山鹿市鍋田の山鹿市立博物館の隣接地に移設されて所在する市指定有形文化財の
大坪橋です。
令和5年6月に市指定になったばかりの文化財ですが、山鹿市立博物館の隣に移設されているため目にされた方も多いと思います。
慶応元年(1865)から明治3年(1870)にかけて建設されたと伝わる、橋上に水を通す水路橋です。現地の説明板には、幕末の惣庄屋だった福田春蔵が水利の乏しさに苦しむ中村地区に、寺島井手の用水をひくため西上町吉田川に架橋したとあります。
※写真は2020年5月撮影
山鹿市鍋田の山鹿市立博物館の隣接地に移設されて所在する市指定有形文化財の
大坪橋です。
令和5年6月に市指定になったばかりの文化財ですが、山鹿市立博物館の隣に移設されているため目にされた方も多いと思います。
慶応元年(1865)から明治3年(1870)にかけて建設されたと伝わる、橋上に水を通す水路橋です。現地の説明板には、幕末の惣庄屋だった福田春蔵が水利の乏しさに苦しむ中村地区に、寺島井手の用水をひくため西上町吉田川に架橋したとあります。
※写真は2020年5月撮影
熊本市西区池上町に所在する市指定有形文化財の
金子塔です。
国指定史跡「池辺寺跡」から山を15分ほど登った所にあります。
金子塔は、建武4年(1337年)に建てられた安山岩製の笠塔婆で、4面に梵字と池辺寺の由来が刻まれています。池辺寺跡の隣接地にレプリカが建てられてもいますが、せっかくなら実物を見てみたいですね。現地の塔は倒木があっても塔が損傷しないように鉄のフレームで覆われています。
池辺寺跡に向かう道を上がっていき、左に曲がると池辺寺跡と駐車場がありますが、そこを左に曲がらずにまっすぐ登っていきます。道が狭く車を止めるところもないので、池辺寺跡の駐車場に車を止めて歩いていくのがよいです。コンクリで舗装されている道をまっすぐ登っていくと上の写真のように道が分かれますが、ここは左側の道を登っていきます。
上の写真の左側の道を登ると、左側に用水路を渡るコンクリ製の小さな橋が見えますが、これを渡らずにまだまっすぐ進みます。
この場所から左のけもの道に入っていきます。ピンク色のテープが目印です。
上の写真をけもの道の入口側から見た写真です。ここから山に入っていきます。
このようなけもの道を登っていきますが、ピンク色のテープが道沿いに付けてあるので、それを辿って進みます。
ピンク色のテープを目印に進みます。
金子塔につきました。立派なフレームで守られています。
※写真は2024年3月撮影
合志市福原に所在する市指定史跡の
桑鶴遺跡です。
桑鶴遺跡は、縄文後期から弥生時代に至る遺跡です。
戦前の昭和6年に本山彦一の援助を受けて、地元の郷土史家である大塚了城や坂本経堯が調査を実施しました。縄文時代の時期としては、三万田式~御領式という比較的限られた時期になります。
※写真は2024年2月撮影
熊本市西区池亀町に所在する
池亀八幡宮境内板碑です。
文化財の指定は受けていません。
境内の入口の正面向かって右側に小祠が2基あり、それぞれに板碑が祀ってあります。
向かって右側は、大永6年銘のある地蔵菩薩坐像板碑です。向かって左側は、天文9年銘のある阿弥陀三尊種子板碑です。
地蔵菩薩坐像板碑です。
大永六年の年号が刻まれています。
地蔵菩薩の下にはたくさんの交名が刻まれています。
阿弥陀三尊種子板碑です。
こちらには天文九年の年号が刻まれています。
※写真は2024年1月撮影
熊本市東区画図町に所在する
芥川板碑(所島観音堂境内)です。
文化財の指定は受けていません。
芥川板碑とは、18世紀末頃の寛政年間に田迎手永の惣庄屋であった芥川守拙が建てた一字一石碑です。
この白山神社境内の芥川板碑は、所島観音堂の境内に位置します。
通常、芥川板碑は、中央に聖観音像等を彫りますが、この板碑には珍しく彫られていません。が、他の芥川板碑と同じく、厚みが2~4㎝程度しかない薄い板碑です。
※写真は2024年1月撮影
熊本市西区上高橋に所在する
高坊古墳です。
文化財の指定は受けていません。
高橋稲荷大橋の北側の斜面に位置する6世紀後半の古墳です。
墳丘は完全に取り除かれ、石屋形のみ残っています。
※2023年12月撮影
熊本市中央区井川淵町に所在する
豪潮宝篋印塔(極楽寺境内)です。
文化財の指定は受けていません。
極楽寺境内の庫裏の前に所在します。
よく見られる豪潮宝篋印塔と形状や大きさは一致しますが、塔身には豪潮の名は見られません。文化13年に建てられたもので、願主は極楽寺の住職、建立は島崎石工の善七らによるものです。
※2023年12月撮影
熊本市中央区細工町に所在する
西南戦争(熊本隊)戦死者の墓(宗禅寺境内)です。
文化財の指定は受けていません。
宗禅寺の本堂裏にある墓地の入口に所在します。
墓碑には「西南変動肥後人戦死墓」とあり、薩軍に加わった熊本隊の隊士33人(太田邦彦、山北市蔵、麻生敬次、本田嘉太郎ほか)の合葬墓です。明治19年6月下旬に松岡独醒庵によって建てられました。この松岡は神風連の一人でもあり、熊本隊の隊士でもあった人です。
※写真は2023年12月撮影
熊本市中央区水前寺公園に所在する県指定重要文化財の
洋学校教師館(ジェーンズ邸)です。
県指定の名称は「洋学校教師館」ですが、地元では「ジェーンズ邸」という名でよく知られています。
熊本市HPによると、この建物は、熊本洋学校に外国人教師ジェーンズを迎えるため明治4年(1871)に建てられた、熊本県内に現存する最古の洋館です。
ジェーンズは明治4年から明治9年(1876)までの5年間ここで暮らし、熊本の若者達を教育しました。
また、この建物は明治10年(1877)の西南戦争の際、佐野常民が征討大総督有栖川宮から博愛社(現在の日本赤十字社の前身)の設立許可を受けた場所でもあります。
元は古城(現在の第一高校体育館のあたり)に建てられましたが、役割を変えつつ移転を繰り返し、水前寺成趣園の東側隣接地に移設されました。しかし、熊本地震で倒壊し、令和5年(2023)より、現在の水前寺江津湖公園の一角に移設復元されました。
※写真は2023年11月撮影