想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論 -7ページ目

想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論

何でも書こう
 (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性、)(哲学思想)(政治経済)などなど、

05月05日よりの続き

確かにこの道義ということに対しては、「それは我が国のアジア侵略を支えた根底思想であり、民主主義にそぐわない思想である」 と言う者もおります。

しかし、これほど甚だしい誤解があるでしょうか。宇宙の中の一つの物質が他の物質に支えられて存在しているように、また、自然の中の一つの生命が他の生命に支えられて存在しているように、一個の人間が他の人間に支えられて存在しているという自覚を持つことの、一体どこが侵略的なのでしょうか。

逆に、我々は、我が国がこのような道義の歴史を保持してきたことを、むしろ誇るべきであると同時に、我が国民が己の歴史伝統を誤解しておる事態をこそ、むしろ憂うべきなのであります。

そして、我が国の比類ないこの歴史伝統と戦後の荒廃した国民精神を併せ顧みるとき、道義国家としての歴史が、ただ単に国民の日常の行動によってのみ維持されて来たのではないこともまた、この憂うべき事態が証明しておるのであります。

そこで我々は、我が国が数千年の長きにわたって生命総合体系化としての道義国家の歴史を保持し得た最大の原因に目を向けねばならないのです。

それは天皇であります。

人は「天皇なくして我が国の歴史は無かった」と申します。それは決して支配者の有無の問題ではなく、実は、天皇が生命結合大系化たる我が国の「要」として、その歴史的役割を果たして来たからなのであります。


続く では一体、天皇とは、、、
・・・・

奇しくも、我が国に於いては、古来より一元生命、生命結合に基づく 神道 という精神的支柱がありました。

即ち、我が国に於いては、より良く生きんとし、より繁栄を求めんとする生命の躍動が、家族から部族、そして民族へとその領域を拡大し、各々がその役割を果たすべくその処を得ると同時に、それを民族的、国家的な共通の目標、即ち 『建国の理想』として来たのであります。

言い換えると、

我が国は人らしく生きることを目標としたる国家、人の道を全うすることを 建国の理想 としたる国家、即ち 『道義国家』 なのです。

そして、仏教哲学がこれに科学的根拠と論理を与えることによって、道義国家 としての 歴史伝統がさらに醸成されて来たのです。

しかしながら、国民が単に己の物質的繁栄のみを求め、個体小我に埋没して互いに争うなれば、数千年の道義国家の伝統といえども、たやすく崩壊することは、戦後の我が国の現状を見れば明白であります。

それは、まさに、生活体系における 惑ー業-苦 の悪循環の中で苦悩する世界であります。

続く
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu2/fl-bukkyou/yuisiki-ku-bk.htm

前項からの続き

しかしながら、人間である限り、政治的自由のみを以て満足のおく訳がなかった。
また、経済的平等だけを以て満足のいく訳がなかった。
結果として、政治的自由に対して、経済的平等が要求され、経済的平等に対しては政治的自由が要求されることになったのです。

それは言を換えれば、この両者が忘れ去っていた生命体系に於ける共同体意識の形成、即ち共同運命の自覚を、互いに相手のやり方を採り入れる事によって回復しようとする動きだったのです。

両者が、相接近する結果となったのは、自由主義と社会主義が共に、生命結合の一面である生活体系の原理を告げる思想に過ぎなかったからです。

しかし、自由が人格的自由、正義の裏付けを得た自由であってほしい。正義が自由な人間の諸活動によって実現される正義であってほしい。と願うことは、両者の当然の心境ですが、生命結合、とりわけ生命体系の側面を無視した思想である限りは、自由主義と社会主義が、いくら接近しても、生活体系を以て生命体系の充足を得ようとするという間違いを解消することは不可能なのであります。



東洋的一元生命に基づく道議国家
第一章 に於いて

我々は、人格という資質を持つ人間として、『生命体系』と『生活体系』の両面を併せもっておるのだと。

人間は命と命の繋がりであるところの生命体系と 政治、経済、法律の権力関係、利害関係の世界である生活体系 の両面を併せ持っておるのだと言いました。

これが人間の実相だと言いました。

ただし、この両面は、たとえば、会社は利害関係に基づくから生活体系のみに属し、一方、家庭は無償の情愛に基づくから生命体系のみに属すといったような、全く別の二面性として現れるものではありません。

逆に、これらは本来、一個の人間の中に一体として溶け込み、社会的なあらゆる活動の局面に於いて、さまざまな形態で現れるものであるのです。

一例をあげますと、

我々が、ひとたび会社を興せば、強壮の中に見を置いて利潤追求に励まねばないことは言うまでもありません。この点に於いて会社は生活体系の側面を持っています。
しかし、会社は良い品物を売って社会に貢献し、社員が仕事を通じて生き甲斐を見出せるようにするという任務、即ち社会的使命をも果たさねばならないのです。
この点に於いては生命体系としての側面をも併せ持っておるのです。

このように、我々の生命体に於いては、個人であれ集団であれ、人間の如何なる活動の場に於いても、
常に生命体系と生活体系が即応しているのです。

ここで、私(三上照雄師)は、この生命体系と生活体系を合わせて、『生命結合』都言う言葉で、表しておこうと思います。

ところが、自由主義と 社会主義は共に、この真の人間、生命結合たる人間を忘れていたのであります。

一言に尽きるところ、人間の人間たる所以の中身、即ち、私の言う生命体系を知らずして、生活体系のみに走ったのであります。

さらに言えば、自由主義は経済に於ける人間を人間と考え、社会主義は政治に於ける人間を人間と考えたのです。経済的人間と政治的人間を人間そのものだと、考えて、根本の人間の結合を忘れたのです。

だから当然の如く、政治的自由(自由主義)は経済的不平等を生じ、
経済的平等(社会主義)は政治的不自由を生じたのです。

しかしながら、自由が人格的自由、、、、、

続く
そもそも、健全なる社会とは何でしょうか。
果たしてそれは単なる富有なる社会であろうか。もちろん、物資は富有でありたい、経済活動の能率と、物資の充実は望みたい。たしかにこれらは健全なる社会に必要なことがらの一つではありましょう。しかし、それだけで良いのだろうか。

実は、こうした事を通じて、各自の能力や素質を全面的に伸ばす機会が欲しい。希望を持って建設的な仕事に従事したい。
それが、同時に同胞の幸福を求める物でありたい。人はこう願っているのではないでしょうか。
こうした願いを実現する社会こそ、真の健全な社会なのです。
言い換えれば、国家の繁栄と個人の完成こそ、健全なる社会の姿なのです。

自由主義と社会主義がそれを求めて来なかったということでは無く、むしろ、今日まで自由主義が求めて止まず、社会主義が求めて止まずして歩んで来ました途は、共にそれはこのような健全なる社会を求める途だったのです。

ただ、唯一神教文化の欠点とでも申しましょうか。自由主義は社会主義を誤りと決めつけ、社会主義は自由主義を誤りと決めつけて、互いに覇を競って参りました。

しかし、何とも皮肉にも、此の両者が対立と相互不信の中で導き出した結論は、互いに相手を必要としている事だったのです。

即ち、自由主義は社会主義であることによって自由主義の本領が発揮出来る。社会主義は自由主義であることによって社会主義の本領を果たすことが出来る。

こういう事が、ついに明らかになったのです。

では何故、自由主義は社会主義へ移行しなければならなかったのか。また、何故、社会主義は自由主義へ移行しなければならなかったのでしょうか。

それは、決して両者が間違っておったからでは無かったのです。
両者が、互いに相手を求め相手を取り入れ、福祉国家という共通の国家観へと移行せざるを得なかったのは、実は、移行すべき必然を持っておったからなのです。

この冒頭の生命体系と生活体系について、そのわけをもう少し詳しく述べて見ましょう。(以下次回)
第九章 東洋的人間観と西洋の限界

(1)健全なる社会とは何か
(2)東洋的人間観  生命結合としての人間

第十章 日本 東洋的一元生命に基づく動議国家

第十一章 生命結合体系化としての『和』

(1)中心人格たる天皇
(2)共通の基盤 異なりを認めながら一つを自覚する
(3)東洋的自然態 家族的協力関係
(4)上下本末の自覚と時処位即応
(5)共通の目標
(6)中心人格 情理統合の要

第十二章 『和』と『中心人格』の総括
 
第十三章 『和』に於ける天皇の役割

(1)国家の中心人格
(2)天皇道 仁徳天皇と昭和天皇

第十四章 建国の理想と勅語

第十五章 皇道の原理

(1)王道と皇道
(2)日本と中国の相違 生命体系の大樹としての血縁意識

第十六章 結語 第三文化へ向けて



以下目次表題を羅列してみます。

(3)私益と公益の一致  自由放任経済体制と議会制度
(4)自由放任経済の破綻

第三章 資本主義の特徴
(1)独立企業と営利活動
(2)資本主義の欠陥  人間機械化

第四章 福祉国家への移行
(1)経済政策の実施
(2)自由論の変化 保守的自由と進歩的自由
(3)自由、国家、民主主義

第五章 社会主義の目的と問題点
(1)私有財産の否定
(2)社会主義の定義 民主主義の実現体

第六章 衆参主義の結末
(1)中央集権と計画経済
(2)衆参主義の欠陥

第七章 根本誤謬(ゴビュウ)としての唯物弁証法

第八章 資本主義と集散主産主義の変貌
(1)変革の必要性
(2)資本主義の変貌
(3)集産主義の変貌
(4)根本的問題の未解決

  以上上巻 

次回は下巻の目次を書きます。
しかし、中世末期にかけての産業の発展に伴い、こうした戒律や命令が、自由を求める国民の諸要求に相応できなくなり、この自由を求める国民の要素が幾度かの革命を経て、私有財産を含め、天賦人権として確立されるに至ったのです。

このような、私有財産を認める立場に於いて、自分のやったことは自分で後始末をする。自分の行為そのものが自分の幸不幸を決定する。そうして初めて、己の仕事にたいする全力投球と勝ちある創造をそこに行うことが可能になります。
即ち、各自各自に於ける道徳手段としての責任と自由が明確でこそ、価値ある創造を求める事ができる。価値あるものを生み出すことができる。

この価値ある創造が行われてこそ始めて、人間は前精力を傾けると共に全責任を取ることが可能になるのです。

人間は、自ら良しとするところを自由に行って宜しい。その責任を明確にして行動して宜しい。そうして、自分が努力をして得たものは自分のものとして宜しい。こうゆう意味が私有財産という言葉に集約されておるのです。

暫くして、個人格の道徳的責任と自由を明確にし、価値ある創造と全力投球を行い、自らが、その責任を全うしていくとゆうこと、即ち、私有財産の確立というものが、一番最初の問題として取り上げられてきた訳です。