愛について
女子の約4割が「いい人がいたらのりかえる」
女性向けWEBサイト「Ozmall」を運営するスターツ出版株式会社は、Ozmall会員を対象とした..........≪続きを読む≫
悲観すべきでない、いい数字じゃないかな。約半数が今の相手のことを100超好きだっていうし、男にしてみれば、彼氏がいる女の人であっても、可能性が4割残されているわけだし。
ただ、恋愛と職業は似ている。夢を見ればいくらでも見れるけど、様々なことを諦め、一つの場所に安住しないとやっていけない。
若い頃はいろいろ彼氏を変えていいと思う。つまり、遊んでいいと思う。でもある一定の年齢をすぎたら、自分が相手のことをどのくらい愛せるか、または逆に愛されるかという上向きな吟味ではなく、自分がどのくらい諦めることができるか、すなわち許容範囲を見極める形で、相手を見てほしい。
相手と一つになることは愛ではない。そんなこと、一生かけても無理。相手の気持ちを100%分かることなんて、絶対無理。それはお母さんの胎内でのみ可能であったことで、この地に生まれ落ちてしまった今となっては、別々の個人がどのくらい同じ空間・時間を共有できるかの範囲を吟味して、苦しくない程度に妥協できる、適切な距離感が愛であると僕は断言する。
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悲観すべきでない、いい数字じゃないかな。約半数が今の相手のことを100超好きだっていうし、男にしてみれば、彼氏がいる女の人であっても、可能性が4割残されているわけだし。
ただ、恋愛と職業は似ている。夢を見ればいくらでも見れるけど、様々なことを諦め、一つの場所に安住しないとやっていけない。
若い頃はいろいろ彼氏を変えていいと思う。つまり、遊んでいいと思う。でもある一定の年齢をすぎたら、自分が相手のことをどのくらい愛せるか、または逆に愛されるかという上向きな吟味ではなく、自分がどのくらい諦めることができるか、すなわち許容範囲を見極める形で、相手を見てほしい。
相手と一つになることは愛ではない。そんなこと、一生かけても無理。相手の気持ちを100%分かることなんて、絶対無理。それはお母さんの胎内でのみ可能であったことで、この地に生まれ落ちてしまった今となっては、別々の個人がどのくらい同じ空間・時間を共有できるかの範囲を吟味して、苦しくない程度に妥協できる、適切な距離感が愛であると僕は断言する。
ウェブと人間との関係性について
henhagiさんの投稿「google windows そして」について
僕の記憶が正しければ、googleの支配についてはいく人かの識者や、無名のウェブ人が指摘するところであり、その焦点は「思想の統制」にあった。ネットからのコピペで大学のレポートを書く時代だから、そこに流れる情報は、若者を中心に信頼されていると推測される。もしgoogleが情報を操作したら(たとえば検索結果の表示順序はどうだろう)、われわれの考え方は変わっていくのではないか。それが思想の統制であるといえる。
ただ、それは現実的にはあまり考えられないし、そもそも、googleもWindowsも、「ツール」であって「コンテンツ」ではない。もし台所用品がほとんどドイツ製であっても、料理の内容はそれを使うシェフによって変わるし、ドイツに支配されているとはあまり考えられない。料理を彩る食器は日本製かもしれない。
googleやWindows、いや、インターネットそのものによって生じる、より重要な問題は「コンテンツ」の側面、つまり情報がフラット化することと、情報量が膨大であること、そして刹那的であること、だろう。
情報のフラット化というのは、誰もが発言できる中で、権威がいなくなることである。皆が「おもしろい」「すごい」と思ったこと、そしてアクセスが増えることで、そのページのコンテンツのランクが決まる。誰々が書いた本、というような、個人に付された権威は(当然ながら)消失し、内容によってのみ、そのランクが決まる。
情報量の膨大さを物語る最たるコンテンツは、ニュースサイトである。たとえば現在、少年犯罪は急増していない、治安も悪くなっていない、というデータがあるにもかかわらず、「主観的な」犯罪率、治安への不安感は高まっている。このことと、ネットで垂れ流される犯罪ニュースは無関係ではないだろう。もちろん、テレビの影響の方が強いのは明白である。ただし、細かい刑事事件は毎日のようにyahooなどのニュースのトップに掲載される。
そして、情報が「フラット化」し「膨大な」になるということは、情報が「刹那的」になることを意味する。昨日流行った言葉が今日には古くさい言葉になる。出たばかりなのに、世界のナベアツではもう笑えない。つい先日の「あなたとは違うんです!」も、すぐに全国に流れて、それに関連するスレッドが乱立したようだ。そうして一気に膨張した情報は、皆が知っていて皆が使うため、使い古されて儚く消えていくだろう。
ただ、これらの現象が直接的に「問題」とはならない。なぜなら、単に「コミュニケーションが大きく変容してきていること」しか示していないのだから。大切なことは、こういった現状に対して「どのように」振る舞うか。大きな波に乗るサーファーになろう。
僕の記憶が正しければ、googleの支配についてはいく人かの識者や、無名のウェブ人が指摘するところであり、その焦点は「思想の統制」にあった。ネットからのコピペで大学のレポートを書く時代だから、そこに流れる情報は、若者を中心に信頼されていると推測される。もしgoogleが情報を操作したら(たとえば検索結果の表示順序はどうだろう)、われわれの考え方は変わっていくのではないか。それが思想の統制であるといえる。
ただ、それは現実的にはあまり考えられないし、そもそも、googleもWindowsも、「ツール」であって「コンテンツ」ではない。もし台所用品がほとんどドイツ製であっても、料理の内容はそれを使うシェフによって変わるし、ドイツに支配されているとはあまり考えられない。料理を彩る食器は日本製かもしれない。
googleやWindows、いや、インターネットそのものによって生じる、より重要な問題は「コンテンツ」の側面、つまり情報がフラット化することと、情報量が膨大であること、そして刹那的であること、だろう。
情報のフラット化というのは、誰もが発言できる中で、権威がいなくなることである。皆が「おもしろい」「すごい」と思ったこと、そしてアクセスが増えることで、そのページのコンテンツのランクが決まる。誰々が書いた本、というような、個人に付された権威は(当然ながら)消失し、内容によってのみ、そのランクが決まる。
情報量の膨大さを物語る最たるコンテンツは、ニュースサイトである。たとえば現在、少年犯罪は急増していない、治安も悪くなっていない、というデータがあるにもかかわらず、「主観的な」犯罪率、治安への不安感は高まっている。このことと、ネットで垂れ流される犯罪ニュースは無関係ではないだろう。もちろん、テレビの影響の方が強いのは明白である。ただし、細かい刑事事件は毎日のようにyahooなどのニュースのトップに掲載される。
そして、情報が「フラット化」し「膨大な」になるということは、情報が「刹那的」になることを意味する。昨日流行った言葉が今日には古くさい言葉になる。出たばかりなのに、世界のナベアツではもう笑えない。つい先日の「あなたとは違うんです!」も、すぐに全国に流れて、それに関連するスレッドが乱立したようだ。そうして一気に膨張した情報は、皆が知っていて皆が使うため、使い古されて儚く消えていくだろう。
ただ、これらの現象が直接的に「問題」とはならない。なぜなら、単に「コミュニケーションが大きく変容してきていること」しか示していないのだから。大切なことは、こういった現状に対して「どのように」振る舞うか。大きな波に乗るサーファーになろう。
平野啓一郎「顔のない裸体たち」を読んで
いくつかの問題提起を感じた。まず、「解説」でも述べられているように、もはや現代のネットの世界で行われる性行為は、どのようなポルノ作家さえも想像し得ない領域に到達しているということ。次に、いわゆるアイデンティティの問題。最後に、現代社会における「顔」とは何か。ここでは2つめを交えながら3つめについて考察したい。
顔のない裸体とは、ネットの世界で顔にモザイクをかけた裸体を直接的には意味する。現実社会との接点であり、個人をアイデンティファイする最たる部分である「顔」を失うと、つまりインターネットが有する「匿名性」によって、現実社会の肩書きや年齢などの属性を放棄することは、違う「誰か」になることができることを意味する。すなわちアイデンティティの複数化である。このことは随分昔から指摘されているので、改めて声高に叫ぶ必要もないだろう。たしかに小説の中でも、〈吉田希美子〉が〈ミッキー〉という人格とのあいだで揺れ動く描写が繊細かつ整然とした筆運びによって描写されているが、より重要で興味深いことは、主人公の一人、〈片原盈〉が「顔」を、嘘の象徴として軽蔑していることと、〈吉田希美子〉の顔の喪失との関連である。
〈片原盈〉にとっての「顔」は、明白なる敵意を持っていた。自分を軽蔑する象徴的存在が「顔」であり、服を脱がし、喘ぐ「肉体」が本性であると信じていた。ここに、二元論的な分裂が生じている。彼はそのスプリッティングから抜け出せなかった。
そして〈片原盈〉は執拗に、〈吉田希美子〉の「顔」を剥がそうとした。〈吉田希美子〉は〈片原盈〉の憎悪の構造——すなわち顔と肉体の二元論的分裂——に巻き込まれ、肉体の解放という意味で〈ミッキー〉への変身を楽しんだが、顔の喪失は望まなかった。ところが、彼女はいつのまにか顔を失っていた。ラスト、〈ミッキー〉になっていた〈吉田希美子〉が執拗に「お前は誰やねん」と問われ、何も答えていないことは重要である。二人のバーチャルな世界がこちらの意思に反して切り開かれ、リアルな世界に直面した瞬間、彼女は、誰でもなかったのだ。
インターネットの匿名性は「アイデンティティの複数化」などもたらさない。〈片原盈〉によって顔を剥がされた彼女が、自分が誰であるか答えられないラストシーンによって、見事に「いつの間にか」「必然的に」顔を失ってしまっている人間を描き出したのが本作品といえるのではないか。その自然さは、エリオットの詩「荒地」に滲む、終末的様相さえ呈している。
ところで、顔の喪失といえば安部公房の「他人の顔」がある。見るも無惨な顔を包帯で覆い、様々な方法で顔を取り戻そうとする男の、妻に宛てた手記、という虚構の物語の方が、実際にあった話として、リアリティあふれる内面の描写や行為を描く本作品よりも、随分真実に迫った作品と感じてしまう。
僕があまりに多くの「顔のない裸体」を見すぎたたのだろうか。小説が文章によって切り取った虚構の中で生きる二人の世界は、あまりにも現実的すぎるというパラドックスに悩む。
顔のない裸体とは、ネットの世界で顔にモザイクをかけた裸体を直接的には意味する。現実社会との接点であり、個人をアイデンティファイする最たる部分である「顔」を失うと、つまりインターネットが有する「匿名性」によって、現実社会の肩書きや年齢などの属性を放棄することは、違う「誰か」になることができることを意味する。すなわちアイデンティティの複数化である。このことは随分昔から指摘されているので、改めて声高に叫ぶ必要もないだろう。たしかに小説の中でも、〈吉田希美子〉が〈ミッキー〉という人格とのあいだで揺れ動く描写が繊細かつ整然とした筆運びによって描写されているが、より重要で興味深いことは、主人公の一人、〈片原盈〉が「顔」を、嘘の象徴として軽蔑していることと、〈吉田希美子〉の顔の喪失との関連である。
〈片原盈〉にとっての「顔」は、明白なる敵意を持っていた。自分を軽蔑する象徴的存在が「顔」であり、服を脱がし、喘ぐ「肉体」が本性であると信じていた。ここに、二元論的な分裂が生じている。彼はそのスプリッティングから抜け出せなかった。
そして〈片原盈〉は執拗に、〈吉田希美子〉の「顔」を剥がそうとした。〈吉田希美子〉は〈片原盈〉の憎悪の構造——すなわち顔と肉体の二元論的分裂——に巻き込まれ、肉体の解放という意味で〈ミッキー〉への変身を楽しんだが、顔の喪失は望まなかった。ところが、彼女はいつのまにか顔を失っていた。ラスト、〈ミッキー〉になっていた〈吉田希美子〉が執拗に「お前は誰やねん」と問われ、何も答えていないことは重要である。二人のバーチャルな世界がこちらの意思に反して切り開かれ、リアルな世界に直面した瞬間、彼女は、誰でもなかったのだ。
インターネットの匿名性は「アイデンティティの複数化」などもたらさない。〈片原盈〉によって顔を剥がされた彼女が、自分が誰であるか答えられないラストシーンによって、見事に「いつの間にか」「必然的に」顔を失ってしまっている人間を描き出したのが本作品といえるのではないか。その自然さは、エリオットの詩「荒地」に滲む、終末的様相さえ呈している。
ところで、顔の喪失といえば安部公房の「他人の顔」がある。見るも無惨な顔を包帯で覆い、様々な方法で顔を取り戻そうとする男の、妻に宛てた手記、という虚構の物語の方が、実際にあった話として、リアリティあふれる内面の描写や行為を描く本作品よりも、随分真実に迫った作品と感じてしまう。
僕があまりに多くの「顔のない裸体」を見すぎたたのだろうか。小説が文章によって切り取った虚構の中で生きる二人の世界は、あまりにも現実的すぎるというパラドックスに悩む。
