「死ぬんじゃねーぞ!!」いじめられている君はゼッタイ悪くない | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

 

 

「人を殺すことはいいことかわるいことか?」

と人に質問したら、返ってくる答えはほぼ、

「そんなこと、いけないに決まっているだろう!」

という答えだろう。

 

答えているほうは決して嘘はいっていないと思う。

本当に心からそう思っているのだろう。

 

いけないに決まっているというのであれば、殺人者がなぜ人を殺そうと思ったかの

心理などを積極的に本などを読んでしろうと思ったことがあるか?ときいたら

多くの人間がそこまでやっていないと思う。

そこの温度差はかなり重要だ。

それがそのまま殺人にかんする関心度の危機感に反映されているといっても

過言ではない。

 

殺人がいけないことだという人間は多いが、殺人の背景や心理までいろいろ文献などで

調べてみようという人間は思っている以上に多くないんではないだろうか。

 

「いじめ」についてもそれはきっと同じ。

いじめはいいか悪いかという質問をすれば全員が「悪い」と答えるだろうけれど、

じゃあ、アナタは普段いじめについてのルポを読んだり、報道特集を積極的に

観ようとしているか?という質問を追加すると、おそらくそこまではしていないという

答えが大多数だと思う。

個人的にはそこが残念。あくまでオレの憶測があっていればの話だが。

 

図書館もぼちぼち開館しはじめたので、前から気になっている本を借りて読んだ。

 

タレント中川翔子が自らのいじめ経験や、いじめについての持論を書き綴った

本である。

「死ぬんじゃねーぞ!! いじめられている君はゼッタイ悪くない」

 

中川翔子がいじめられていた経験を持つことはしっていたが、著書を読むと改めて

かなり凄惨で辛い人生を歩んできたんだなあと心が痛くなった。

 

いうまでもなく、学校にはスクールカーストなるものが存在するのはごぞんじだろう。

中川翔子は冒頭のほうでまずそれを分析、説明している。

 

簡単に引用すると以下。

 

カースト1軍       → メジャー系、不良系、運動部の子たちなど

カースト2軍(中カースト)→ おとなしい優等生タイプ

カースト3軍(低カースト)→ オタク気質や運動音痴、ぼっち

3軍の下にはカースト外。

 

今あれだけの人気と知名度がある彼女ですら、ここで「私は3軍まで落ちました」

と告白している。

そして、いじめのターゲットになるのは3軍以下の「低カースト」の子たちだと分析。

「なんか変」とういうのが「個性」とはなかなかならないのがスクールカーストですと語る。

 

オレも中学のころは彼女と同じ3軍だったと思う。

だから反論などまったくないし、彼女のいいたいこともよく理解できる。

 

呼び方すら完全に変わったとしても変わり者が個性や才能だと認識されない傾向は

学校に限らず、企業やコミュニティの中でもしっかり根付いているのだ。

 

いじめられる子供たちはどこか変わっていたり、おとなしかったり、集団になじめない

だけでなにも悪くない。

ただ、その「なじむ」という行為が当たり前にできる人や、取り組んでできるようになる

人もいるのだけれど、角度を変えてみれば「なじむ」というのはひとつの才能なのである。

才能なのだからいくらやろうと思ってもできない子だっている。

周囲の大人も級友もそこは気づかないといけない。

 

大人や教師はもっと「なじめない子」の人権を考慮するべきであり、また

強引に無理やり周囲と仲良くさせようとしないべきである。

 

オールドタイプはどうしても友達100人説が先行し、ひとりで過ごす行為を悪に近い感覚

で非難するが今は時代が違う。

本人がひとりでいてラクだったり疲れたりしないのであればそれはそれで尊重すべき

時代なのではないだろうか。

 

中川翔子はこの本の中で、

「お弁当もひとりで食べやすい学食やカフェテリアをデザインするというのはどうでしょう」

と語っているが賛成である。

今こういう発想をできる若い人がいるというのがなにより嬉しい。

いじめられたり、ひとりぼっちになった経験がある人間だからこそできる心遣いて的な

発想だ。

 

カウンターとテーブル席をつくって、数人で食べながら楽しみたいのであれば

テーブル席のほうを利用すればいいだけの話である。

 

オレらが小中学校のころ、給食の時間はもうそれが当たり前のように

班で机をくっつけて向かいあうような状況で食べさせられていて、その名残がやはり高校や

大学の学食などにも残っているような気がする。

 

子供の自殺がもっとも多いは9月1日とされている。

これはいうまでもなく夏休み明けである。

 

今はどうまとまったのはわからないがコロナの影響で9月入学とかいうキーワードが

すこし前にあった。

だが、何月入学だろうといつかは明ける長い休みといじめが存在する以上、

子供が多く自殺する日は残念ながら綺麗事抜きでなくならないのではないだろうかと懸念する。

 

ただ、中川翔子も本の中で書いていたが、死ぬことが頭を占めるぐらい悩んでまでいかなきゃならない

場所などこの世にどこもないのである。

 

そしてこうも語っている。

「青春は十代限定じゃなくて、あとからやってくる場合もあるのだと!

わたしは三十代になってからがいちばん友達と遊んでいます」

 

うん。これは本当にそうだと思う。

 

中学時代は彼女と同じカースト3軍だったオレだけど、40代の今、しりあった人や、やりとりを

続けている人たちをカウントすると今が一番人に囲まれていると自信もっていえる。

結婚する予定がないので(笑)披露宴を開くこともないと思うのが残念だが、もし披露宴を開いて

友人知人を招待することになったら、当日会場で何人かが

「おい!ケンていろんな知り合いがこんないたのか!ひとりくらい反社いるんじゃねえか!?」

というんじゃないかとさえ思える。

 

だから今しにたい子供たちは、もうちょっと耐えてほしいし、学校が嫌ならば逃げちゃっていいと思う。

人生は楽しいなんて綺麗事はいわないけれど、批判を恐れず極端にいえば死ぬのはいつでもできる。

でも一度死んじゃったら終わり。

 

君が死んでもそれは復讐にもなんにもならない。

中川翔子も本の中で

「たとえば死んでも 奴らは時代とともに忘れて笑って生きてゆく」

と書いているがまさにそのとおり。

だからといってオレは既に命を絶ってしまった子たちのことを批判したりはしない。

 

現役を退いたすべての先輩方がそうだとはいわないが、選挙などのたびに

新しい政治になにを一番期待しますか?という街頭インタビューがおこなわれるのを目にする。

 

若者からはブラック企業対策という声が多い一方で、現役を退いた年配の方からは

ブラック企業対策という声をほとんど聞かない。

 

聞こえ方が悪かったら申し訳ないが、それはある意味で、

「自分はもう会社生活を退いたからブラック企業対策は後まわしでいい」

という要素があると思う。

 

オレらの世代の人間がいじめにかんする本を読んだり番組を観なくなったのはそれと似たような

もので、いじめが頻発する中学校をもうとっくに卒業して今は社会にでているから、スクールカーストや

いじめを受けている子供たちのことはあとまわしになっている面は強いと思う。

 

自分たちの世代や現状にダイレクトに影響ないからといって、関心が後回しになっている

ようであれば、オレらの世代をはじめとする今の大人たちはいじめを受けている子供たちに

たいして何もしてあげることはきっとできないだろう。

今も、そしてこれからも。

 

この場を借りて多くの大人たちに伝えたい。

 

もっと、いじめにたいする関心を持とう、と。