私としては一番の思い出に残るコンサートかもしれません。
 画像を見て頂くとよく分るように、本当に大雨の中行われたコンサート。こんなコンサートは生まれて初めてで、大変だたんですよ。
 このコンサートは2003年(平成15年)8月16日、17日に「横浜のみなとみらい21・21街区」で行われました。当日の朝6時の伊丹空港から飛行機で東京へ。宿泊場所は品川駅前。コンサート前にお台場へ行ってました。時間が来たのでJRで横浜まで・・・と思いましたがトラブルありました。お盆の時の夏のイベントと言えば「台風」が付きもので、この日もドンピシャッと当たってしまいました。その台風がやって来る前だったのですが、大雨になってしまい、横浜へ行く便が運転中止になってしましました。私は東京の地図に詳しくないので相棒に全てを任せて、遠回りをして会場へ行ったんです。途中「多分、中止やで。やめとこか」とか相棒が言いだしたので、「みんな働いてはるんや。THE ALFEEもそのことをよく承知してお盆にイベントやってはるんや。みんなこの日が休みやすいし、この日ぐらいしか休みもとれへんやろ。別の日やと意味ないねん。だからそのことを一番理解してくれるTHE ALFEEが雨やから言うて簡単に中止することない。行こ。」って言って必死で現場に行きました。
 今回、この日に行われたコンサートの映像がYouTubeで沢山UPされています。名曲も多いのですが、あえて「太陽は沈まない~白い夏バレンシア」を選んだのには理由があります。本当に一番体が冷えてしまった時だったから。
 大雨だったので皆さんが着ているように私もレインコートを着ていました。まぁ保温ってことにはいいのですが、フードを被ると音が聞こえにくくて、フードを外してコンサートを楽しんでいました。最初、メンバーが出てきて「キャー」って叫んで、巨大テレビの画面に高見沢さんのギターのストラップに「妖姿端麗」の文字が見てとれて、相棒と「それはアンタや」とか言いながらツッコミを入れて楽しんでいたところまでは良かったんです。
 徐々に頭からパンツに向かって雨水が浸み込んできて寒くなります。ここ(この映像では「太陽が沈まない」を歌った後、本当はこの後「白夜-byaku-ya-」がある)でMCが入り、寒さが回ってきます。そこで次に歌われたのが「白い夏バレンシア」。そう、メチャノリ出来ない曲になってしまって寒さがピークになってしまい、相棒と一緒に「メッチャ寒いやん」と体はガタガタ、頭はプッツン、普通は歌って頂けない曲なのに感動ゼロ(スミマセンごめんなさい)。
 この気持ちを高見沢さんが汲んで下さったのでしょうか、その後、彼らの上を覆っていたテントのビニールの部分を取ってしまいました。当然、そのお気持ちは皆嬉しかったと思いますが「取る」の一声で会場がザワザワと、というか「ホンマに大丈夫なん?」「機材壊れるで」「あまり無茶したらアカンで」って半分冷静に見た時の不安な気持ちの声だったかもしれません。
 その後、恐ろしい金額の損失があったというのは言うまでもありません。でも「自分達だけが雨露を凌げること」に対して申し訳ないからという損得なしにスグに行動されたお気持ちは本当に嬉しかったです。だからファンを止められないんですよね。
 また、この帰り道も私達悲惨だったんです。そう、品川までの道のりが大変。21街区から近くの駅まで約15~20分歩きます。これだけでも大変。駅に入るまでにホテルがありますが、皆さんそこでレインコートをゴミ箱へ捨てて溢れかえっているのを見て「気持ちは分かるけど、迷惑やなぁ」って思いながら歩く。電車に乗っても冷房は雨露に濡れた体を更に冷えさせて、濡れているから疲れているけど座席に座ることも出来ない。お腹が空いたからレストランで食事をしたくても、見るも無残な恰好なので、コンビニでカップラーメンとか兎に角温まりそうな物を買ってホテルへ行きました。その頃には雨が更に強くなって、道路が水で覆われていました。
 ホテルに帰って、シャワーを浴びて、ラーメンを食べて一段落。やっとベッドで眠ろうとした。相棒がNHKの音楽番組だったかな、THE ALFEEが出演してた番組が何かの都合で遅れて放送されていたので諦めていた番組を見ていました。私は殆んど眠っていたので生返事くらいしかしていなかったくらい疲れていたのに、テレビから高見沢さんがマイクを落とした音がして(結構ビックリする音でした)目が覚めてしまった。
 本当に大変な一日でした。

 昨日放送されたダルビッシュの会見。何か寂しくなかったですか?
 最近、野球が面白くない、って思っていますが、面白くない理由がダルビッシュが語ったメジャー行きの理由の理由と同じような感じがします。
 野球を見てたらソコソコでやっているような感じさえ受けます。大阪弁で言う「いてもうたれ!」っていうガッツもナシ、ダラーっとしたゲーム展開で勝ったのか負けたのか意味不明の試合あり、優勝しても感動ナシ。これじゃぁ皆メジャーへ行ってしまいますよね。
 「大橋巨泉のこんなモノいらない!?」(日本テレビ 1987~1989)で日本にFAが無かった頃「こんなモノいらない!?プロ野球」でFAの問題点を話していました。当時、アメリカではFAという制度があって、高額で移籍出来ると言うメリットもある半面、報酬が高すぎて実力があっても野球生命を断たれる運命の方もいるとのこと。番組としてはFAを日本でも採用すべきであるけれど、プロとして冷遇された方とか、チャンスが無かった方を対象に、入団後7年(だったと思う)後にFA宣言をしてもいいという制度ではどうかというものだったと思います。有名選手がFAをされると、皆、報酬のいい大リーグ(メジャー)の方へ行く可能性があるから、チャンスの無かった選手を対象にすべきだと。
 日本でFAが採用されたのはこの番組放送後の数年後。もし、番組通りにチャンスの無かった選手のみがFAする権利があれば、ダルビッシュがメジャーへ行くこともなかったのではないかと、ふと考えてしまいます。
 野球を今一度考えなおす時が来たのかなぁと。本当にそういう意味で昨日の会見は寂しかったです。

 JR西の本社前、少し雰囲気が変わりました。

 尼崎の脱線事故の後(事件の余韻が冷めていない頃)、出勤する社員の中から笑い声が聞こえたりしたこともありました。この時はさすがにビックリしました。

 その後、車輌の抜き取り事件などの後、本社前に一人の社員が「おはようございます」と声をかけるようになります。その姿は「猫背で、滑舌も悪く、お辞儀も首だけが曲がっている」のです。それも何時も同じ人で、更に悲壮な声を上げながら、その姿が見ていて何か可哀そうで。その後、アンケートなどで意見を書く機会があって「お考え直した方が良いのでは?」と書いてしまいました。ついでに頭に来ていることをもボロンチョに書きました。

 そしたら昨年頃から変わったのです。私の意見を聞いてくださたのだとは思いませんが、現在はクールビズからキチンとスーツを着て、姿勢も正して「おはようございます」と社員を迎え入れているのです。現在は二人の方(以前の方とは違う方です)が立っていらっしゃいます。昨年、以前は猫背で挨拶されていた方がスーツを着て、気合を入れて立ち向かう姿を目にしました(同一人物とは思えませんでした)。以前はお一人だけ頑張っているような感じでしたが、今は交代でされているのでしょうか?従業員の皆さんが気合を入れ直してビルに入って行かれるお姿は本当に見ていて素晴らしいです。インストラクターの方から見れば「もう少し腰から曲げて挨拶を」って仰るかも知れませんが、以前のように「させられられている」から「する」に変わったお気持ちが良く伝わりますし、雰囲気が全く違います。最近は「頑張れ!」って応援しております。

 それと、先日、大阪駅近くになった時、乗り換えの御案内のアナウンスが流れますが「この先もお気をつけていってらっしゃい」と流れた時には何か新鮮さを感じました。「行ってらっしゃいませ」の方が良かったかもしれませんが、皆さん御自分の言葉で工夫された内容をおっしゃっていますので、マニュアルにない心のこもったお言葉で「なるほどな」って朝から嬉しくなることもあるんですよ。

 よく「安全への取り組み」とかでポスターを目にしますが、一人一人の取り組みの方が真実味があるな、って感じます。皆さんの取り組みから参考にさせていただいています。これからも頑張って下さい。


 先日「おはよう朝日です」を見ていたら、NMB48のメンバーの方が「震災を知らない」という事実に愕然とさせられました。御本人に何を言おうと仕方のないことかも知れません。生まれていないとか、小さすぎたと言う年齢ですから。ただ、何一つ語られることはなかったのか・・・教科書通りの授業しか学校は教えなかったのか、家族の会話が少なすぎるのか、報道番組は敬遠されるからなのか・・・とにかく残念でなりませんでした。だから話そうと思ったのです。
 1.17になると神戸がクローズアップされます。しかし、実際は広範囲で被災されています。阪神淡路大震災でクローズアップされたのが「活断層」。意外な場所で意外な被害になっているのです。
 高槻市には藤原鎌足のお墓があります。そのお墓が発見されたキッカケは京大の地震研究所を建てるために出土した高価な埋葬品のおかげでした。朝日新聞の牟田口記者が足掛け8年かけたスクープです。発見された当時は「日本の歴史を動かした人が眠っているなんて」っていう感動がありましたが、震災後は「あそこに研究所があるのって、こういう意味だったのね」っていう感じになりました。
 1995年1月17日、私は小さな地震で目が覚めました。私は不思議と地震が起こる前に目が覚めます。本当に何時もありがちな小さな揺れでした。ただ何時もと違っていたのは「長い」こと。この時6:45と目覚し時計が針を差していたように記憶しています。この揺れには得体の知れない不気味さがあり、外は真っ黒。心の中で「はよ、終わってぇなぁ~」って言っていました。そしたら願いがかなったのかピタッと止まったのです。
 でも、一瞬、変な不気味さを湛えた静けさがあって、ビクビクしてたら、北の方角から「ゴ~ォ~」っていう、映画でよくある津波の音に似た音が襲ってきました。次の瞬間、バキバキという木が折れるような音がしました。咄嗟に布団を頭まで被りました。近くにあった子供用タンスの上に電気スタンドがありました(サイドテーブルとか無かったので、タンスの上に置いていたのです)が、バキバキという位の時間で停電。その後、音楽で使うメトロノームの規則正しい音を出すように、家の屋根がパキパキと鳴るのです。本当に時間は長かった。揺れは続いていたけれど、パニック状態から少し正気になったので辺りを見ると、少し外が明るくなっていることが窓の光で分かりました。
 揺れが収まっても、何だかまだ揺れているような感じがしました。もう大丈夫かなぁってぐらいになって布団から体を出しました。電気スタンドが頭の横にありました。多分、布団で覆っていなかったら顔に直撃だった可能性があります(今から思うとゾッとする)。本棚からは全ての本が床に落ちていました。同じ家なのに本棚も方角によっては本が落ちることもなかったところもあります。今でもこれがこの地震の不思議なところです。私の横で寝ていた愛犬は私を置いて玄関へ(この時、最後は自分が一番かわいいのだと悟った)。
 電気の普及は比較的早かった。7:00には普通に。隣の部屋の目覚しのラジオのニュースから、地震の情報が流れていましたが、高速道路が倒壊していることなどの情報は8:00過ぎごろから知りました。近所ではガスが止まっていたので困っていたようでした(寒いのでストーブがないのは辛いですよ)。トイレも一部電気を使うそうなので、使えなかったりしたそうです。我が家はプロパンガスとボットン便所(汲み取り式)。今まではバカにしていた生活でしたが、この時ある意味助かりました。
 茨木市で働いていたので、阪急電車の駅へ行ったところ、電車が来なかった。私の記憶が曖昧なのですが、確か駅は閉鎖されるでもなく、何のアナウンスもなく、皆がどうしたらいいのか、ただウロウロしていたように思います。そして仕方がないからタクシー乗り場へ。タクシーは時々走っているのは見えても、乗り場に来ない。取り合えず電話、公衆電話(当時はポケベル時代。携帯はない)で、かけてみても何の音もしない。どうしようもなくなって勝手に休んでしまいました(その後家に帰って1時間ごとに電話しましたが、最初は全く音が無かったし、その後「暫く経ってからおかけ直しください」になって、何とか通じるころには夕方でした)。他の会社では車やバイクを持っている人だけ出勤し、その他の人は休みにしたそうです。弟の方はその日バイクで通勤できたので、周りがビックリしていたそうです。大阪方面から出勤出来た人は弟一人だけだったようです。人数が集まらないから総務課長が日勤、非番を含めて片っ端から電話しまくっていたそうです。父親は車で出勤出来ました。本当に電車通勤ってこういう時に困るもんだと感じました。それと連絡手段が震災後数時間が経たないと何も出来ないので、ネットとか携帯とかよりも新しい技術で何か考えた方がいいのでは、と言うのが私の意見です。何故かと言うと、勤め人はクビが一番怖いから。実際、私もその時一番恐れていました。通信手段がないとどうしていいか分からないし、勝手に休むと遠方の職場の場合、休んだ理由が理解されない場合もあります。電車で一時間もする所だと別世界の所もあるからです。
 家に帰って愛犬の散歩に行きました。私の近所って一軒家が多く、その殆んどが屋根がへの字を逆にした感じに屋根瓦が凹んでいます。数時間後にはブルーシートが被せてありました。私個人の感想ではJR高槻駅から北東の線に沿って被害が大きい。JR駅前の西武百貨店の中に当時「ハートの銀行」でお馴染の第一勧業銀行(現在のみずほ銀行、現在はATMと宝くじ売り場になっています)がありまして、銀行の真上にある給水塔が震災で破裂したためオンラインシステムが普通となり、数ヶ月間営業停止になっています。そのため手形決済に支障が出て困っていると言う情報もありました。屋根以外でもガレージのコンクリート(見た目だけでも5~10センチある)が真ッ二つにヒビが入っている所もありました。吹き抜けのある家では暫く怖くて入れないと言う方もありました。我が家も外壁が取れかかって(ボロ家だから仕方がない)、お風呂場は一周日々が入りました。
 翌日、先輩から聞いたのですが、事務所(マンションの1室)の中は4人分のロッカーが倒れていて、ロッカーの上にあったテレビが上手い具合に机の上に乗っかっていたこと、3台のパソコンは不思議なくらい無傷(ロッカーとかテレビで直撃を喰らってもおかしくはなかった)でした。会計事務所でしたので会計データーは財産なのですが、日々のバックアップ以外何もしていなかったことが反省点でした。クライアントのパソコンより、サーバーがもし破損した場合、すぐに復旧するだけの手段やお金が必要だということと、バックアップデーターを金庫などの耐震性のあるところに保管することも大事だと当時は考えていました(まぁ3日もすれば「あと100年くらい大きな地震なんて来ないんとちゃう」って所長は言い出しましたね)。
 数カ月後、その年の確定申告になるのですが、高槻市は「罹災証明」を発行していました。案外、皆さん知らなかったです。言葉は知っていても、確定申告で「雑損控除」を受けることによって税金が戻って来るかも知れないってことまでは知らなかったようです。中には「神戸じゃないし」って方もいました。実は高槻市で被害の大きかった場所は2つの町しかありません(ちなみに所長である税理士の先生は自分の地域が全く揺れなかったのか、本人がボケているからか、従業員が出勤していないことに腹を立てていたそうです)。それも隣同志の町ではなく飛び地のような感じです。だから「怖かった」って言う人と、「そうやったん」って言う人がいます。ピンと来なくても仕方がなかったのかなぁ。
 今、思い出してみると反省点とか意見とかいっぱいありますね。
 フェイスブックとかツイッターで連絡とか言うけれど、無いよりはマシかもしれませんが、直後は難しいのではないかと思います。一番の不安は会社へ行くべきかどうかということ。連絡が取れない分、本当に悩むんです。そして、会社が被災していない場合や被災地でない地域でトバッチリを受けた地域でも同じようなことが起こる訳ですが、従業員が仕方なく取った行動でも簡単に「非常識」と片付けて解雇になったり、職場に居辛くならないような法整備も必要ではないかと思います。実際、私の場合でも所長の所は京大の地震研究所の近くで、揺れは感じていないし、自動車で茨木市へ(15~30分くらいかな)行く時も普段と変わりなかったようです(そう思うと地震研究所を建てた場所が絶妙な場所であったと感じたのは私だけ?)。電話も高槻市と違ってスグに復旧していたので、高槻市から来る私ともう一人の同僚に最初は不信感を持っていたようです。顧問先が心配をして事務所へ電話を沢山いただいたそうで、その時に事の重大さを知ったそうなんです。人情のある心優しい顧問先が多かったので私達は助かりましたが、今回の東日本大震災でマスコミで報道されなかったけど何らかの被害にあって「クビ」になりそうになった方もいるのではないでしょうか?
 パソコンをどうやって守るかと言うことも大事だと思います。最近のHDは阪神淡路の頃より恐ろしく大きくなっています。バックアップを疎かにしていると思います。面倒なのでパソコンにデーターを入れたままシャットダウンしているケースもあるでしょう。データーは財産なので金庫などに毎日保管する方がベストだと思います。今では「クラウド」があるのでネット上のサーバーに置いておくもの手段の一つかと。東日本大震災の時に「住民のデーターがない」ということで大変困っている自治体を見ていると「阪神淡路大震災の教訓が生かされていないのでは?」と感じました。
 それと一番ひどい場所はマスコミが入るのでそれなりに状況が入るのですが、近隣地域の情報は全く入りません。特に困ったのが「交通情報」。電車やバスは勿論ですが、タクシーを含めて情報が欲しかったです。誰も乗っていないタクシーが目の前を通り過ぎると「同じ方面だったら一緒にまとめて乗せたらいいのに」って感じた人もいたのではないでしょうか?多分このブログを読まなかった方には「大阪も被災していた」と言う事実を知らない方も多いでしょう。当然、税金の控除などの行政サービスがあること自体知らない方も多いと思います。
 行政サービスの広報のあり方も検討していただきたいです。
 それと、被災地だけを注目するのではなく、近隣も被害が出ていると言うことを忘れないで頂きたいです。
 

 Facebookでの再会記念として、元ペンフレンド、サマンサさんが当時ファンだった「ハウスマーティンズ」の動画を紹介いたします。
 実はハウスマーティンズは日本でCDデビューしています。確かタイトルは「街は大騒ぎ」だったと思います。当時の日本人の趣味とイギリス人の趣味はかなり違っていまして、彼女からカセットテープを貰って聞いた時には私は馴染めなかったです。その一年後、日本でCDデビューしますが、私の予想通り売れませんでした。彼女はボーカルの方がファンだたと思うのですが、私には?でしたし。
 でも、日本にもファンはいたんですね。Amazonのレビューなんか読んでいると、かなり詳しい方が沢山いるんだと感心させられます「ファット・ボーイ・スリムの人はこのバンド出身です。」ってコメントがありました。
Housemartins

The Best of + Bonus DVD

People Who Grinned Themselves to Death

London O Hull 4 (Dlx)

ここからはウィキペディアより抜粋
1、ファットボーイ・スリム(Fatboy Slim)のアーティスト名で最も知られるノーマン・クック(Norman Cook , 1963年7月13日 - )は、イギリスをはじめとする世界的音楽シーンを股にかけて活躍するアーティスト、DJである。
2、彼の音楽活動は、1985年、友人ポール・ヒートンの勧誘で、彼の有するバンドであったハウス・マーティンズのベーシストを務めることから始まる。彼らは1986年(ノーマン加入からわずか1年)には、アイズレー・ジャスパー・アイズレーの"Caravan of Love"をカヴァーしてUKチャートNo.1を獲得している。
3、1996年夏、ファットボーイ・スリム名義では初のアルバム、"Better Living Through Chemistry"をリリースする。
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