★ダリオ・バルダン・ベンボ (vm) DARIO BALDAN BEMBO

本名ダリオ・バルダン・ベンボ (Dario Baldan Bembo) 1948年5月15日ミラノ生。歌手、作曲家、キーボード奏者。

 

 1938年生まれの作編曲家、セッション・ミュージシャンの兄アルベルト・バルダン・ベンボ(Alberto Baldan Bembo)がいます。

 

 

活動期間:1966 –現在

所属レコード会社:Come Il Vento, Polydor, CGD, Five Record, Dig It, Pull(Itwhy), D.V. More

,サンレモ音楽祭出品3回:1971年第3位(ヌオヴァ・エキベ84のメンバーとして)、81年第3位、86年16位、

サンレモ音楽祭出品:81年第3位、86年16位、89年参加曲

オフィシャルサイト https://www.facebook.com/dbbembo/

 

 

 ダリオは1948年ミラノで父セバスティアーノ(Sebastiano Baldan Bembo)とヴェネト州出身でピアノ教師をしていた母ドメニカ・アンデレイニ(Domenica Andereini)の間に生まれました。

 

 10才年上の兄アルベルトと共に優れた音楽教育を受け、二人は音楽界活動を開始し、夏のヴァンカンス・シーズンには様々なクラブで演奏するようになります。

 

 兄は59年にはメネストレッリ・デル・ジャズ(I Menestrelli del Jazz)に加わり、64年イ・カンピオーニ(I Campioni)を退団したブルーノ・デ・フィリッピ(Brunno De Filippi)の作ったバンドに参加します。そしてニコラ・ディ・バリ(NICOLA DI BARI)とジーン・ピットニー(GENE PITNEY)の歌った66年サンレモ音楽祭参加曲” 彼女は待っている(LEI MI ASPETTA)”の作曲をしています。

 

 一方ダリオは66年サンレモ音楽祭に出場しアドリアーノ・チェレンターノ(Adriano Celentano)のパートナーとして彼の子分たちを集めて急造したトリオ・デル・クラン(Trio del Clan)のメンバーの一人、イコ・チェルッティ (Ico Cerutti))と知合いになります。

 

 ダリオはクラン・チェレンターノのレコーディング・ミュージシャンとして働きだしました。

 

 70年ダリオの将来を伺えるような仕事をしたとされています。日本未公開映画でピエロ・ヴィヴァレッリ(Piero Vivarelli)監督の「IL DIO SERPENTE(神様の蛇)」の音楽に関わったと言われています。クレジットはリフィ時代のミーナの恋人とも言われたアウグスト・マルテッリ(Augusto Martelli)となっています。実際上どの程度関わったかはわかりませんが、アブストラクション((THE ABSTRACTION)が演奏する主題の” DJAMBALLA (明日への扉)”などはバルダン・ベンボらしい曲作りと認める専門家もあるようです。

 

MDF-33・40 (1971年 Cinevox – RCA Italiana) Augusto Martelli – Il Dio Serpente (Colonna Sonora Originale Del Film)

MDF-33・40  RED- 140・1

RED- 140・1 (1971年 Cinevox – RCA Italiana) Augusto Martelli – Il Dio Serpente (Colonna Sonora Originale Del Film)

 

 ただ無名の作曲家、新人のミュージシャンの場合は著作権管理団体シアエ(SIAE)の登録されていないと認めてもらえず(登録料を支払う必要があるようです)、多くは著名な音楽家の名前を使うか、レコード会社の所有する汎用的名義で申請しなければなりませんでした。

 

 ダリオは事有る毎にマルテッリ側に権利認めるように要求しているようですが未だ認められていません。なおこの曲はイタリアでヒットしたようで、ファウスト・パペッティも”ジャンバーラ”のタイトルで国内アルバムにも収録していますし、アブストラクションの演奏曲”明日への扉”としてトリオからシングル盤が発売されました。

 

PA- 101 (1972年7月 TRIO – トリオ) 明日への扉 (DJAMBALLA)/ ペピート (PEPITO DAS MURAS) アブストラクション (THE ABSTRACTION

PA- 101  GXF-2044

GXF-2044 (1979年6月 SEVEN SEAS – キング) 8月7日午後/ルチオ・バティステイ (AMORE E NON AMORE)

 

 70年から71年にかけて彼はもう一つ転機となるような仕事に関わります。71年7月に発売されるルーチョバッティスティ(Lucio Battisti)アルバム「8月7日午後/ルチオ・バティステイ(AMORE E NON AMORE)」のレコーディング・オルガン奏者を務めます。このレコーディングにやがてPMFに生まれ変わるクレル(Krel)あるいは解体直前のクェッリ(I Quelli)のリーダーでドラムスのフランツ・ディ・チョッチョ (Franz Di Cioccio)と出会いました。

 

 この頃クェッリと同じレコード会社リコルディに所属する人気バンド、エキぺ84(Equipe 84)のドラムス、ドラムスのアルフィオ・カンタレッラ(Alfio Cantarella)が大麻所持で逮捕され、吹込み中の曲は中断され、バンドは活動停止となりました。

 

 エキぺ84のリーダー、マウリツィオ・ヴァンデッリ(Maurizio Vandelli)は盟友ディ・チョッチョの協力を仰ぎ、ルチオ・バティスティのレコーディングで知合ったダリオ・バルダン・ベンボを誘い、ヌオヴァ・エキペ84(Nuova Equipe 84)にとバンド名を変えて活動を再開しました。

 

 ダリオは予期せぬ方法でヌオヴァ・エキペ84のメンバーとして71年サンレモ音楽祭に初出場する事となり、ルチオ・ダルラのパートナーとして“みなし児”を歌い、年間ヒット・ランク87位になりました。

 

SRL-10・635 (1971年2月Ricordi - Ricordi) 4 marzo 1943 (みなし児(1943年3月4日))/ Padre e figlio (父とむすこ)

SRL-10・635

 

 ダリオ・バルダン・ベンボはヌオヴァ・エキペ84の71年に出したアルバム「Casa Mia」に” Nessuno”と” 2000 km”をマウリツィオ・ヴァンデッリの作詞で楽曲を提供しました。これが本格的な作曲の始まりとなります。その後翌72年にダリオはヌオヴァ・エキペ84を退団しました。

 

 人のつながりは大切にしなければなりません。またもやルーチョ・バッティスティのレコーディングに参加したことでバティスティとモゴールが作ったレコード会社ヌメロ・ウーノに在籍するジェノヴァ派カンタウトゥーリ、ブルーノ・ラウツィの詞に曲を付ける仕事が入ってきました。

 

 7年も8年も鳴かず飛ばずの歌手ミミ・ベルテ(Mimì Bertè)だった歌手をミア・マルティーニ(Mia Martini)という名前でリコルディから再々デビューさせるためのアルバムにブルーノ・ラウツィ作詞、ダリオ・バルダン・ベンボ作曲の楽曲を入れることになりました。

 

“Piccolo uomo (いとしいあなた)”(1972年年間ヒット・ランク15位)と”Donna Sola (私ひとりで)” (同23位)の2曲ですが、ミア・マルティーニの成功と、ダリオ・バルダン・ベンボの名声を高める事となります。

 

 他はミーナに提供した“Eccomi”は翌73年年間ヒット・ランク23位に入る大ヒットで、いきなり人気作曲家となりました。

 

 73年再びミア・マルティーニ楽曲を提供しています。”Minuetto (愛のメヌエット)”は73年年間ヒット・ランク7位と”Bolero (ボレロ)”、エキぺ84には”Diario (愛の日記)”(同51位)、ミーナへ”Minuetto (愛のメヌエット)”を書いています。この時点でダリオは完全にヒット曲ライターとしての地位を確立しました。ただ歌手としては一曲も出していませんでした。

 

 この年ダニエル・センタクルス・アンサンブル(Daniel Sentacruz Ensemble)を翌年結成するチロ・ダッミッコ (Ciro Dammicco)がソロ活動で作ったアルバム「チロ・ダッミッコ/オータム (CIRO DAMMICCO)」に収録されている”ローズ・ブルー(青いバラ) (LE ROSE BLU)”をチロとダリオが共作します(クレジットはチロのペンネームのZACARのみ)。この曲は74年ヴィンチェ・テンペラ(Vince Tempera)が手を入れて、ダニエル・センタクルス・アンサンブルの代表作“哀しみのソレアード(SOLEADO)”として世界的ヒットとなりました。

 

 74年ミア・マルティーニへの楽曲提供は4曲、年間ヒット・ランク入りは” Inno (ふたりの賛歌)”(47位)だけでしたが、”Agapimu (愛をあなたに)”、”Un'età(忘却の日々)”と”Luna bianca (白い月)”でした。またこの年はロック・バンド、サリス(Salis)のアルバム「Seduto Sull'Alba A Guardare」のアレンジャー、プロデューサー、ディレクター、バック・ミュージシャンとして全面的にレコード制作に関わりました。 

 

マウリツィオとファブリツィオ (Maurizio & Fabrizio)のマネージャー、ミケーレ・デル・ヴェッキオ(MicheleDel Vecchio)が彼らの代表曲”Come Il Vento”を名前にしたレコード会社からダリオ・バルダン・ベンボのファースト・アルバム「Dario Baldan Bembo – Aria」とそのアルバムタイトル曲“Aria (幻想のアリア)”をシングル・カットしました。

 

歌手としては新人でしたが作曲家の経歴と楽曲の質の高さで、アルバムは75年年間ベスト・セラー39位、シングルは同ヒット・ランク23位になる超特大ヒットとなり、”Aria (幻想のアリア)”はシャーリー・バッシー、ミシェル・ルグラン、ハービー・マンなど数多くのアーティストによってカヴァーされました。

 

ZSCVE-55742 (1975年– RCA Italiana) Dario Baldan Bembo – Aria

1.Aria (幻想のアリア)

2.Stranieri Noi

3.Canto Di Levania

4.Arpeggiato

5.Mondo Nuovo

6.Nico

7.Corale

8.La Nuvola Con I Piedi

9.Aria (幻想のアリア) (Ripresa)

ZSCVE-55742 ZCVE-50420

ZCVE-50420 (1975年1月Come Il Vento – RCA Italiana) Aria (幻想のアリア)/Nico

 

 

 

ダリオ・バルダン・ベンボ2は次回に続きます