すべての学問は人間によって構成されたものであるがゆえにその構成のあり方は人間の理解に適した形に作られてきた。論理学が要求する論理を満たしておらずとも、同じ学問を研究する共同体の中で許される言語の非論理的な使用法があり、共同体が暗黙の裡に認可した非論理的手法が学問の構成に利用されている。断言はできないが、論理学の許す論理のみを用いて構成されている学問は存在しないように思われる。さらに言えば、論理学の許す論理のみによって個人としての人間に理解されている学問は全く存在しない。

 

 例えば数学の論理性について考えよう。多くの人間は数学を完全に定められた論理のみによって構成された学問であると考える。私は数学基礎論をよく理解していないため断言できないが、この考えはおそらく正しいだろう。しかし、一般に数学書ですべての論理の出所が明記されていることはないし、ましてや数学的記号と論理学の記号のみを用いてすべての論理が論理学の用法に乗っ取って書かれていることはない。論証に必要だが、文章を冗長にし、かつ明示的に示さずとも読者が理解できると期待される部分についてはしばしば省略され、省略された部分の論証に関しては読者にゆだねられる。最も汎用されているものとしては「一般性を失わない」や「同様にして」が挙げられるが、細かいものだと無数にある。

 

 論証の省略は読者にとって、たいていの場合その論証の理解の助けとなる。論証全体が短くなることによって論証の難解な部分、理解が困難な部分が強調され、その部分の理解に注力することができる。論証の部分的省略は論証を見かけ上非論理的なものにするが、読者が論証を理解しやすくなるし、数学という体系のある部分を構造的に、すなわち命題間の論理的関連性をより詳細に理解することができる。

 

 しかし、いずれの学問においても、理論や主張の構成に非論理的手法を用いる際には、自らの記述している文章ないし発言している言葉が非論理的になっていることを自覚し、今自分が非論理的手法を用いることが許されるかどうかに注意しなければならない。不適切に用いられた非論理的文章は読者や聴衆の理解を妨げるからである。まず、自分の用いている学術用語の定義は明瞭にしなければならないし、定義できないものであればせめて言葉の意味を一般的に共同体が要求する程度に明確にするべきである。そして、一般的に許されていない言葉や記号の使い方は、特にそれに意義がある場合を除いて控えるべきである。

 

 なぜこのようなことを書いたのかというと、私が最近読んだ何冊かの比較的新しい(ここ30年以内に書かれた)物理学や数学の専門書について、まさに上記の不適切な非論理的手法が数多く見られたからである。そのような非論理的文章は読後自分の内側で再構成しにくい。自分の中で体系的に構成することが難しいために、後で得られた知識を利用することが困難になるのである。なぜこのような文章を書くのかは想像に過ぎないが、著者はおそらく自らの内側で学問を論理的に構成できていないのではないかと推察される。または、日本語を論理的に利用するということに慣れていないのかもしれない。

 先週、モデルナ社製の新型コロナウイルスワクチンの未開封の容器の一部に異物が混入していることがわかった。既に新型コロナウイルスワクチンを打った人は、ややもすれば自分の体の中に本来入るべきでない何かが入り込んでいるのではないか、自らの体が未知の存在、自らにとって害をなす存在に侵食されているのではないかという人間の根源的な恐怖、気色悪さ、不安を感じているのだろう。

 

 このような人間の根源的な恐怖心、人間の動物的、原始的な性質に密接にかかわる恐怖心というのは一般に非常に厄介で、人間の理性で克服することが困難であることが多い。恐怖に囚われた人間は次に、今回の件に関連した疑いを持つだろう。例えば、

  • 自分が打ったワクチンの種類はモデルナ社製だったか?
  • 使用が見合わせとなったワクチンのロット番号と自分の打ったワクチンのロット番号は同じか?
  • 仮に自分の打ったワクチンに何らかの問題があった場合、どんな健康被害があるのか?
  • 実際に今回の件に関連した健康被害は報告されているのか?

といったものや、より陰謀論じみたものとしては

  • ネット上で流れていたワクチン接種にかこつけて人間にICチップを埋め込もうというのは本当だったのか?
  • 誰かが作為的に入れたのではないか?
  • そもそもこの報道自体デマではないか?

といったものもある。陰謀論が活気づくのは間違いないが、それよりもずっと重要なのは今回のワクチン接種にずっと付きまとっていた、新型コロナウイルスワクチンは安全ではないのではないかという疑念に決定的「に見える」根拠を与えてしまったことだろう。

 

 今までのワクチンの安全性に対する疑念は承認プロセスなどの間接的、しかし決定的ではなく曖昧さを含む根拠を持っていたが、なによりも人間の心理的拒絶によるところが大きかったように見える。今回の異物混入について専門家はいまだ安全宣言を打ち出せておらず、少なくとも人体に関する医学的知識が少ない人間にはワクチン接種が安全であると判断することが困難になり、それどころかワクチンを接種しないと判断することが非常に容易になってしまったことにある。既にワクチン接種した人間の中からもワクチン接種それ自体が間違っていたのではないかという主張が出てくるだろう。

 

 具体的には、これからワクチン接種を推奨するには今接種に使われているワクチンのうち問題のあるワクチンが完全に排除されること、そしてそのための措置が国によって十分になされていることの根拠が必要なのだが、それを与えることが非常に難しい。国の対応が正しいかどうかはまだ判断が可能であるにせよ、使用済みを含めた他のワクチンにも異物が混入していたのかを完全に判断することは困難であると想像されるからだ。

 

 だが、私は今回の異物混入事件がワクチンの安全性に疑いを与えたとはいえ、直ちにワクチンが安全でない、安全でなかったと判断するのは誤りであるし、今までのワクチン接種が誤りであったと判断するのは早計であると考える。とにかく我々は判断を急いではならない。まだこの問題の全容解明には至っていないし、混入していた物質がいかなるものなのか同定がなされていない、そして異物混入と因果関係があると判明した健康被害の情報はない。

 

 つまり今はまだこの問題に対して判断するだけの情報がないし、こういう時はとりあえず待つしかないのだ。自分のワクチンのロット番号を見たからといってさしたる意味はない。なぜなら、既に使用済みのワクチンの中にもこうした異物混入は起こっているかもしれないし、自分の体の中に異物が混入したかは少なくとも今は、あるいはずっとわからないままである。そして、異物が混入していたからと言って、実際に健康被害が起こるとは限らない。また、異物としてマイクロプラスチックが体内にすでに人間の体内に混入してしまっているようであることを知れば、事態を相対的に見ることができる。何か体調に不良があれば、その時初めて医療機関に相談すればよい。

 

 医学の知識がない私を含め、我々は今が感情的になりやすいときであることを自覚し、一度立ち止まって考えなければならない。とにかく落ち着いて、冷静に、理性的である必要がある。

 私は昔から物理学を整合的で一貫した体系として自分の中でうまく組み立てたいと思い、色々試行錯誤を繰り返してきた。数学的理論である物理学を十二分に理解するために必要な数学と、物理学の意義と利用範囲を規定づける哲学を学んできたが、その成立要件から最先端の研究までを網羅してなお自分の中で一貫性を保つ物理学は、いまだ完成に程遠い。

 

 しかし、一人の人間が物理学という学問と対峙するにあたって、物理学に振り回されるのではなく、物理学を鳥瞰的に見る、そして物理学という恐るべき巨人を人間が統御するには、物理学を己の中ではじめから組み立てなおしてみる、再構成してみるという作業は絶対に必要である。

 

 大分苦労しているが、私はいつか物理学を一貫した形で、既存の考えを一貫性に必要なだけ再構成して、己の中で整合的に構成することを目指している。それに成功すれば、計り知れないほど素晴らしい結果を生むだろう。

 今年でアジア太平洋戦争の敗戦から76年である。すでに戦争を知る世代の多くが死に、過去の戦争の惨憺たる有様を身をもって知る日本人は少なくなり、戦争を知らない子供たちは自分の国で起こったあの戦争をどこか他の国の出来事、断絶された時空間での出来事ととらえ、人ごとのように感じている。多くの若者はあの戦争のことをあまり知らないし、興味を持つ者もその武器や艦船、航空機にのみ焦点を当てたり、戦争体験者から空襲の有様を聞いたことがあるが戦闘行為自体には非常に曖昧な観念を持っていたり、言葉による叙述としては知っているが戦争を体感を持って感じ取る、すなわち自らの内に内面化し戦争とそれを行う人間の有様に心の奥底が動かされるといったことができないように見える。

 

 だが、まぎれもなくあの戦争は約80年前、15年もの長い間続いたし、太平洋戦争の4年間は特に戦禍が拡大したのである。特に学生は好む好まないを問わず強制的に徴用され、戦争の最前線に送られ、銃弾に倒れ、飢餓に倒れ、病に倒れたのである。

 

 まず、学生は繁華街をただ「歩く」だけで警察に捕まった。学生の分際で映画を見たり、飲食店を歩いたりするのが、「時局をわきまえない不良不埒の行為だ。」というのである。昭和13年2月には、わずか3日間に東京だけで3,486人の学生が挙げられたという。当然思想的弾圧は甚だしく、太平洋戦争開戦後になれば、自由主義とは、「敵米英」と同義語のように使われ、自由主義を表明することは、みずから「国賊」「非国民」であることを宣言するに等しかった。

 

 それだけでない。大学に通う学生は戦争の進展に伴い繰り上げ卒業させられた。昭和17年3月卒業見込みの学生は昭和16年12月に卒業し、18年3月卒業見込みの者が17年9月に、19年3月卒業見込みの者が18年9月に、そして19年12月「学徒出陣」によって、在校生すべてが根こそぎ軍務に服することになった(『きけ わだつみのこえ』上、日本戦没学生記念会編、以下の引用もこの本による)。軍に入隊して1年間、初年兵は兵営でありとあらゆる方法を尽くして苛め抜かれ、上等兵の一切の面倒を見なければならない。少しでも怠れば、たちまち鉄拳制裁の嵐が吹きまくる。

 

 こうした背景を踏まえて『きけ わだつみのこえ』を読むと、戦争により学びたかった学問が理不尽に取り上げられ、戦争に駆り立てられて遠い国で死んだ学生たちの無念が伝わってくるのである。この本は日本戦没学生の手記集であり、戦地に送られた若者の中でも特に文を書く能力にたけた者の手記をまとめたものであるが、否応なく死の淵に立たされた若い学生たちの隠しきれぬ苦しみ、怒り、無念が伝わってくる。特に私の記憶に残っているのは京都大学経済学部生でシンガポール、チャンギ―刑務所にて戦犯刑死した木村久夫氏の文章である。彼は将校により法廷で真実の陳述を成すことを禁じられ、そのために命令者たる将校が懲役刑、被命者たる自分が死刑の判決を下された。理不尽なる死を遂げようとする最中でも新たな日本の行く道を考え、自らの考えを遺書として残したのである。彼はあらゆるものをその根底より再吟味するところに日本の再発展の余地があると述べている。私はこの言葉を、何事もまず疑うことから始めなければならないという遺訓と受け止めた。

 

 我々戦争を知らない若い世代はどのようにしてあの戦争を知ればよいか。私は、まず叙述としてのアジア太平洋戦争を知ることが大事だと思う。15年にも及ぶあの長い戦争を断片的な戦闘や空襲のみならず、柳条湖事件から玉音放送まで包括的に知ることで、あの戦争を時間軸に沿った流れとしてとらえることができる。

 

 だが、あの戦争をただの歴史としてとらえてはならない。ただの叙述としてとらえれば、あの戦争があまりにも今の日本人の有様と異なるためにどこか平安時代や江戸時代の出来事のように感じてしまう。それでは時間軸が1945年8月15日と1945年8月16日で完全に途切れてしまう。つい76年前まで続いていた戦争なのだから、今に密接につながる歴史として、今と一つの流れとして、連続性を持ってとらえなければならない。

 

 そのためにはどうすればよいか。そのために必要なのは、戦争の惨禍に苦しんだあらゆる人々の感じたことを想像し、痛みを知ることである。我々は戦争を目の前で見たことがないのだからどこまで行っても戦争は想像することしかできない。しかし我々には他者に共感する能力がある。戦争の最中にある日本人、韓国・朝鮮人、中国人、東南アジアの人々、出来る事ならアメリカ人の感じたあらゆる感情、怒り、興奮、苦しみ、恐怖、狂気、無念、諦念、時には喜び、楽しさ、嬉しさを、我々も映画や小説、ドキュメンタリーなどを通じて不完全ながら感じることができる。特に彼らの痛みを知ることが最も重要である。なぜなら痛みは最も長く続く感情であり、今でもあの戦争の痛みを忘れられない人が多くいるし、日本国内のみならず周辺国においても社会問題となっているからである。それに、痛みを知ればそれを与えた相手に自然と謝りたくなる、謝罪に駆り立てられるものであり、それは相手と腹を割って親密になるには欠かせないものである。

 

 未来は過去の繰り返しであってはならない。現在は、よりよい未来のためにあるのである。