通信会社は売上規模は、私の所属する事業部の中では大きかったので、毎年年始挨拶は通信会社の社長に面会をお願いしました。私がこの通信会社を担当していた時は社長は1度交代しただけでしばらくは同じ人でした。
私が担当した平成5年頃は、携帯事業の0先行きが不透明なので余り事業の話には触れず一般世間の話に終始していました。その後、携帯電話事業を開始してもしばらくは不調だったので「大変ですな」と言うような当たり障りの無い話だけでした。
タレントを起用したのが当たって事業が好調になると、大人しそうな社長も饒舌になり「そのタレントと一緒に写真を撮った」と自分から話を始めたので驚きました。社長は真面目ではありますが田舎者のような風貌だったので、これでは月とすっぽんではないかとその時は思いました。
又、年始挨拶と言えば受付は忙しいものですが、その受付の騒がしさも事業の拡張と共に変わっていくので、つくづく会社なんてものは好調になれば自然と人が寄ってくるものだというのを肌で感じました。

その後、データセンターの賃料値下げの折衝というかほぼ事件に近いような、ああでもないこうでもないと口論が続いた年に年始挨拶に行った時には、設備課長が弁護士をつれて出てきた席では私が大声で感情的に反論したのが社内でも有名になっていたらしく、社長も私の顔をまじまじと見ていたのが記憶に残っています。
通信会社の設備課長からデータセンターの敷地内にアンテナ鉄塔を建築したいという話が持ち上がりました。他の通信業者とアンテナで通信をしたいという要件が出たからということでした。
その後、電波による通信だけではなく光回線も2ルートで引き込む必要性が出て、これはルートを決めてから敷設するルートの地主に許可をお願いして工事をしました。

アンテナ鉄塔を建築するというので、設備課長からは自分でもあちこち業者を当たっているが安く建築したいので、私に業者を当たってほしいとの要請をうけました。
費用は約1億円ということでしたので、これより安くできる業者を当たりました。何社かに電話するとこの鉄塔案件は業者間で情報が共有されていて、何処に電話しても費用は1億円ですという答えしか返ってきませんでした。
設備課長に「費用は何処も同じですよ」と連絡すると「あいつらは何時も談合するからね」という答えが返ってきました。その後、試しにもう1社に電話で尋ねると「工場が空いているから7千万円でやってもいいよ」という話が返ってきて工事を発注することになりました。1億円の予算を7千万円に費用圧縮したので、設備課長には少しは貢献を認めてもらえたような気がしました。
しかしながら、当時の上司である営業部長はアンテナ鉄塔建築という事に対して理解が無いので注文は受けたくないと判断しました。営業部長は、敷地内の地盤工事をする親会社の建築事業部にこの注文を渡してほっとしている様子でした。訳のわからない売り上げなんか欲しくないという事だったのでしょうが、その後詐欺事件にも遭遇したのは営業経験が浅いというか、注文をもらうという苦労を知らないということかなと思いました。

この工事についてはもう一つ因縁がついていて、アンテナ鉄塔工事の設計を行う時に、親会社の関連業者にお願いしたのですが、通信会社の設備課長から3百万円という予算を言い渡されていました。私が受注して発注をしたのですが、その後業者からは7・8百万円かかりますと言われたので設備課長に伝えると、費用は増額出来ないと言われました。そのまま業者に伝えるとその時は了解をしたような返事がありました。
この業者は設計を受注すれば1億円のアンテナ鉄塔工事が自然に受注できるものと思って、不足する設計費用をアンテナ鉄塔工事費用で穴埋めできると思っていたのでした。
しかしながら、設備課長は工事は別会社に発注することに決めたので、設計した会社はあわてて設備課長に増額を要請したのですが、設備課長は決まった費用で契約していると譲らず、設計した会社は費用はもらえませんでした。こういう業者泣かせの取引をしているのに疑問を感じたのでした。
通信会社の設備課長の丁々発止の費用下げ問題は年がら年中続いていました。私の個人的な感想を言わせてもらえば、気持ちは分かりますが「人には立場立場があって安易に妥協することが出来ないことも多いですよ」というような感想を常々思っていました。

12月には取引金額も大きいので毎年忘年会を神田のホテル内にある居酒屋で開催しました。先日通りすがりにこのホテルの前を通った時に確認したら、今ではオーナーも変わり居酒屋もありませんでした。
この居酒屋の売りは、店主が日本中から珍しい日本酒を集めて客に提供しているというもので、地場でしか手に入らない日本酒があって日本酒愛好家には嬉しい店でした。料理も普通にはなかなか出てこない美味しいすっぽん鍋などがあったのが記憶に残っています。

この居酒屋で、通信会社の設備部の部長さんの他、課長さん何名かと件の設備課長も同席して毎年忘年会を行いました。
設備課長は酒はあまり強くはありませんでしたが、上司である部長が同席しているというので安心して飲み食いをして、世間話に花を咲かせていました。そういう会話の中でも時々費用が高いという常套句が出るので、折角の楽しい場に影がさすように思われて、私には嫌みとしか思えませんでした。しかし設備課長はそういう事など無頓着だったので、この人は気を配ることのできない人だと思ったのでした。
この忘年会では日ごろからお付き合いの少ない設備部長さんのお話を聞いていると、性格も温厚で話も面白いので、件の設備課長のハチャメチャな態度とは正反対なので、年に一度限りの平和な時間が過ごせているように思えたのでした。
通信業者が急激に交換機を増設するのに伴い、データセンターの電源供給も増強する必要が出て色々な問題が発生しました。

1つ目は商用電源を無停電にするCVCF電源設備でした。データセンターには冗長化されたといいながら2台の大容量CVCFがあっただけでした。業者からは増設時には停止が必要と説明されました。既に通信業者以外のユーザーにも給電しているので停止するわけにもいかず、仕方なく一時的に商用電源に切り替えて増設しました。ユーザーのシステム稼働に問題が少ない日曜日に切り替えを行いました。
本来ならば停電に近いような状態を行わなくても増設が出来るように設計すべきだったのが出来ませんでした。
この問題も素人同然の設計者が電気設備設計を行ったという証になりましたが、営業部長は施主で本来ならば苦情を申し立てるべきところ、建築会社である親会社の建築事業にはそういう苦情は一切申し立てませんでした。接待の酒漬けはいいとしても、こういう事態に至ってもへらへら笑っているだけでは、お人よしを過ぎて腑抜けという風に感じました。

2つ目は自家発電機の増設でした。災害時に東電の電源が供給されなくなった時、自家発電機で通信会社の交換機に給電するというので、必要容量を通信会社と契約していました。交換機が増えすぎて契約容量も既設自家発電機容量を上回り、自家発電機の増設も迫られました。こちらは自家発電機費用と工事費用が高い投資になり社内でも問題となりました。

元々データセンターの投資回収計画が計画通り進んでいなかったうえに、自家発電機とかCVCFの高額投資をせざるを得ないと言うのが問題でした。
建築費用が相当に高く、それを反映して賃料は相当に高額だったので入居する顧客がなかなか見つけられませんでした。勿論見つけられないのは営業的な弱さもあったのですが、それ以前に商品としても価値が問題だったのでした。
そういう状況に加えて益々借金を重ねる設備投資に役員説明は苦労したようです。その説明には営業部長と技術者が当たったのですが、会社経営に明るくない役員には借金だけが増えるように思えて承認出来ないのだろうと想像していました。
しかしながら、設備の増強は契約上せざるを得ないので、社内の承認をなんとか取り付けて増強工事をしました。それらの費用が積み上がって、償却には益々長期間を要すことになったのでした。
携帯電話事業が世間に認知されて普及が進むと電話交換機の増設ピッチもどんどん上がってきて、通信業者からは設備増強に伴う工事依頼がどんどんと増えました。相変わらず施主の技術者と私の勤務していた会社の技術者が勝手に仕様を決めてから、業者見積書を私に出すという流儀は変わらなかったので営業としての苦労は変わることはありませんでした。

この通信業者が賃借予約していたデータセンターのエリアが交換機で満杯になりかけた頃には、直流を供給する蓄電池も電源室に増設しました。問題は直流を給電するのでケーブルが太くなるという事でした。
電源室から交換機を設置しているエリアまでは上下のケーブルダクトを通していたのですが、本数が増えるとケーブルダクトが満杯となってケーブルダクトの外側に敷設するしかなくなりました。そうするとケーブルを通すために床に穴を開けるだけでなく他社の賃貸エリアを利用することになるので、当該の会社にエリア利用のお願をしなくてはなりませんでした。当然ながら無償でという条件をつけましたが、オフィスでもないので快諾をもらい工事をすることが出来たという事がありました。
会社関係の無い他社エリアの端にケーブルの塊が出現するという変な光景が出現したのでした。

こういう状況はこの通信業者が音声サービスをインターネットサービスに統合するまで続きましたが、音声サービスが終了するとデータセンターの賃貸借契約を解除して設備撤去して漸く元の姿になりました。
その時は私が担当から外れて10年ほどしてからのことでした。
データセンターに通信会社が設備工事を行う時は、大勢の職人さんが出入りすることや騒音がでるので、たいていは夜間から朝方になる場合が多く、私は工事の立会も度々行いました。
大きな工事の時は件の設備課長も会議室に詰めるので、事前におにぎりとか果物とかを買い込んで会議室に置いて準備したのですが、設備課長はそういう気遣いが嫌なのか余り喜んではいないようでした。お客様待遇というような気持ちで準備している私は変な男だとしか思えませんでしたが、普段の費用折衝でぎくしゃくした関係なので、こんな事で安易に業者に取り込まれたくないという気持ちがあったのだろうと感じていました。

データセンター内で工事が始まると、最初は会議室で施主である設備課長と雑談をしたりするのですが、時間が有り余るので時々現場の工事の状況を確認する事もありました。
夜も12時過ぎなのですが、現場では大勢の人たちが働いていましたが、体の動きが鈍い様には思えました。
ある時直流の大電流を流すケーブルの先端が何処かに接触して室内に花火のような火花が出て驚かさせられました。夜間で作業が雑になったのかなと思いました。火花が出るのを見たのは1回限りでしたが、低圧の直流でも大電流となるとこういう火花が出るのだというのが分かりました。
幸いにしてけが人も出なかったので事なきを得ましたが、火花でやけどでもしていたら大変な事故になるところでした。夜間の作業はどうしても注意力不足になるのかなと思いました。

通信会社の設備工事はメインは電源ケーブル敷設工事でしたが、太い電源ケーブルを何本も床に敷設するので、60cm高のフリーアクセスの床下はまるで川が流れるようなケーブルでびっしりと埋まり、フリーアクセスの何十センチがケーブルなので床下空調の風が通りにくいのではないかと思いました。
このケーブルも綺麗に揃えて敷設するとなると手間がかかりました、そういう意味では費用が高くなる要因でした。
後に設備課長が私どものデータセンターよりも安価にデータセンターを建築したという噂を聞いたのですが、ケーブルが波打ってめちゃくちゃになっていますと聞いたことがあります。
会社の対面の設備課長は何時も「おたくの会社の費用は高い」と言うのが癖でした。
考えてみれば費用は世間相場よりも高いのは私も十分に理解していました。親会社の費用が世間相場よりも高いので、それに管理費を上乗せして提出するので益々費用は高くなり、世間相場からすると相当高く見えました。
こういう事は通常のオフィスビルを賃貸する時には間々あるもので、ビルを管理している会社が指名工事業者しか利用できない規定になっているので、高い安いは関係なく言い値で工事をせざるを得ないのが日本の常識になっています。そういう観点からすれば、賃借している会社が設備費用について云々すること自体がおかしいとも言えますが、そもそもその考え方がおかしいというのを設備課長は指摘していました。

データセンターの設備工事が通常のオフィスビルの設備工事と違いがあるかどうかという話はとっくに終わっていて、工事の総額が何億円というようなオーダーなので費用にこだわりが出るのは当然だろうと個人的には理解できるものでした。しかしながら、そういう費用を認めてもらうのが仕事だったので苦労したということです。
設備課長が値切るのは工事総額の金額もありましたが、職人や資材の単価についても追及するのでいちいち屁理屈をのべなければなりませんでした。当然ながら設備課長は、他の業者の工事見積も見ているので、そういう見積書との比較になっているのは容易に想像できました。
設備課長からの指摘事項を、社内で見積書を取り寄せた技術者に伝えると嫌な顔をされましたが、この技術者は折衝するときにどういう事態になるのか理解しないまま事務的に見積依頼をするので、毎度同じことが繰り返されました。
個人的見解では、設備課長の許容する範囲が狭くて、それも社内でも功績つくりの為だろうと思いましたが、その範囲に入れるのが難しいということだったろうと思っています。最後には納期が間に合いませんという切り札で、設備課長の納得も中途半端なままに注文をもらうこともありました。
データセンターを賃貸していた通信会社の設備課長が当社の窓口で、私がこの会社を10年ほど担当した間ずっとつきあいました。割合と軽いのりの人で関西弁でまくしたてるのが癖で、元々某金属会社からの転職だと言っていました。しかしながら、転職先の通信会社は元々は公務員のような雰囲気の会社だったので、プロパーの人たちは鷹揚で人柄もよくお付き合いするには何の問題もありませんでした。そういう意味ではこの課長が問題児とも言えなくはありませんでした。

この課長は毎日朝8時以前には出社していたので、長々と話をしたり大勢の面前では言えないような事も話したりするには好都合でした。それは相手も同じ様に感じていたと思います、当然ながら普通のやわな営業マンとはちがって嫌な相手と思われていたのは間違いとは容易に想像できました。
転職組だけに当然ながら功績をあせっていたのは間違いありませんでした。他のおとなしい社員では費用も業者のいいなりなのに対して、この課長は厳しく査定して存在感を出していました。
そういう設備課長の態度に対応して、私も営業マンのこけんにかかわると思って粘り強く食い下がって折衝したので嫌がられたのは間違いありませんでした。

私の所属していた技術者にも問題があって、大変な苦労をして折衝する営業マンには相談もせず、勝手に通信会社の技術者と工事の仕様を決めて馴染みの親会社や関連の業者から見積書を取り寄せ、工事を確定した最後に「この価格で見積書を出して下さい」と私に業者見積を出されるので困りものでした。
相手の設備課長は必ず費用が高いと言って私に値下げを要求するので、私は社内の技術者と客先の設備課長との間に挟まって身動きが取れないのでした。
信じられないような仕事の進め方が行われていたのは、殿様商売しかしたことの無い会社からだろうと強く感じさせられたのでした。
上司である営業部長も余りそういう事には疎く、親会社の見積書ならば尚更何とか認めてほしいと思っていたのがありありと分かるほどでしたが、それは自分が日ごろから接待漬けにされているせいだと思って、私は冷ややかに報告して、どうするんだと言いたくなる事が日常的に起こっていました。
社員が上意下達だけで社外の取引先と付き合っていけると社内の皆が思っていたのが社内の現状だというのを感じて、何とも言えない嫌悪を感じていました。
今から20年以上も以前、データセンターの営業を担当した時に最初に受け持たされたのが既契約であった某携帯通信会社でした。私が担当した時でも未だ携帯電話による音声サービスは出来ておらず、エリクソンという会社の交換機を決めたという様な時でした。
データセンターも本来なら交換機を設置する場所ですが、折角借りているというので事務所に改装して利用しているような状況でした。
dokomoという会社も創立されたばかりで、水道橋のビルにもう1社の携帯電話会社と共に入居していたので、呉越同舟とはこういう事かと思ったものでした。携帯電話サービスが開始されるとdocomoはあっという間に携帯電話市場を席巻したのですが、そういう風になるとは当時はとても想像ができませんでした。

営業窓口であった設備管理課長は「一昔前は肩から紐で吊るした形の携帯が普通でしたね」と言って小型化された携帯電話を自慢していました。現在市販されている携帯電話から比べれば、まだまだ重く値段も高かったので何となくステータスのように見えたのでした。
携帯電話市場も最初は価格問題もあってかなかなか業績が伸び悩んでいて、自然と費用削減というお題目が出てきて、私の担当しているデータセンターの賃料も目を付けられたのでした。そして事件化するのは数年後でした、これば別項で記載する予定です。

サービス開始して倍増していったのはタレントを起用して派手な宣伝を始めてからでした。1年前の売れなくて困ったというような空気は何処へやらと言う様な雰囲気になり、年始挨拶に社長に面会すると御機嫌であったのを思い出します。
入口の待合室には最新の携帯電話がズラリと並んでいて、製造するメーカーもこのころが絶頂期だったというのは、後に韓国メーカーに席巻されてから分かったのでした。
台風が来た時、データセンター1階事務室が雨水で濡れたということがありました。
データセンターなので建物の外側には窓が無く、1ケ所だけ休憩室には硝子張りの窓があり外を見ることができるようになっていました。
建物はそういう殺風景な外観なので、1階事務室の天井部には外光を取り入れられるようなガラス窓があったのですが、その部分の隙間から台風の時に雨水が入り込んだようでした。

データセンターの建築には大枚の金をかけたと言われたいただけに、こういう話を聞いたときにはがっかりしたのと、やっぱりかという気持ちになりました。
建築工事は親会社の建築事業部が実施したのですが、施主も工事する人も知り合いの仲間なので、工事もなあなあで済ませたものだろうと推測され、適当に手抜きされたのだろうと思った時でした。
雨水の吹き込み防止の工事はしたのですが、費用は支払らったのかどうかは分かりませんでした。普通なら瑕疵にあたるので無償で行う工事だとはおもいましたが・・・。

私がこのデータセンターの見学を何回かするうちに、色々な欠陥を見つけては報告して、修理をしてもらいました。目に見える細かい箇所が工事されていない事があったので、建物自体も大丈夫かなと不安を覚えたのも事実です。
そういう欠陥を知りながら営業をするのはサラリーマンとしては少々つらいものがありました。転職する以前の会社でも中古のコンピュータの外観だけ換えて新品で売るという事があり、変なビジネスだなと思いながら営業活動をしていました。自分のサラリーマン人生の運命というのをこういう場面で思い知らされたのでした。