平野啓一郎「顔のない裸体たち」を読んで | 土と太陽

平野啓一郎「顔のない裸体たち」を読んで

いくつかの問題提起を感じた。まず、「解説」でも述べられているように、もはや現代のネットの世界で行われる性行為は、どのようなポルノ作家さえも想像し得ない領域に到達しているということ。次に、いわゆるアイデンティティの問題。最後に、現代社会における「顔」とは何か。ここでは2つめを交えながら3つめについて考察したい。

顔のない裸体とは、ネットの世界で顔にモザイクをかけた裸体を直接的には意味する。現実社会との接点であり、個人をアイデンティファイする最たる部分である「顔」を失うと、つまりインターネットが有する「匿名性」によって、現実社会の肩書きや年齢などの属性を放棄することは、違う「誰か」になることができることを意味する。すなわちアイデンティティの複数化である。このことは随分昔から指摘されているので、改めて声高に叫ぶ必要もないだろう。たしかに小説の中でも、〈吉田希美子〉が〈ミッキー〉という人格とのあいだで揺れ動く描写が繊細かつ整然とした筆運びによって描写されているが、より重要で興味深いことは、主人公の一人、〈片原盈〉が「顔」を、嘘の象徴として軽蔑していることと、〈吉田希美子〉の顔の喪失との関連である。

〈片原盈〉にとっての「顔」は、明白なる敵意を持っていた。自分を軽蔑する象徴的存在が「顔」であり、服を脱がし、喘ぐ「肉体」が本性であると信じていた。ここに、二元論的な分裂が生じている。彼はそのスプリッティングから抜け出せなかった。
そして〈片原盈〉は執拗に、〈吉田希美子〉の「顔」を剥がそうとした。〈吉田希美子〉は〈片原盈〉の憎悪の構造——すなわち顔と肉体の二元論的分裂——に巻き込まれ、肉体の解放という意味で〈ミッキー〉への変身を楽しんだが、顔の喪失は望まなかった。ところが、彼女はいつのまにか顔を失っていた。ラスト、〈ミッキー〉になっていた〈吉田希美子〉が執拗に「お前は誰やねん」と問われ、何も答えていないことは重要である。二人のバーチャルな世界がこちらの意思に反して切り開かれ、リアルな世界に直面した瞬間、彼女は、誰でもなかったのだ。

インターネットの匿名性は「アイデンティティの複数化」などもたらさない。〈片原盈〉によって顔を剥がされた彼女が、自分が誰であるか答えられないラストシーンによって、見事に「いつの間にか」「必然的に」顔を失ってしまっている人間を描き出したのが本作品といえるのではないか。その自然さは、エリオットの詩「荒地」に滲む、終末的様相さえ呈している。

ところで、顔の喪失といえば安部公房の「他人の顔」がある。見るも無惨な顔を包帯で覆い、様々な方法で顔を取り戻そうとする男の、妻に宛てた手記、という虚構の物語の方が、実際にあった話として、リアリティあふれる内面の描写や行為を描く本作品よりも、随分真実に迫った作品と感じてしまう。
僕があまりに多くの「顔のない裸体」を見すぎたたのだろうか。小説が文章によって切り取った虚構の中で生きる二人の世界は、あまりにも現実的すぎるというパラドックスに悩む。