五輪関連において森喜朗の女性蔑視発言も、小山田圭吾の障害者いじめ
告白も、いわゆる差別がらみの問題だった。
でも極論中の極論でいってしまえば、この世界は‘差別’で、できあがっている。
それが最近気づいたこと。
世の中に存在するすべての判断基準や選考基準はある意味で一種の差別なのである。
偏差値もそう。頭の悪い人間ほど上にゆかせないようにしようとする頭脳差別である。
身長が足りないと力士になれないのも身長差別である。
歩合だって、いってみれば能力結果差別である。
良し悪しとか必要不必要という思想は抜きにして、世の中のシステムはすべてが
一種の差別でできあがっているのである。
まあ、これは最初に断わったとおり、極論中の極論だが、いまだ世間に普通に
蔓延している差別が身体的な差別、性差別、そして病気・障害における差別では
ないだろうか。
自分は差別主義者ではないと思っている人は多いだろう。
でもそんな人でも実はソフト差別主義者だったりする。
たとえばみなさんが、会社や工場の経営者だったとする。
そこに持病や障害を持った人が雇ってほしいとやってきたとする。
同時に健常者の人もひとりやってきたとする。
状況や障害に程度にもよると思うが、みなさんはどちらを採用する
だろうか。
おそらく多くの人が、健常者の人を採用するだろう。
それがソフト差別。オレが作った言葉だけれども。
まず身近なところで、そういう差別をすこしずつでも無くして
いかなければ、世の中から差別はなくならないと思う。
河瀨直美監督、ドリアン助川原作の映画「あん」を観た。
すこし前に話題になった映画である。
――
たくさんの涙を越えて、生きていく意味を問いかける
「私達はこの世を見る為に、聞くために、生まれてきた。
この世は、ただそれだけを望んでいた。
…だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。」
縁あってどら焼き屋「どら春」の雇われ店長として単調な日々をこなしていた千太郎(永瀬正敏)。
そのお店の常連である中学生のワカナ(内田伽羅)。
ある日、その店の求人募集の貼り紙をみて、そこで働くことを懇願する一人の老女、
徳江(樹木希林)が現れ、どらやきの粒あん作りを任せることに。
徳江の作った粒あんはあまりに美味しく、みるみるうちに店は繁盛。
しかし心ない噂が、彼らの運命を大きく変えていく…
(amazonから引用)
たしか樹木希林の最後の作品だった。
永瀬正敏演じる先太郎が働くどら焼き屋にある日、そこで働かせて
くれという樹木希林演じる老所の徳江がやってくる。
年齢的なことがひっかかり一度は遠回しに断る千太郎。
だが、また別の日に徳江は自分が作ったあんこをもって千太郎の
店にくる。
これを食べてみてくれ、という徳江。
とりあえず受け取って徳江をまた追い返す千太郎。
一度そのあんこを蓋もあけずゴミ箱に捨てるが、気になってとりだし
舐めてみる。するとこれが美味い。
後日またやってきた徳江にうちで働いてくれと頼む千太郎。
そこからふたりでどら焼きをつくる日々がはじまった。
千太郎が業務用のあんこを使っているとしった徳江は、
おてんとさまがのぼる時間から手作りであんこを作ることを考案。
最初はかったるそうに動く千太郎だが、徐々に慣れてきて、
さらに店は徳江のつくるあんこが評判で大繁盛となる。
だが、千太郎の店のオーナーから、徳江がハンセン病患者だという
話がでてきてから、状況は変わってゆく……
一見ほのぼのとしたお店の成功物語っぽいが、これは日本に昔から
根づいている差別を問う物語である。
撮影も実際のハンセン病患者施設?で行われたらしい。
そういえば自分たちが子供のころは、学校で「ぎょう虫検査」なるものがあった。
セロファンみたいなものをお尻の間にペタっと貼って剥がし、そこにぎょう虫の
卵がくっついているかどうか確認するのだ。
今の時代でこそありえないが、当時その結果を配るとき、先生は異常なかった
(卵がなかった)子供だけ先に名簿順で結果をくばり、最後に異常あった(卵あり)の
子に配るというやり方をしていた。
出席番号順なので、ぎょう虫の卵があった子が誰だかクラス全員にバレバレなのである。
そのとき、ぎょう虫の卵があった子はクラスから差別されていたことがあった。
小学生の差別のきっかけなんて簡単なことではじまる。
そうだ。差別というのは子供のころから存在し、そして大人になってもはびこっている
ものなのだ。
この「あん」は原作者であるドリアン助川の差別を追求する姿勢が見える。
そしてなにより樹木希林の自然な演技の存在感が際立っている。
静かな映画なので、面白いとかおすすめとかじゃなく、良い映画という位置づけになる
作品だと思う。