今年の新年早々、交通事故に遭ってしまった。



前歯が折れたのと膝の靱帯損傷と突き指、あと首を酷く捻ったようで腕の痺れと背中の痛みが残った。歯は差し歯で治ったが唇を切った跡がしこりとなって残ってしまった。突き指は痛いままであり膝はまだ深く曲げられない状態である。


腕の痺れと背中の痛みを改めて病院で診てもらった。MRIを撮ったら大きな損傷はないとの事だったので安心したのだが今後、愛ロードバイクのニュージョニーくんとのサイクリングはやめた方がいいと言われた。ショックである。


私は、ただただ純粋に体を動かし、汗を流して健康を保つことで良い人生が送れるようにとロードバイクに乗るようになった。嘘だ。体を動かし、汗を流して、命の次に大切なビールを1秒でも一滴でも多く、おいしく飲むことが目的だった。なのでロードバイクは家に置いて、娘のマウンテンバイクを借りてゴールデンウィーク、帰省ラッシュ真っ只中の中央道をくぐり抜け、青空の下、自由への疾走と決め込むのであった。



来たぜ、多摩川サガン鳥栖。現在、J2、J3の混合特別シーズンでグループ2位の良い位置につけているサガン鳥栖。本シーズンでもこの調子で次こそJ1昇格を目指すのだ!行け、サガン鳥栖!負けるな、サガン鳥栖!じゃなかった、多摩川左岸を走るのだった。



ドーン!

ウガンダ!あ、左岸だ。



知らないうちに立日橋が新しく架け替えられていた。



ドーン!

そしてあっという間に玉川上水取水堰のある羽村到着。ヘイ、ブラザー玉川、お久しぶりでござる。


普段はロードバイクでやってくる場所にマウンテンバイクで来るのも新鮮で良かった。サスペンションが付いているので鞭打ちの症状がある私に優しいのである。



ちょっと寄り道して帰ろう。



何度か訪れたことのある羽村市郷土博物館。



おお、今日はこどもの日ではないか。いけ!くだる!じゃなかった、鯉のぼりが迫力満点ではないか。


羽村の歴史や玉川上水の事などが説明してある展示物をひと通り館内見学したら屋外の施設を見に行く。



風が強くて支柱が折れそうなくらいに元気よく泳げ、たいやきくんではない鯉のぼり。子供の頃から1番上の吹き流しがお母さんだと思いこんで不思議に思っていたのだが、どうも違うようである。


地元にあった古民家が移築されておりスタッフの方にいろんな話を聞かせていただいた。囲炉裏にまつわる話、離れにあるトイレに夜間行く時の話、風呂ではなく行水をしていた当時の話など全てが初めて聞く話しで面白かった。



最後に外に出て茅葺き屋根の話をしてくれた。だいたい20年ごとに葺き替える屋根には職人技が詰め込まれており、はじの方は相撲取りのまげにある大銀杏の形に仕上げてあるそうである。その下の板の部分には「水」の文字がある。これは当時、1番恐れられていた火事にならないようにと祈りを込めて切り抜かれたそうである。


満足のうちに館を後にする。



懐かしいスパゲッティ、じゃなかった、パスタ、あ、ポストがちょこんと立っていた。



さあ、来た道を引き返そう。



橋の上から取水堰の全貌を望む。



こっちは反対側。



ん?



おい、待てよ。こ、これはもしや、、、



さ、詐欺だーーーーッ!



帰りは、昨日風、じゃなかった、強風との闘であった。多摩大橋を渡って多摩川ウガンダ共和国、あ、右岸で帰ることにする。



マウンテンバイクでも結構スピードが出るものである。



多摩モノレールの真下をくぐる。



我が家は近いぞ。



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久しぶりのライドを満喫できた日だった。


距離にして50キロ弱だったがかなり疲れてしまった。


おお!


今日はなんと連休最終日ではないか!


連休中はゆっくりと晩酌ができた。


いや、いつもゆっくり晩酌していたな。


明日は出社の日である。


ということは、早めの泥酔を心がけなくてはいけない日である。


ビールをこよなく愛する皆さま


であるからして


やっぱり今宵も


キンキンに冷えたビールで


乾杯ッ!


なのである。

ムフフフフ。



 

ついこの間までコロコロ転がってケラケラと笑いながら私の膝の上にちょこんと座っていた息子が18歳の誕生日を迎えた。令和の現代では選挙権を持つ新成人である。感慨深い。

 

私は俗にいう晩婚に近い部類の人生を送っており、30代の中盤で結婚し、後半で息子、40を超えてから娘を授かった。ふたりとも、それはそれは可愛くて孫のように育て、溺愛した。当たり前の話だか私と息子は娘よりも2年とちょっとだけ付き合いが長い。今回はその息子の話を少し書く。

 

幼い頃から何も長続きのしない息子だった。家の片付け、お手伝いなどを続ければ好きなミニカーやゲームを買ってあげると言うと、狂ったように言われたことをやる。しかし次の日になると忘れる。頑張って続いても2日間であり三日坊主にも届かない継続力のない息子が幼稚園の頃、友達に誘われてサッカーを始めた。

 

よくある幼稚園とタイアップしたサッカースクールに入った息子は週2回の練習にだけは欠かさず通い始めた。決してうまくはなく、だた友達とボールを蹴るのが楽しかったようである。小学校に上がってもそのスクールだけには通い続けた。そして小学校4年生の夏休みが終わった頃に突然クラブチームに入りたいと言い出した。

 

そのチームはこの辺りでは結構名の知れたクラブで、仲の良い同級生がそこのキャプテンをやっていたのだ。息子はその友達とプレイするつもりで入団したのだが、入団した途端にその友達はもう一つ格上のクラブチームに移籍してしまった。ちょうど入れ替わりになってしまったのである。

 

さて、息子はどんな行動を起こすのかと興味津々で見ていたのだが持ち前の明るさですぐに友達を作り、すぐそのチームになじんだ。サッカーは決してうまくはなく、トップチームとサブチームを行ったり来たりするようなレベルのまま小学校を卒業した。

 

中学校になってもサッカーを続ける子供は、行きたいクラブチームのセレクションを受けるのが慣例である。息子も同様にいくつかの強豪チームに行ってセレクションを受けたのだが全て落ちた。このままだと地区リーグなどの大会に出ることのできないサークルのようなチームに入るしかなかったのだが、また違う友達に誘われて今度は出来立てホヤホヤの新規設立チームに入ることにした。

 

そにに3年間所属することになるのだが、新しくできたばかりのチームなので選手の数も少なく、中学生活ではかろうじてレギュラーメンバーとしてプレイすることができた。そして高校である。

 

サッカー部のなかった学校が新規に部を創設するという話を聞いた息子がそこに入りたいと言い出した。なんでも中学で入っていたクラブチームの指導陣がその情報を教えてくれたようである。その学校は私立高校でバカ高い学費と活動費を払わなければならず、その後、進学できるかどうかも分からない。そんな学校に進むことに私は大反対した。したのだが、仮に息子が行きたくない他の学校に行って高校生活を送るのも忍びないので泣く泣くその学校に進学させることにした。


その高校も新規設立チームなので部員数が少なく、息子はレギュラーで3年間を過ごすことになる。新設のチームなので1年生の頃から3年生を相手に試合をせねばならず、いろんな経験を積んだ。考えたら中学生の時も1年生なのに他クラブのトップチームといつも戦っていたのである。私としては息子のプレイする姿をずっと見ることができたので、今考えると本当に幸せな選択をしたのだと思える。

 

2025年の5月。私の誕生日の日にそれは起きた。地元の団体が主催するサッカーの大会に出ていた息子が相手チームの選手と接触して膝の靭帯を損傷したのである。最初はそのままプレイを続けていたが、監督が交代を告げてベンチに下がった。試合が終わって息子がいる方に行ってみると、膝がもの凄く腫れており、すでに歩けない状態だった。日曜日だったので翌日病院に連れて行きMRIを撮ると「内側側副靭帯損傷」という診断を受けた。のちにその医者はヤブだったことが明らかになる。

 

とりあえず回復に努めることにし、筋トレなど他の部分を鍛えつつ復帰を目指した。高校生活最後の大会である選手権を1か月後に控えた8月に息子は復帰した。地区大会で優勝した息子の学校は都大会にでることになっていた。息子はその試合で復帰するために調整してきたのである。

 

復帰戦は練習試合だった。相手は高校サッカー好きだったら知らないはずのない強豪校のBチームである。張り切って出場した息子はキックオフから10分ほど過ぎた頃、ピッチに倒れ込んだ。治ったはずの膝を抱えて痛そうにしているではないか。私は天を仰いだ。大事に至らないでくれ、そう願うしかなかった。

 

試合後、監督から謝罪を受けた。高校生活の集大成である選手権に出られなくしてしまったのは自分のせいだと言ってきたのである。私も息子も全幅の信頼を寄せているその監督に対し、誰のせいでもなくアクシデントであること、そしてきちんと治療することを伝えた。

 

通院していた病院を代えてセカンドオピニオンを受けると、息子の膝は最初の時点で剥離骨折していたことが分かった。事前に話し合いをしていた私と息子はすぐに手術する選択をする。きちんと治すには今が一番早い時期であるという考えのもと、9月の終わりに手術を受けた。入院をしない特殊な治療だったので最初の1か月は自宅軟禁状態である。リハビリに通いつつ、ただただ安静に過ごすのだ。

 

2か月目からは松葉づえをついての移動ができるようになった。できるようになったと言っても家の近所を少し歩いて回るくらいである。3か月目に松葉づえが取れると日常生活が普通に送れるようになった。近所のジムに足繁く通い、一段と体が大きくなっていった。

 

4か月を過ぎるとボールは蹴らないが走ったりしていると息子は話した。多少は痛いが主治医と確認しながら復帰に向けて進めているということだった。5か月が過ぎる頃に大学が決まった。関東でも強豪の部類に入る強いチームである。息子はそこでまたサッカーを続ける選択をした。いや、そのために手術をしたのである。

 

そして昨日。

 

息子の復帰第1戦となる練習試合を観てきた。知らないチームメイトに囲まれ、楽しそうにボールを追いかける息子がそこにいた。明らかに怪我をする前よりも走るスピードが上がっている。しかも格段にである。筋トレのおかげだろう。

 

大声を出して生き生きと走り回る息子を見ると目頭が熱くなった。長かった。本当に長かった。最初にケガをしてから間もなく1年が経とうとしている今、息子はものすごい勢いで成長している。

 

息子のチームは強豪校なので推薦で入部してきた、もの凄い経歴を持つ選手は別枠で練習しているそうであり、一緒になることはないそうだ。

 

「そこに食い込むことはできるの?」

 

私がそう聞くと息子がけだるそうに答えた。

 

「伸びしろしかねぇっしょ」

 

息子よ、復帰おめでとう。オヤジはキミがサッカーをしている、その姿が見られるだけでシアワセなのである。その時間がまだ4年もあるなんで、なんてシアワセな親バカオヤジなのだ。

 

昨夜はそんなことを考えながら美酒に酔いしれ、当たり前のように泥酔したのであった。

 

 

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久しぶりの投稿は長文になった。

 

しかし、書かずにはいられない嬉しい出来事だった。

 

4月に入り、我が家の生活は一変した。

 

しかしこれだけは変わらないぞ。

 

ビールをこよなく愛する皆さま

 

であるからして

 

やっぱり今宵も

 

キンキンに冷えたビールで

 

乾杯ッ!

 

なのである。

ムフフフフ。

 

息子が生まれた時を書いた不朽の名作もどうぞ。笑

 

 

 

 

私には長男と長女の2人の子供がいるということを前回の記事に書いた。

 

 

息子の話を書いたので、今回は娘のことを書く。

 

娘の名前は生まれる前から決めていた。というより女の子が生まれたらこの名前にしようと、ずいぶん昔から妻と二人で決めていたのである。なので長男である息子が、もし長女として生まれてきたら、その名前にしていたのだ。それくらい気に入っている名前をつけた娘は当たり前のように可愛い。

 

息子で慣れたはずの子育てなのだが、女の子となると扱いに困った。風呂はとりあえず一緒に入れるが、オムツを替えるのが大変だった。息子は勝手知ったる私と同様のモノがついており、ウンチをした時でもササッと拭いてしまえばそれで終わりなのだが女の子だとそうはいかない。なのでそのあたりは妻に完全委託することにした。

 

私が娘に付きっ切りになると息子がヒマを持て余してぐずり始める。なので妻は私に「息子とどこかに遊びに行ってきて」と、いつも言った。大人しい娘は1日のうち20時間くらい寝ているような親に優しい赤ちゃんだった。夜泣きもしない。なので世話がそれほど大変ではなく、イヤイヤ期真っ盛りの息子が大泣きする前に先手を打って遊びに連れて行こう大作戦を常としていた。

 

そのおかげで息子と過ごす時間はもの凄く長くなったのだが、その分娘を見ている時間が少なくなってしまった。そんな娘は寝る前や寝ている時、あとは無意識のうちに指しゃぶりが癖になってしまったようである。それはおしゃぶりをあげたとしても、いつの間にか指しゃぶりに代わってしまうくらいの常習状態だった。そんな癖が幼稚園の年中さんくらいまで続いた時、私はふと考えた。これはもしかして、私の愛情が足りていないのではないか?と。

 

考えてみれば休日はいつもお兄ちゃんと、どこかへ出かけてゆき、平日は早い時間に出かけて遅い時間に帰ってくるお父さんになっていたではないか。私は反省した。これではいかん。できるだけ息子と平等に、いや、今の状況から考えると娘の方と、より濃密な時間を過ごさなくてはいけないだろう。そして私はそのようにした。

 

家では同じくらいの時間2人の子供と触れ合った。休みの日は息子を妻に預けて娘と出かける時間を増やした。近所の公園や動物園などに務めて出かけるようにしたのた。それが当たり前になった頃、気づけば娘の指しゃぶりを見かけることがなくなった。このことが原因だったかどうかはさておいて、娘と過ごす時間が多くなったことは私にとって非常にシアワセに感じる日常の変化だった。

 

そんな娘は小学校の低学年から新体操を習い始めた。お兄ちゃんがサッカーをやっているので何かをやりたかったのだろう。近所にあるスポーツ団体が主催する新体操教室に通い始めた娘はすぐに頭角を現した。体が柔らかい娘はいろいろな振り付けをすぐに覚えた。しかもうまいのである。選抜チームに選ばれて発表会に出るようになった。練習は休みの日の午前中にあり、送迎バスが出るのでバス停まで私がついていくのが決まりになった。バスが来るのを待つ間、ゲームをするのが楽しかった。通り過ぎる車の数を数えて今から何台目にお迎えのバスが来るのかを当てるのだ。

 

だいたい二人ともいい線を行くのだが、なかなか当たらないのが面白かった。そのようにして待っていたバスに乗り込んだ娘が角を曲がって見えなくなるまでバス停で手を振るのも楽しかった。あとからどの段階まで手を振るのが見えたのかを娘が報告してくれるからである。練習が終わり迎えの時間もピッタリの時間にバス停に立った。運転手にお礼を言ってから降りてくる娘の姿がひどく愛らしかった。

 

しかし新体操の先生は昔ながらのスパルタで娘にとって楽しさより辛さが勝つようになったようである。新型コロナで世の中がステイホームになったタイミングで娘は新体操をやめた。そしてその次にダンスを始めた。そのダンスは今でも続けているのだが、これもスジがあるようで教室の選抜チームに選ばれて、私にとっては東京ドームのような大舞台といえるホールなどで踊ったりしている。

 

そして娘はこの春、高校受験に挑んだ。中学の三年間、ダンス三昧だった娘は勉強が得意ではない。定期テストではいつも頑張った割には結果が出ない事の繰り返しが続いていた。そんな娘が志望した都立学校は娘の成績だとかなり頑張らないと合格できないレベルであり一般入試では厳しいのではないか?と私は内心あきらめムードでいなくてはいけないレベルの学校だった。

 

「二人とも私立高校か、、、」

 

などと、ため息をつく日々が始まった昨年の10月のことである。娘が通っている塾が主催している模擬テストが行われた。塾に通っている生徒全体と、提携している塾同士の情報を総合しているのだろう。志望している高校に合格する確率がかなりな精度で出てくるテストなのである。娘はそのテストでE判定という驚愕の結果をたたき出した。合格する可能性は20%以下ということなのだ。私はすぐに志望校を変更するよう勧めた。しかし娘は言うことを聞かない。なんせ、同じ学校の友達4人でその学校に行く約束をしたそうなのである。

 

他の友達はA判定もいれば、悪くてもC判定だったそうである。大丈夫か?私はすぐに手を打った。推薦入試を受けるよう妻に言って手続きをさせたのである。その日から推薦入試で行われる作文や面接の練習を一般試験の勉強と同時進行で進めるようにさせた。娘は作文が得意だったのだ。大人の私が読んでもなるほど、と納得させるような文章を書くのである。よし、作文は行けるだろう。面接は私が得意である。私は面接官として、とある会社の面接に過去何度も立ち会ったことがあるので必勝パターンを知っているのである。

 

推薦入試がある1月の中頃まで、娘は本当に勉強に励んだ。推薦入試の作文、面接対策も私を巻き込んでじっくり取り組んだ。こんなに勉強を頑張る娘は今まで一度も見たことがない。これは、もしかするともしかするぞ、と感じ始めた矢先に推薦入試の日がやって来た。

 

「気楽に頑張っておいで」

 

朝、そう言って、あまり緊張させないように送り出した私だがいてもたってもいられなかった。在宅勤務だった私はウロチョロと家の中を歩き回ったり、突然、炊事洗濯家事オヤジに生まれ変わったりと、落ち着きのない時間を過ごしたのである。

 

試験が終わって帰って来た娘は、作文で書き忘れがあったこと、面接でも言い忘れたことや、必要なキーワードが伝えられなかったことを悔やんでいた。そして結果はそれを反映したように不合格であった。

 

ヨシッ、気持ちを入れ替えよう!これからは試験一本やりだ!娘はそう言ってキラリと目を輝かせた。残り2週間ほどしかない時間は大好きなダンスも封印し勉強に集中した。幾度か繰り返し受けた模擬テストは最終的にC判定までになった。微妙なラインで希望は心もとないレベルである。

 

入試本番までの期間、まさしく死に物狂いで勉強に励む娘の姿を見て私は感激するとともに、これだけ頑張ってダメだったら仕方がないな、と、半ば悟りの境地にまで至っていた。

 

志望校じゃなかったら、いろいろなことが起こるだろう。娘の友達仲良し4人組なのに、1人だけ違う学校に通わなくてはならなくなること、家計にとっては金銭面も大変であること。私は娘が不合格になった時のことを想定して二次募集を行う学校を事細かく調べ始めた。

 

そんな、良い事よりも心配事が多かった時間が流れて、ついに入試当日がやって来た。私はこの日のために元旦からランニングを始めた。お百度を踏む代わりに毎日欠かさずランニングをして娘の合格を祈ることにしたのである。しかしそのランニングも4日めに交通事故に遭ってしまい不本意なまま途絶えることになった。そんな不吉な出来事経て高校入学試験はやって来たのである。

 

「ダメもとで頑張っておいで、キミならやれる。あれだけ頑張ったんだから」

 

そう言って妻と一緒に娘を見送った。

 

試験から帰宅してきた娘はまんざらでもない顔で、そこそこできたのではないか?と言った。ヤルではないか。


しかしその日、通っている塾で自己採点の答え合わせがあるというので夕方から出かけて行った。そしてその夜、遅い時間に帰ってきた娘は少し目を赤くたまま無言で部屋に入って行った。

 

とりあえず終わった。長い月日をかけて頑張った娘の入試は一段落である。息子の大学合格、そして妻のお母さんの誕生祝も兼ねて、娘のお疲れ様家族旅行の話は以下に書いた。

 

 

ホッとしながらも、どこかでピンと張りつめた気持ちの嫌な時間が流れ、ついにその日が来た。合格発表である。発表は昔のように学校に行って貼りだされる受験番号の紙を目で追って確認するのではなく、登録した志望校のサイトにログインして合否を確認するシステムになっていた。朝の8時半、一斉に各都立高校の発表が行われるのである。

 

ログインIDとパスワードは私が作ったので私のスマートフォンで結果を見ることにしていた。もちろん私がではなく、娘が自身で直接確認するのだ。

 

3人掛けソファーの左右に妻と私、娘を真ん中にして座った。息子は早い時間からサッカーの練習に出かけている。緊張の時間がもの凄く長く感じられた。8時25分頃からは小心者の私の身体が小刻みに震えだした。娘も緊張しているようだが私よりは力が抜けているように見える。妻もソワソワしながら自分のスマートフォンを見たり置いたりを繰り返している。そして定刻の8時30分ちょうど。

 

娘が目を半分とじながら片目で私のスマートフォンの画面を開いた。私はといえば娘のスマートフォンを借りて二次募集している都立高校で自宅から通える範囲の学校を本気で探していたので気持ちが少し遠のいていたような気がする。

 

「やった!受かってる!」

 

娘の声は小さく、しかし明らかに嬉しそうに聞こえた。

 

「うぉーっ!やったー!おめでとう!!」

 

私は近所の事など全く気にせず大声で娘の頑張りを称えた。

 

あれだけやったんだもの。頑張ったんだもの。受かるさ。あんなに勉強を頑張るキミを、お父さんは今まで見たことないからね。夜遅くまで机に向かい、翌朝眠そうな顔で朝食を食べる娘の姿を思い返して涙を堪えることなどできる訳がなかった。

 

おめでとう。3人でソファーから立ち上がり、それぞれをグッと抱きしめて喜びを分かち合った。止まらない涙をぬぐいながら二人の顔を見ると、泣いているのは私だけだったが気にしない。お父さんは泣き上戸の大酒飲みなのである。しかたがない事なのだ。


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もうすぐゴールデンウィークを迎える今、娘は1か月後に控えたダンスのビッグイベントに出場するため日々練習に励んでいるようである。憧れの女子高生になった娘は、本当に充実した毎日を過ごしているようで、それを見ている父親も満たされた気持ちになる。スカートが少し短くなって心配なことは尽きないだろうが、それ以上に娘の成長が楽しみな私の新生活の始まりなのであった。

 

 

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在宅勤務から一転して毎日出社となってしまった。

 

忙しい日々が続き、ついブログを書くということから遠のいている。

 

しかし、心配プラスチック用、じゃなかった、ご無用。

 

書ける時に書く。

 

これが私のスタイルなのである

 

明日は月曜日だがゴールデンウィークがやって来るではないか、ヤァヤァヤァ。

 

という訳で、明日の出社に備え

 

早めに泥酔せねばならぬのだ

 

ビールをこよなく愛する皆さま

 

であるからして

 

やっぱり今宵も

 

キンキンに冷えたビールで

 

乾杯ッ!

 

なのである。

ムフフフフ。

 

と言いながら、その昔行ってはいけない道に逸れてしまった記事は以下