazon )です。この本を手に取るのは二回目でしたが、一度目はざっと目を通しただけでした。でもなにか記憶に残っていたのでしょう。(また別のところでも出会っていたのかもしれませんが)
武満は、見ること、眼に関してジャスパー・ジョーンズの絵画から考えさせられたようである。断章的に書かれたこの言葉たちは、日本語で武満が書いた断章を、英訳してもらい、さらに、それを原文を知らない人(大岡信)に再度日本語に訳してもらうという作業を経て、本に掲載されるにいたっている。これはまた、ことばは誰のものか、ということ、記述と解釈という行為の往復によって、ジャスパー・ジョーンズの絵画によってなされる、目と作品と、私と作者のあいだの往復運動を追っているともいえよう。
「目は誰のものでもない。」
「Johnsの反絵画的なモチーフは、彼の絵画として描かれることによって通常の視線を拒んでいるが、そのために反って純粋な視線を保っているといえる。」
「ぼくにとってその絵画はJasper Johnsの視線を通してみたものであるのか、僕は彼の背でさえぎられたものを見ているのか、Jasper Johnsはぼくの眼を見ているのではないか――と思ったりする。」
このイリュージョン的な意味の重なり合いを示す絵画に武満が抱く感想は、やはりあの不思議な感覚の解釈である。その絵は「多忙な原理」をもつと彼は言う。
そして、「彼の絵画からは何ものもあらわれはしないだろうが、ぼくは見ることをやめようとは思わない。Disappear Johns」と言う。
私は、その意味の過剰(多忙)なゆえの運動を武満が示しているのを見つけ出したことを嬉しく思う。
**
ところで、今月の芸術新潮(web )は、武満徹(wiki )が巻頭特集でした。没後十年ということで、東京では展覧会が開かれている模様(web )。いきたーい!(けどいけない) 関西への巡回はないものか…
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武満徹―Visions in time展
期間:2006.4.9[日]─ 6.18[日]
会場:東京オペラシティアートギャラリー
開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)
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ポッパーとホイットニー美術館 / ホイットニー美術館展(2)
前回
は、ロスコの作品の感想を書きました。
今回は、抽象じゃないものを紹介しようと思います。
そのまえに、ホイットニー美術館の成り立ちについて。
ホイットニー美術館(Whitony Museum of American Art, New York : web
)は、1931年にニューヨークにオープンした私立の美術館で、20世紀アメリカ美術の殿堂。
アメリカの富豪バンダービルド家の娘だったガートルード・バンダービルド・ホイットニー婦人によって設立されたこの美術館は、自身も彫刻を学んでいた彼女が、その当時、メトロポリタンにアメリカの作家の美術品を寄贈しようとしたところから始まる。20世紀初頭のアメリカでは、ヨーロッパの芸術をもてはやす傾向があり、アメリカ固有のものは、まったく地位を獲得していなかった。メトロポリタンに寄付金付で寄贈すると言ったのに断られた婦人は、自身で美術館を作るのに踏み切る(この辺大金持ちは違うなー)。
若い国アメリカの固有のものにこだわったこのホイットニー美術館は、非常にモダンなものを集めたので、最先端の動向を反映してきたコレクションを持っています。
ゆえに、この展覧会もそうした流れを紹介するような展示になっていました。
風景を描いたものでも、エドワード・ホッパー(HOPPER,Edward 1882-1967 wiki )の作品が、やはり象徴的だと紹介されていたし、私もまた、それを感じました。
ホッパーの作品は、古き良きだだっ広い平原のなかのアメリカの風を感じさせるようなもの(どこかにうら寂しさが吹きすさんでいるような)や、都市の人々の孤独を描いたようなものが多いようで。
画面の手前のほうに暗い橋げたが描かれていますが、全体としては色も決して濃く暗いわけでなく、淡く明るいのだけれど、(右上のほうの色などは、印象派を彷彿とさせます)なぜか寂しさと静けさを感じます。この近代的な大きな橋の絵では、橋の下に一軒の家があるのが特徴です。橋を取り除くと、田舎のうらびれた川辺になります。にぎやかな感じは全くしません。おそらく、そういうことなのでしょう。道がとおり、いろいろな物流の準備が出来ても、この家のように、古いスタイルの生活でいいじゃないかと思う人々が存在していたことを暗示しているような気がします。マァ私はアメリカ人じゃないので、よくわからないといえばわからないのですが。しかし、本当にさみしい。
この絵はビラにも載せられていた絵です。
枠の向こうで、下着姿の女性が、こちらに背を向けて何かをしている(針仕事だといわれています)。手前の黒い縁が私たちを彼女の部屋の外に置いています。同じ空間を共有してはいません。かかっている額縁の絵も顔は見えません。都市の孤独を描いたものとして紹介されますが、綺麗な色使いなのに、非常に物悲しい感じがかもし出されます。
ホッパーの作品は、物語の一部であるような、ちょっと演出過剰な雰囲気も漂わせています。そのあたりが、アメリカ映画のような感じがして、ある意味ポップで俗悪な感じがします。ヨーロッパ風の気取った感じがしない、という意味において、やはりアメリカンなのかなあと。
(上:「クイーンズボロ・ブリッジ」1913年、下:「ニューヨークの室内」1921年ごろ)
次回以降、ジェスパー・ジョーンズについて、ロイ・リキテンシュタインとマチスの金魚については取り上げていきたいと思います。
それから、会場だった兵庫県立美術館についてはいずれ言及します。
安藤忠雄の海辺に置いたこの不気味な大きい黒い箱の存在感について。
今回は、抽象じゃないものを紹介しようと思います。
そのまえに、ホイットニー美術館の成り立ちについて。
アメリカの富豪バンダービルド家の娘だったガートルード・バンダービルド・ホイットニー婦人によって設立されたこの美術館は、自身も彫刻を学んでいた彼女が、その当時、メトロポリタンにアメリカの作家の美術品を寄贈しようとしたところから始まる。20世紀初頭のアメリカでは、ヨーロッパの芸術をもてはやす傾向があり、アメリカ固有のものは、まったく地位を獲得していなかった。メトロポリタンに寄付金付で寄贈すると言ったのに断られた婦人は、自身で美術館を作るのに踏み切る(この辺大金持ちは違うなー)。
若い国アメリカの固有のものにこだわったこのホイットニー美術館は、非常にモダンなものを集めたので、最先端の動向を反映してきたコレクションを持っています。
ゆえに、この展覧会もそうした流れを紹介するような展示になっていました。
風景を描いたものでも、エドワード・ホッパー(HOPPER,Edward 1882-1967 wiki )の作品が、やはり象徴的だと紹介されていたし、私もまた、それを感じました。
ホッパーの作品は、古き良きだだっ広い平原のなかのアメリカの風を感じさせるようなもの(どこかにうら寂しさが吹きすさんでいるような)や、都市の人々の孤独を描いたようなものが多いようで。
画面の手前のほうに暗い橋げたが描かれていますが、全体としては色も決して濃く暗いわけでなく、淡く明るいのだけれど、(右上のほうの色などは、印象派を彷彿とさせます)なぜか寂しさと静けさを感じます。この近代的な大きな橋の絵では、橋の下に一軒の家があるのが特徴です。橋を取り除くと、田舎のうらびれた川辺になります。にぎやかな感じは全くしません。おそらく、そういうことなのでしょう。道がとおり、いろいろな物流の準備が出来ても、この家のように、古いスタイルの生活でいいじゃないかと思う人々が存在していたことを暗示しているような気がします。マァ私はアメリカ人じゃないので、よくわからないといえばわからないのですが。しかし、本当にさみしい。
この絵はビラにも載せられていた絵です。枠の向こうで、下着姿の女性が、こちらに背を向けて何かをしている(針仕事だといわれています)。手前の黒い縁が私たちを彼女の部屋の外に置いています。同じ空間を共有してはいません。かかっている額縁の絵も顔は見えません。都市の孤独を描いたものとして紹介されますが、綺麗な色使いなのに、非常に物悲しい感じがかもし出されます。
ホッパーの作品は、物語の一部であるような、ちょっと演出過剰な雰囲気も漂わせています。そのあたりが、アメリカ映画のような感じがして、ある意味ポップで俗悪な感じがします。ヨーロッパ風の気取った感じがしない、という意味において、やはりアメリカンなのかなあと。
(上:「クイーンズボロ・ブリッジ」1913年、下:「ニューヨークの室内」1921年ごろ)
次回以降、ジェスパー・ジョーンズについて、ロイ・リキテンシュタインとマチスの金魚については取り上げていきたいと思います。
それから、会場だった兵庫県立美術館についてはいずれ言及します。
安藤忠雄の海辺に置いたこの不気味な大きい黒い箱の存在感について。
ロスコ / ホイットニー美術館展@兵庫県立美術館
去る5/6(土)ホイットニー美術館展に行ってきました。
芸術の館こと兵庫県立美術館 。
今回の展覧会は、「アメリカ―ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」と題され、
アメリカの現代アートの殿堂「ホイットニー美術館 」の収蔵作品を四つのテーマに分けて展示したもので、
すなわち、
1.移民 2.都市 3.消費 4.記憶
の四つです。
ビラは、ロイ・リキテンスタインの「窓辺の少女」。
そのほか、ポップ・アートの代表選手、アンディ・ウォーホルの「二重のエルビス」、アメリカの田舎の風景を描いたエドワード・ホッパーの絵画など、いろいろなものが来ていました。
印象に残ったものを数点紹介します。
マーク・ロスコ ( ROTHKO, Mark 1903-1970 wiki )
「ナンバー4(無題)」1953年
「移民」という部屋(ロスコはロシアからの移民だ)の一番最初に掛けられたこの巨大な作品は、殆どの面が黄色、で、下のほうに引かれた黒、そういうような絵だ。
抽象表現主義に分類される作家だけあって、具体的なものを描いたようには絶対に見えない。
内面を描く、というか。
そしてこういう絵こそ、美術館に行かないと「体感」出来ない、美術館に行くときに私が求めるものを直接的に与えてくれる。(要するに抽象好き)
大きなキャンバスに、できるだけ近づいて観ることを推奨するロスコの絵は、なるほど、近づくと、不思議な気分を与えてくれる。
離れたところから見るとき、全面が目に入る。しかし近づいていくにしたがって、視界の中には黄色の色しか見えなくなる。しかしまだ感じられる下の方の黒。黄色く塗ってある「キャンバス」じゃなく、「面」を見始め、最後には「黄色」を感じるだけになる。あざやかな黄色の体験は、目を閉じても何か触覚に訴えかけてくるような類の圧力を持つ。「黄色」を知覚する、というのはなんというか、流行のクオリアを感じるということに通じるところがあるようなないような気がする。それを体感できるのは、本物のサイズ、本物の質感をもってして出ないといけない。
高い天井、白い壁、それにかかった一枚の絵。
そのためだけに美術館に行ってもいいような感覚を、この絵は与えてくれる。
TBさせてもらった記事で、傍観する絵画から体験する絵画へ、ということが言及されていたけれど、まさにそれだ。
[続く]
芸術の館こと兵庫県立美術館 。
今回の展覧会は、「アメリカ―ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」と題され、
アメリカの現代アートの殿堂「ホイットニー美術館 」の収蔵作品を四つのテーマに分けて展示したもので、
すなわち、
1.移民 2.都市 3.消費 4.記憶
の四つです。
ビラは、ロイ・リキテンスタインの「窓辺の少女」。
そのほか、ポップ・アートの代表選手、アンディ・ウォーホルの「二重のエルビス」、アメリカの田舎の風景を描いたエドワード・ホッパーの絵画など、いろいろなものが来ていました。
印象に残ったものを数点紹介します。
マーク・ロスコ ( ROTHKO, Mark 1903-1970 wiki )
「ナンバー4(無題)」1953年
「移民」という部屋(ロスコはロシアからの移民だ)の一番最初に掛けられたこの巨大な作品は、殆どの面が黄色、で、下のほうに引かれた黒、そういうような絵だ。
抽象表現主義に分類される作家だけあって、具体的なものを描いたようには絶対に見えない。
内面を描く、というか。
そしてこういう絵こそ、美術館に行かないと「体感」出来ない、美術館に行くときに私が求めるものを直接的に与えてくれる。(要するに抽象好き)
大きなキャンバスに、できるだけ近づいて観ることを推奨するロスコの絵は、なるほど、近づくと、不思議な気分を与えてくれる。
離れたところから見るとき、全面が目に入る。しかし近づいていくにしたがって、視界の中には黄色の色しか見えなくなる。しかしまだ感じられる下の方の黒。黄色く塗ってある「キャンバス」じゃなく、「面」を見始め、最後には「黄色」を感じるだけになる。あざやかな黄色の体験は、目を閉じても何か触覚に訴えかけてくるような類の圧力を持つ。「黄色」を知覚する、というのはなんというか、流行のクオリアを感じるということに通じるところがあるようなないような気がする。それを体感できるのは、本物のサイズ、本物の質感をもってして出ないといけない。
高い天井、白い壁、それにかかった一枚の絵。
そのためだけに美術館に行ってもいいような感覚を、この絵は与えてくれる。
TBさせてもらった記事で、傍観する絵画から体験する絵画へ、ということが言及されていたけれど、まさにそれだ。
[続く]