心理職に就く者として、思想、信条、性別、人種、価値観、性的指向、社会的立場‥等々のいかなる要因にも、いっさいの斟酌や認知バイヤスを極力介在させず(許容範囲の広さだけは自負)、できる限り自主性と個別性を尊重するカウンセリングを心がけている。もちろん上記のような要因を心理的問題の重要事項として見立てた場合は、カウンセリングの課題のひとつとして扱うことにはなる。以上はあくまでも個人的な指針。
また、心理職を離れた一個人の立場としては、自分仕様の価値観や信条・社会規範意識 等々を一応もってはいる。が、他人様に対して、これが正しい!とか こうあるべき!などとは欠片ほども考えておりやせん。あくまでも自己中に「こうありたい自分」ってだけ。
以上を踏まえた上で、このところ話題に上がっている、LGBT法案(性的少数者の方々で構成される4団体は強く反対)にも関連する、「性自認」もしくは「性自認至上主義(トランスジェンダリズム)」について、うまく説明できないが直感的なモヤモヤ?を抱いている方に、ひとつの判断材料として一冊の本をご紹介。
「性同一性障害・トランスジェンダー」という複雑な問題に対し、著者は当事者としての経験や深い思索による緻密かつ哲学的・論理的考察により、ひじょうな説得力をもって「トランスジェンダーの原理」を客観的理解へと導いてくれる。興味のある方はどうぞ。
『トランスジェンダーの原理ー社会と共に「自分」を生きるために』 神名龍子 著 / ポット出版プラス
本書からの抜粋。
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もうひとつ、性自認について大事な指摘をしておくと、性自認それ自体はあくまでもその人の「主観」に過ぎないということだ。
「主観」である以上、他者はそれを直接に確かめることはできない。私たちは誰も(たとえ心理学者や精神科医であっても)他者の心というものを直接に経験することはできず、相手の言動を通して推しはかることしかできない。
だから、ただ「私の性自認はこれこれです」というだけでは、直ちに周囲がそれで納得してくれるということもあり得ない。
他者から見ても「なるほどそのように思える」と納得させるだけの説得力を必要とする。それは本人の言動にも大きな責任がある。
単に「主観」としての性自認を持つことと、それを他者との間での共通了解として成立させることとは違うのだ。後者のための努力がなければ、他人は納得してくれない。
もちろんこれは、性自認の話だけではなく、自分がどんな人間であるかを他者に知ってもらうために、あらゆる人間が必要とする営みでもある。
それが社会の中で生きるということでもあって、けっして性的少数者だけの話ではない。
そうである以上は性的少数者であることを理由として甘え、その営みに必要不可欠な手間暇を惜しむことには、どんな正当性も認められるはずがない。
言葉を変えて言えば、自分が身体とは異なる性自認を持つ場合、性自認の性別で生きるということは、自分の欲望に従う生き方の実践であると同時に、その性別が他者に対しても説得力を持つように振る舞うことでもあるという両犠牲を持っている。
後者が欠ければ、その人の性自認は単にその人自身の主観に過ぎないのだ。
私たち性的少数者は、とりわけ私のような性別移行者(性同一性障害やトランスジェンダー)は、、そのことを忘れてはならない。
この努力を怠って「社会からの理解が得られない」などと嘆いてみせるのは逆恨みに過ぎない。(p84~85)
善悪二元論だけではなく性差否定もまた、性同一性障害と相入れるものではない。性同一性障害の当事者が、その性自認に基づいて、「私は男ではなく女だ」「私は女ではなく男だ」という場合には、論理的にも「男と女は違うものだ」ということを前提とした発言であるはずだで、それは政治的立場のあちらかこちらかという話ではない。
「男=女」を」前提とするならば、性同一性障害という概念それ自体が成立しないのである。
もちろん性差否定を前提としてしまえば、戸籍上の性別変更を認める特例法も求める意味がない。(p158)
同性愛だって異性と同性の区別を前提とする概念なのだから、性差否定と両立するはずがない。(p159)
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痺れる!(死語)
著者は、被害者の立場となることに与しない。
「差別について」「性別について」「近代社会原理の再確認」「性的少数者と社会」等々紹介したい箇所が沢山あるけれど、キリがなくなるのでこの辺にして。
男女の生物学的性差については、進化論に基づく進化心理学や認知心理学、遺伝学、脳科学、生物学など、様々な分野で科学的解明が進んでいる。ちょっとズレるが、遺伝と環境の相互作用説などもひじょうに面白くなってきてた。 σ(・_・.)どこまで正確に理解しているか定かではないけどね。
一方でジェンダー(概念)をめぐるアレコレに関しては、科学ではない、ある種のイデオロギーなのでほぼ興味なし。
相変わらず政治利用や利権を目論む動きも活発ですこと。
差別行為によって被差別者に社会的不利益や心身への実害を与えることと、差別意識をもつことは同義ではない。
社会人として生活を営む成人で、差別意識をもたない者などほぼ皆無であろうと考えている。
もたぬ人が存在したとして、その確率はツチノコやイエティよりちょっと上くらい?(根拠なし)。
ときには差別する側が差別される側となる、その逆も然り。
差別意識の内在を、どこまで自己洞察できるか。
自分のダークな部分に目を逸らさず向き合うことは難しい。
いつの時代も、そのときどきのマジョリティの差別意識を変えてきたのは、差別される側の人々の、個として自尊を保ち毅然と生きる姿そのものではなかったか。
マジョリティの、恐れから生ずる異端排除(差別)という不当な自己防衛心理を、圧倒的説得力をもって無効化させ変容させてきたのが、差別に傷つきながらも果敢に生き抜く個々人の勇気ある振る舞いではなかったか。
などと色々考える今日このごろ(個人の感想です)。
我が身に内在する差別意識を変化させるよりも、上部だけ反差別や公平を装うことのほうが遥かに楽でたやすい。
えーと要するに、久々に読書で感銘を受けたのだった。