データセンターの紹介のために、訪問先の洗い出しを自分なりに整理しました。当時の営業グループは、新規の顧客情報はすべてが親会社からか又は出入りの業者からの情報だけでした。私はそういう情報というのは素人がもたらすものなので、非常に確度の低いものばかりだろうと思いましたし実態もそうでした。又、データセンターが場所貸しと同じなので、一般のオフィスビル仲介会社に登録してもらうというようなこともしている様なレベルでした。
営業グループには新規の会社をどう探すかというノウハウも無いので、自分の経験で考えざるを得ませんでした。どういう顧客が対象になるのかを考えてから、色々な会社情報を整理して訪問先の洗い出しをしました。顧客の探し方も分からず、宣伝方法やうたい文句も無い状態で、すべて手探りで始めざるを得ませんました。
当時は自社又は賃貸ビルのオフィスに大型コンピュータを併設しているケースが結構多くて、そういう顧客にデータセンターを紹介に行くことにしました。費用を考えるとある程度の規模感のある会社が対象となるので、情報システム部長や情報システム室長に面会してデータセンターを紹介することにしました。
午前と午後に2社を訪問するという計画を立てて、通信会社の設備課長との面談や現場工事会議の合間に毎週訪問をしました。

全く新規の顧客を訪問するというのは少なからず緊張するもので、当時は40歳を超えていましたが新入社員のような緊張感がありました。しかし、鬱陶しい事務所でぼんやりとしているよりも社外に出て電車に乗ったりしていると開放感があって精神的には疲れましたが、毎日の生活に張りがあったような気がしました。
夏場になっても背広は脱がないで大汗をかきながら歩き回りました、それは自分に対する叱咤激励というようなもので運動クラブの厳しい練習と同じだと感じていました。真夏の暑い時期に、じりじりと背中を焼かれて背広を脱ぎたくなる中を会社に戻る自分を今でも忘れられません。そういう気構えが無いと、面識の無い情報システム部長と対峙して会話をしても迫力が出ないだろうとも思っていました。
一流の会社であれば営業マンを支援する資料や材料は山ほど揃っているのに、データセンターの写真が載ったカタログしかない状態ではすべて手作り資料で対応せざるを得ないのでした。
こういう環境はたまたま転職前の会社と環境が同じだったので経験が生かされました。人生は表街道を歩く人と何時も裏街道ばかりを歩く人がいるものだというのを、こういう時に強く感じさせられました。
こんな環境でデータセンターの営業をすること自体が会社として無謀だと思いましたが、会社の役員連中はそんな事すら考えも及ばないのだろうとも思っていました。後に私が新規に顧客を受注すると「受注できた事自体がおかしい」とか言い出したのもこういう役員や部長の連中だったので、そもそも会社を経営するという事もよく分かっていない人たちの集まりなのかと感じた事がありました。
転職前の会社では、営業部の中で冷遇されたグループに所属していて、口先ばかりの額のはげ上がった課長から新規顧客の訪問の仕事をするようにと厳命されていました。それは自分が営業部で認められたいからと言うのが明らかだったので部下からの批判がかなりありましたが、蛙の顔に何とやらで厚顔無恥をさらけだしていました。
その時の直属上司はW大学の野球部出身と言うのが売りで、短気でしたが体も大きく体力がありそうな中年の男でした。その人が私に新規の顧客訪問について伝授をしてくれました。その人は就職する時に「ペンを取るか会社をとるか悩んだ」と言うのも売りでしたが、とてもペンを取って小説家にでもなるような御仁だったので落差が面白くて、酒を飲む度に皆から冷やかされていました。
売れないコンピュータを売るという厳しい営業を長い間体験し経験を積んだので、自分にも対応力がついているのが分かりました。後で考えてみれば、そういう仕事というのは誰でも出来るかというとそうではないという事に気づきました。当時の職場は苦労して朝から夜遅くまで働いて営業成績が上がらないというのが普通で、成果は上がらないにしても経験が増えるほどに対応が変わる人と変わらない人がいて、そういう事は年月を経ると差が出てくるような気がしました。
しかしながら、担当者が頑張ってもぼんくらな課長や部長がリスクを取って対応をしないので、せっかくの機会も逃してしまったことがありました。他人には厳しく言いながら、いざとなると逃げを打つ典型的なサラリーマンの管理職が揃っていた事業部でした。そういう職場環境の下で、厳しい仕事を30歳台にしていた経験が、異動後のデータセンター営業に生かされたと思いました。

異動した営業グループは事業部フロアの一番端にあって、奥に事業部長が座っていて、その前に営業グループの座席があるという何とも嫌な場所でした。しかしながら、真面目な事業部長は毎日何をしているのか分からないのが不思議で、何かを書いたりしていることが多い人でした。太って顔のでかい営業部長は事業部長の横に座って、大きな声で笑うのが好きで仕事は余暇でしているような雰囲気でした。
職場はきわめて静かで、ぽちぽちとワープロを打つ音が聞こえるほどでしたので、たまにしかかかってこない電話の応答は全員が聞こえているというようなほど静寂でした。
そういう雰囲気の中で私が電話で「XXX会社の子会社でXXXという会社ですが、部長さんをお願いします」というような電話を始めたので最初は緊張しました。職員は机を見ていますが何が始まったのかと聞いているのが分かるようでした。朝から晩まで1週間の午前と午後のアポ取りが終わるとほっとしていると、真面目な顔をした事業部長から「ああ言ったらどうかね」とか「こういう事も言ったほうが」とか横やりが入るので少し嫌な気持ちになり煩わしく思えたものでした。営業経験も無い素人から口を出されて、そんな事言うのなら「自分でアポ取りしろ」と言いたいのを我慢して「そうですか」と受け流していました。
異動した子会社はぬるま湯体質で営業グループから営業部になっても何も変わりませんでした。年配者の営業マンは日がな雑談や麻雀ゲームをして過ごしている人もいました。定時後、営業グループのメンバーは営業部長と一緒に食堂で一杯ビールを飲んでから帰るというような光景を良く目にしました。元々は親会社の情報システム部員だったというのと、高齢者ばかりであるという理由で何事も前向きではなく、言われたからやるという様な姿勢でした。

新しいビジネスをやろうというのでデータセンターを建築したのですが、集客は他人任せでした。
通信会社は、親会社から通信会社の経理部に出向していた人からデータセンター検討の情報を得て、当時の社長が通信会社の役員にお願いして入居を決めたということでした。通信会社も未だ創立したばかりでどたばたしていて交換機を設置する場所を選定するにしても人材がいなくて、言われるままに決めたのだろうと思いました。それが後々のトラブルの原因だったのだろうと思います。交換機設置までは2年以上もあるにの予約しているので賃料をもらっていましたが、資本金を食いつぶしているような時期なので少しは配慮しても良かったのではないかという風に思ったものです。他人の台所事情も考えず自分の事ばかり考える役所体質の現れでした。
この通信会社の親会社がデータセンター予約の話を聞きつけてその後入居してラッキーな状態になりましたが、両者ともにフロアを貸すだけでコンピュータの運用は自前だったので付加価値のない顧客でした。
通信カラオケの走りの顧客は、出入りのコンピュータベンダーからの情報で入居していましたが、その後大手カラオケ会社が通信カラオケを始めると業績悪化して郊外のデータセンターに引っ越ししました。
逗子に或る老舗のスーパーの小さなコンピュータも預かっていましたが、営業マンの個人的なつながりで入居したのだということでした。
この3社のコンピュータが、フリーアクセスの床が部屋の半分しか設置していない工事中のような場所に設置してあったのでした。

そういう状態の時に、営業グループに私は配属されて通信会社を担当したのでした。最初は通信会社は交換機を設置する前だったので仕事はそれほども無く、データセンターの勉強から始めました。元々はホストコンピュータの営業をしていたので計算機室がどういうものかというもは知っていました。計算機室も通産相のコンピュータ室の安全対策基準しかないような時代で内容も全部知っていました。そういう意味ではホストコンピュータの運用とか設置とかの予備知識があるのは他のメンバーとの大きな違いだろうと思いました。当時のカタログも何とも貧弱なもので、データセンターの写真が出ている建物のカタログとリスの様な動物が書いてある何でもやりますというサービスのカタログだけでした。この何でもやりますカタログは営業部長に質問しても何の事だか説明出来ないし、周りの年配の営業マンは「ご要求があれば何でもやりすという意思表明です」と言って、私は困ってこのカタログは使わずワープロで資料を作成しました。しばらくした音には、私がカタログを作り直しました。
前職の図面入力装置部門の強欲な営業部長のいた職場とは違って、ぬるま湯体質なだけに何もしないで一日過ごしても多分定年までは勤められただろうと思いました。それを地で行った人がいて、親会社が立ち上げた教育教材販売会社が解散したので、その営業を担当していた人が営業部に異動して来たことがありました。背が高くやせ形でやや細長い顔で、煙草を一日中吸って過ごしていました。幸い席は離れていたので煙害からは少しは助かりました。この人は担当する会社はありましたが、月に一度請求書を発行するだけで、後は何もありませんでした。悪い人では無いのですが、言われないと動かないタイプなので、そうなるしかなかったのかも知れませんでした。この人は人が良いのを逆手にとられて詐欺事件に遭遇して、しばらくして故郷に帰るというので退職をしました。

そういう職場でしばらく様子見をしていた私は、性格上何もしないことには強い抵抗感があって、データセンターをどう売るかとか他社の状況などを調べるようになりました。少しずつ調べて見ると、転職前に担当していたホストコンピュータの営業と同じというのが分かって、我が意を得たりとばかりに新しい顧客訪問を計画して電話でアポイントを取り始めました。どういう会社が良いのかは事前に情報誌から調べた上で、情報システム部長へアポイントを取ってデータセンターの紹介をする毎日が始まりました。
こういうのが先祖帰りというのかと感じた時でした。情報システム部長との面会はデータセンターの紹介だけでは無く、当時のシステムの問題とか悩みも聞いて話題にするので自然と話があって、普通でも数時間は話し込むというようなこともありました。データセンターはそういう情報の中の一つに過ぎないという風に相手には聞こえていたのだろうと思いました。
事業部では、データセンターに当時は入居する客がいないと何時も騒いでいましたが、自ら営業をする人は誰もいませんでした。他人からの情報任せだったので、ガサネタを真面目に対応しては注文を取れずにいました。そういう状態の中で、仕事の好きな私が一人だけで新規顧客開拓を始めたのでした。
人には毎日食事をして排泄するという基本的な生命維持の機能がありますが、精神にも同様にストレスに対して解消しようという反応があります。普通のサラリーマンならば帰宅前に一杯酒を引っかけて気分を解放させると言うようなものが多かろうと思います。勿論、好き者は風俗に行ったり、キャバクラなんてものに行くのだろうと思います。職場で顔を見ながら、こいつは酒だこいつは風俗だという風に一人一人分類分けをするのが面白いと思うことがありました。
私は酒もたばこもやらない理由は健康上の理由ばかりでなく、少しばかり体が普通の人とは違うのも理由の一つでした。その上に学生時代から賭け事は嫌いで麻雀はしないし、囲碁将棋にも興味は全くありませんでした。雄一の楽しみは音楽を聴くことで、これが子供の頃からストレスからの逃げ道となっていました。

仕事が忙しいというのは、転職して図面入力装置を販売していた時でしたが、この時は暇があれば毎日せっせとクラシックのLPを購入しては自宅に持ち帰っていました。3年間で5・6百万円という買い物でしたが、カードのリボ払いというので先払いにしていました。その後、子会社への異動でデータセンターの営業を担当して、通信会社の設備課長から嫌がらせを受けながら仕事をしていたのでストレスは継続的にあったせいか、クラシックレコードを購入するという行為がずっと続きました。
何時かは聞きたいという気持ちだけで買ったレコードなので殆どがお蔵入りの状態でした。部屋はレコードであふれかえりました。気がついいてみれば約1万枚という屈指のコレクターになっていたのではないかと思います。その見返りとして大枚の借金ができて支払いに苦慮していました。
当時はレコード販売の終末期でしたが有楽町に中古レコードを扱う店があり、お婆さんの販売員とは顔なじみでした。都内の中古レコード店には顧客に行った帰りには寄り道しましたが、それがストレスの解消になっていました。
毎月のカードの返済金額がどんどんと膨れあがり、サラ金も利用しました。最後には銀行に駆け込んですべて精算することになったのは、転職してから10年も経過していたと思います。個人的感想を言えば、仕事の成果の対価を会社は支払えと言いたい気持ちでした。
幸いに50歳になった時、子会社への出向者は転籍するというルールがあり、親会社退職により退職金が出たので、これで借金返済ができたので一段落しました。
大量のレコードの半分5000枚は業者にわずかな金額で引き取ってもらい、残りは少しずつネットオークションで処分をしていましたが、未だに処分ができていない憂鬱な今日この頃です。
私がデータセンターの営業を担当してから、通信会社の設備工事を毎年数億円で請負って工事を行いました。この通信会社の設備工事は、データセンターに交換機が設置できなくなるまで工事が続いたので、私が通信会社を担当してから5・6年も続きました。
その他の仕事として、新しい顧客を開拓するという仕事もしていましたので、毎日データセンターに行ったり、顧客を訪問したりという日々が毎日続きました。
毎日のスケジュールが工事打ち合わせや顧客訪問で埋まると、移動時間がどんどん短くなるので昼飯が食べられなくなるという事態になりました。仕方なくコンビニで弁当を買ってから地下鉄のホームでさっさと胃の中に食料を放り込んで電車に乗り込むというような事が何度もあり忘れられません。人間は食うことについては割合に記憶に残る者だというのを今更ながら感じております。元々団塊の世代で子どの頃は貧しい生活でした、年を経てもこういう思いをしなければならないのかと寂しい思いであったと言うのが当時の感想でした。地下鉄のモームで食べる時間も無い時は、仕方なく地下鉄の座席で食べていても目立たないサンドイッチなんかをかって食べながら移動をしたものでした。最近では地下鉄の中で堂々と弁当を食べている若者を見かけたりすると、どういう事情でそうなったかは別として、この当時の事を思い出してしまいます。

この忙しさについてついでに思い出すことは、随分と忙しい毎日を送っていると、日々の事務作業も滞るので営業部長からアシスタントを1名つけてもらうことになった事がありました。派遣会社からベテランの女性がてきぱきと社内事務や請求処理をしてくれて少しは楽になりました。このアシスタントさんは色々な人はいて、男に追いかけられて困っているとかいう変わった人や、オーストラリアにホームステイするとかいう気骨のある人もいたのが記憶に残っています。それから、一時若くて美人のアシスタントが来た時には、営業部長からねたまれて「あんたの仕事専用じゃあないよ」と嫌みを言われたこともありました。その女性は美人だったので、早々に結婚相手を見つけて退社したのでほっとした記憶もあります。
私が竣工直後からデータセンターの営業を担当して、このデータセンターの重要な顧客である通信会社の設備課長と話をしていると必ず「そろそろ出ていきます」という常套句を聞かされていました。その程度は状況によって強弱はありましたが嘘っぽいとは思えませんでした。
私は個人的には世の中の費用感よりも割高だと感じていても、会社に勤務している以上否定出来ないので仕方なくそういう方針に従っていたということでした。このやり方で顧客を怒らせたこともありましたが、そういう事は立場上仕方が無いと言う風にあきらめていました。何事につけても自分本位のやり方が正しいと妄想して仕事の流儀を決めることしか出来ない会社でした。

私がこの通信会社の営業担当を外されたのは、或る事業部長の方針のせいでしたが、この経緯は別項で詳しく書く予定です。営業担当を外される直前にも通信会社の設備課長からは「早く出たい」というような話があったので報告をしましたが、事業部では相手にはされませんでした。しかしながら、その後10年ほどしてこの会社がデータセンターから退去するという話を聞いたとき、遅かったなという風に感じました。結局この通信会社のサービスが終了するまでは顧客として残ったということでした。私の担当した後を受け継いだ人は誰だか知りませんが、知らなくても流されるままの対応しか出来ないと言うことは分かっていたので、データセンターの契約は自然と終了したのだろうと思いました。

私は散々に通信会社の設備課長から「データセンター退去」という脅しを受けていたので、退去するのは何時になるのかという事には少なからず興味がありました。
しかしながら、その退去時期は普通にサービス終了と共にと言うことになると、「データセンター退去」という言葉は単なる脅して使っていたのだけという事になります。設備課長はその後部長に昇格したという話も途中で聞きましたが、その直後もデータセンター退去の話はありませんでした。
サラリーマンで仕事をしていると色々な事件事故がありますが、これは非常に後味の悪い案件を担当したという記憶しか残りませんでした。今でも当時の賃料値下げの資料は捨てないで保管しているのは、事件簿というだけに止まらず、自分が注ぎ込んだ膨大なエネルギーの証として捨てられないのかなと感じています。
この設備課長とは今では無関係な間で当然出会ったこともありませんが、会いたいとも思いません。人の良さそうな当時の社長とは偶然に3回ほども電車の車中で出会って視線があいました。これも人生の一コマとしては中々に面白い話だと感じております。
私が通信会社の営業を担当してから、工事の打ち合わせでデータセンターに頻繁に出入りするようになったある時、外注会社の技術者がデータセンターから出てきて鉢合わせになりました。私は通信会社の工事は必ず私を通すものと思っていたので、いぶかしく思って会社に帰ってから関係者に問い詰めると、担当の設備技術者は自分で仕事を請けるのが面倒で、通信会社の設備課長に直接工事業者を紹介して仕事をさせていることが分かりました。
この設備技術者は相当に高齢でもう定年間際でもあり、いちいちそんな細かい仕事をしていられるかという様な態度でした。私が白日の下に照らして手抜き工事問題を指摘したので、以後は私が通信会社の設備課長に見積書を出すようにしました。これには相手の通信会社の設備課長も筋が通っているので反論はしませんでした。
この設備工事技術者には私に対して嫌なやつという風に決めつけられたと思いますが、それ以降は言葉を交わすことも無く挨拶も殆どした記憶がありません。
この職場では、私が仕事をすればするほど嫌なやつだと思われたらしく、挨拶をするのもよそよそしくなっていくのが分かるほどでした。殿様商売で何もしないで一日過ごしているのが常識と思っている程の会社のせいか、目立つという事が嫌われた原因のようでした。

私が仕事の手抜きを指摘したこの年配の設備技術者は、色が黒くて精悍な感じで、室内での話し声も大きく「おい」とか「こらー」とか静かな室内に響き渡るのでした。中国武漢の製鉄所で仕事をしたのが自慢で、職場で時々自慢げに中国語を披露していました。
そのうちに某ハウスメーカーが中国に進出するという話があって、この男は経験を買われてハウスメーカーに喜んで転職をしました。しかしがら、1年もしてから中国での現地でトラブルがあって日本に帰ってきたという話を聞きました。この男は自己主張が強いので、相手と相談しながら仕事をするという事が出来なかったのだろうと思いました。そういう噂を聞いた時、現地人との間に軋轢が生じて現地にはいられなくなったのだろうとは容易に推察が出来ました。
通信会社の設備課長が自前のデータセンターを建築すると、私の勤務していた会社に対して設備増設などの投資が少なくなり、仕事は急激に少なくなりました。
携帯電話の事業は順調に拡大しているようで、設備課長に面会のため事務所に行くと、一昔前までは勝手に相手の事務所中の机の前までいって「こんにちは」と挨拶して、設備課長の机の横の近くで打ち合わせをしていました。場合によっては先制を期して設備課長が出社する前に事務所内で待っていることもありました。
自前のデータセンターを作り顧客数が増えて、マスコミで情報漏洩とかが問題になったりして騒がれると、事務所の「入口から先へは入っていけません」と言われ、最後には「廊下の入り口までしか入っていけません」と言われるような始末でした。
会社として情報漏洩を防止するために入るなと言われているのか、嫌われて入るなと言われているのか、どちらか本当かが分からなくなりました。個人的には情報漏洩を建前にして、私を中に入れたくないと思っていたのではないかと感じていました。以後は受付の横の会議室で打ち合わせをして普通の会社と同じになったのかとも思ったのでした。

設備課長は仕事上で確執があったせいか、彼の個人的なことには全く触れなかった、というべきか触れる間も無く攻撃され続けたというのが実態でした。
後々の聞き伝えでは、設備課長は海外スキーに行くのが趣味でと言う話を聞くと、私だけで無く相手の設備課長もそれなにりストレスがたまっていたのかと推測をし、何事もあれだけ強気に押してきた裏側を見せられたような気がして得心しました。
相手の事務所内で散々喧嘩をしながら気分の悪い仕事をしていたのが、その喧嘩をする場所も段々と事務所から外に押し出されるに連れて仕事が少なくなったのは、少なからず因果関係があったのではないかと感じた時がありました。
携帯電話の事業が好調に推移して事業計画の4倍とか5倍もの売れ行きになると交換機の増設がどんどん進みましたが、データセンターの中は交換機の設置場所が無くなりそうだと言う時、設備課長から私にはではなく、技術者に対して建物の増築検討の要請がありました。年中費用値下げを言い続けている手前自分の身勝手な話はしたくないという理由ではなかったかと推測しました。

依頼を受けた技術者は、敵の首でも取ったかのように社内中に建築見積依頼を触れ回り、親会社の建築事業部に提案を作らせました。
データセンターは設置スペースを自由にレイアウト出来るようにと無柱構造を売りにしていましたが、相手が何でも安値の設備課長なので、建築費用を抑えるために無柱構造では無く、普通の建物の様に柱を部屋の中に立てた構造にしました。部屋は柱だらけで、空調室とのコンピュータ室との境目にある壁も作らないと言うような、何とも安ぽっいものだと私は感じました。しかしそれ以外にさしたる費用削減の妙案も無く、費用は何十億円というような物になり、件の設備課長からだめ出しを食らったのでした。
安易に安く作れば良いという思想が受け入れられなかったのと、そなんにしても尚世間相場からすれば割高という費用だと思いました。技術者はこれだけの費用に抑えたのだから必ず注文してもらえると思い込んでいたようですが、懐疑的に見ていた私の読みが当たって注文がもらえませんでした。
これには当時の事業部長がデータセンター事業は投資ばかりかかり儲からないというような自説を持っていたこともあり、妥当性のある費用になるよう親会社とは折衝せず、担当者任せにしていたのも一因でした。しかし結果的にみれば、この客先は15年後位にはデータセンターからいなくなったので、追加で投資をしなくて正解と言えば正解でした。ある意味では客先と丁々発止で事業を拡大出来なくてしぼんでいく客筋だったのです。

その後、件の設備課長はデータセンターの近くに自前のデータセンターを建築してしまいました。費用は勿論当社の増築費用よりも安価だったので驚きました。と言うのは、増築するビルには受電設備が無く隣のデータセンターから電源を給電する方式だったので、その受電設備さえも含んで当社の見積金額以下というので驚きが増したわけです。
業者に安く作らせた分、工事は雑で配線は線がバラバラで整列していないとかで外見は悪かったようです。これから先は何時も設備課長から「お宅のデータセンターの半値以下で自前のデータセンターを建築しました」と言われるようになりました。
建物の設備仕様は中々教えてくれませんでしたが、その後調べて見ると安価な低圧の受電設備というのは解りましたが、それでも同じ免震ビルで驚くほど安く建築したという事実には驚きを隠せず「いやあ、今回限りは参りました」と設備課長に頭を下げたのでした。
相手先の通信会社の設備課長は常々データセンターの賃料が高いので値下げしてくれんかねと、私が担当になってから言い続けていました。私個人としては確かに高いですねという個人的感想は持っていましたが、サラリーマンで会社に勤務している以上そういう事はいえませんでしたので、只ひたすら事業部で決めた価格で相手側と話をせざるを得ませんでした。
値下げ問題は私が度々月曜日朝の会議でも報告はしたのですが、誰一人としもこの話題には「乗れませんな」という意見でした。自らが損をするといような話には乗れないということでしたが、私には身勝手な連中だとしか思えませんでした。ビジネスというようなものを損得でしか考えられない了見の狭い人ばかりだったのだろうと思いました。そんな社内状況だったので事態が進展しませんでした。

しびれを切らした相手の設備課長は自ら動いて、某不動産鑑定会社にデータセンターの賃料相場の調査を依頼したのでした。その鑑定会社がたまたま私の勤務する会社の親会社の関連会社だったこともあって、そういう事が行われていることが情報として伝わりました。
営業部長は相手の設備課長から依頼を受けた不動産鑑定士を呼びつけて、経緯を聞いて同時に鑑定書を内々見せてもらいました。これは多分違法行為になると思われましたが、そういう事には全く無頓着でした。その不動産鑑定書の内容は設備課長の主張する内容とほぼ同じでした。そうなると設備課長がずっと主張してきた事が正しいと証明されしまう事になるのでした。

ここからは私の出番となり、不動産鑑定士の評価した数字と、私が同時に追加評価した客観的と思える数字との一騎打ちになりました。不動産鑑定士はあくまでも不動産という立場からの評価したのに対して、私はコンピュータを設置している特別な建物という観点で評価項目を作って違う立場で賃料を試算して自らの正当性を主張しました。当然ながら賃料に対する主張は平行線なので折り合うことはありませんでした。
こういう不毛な会議を数ヶ月も行いましたが、相手の設備課長はこれ以上譲歩しないと見て、弁護士を入れて何とか値下げをさせようと画策したので私は感情的に非常に不快な思いをしました。そいう事態になったのは、私が前面に立って折衝しているのに、営業部長以下の面々は沈黙して何も方針を出そうとしなかったせいでした。値下げという事がいやなので黙りを決め込んで、私にいやな役回りをさせているだけにしか思えませんでした。
相手の設備課長が同席させた弁護士との会議でも私は自分の主張を説明せざるをえませんでしたので、当然ながら話は平行線でした。設備課長は弁護士に加えて数人の社内の人間を証人として同席させて、会議の様子は録音機で記録していました。対するのは私と営業部長の二人だけで何とも寂しいかぎりでした。

こういう状況でも事態は進展しないので私は設備課長と二人だけで直談判して、両者の言い分の間の費用で決めようと内々打診したところ、相手の設備課長も1年間も折衝して何の成果もないのに焦っていたのか渋々了解の返事をしたのでした。
こういう状況になった時、今度は営業部長は担当営業マンが事態の解決をしたので、自分の立場が無いと思ったのか慌てて相手先の設備課長に単独で面会して折り合い条件を聞きに行くと、何百台もの携帯電話の購入条件をお土産としてもらってきたのでした。
相手の設備課長からしてみれば、ずっと折衝してきた頑固な担当者が同席していないのに乗して、何にも出来ない営業部長に嫌がらせでもしてやれというような気持ちだったのだろうと思いました。

この件は収拾に1年間もかかり、非常に時間がかかりましたが、値下げを嫌だ嫌だと言うだけの会社幹部の経営センスの無さが事態を長引かせたと感じました。同時に、自分の立場に傷かつくとしか考えていない役所体質も一因と思いました。相手の事よりも自分が大事ならば、そもそも一般社会に対する事業を行うこと自体がおかしいとは全くもって考えつかない、武家の商法が地でいったものだろうとも思いました。
設備課長とはこの1件以来どんどんと疎遠になっていくのは極自然のことだろうと思いました。