お墓の石に「和算」の図を刻み込んだものがある。江戸数学クイズ合戦。ちょんまげと数学の関係からスタート。

戦国時代の殿様は数学が大好きで尊敬されたという。

世が平和な江戸時代になると、数学は庶民にも普及していった。

寺子屋では読み書きを教わるが、吉田光由の塵劫記というベストセラーによって和算が普及していった。

実用的でクイズとしても楽しめるので大いに普及した。「算術指南所」なるものもあちこちで出来た。

このブームに待ったをかける目的で吉田は「新編塵劫記」を著した。

これには「答え」が書いておらず、かえってそれも和算ブームに火をつけた。

榎並ともずみがこの新編の解答集を出した。それが「参両録」だったが、ここにも解答のないものがあり、ますますブームになった。

このブームは地方にも波及し、「算額」という額が神社に奉納された。

難しい問題を解いたときに神社に奉納したのである。

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寒川神社には商人の入澤新太郎が奉納した絵馬には、当時の西洋数学より高いレベルのものがあった。日本の発見後、100年以上たって西洋でノーベル数学賞を受賞したものもある。

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太陽と月の謎に挑戦した男、関孝和

未知数が3つあると当時和算では解き様が無かった。「筆算」がなかったためである。

関は謎の暗号のようなもので、現代の方程式と同じことを可能にしていた。未知数を大・中などの文字に置き換え、数字も棒の数と並びで著し、加減乗除も独自の形を考案。この革命的な方式が「筆算」を可能にし、方程式を可能にした。

その関が挑戦したのは正確な暦を作ること。宣明暦は日食や月食も割り出しているが、中国で作られたもののため、地理的にずれていたので正確ではなかった。

関は観測の天才「渋川」の記録を参考にし、緯度を割り出した。

しかし実際に暦「貞享暦」を作り上げたのは渋川だった。関はそれであっても独自に計算を続けていたが1705年に死去した。

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江戸で巻き起こった和算ブームは地方に波及しており、岩手県の神社にたくさんの和算本が残っている。

また遊歴算家といわれる旅する算数教師がいて全国で歓迎されたらしい。

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しかし明治になると、西洋の算数が入ってきて、高久ようさいという和算の大家のところに、文部省の役人が訪問し、教師になることを勧められる。

当時の政府は教育を進め、和算をそのカリキュラムに入れたのだった。

ところが授業開始の5ヶ月前に政府は和算をやめて洋算を行うことに方針転換した。和算では応用問題を解くことに重点を置き、洋算は1+1から始まっていた。数学から輸入しないと追いつけないという政府の方針による。

高久も洋算の教師になったが、役人にケチを付けられて、立腹。

明治10年辞職願を提出し、その中で、「和算」の素晴らしさを説いた。

結局、洋算が普及して同じカリキュラムで一斉の授業が開始された。

その後、洋算は様々な科学技術に応用されていったが、一方の和算も「海上要塞」の建築にあたり和算が活用されたことがわかった。

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千代田区の神田明神に算額が奉納されているが、それは最近の子供達が作ったもの。

ゲームのように楽しめる和算を取り入れる学校もある。

掛け声の数だけで、区分けした丸の数がわかるという授業を楽しげにやっていた。