東洋的人間観  生命結合 としての人間 | 想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論

想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論

何でも書こう
 (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性、)(哲学思想)(政治経済)などなど、

第一章 に於いて

我々は、人格という資質を持つ人間として、『生命体系』と『生活体系』の両面を併せもっておるのだと。

人間は命と命の繋がりであるところの生命体系と 政治、経済、法律の権力関係、利害関係の世界である生活体系 の両面を併せ持っておるのだと言いました。

これが人間の実相だと言いました。

ただし、この両面は、たとえば、会社は利害関係に基づくから生活体系のみに属し、一方、家庭は無償の情愛に基づくから生命体系のみに属すといったような、全く別の二面性として現れるものではありません。

逆に、これらは本来、一個の人間の中に一体として溶け込み、社会的なあらゆる活動の局面に於いて、さまざまな形態で現れるものであるのです。

一例をあげますと、

我々が、ひとたび会社を興せば、強壮の中に見を置いて利潤追求に励まねばないことは言うまでもありません。この点に於いて会社は生活体系の側面を持っています。
しかし、会社は良い品物を売って社会に貢献し、社員が仕事を通じて生き甲斐を見出せるようにするという任務、即ち社会的使命をも果たさねばならないのです。
この点に於いては生命体系としての側面をも併せ持っておるのです。

このように、我々の生命体に於いては、個人であれ集団であれ、人間の如何なる活動の場に於いても、
常に生命体系と生活体系が即応しているのです。

ここで、私(三上照雄師)は、この生命体系と生活体系を合わせて、『生命結合』都言う言葉で、表しておこうと思います。

ところが、自由主義と 社会主義は共に、この真の人間、生命結合たる人間を忘れていたのであります。

一言に尽きるところ、人間の人間たる所以の中身、即ち、私の言う生命体系を知らずして、生活体系のみに走ったのであります。

さらに言えば、自由主義は経済に於ける人間を人間と考え、社会主義は政治に於ける人間を人間と考えたのです。経済的人間と政治的人間を人間そのものだと、考えて、根本の人間の結合を忘れたのです。

だから当然の如く、政治的自由(自由主義)は経済的不平等を生じ、
経済的平等(社会主義)は政治的不自由を生じたのです。

しかしながら、自由が人格的自由、、、、、

続く