2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています(てか、遂に実旅後、一年を経過してしまいました(>_<))。前回は、ワタクシ、chuが帰依しています「真宗大谷派」(浄土真宗大谷派)の本山であります「真宗本廟」(東本願寺)の参拝を中心にお届け致しました👇
そしてこの日は京都最終日の前日。「城南宮」訪問を終え、竹田駅から向かいましたのは三条京阪付近です
出来る事なら、
心置きなく夜の京都を満喫したいところなのですが、お茶屋さんで舞妓さんと戯れる人脈(※夜の祇園街などの花街で過ごすには何方かの紹介が必要、即ち“一見さんお断り”の文化があります)もなければ、お金は
もっとないので
ごく普通の過ごし方をしました![]()
そしてここは三条大橋の袂。「東海道五十三次」の終点
江戸の日本橋(現在の東京都中央区)から数えて53番目の宿場町ということになるのでしょうが、三条大橋はズバリ、京の都ですから宿場町ではないですね
と思ったら、日本橋を出て最初の宿場町が品川宿、そして最後の53場所目の宿場町は大津宿(現在の滋賀県)でした。で、各宿場町の距離はと言うと、短い所では油井~蒲原(静岡県)宿間の1里(約4㎞)、長い所では箱根~小田原宿(神奈川県)の4里8丁(約17㎞)。ま、chuは「駅からハイキング」では10㎞前後は数時間内にて難なく歩いちゃっていますから、この4里8丁も“恐れるに足りず”なのですが、ホレも小田原から箱根までは山道です。お正月恒例の「箱根駅伝」でも御案内の通り、同駅伝の第5区は“山登り”として傾斜の強い坂道を登りながら走る事が出来るスペシャリストのランナーが担うことが殆ど。ですので距離以上にしんどいのは明らかで、この間の峠越えはかなりの健脚さが求められます。しかし“箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川”という川柳にもありますように、大井川を間に挟む島田~金谷宿(静岡県)間の距離は僅か1里なのですが、増水期にはなんと28日間も足止めをされたという記録も残るほど
ですが、まぁ東海道五十三次、江戸~京都間の平均的な旅程は早くて10日間、少しゆっくりめだと3週間との事。しかし現在では東海道新幹線「のぞみ」だと2時間10分くらいで行き来出来てしまうのですから、江戸の頃と比べては勿論の事、まだ東海道新幹線が開業する前の東京~京都間は特急電車で8時間近くはかかっていたそうですから、現在と比べると隔世の感がします![]()
三条大橋を渡ります![]()
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こんなものも残っていますが写真を撮り忘れました(>_<)
三条通と河原町通りの交差点は「河原町三条」と呼称。四条通と河原町通との交差点は「四条河原町」ですから、どちらの通り名が先に付くのか何故か順番が逆転しています
理由は分かりませんが![]()
そして河原町三条と言えばなんと言ってもこちらです👇chuが持つ“正義の血”が騒ぎます![]()
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そうです、幕末、この場所にありましたのは「池田屋」![]()
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当時、京を追われて居場所を無くしていた西国藩の不逞浪士らは、どうしたら自藩の息を吹き返すことが出来ようか、と謀議を重ねる中で“風が強く吹く祇園祭の夜、京の市町に火を放ち街中を大混乱させて京都守護職の松平容保を討ち、御所から帝を連れ出して、西国に連れ去ろう”という、末恐ろしい計画を立てていました。しかし不穏な空気を察知し京都の治安維持に奔走していた「新選組」は、古道具商家の枡屋喜右衛門を名乗りながら隠密裏に情報活動と武器調達にあたった長州藩の間者でしたが、これを捕縛。厳しい取り調べの結果、先の謀を知るに至ったのですが、古高の捕縛を知り、その善後策を謀議していた西国藩を中心とする不逞浪士が集っていたのが「池田屋」だったのです。その際「新選組」は近藤局長組と土方副長組の二手に別れ、四条河原町から河原町三条一帯にある旅籠や食事処などを片っ端から臨場(今で言う家宅捜索)していきます。この時の有名な言葉が“御用改めである”です
そして「池田屋」に巣食っていた不逞浪士を発見し、壮絶な死闘が繰り広げられた結果、不逞浪士の多くは討ち死にし、ごく一部の浪士は逃走しました。これが世にいう“池田屋騒動(事件)”です。詳しくはこちら👇
但し、chuが初めて本格的に京都を訪れ始めた頃の1980年代、今と同様の石碑はありましたが既に「池田屋」の建物は現存してはおらず、建物があった場所には「ケンタッキー・フライド・チキン」のお店と、あのカーネルサンダースさんがニコニコと笑いながら立っていたのでした
しかしそれも今は昔の話。今回の旅で訪れた際にこの場所はとある居酒屋さんへと変貌を遂げてたのでした
それがこちら👇
いろいろなブランド名を用いて居酒屋の全国展開を行っている「(株)チムニー」さんですが、その中でも旗艦のチェーン店が「はなの舞」
そして、ここ河原町三条では「旅籠茶屋池田屋 はなの舞」とした店舗を開業しています。ん、“旅籠茶屋池田屋”というネーミングは凄く言い
ケンタッキーファンの方には申し訳ないのですが、「はなの舞」さんが跡地を取り仕切って下さったことは万々歳です![]()
そしてなんと言いましょうか、このお店に入る時に自動ドアが開くのですが、その際にはあの有名な“御用改めである”のメッセージが流れるのでした
こちらが「旅籠茶屋池田屋」のホームページです👇
そして店内ではこんなサービスも👇![]()
なおお酒をお召しにならない方でも頂けるメニューもあります(現在は冬向けの鍋がセットになったものに代わっていますので、季節に応じてコンテンツは多少、変わるようです)
こちらは店外に掲示されています「池田屋騒動」の史跡など
壮絶な斬り合いの中で、残念ながら「新選組」側にも死傷者が出ました![]()
以前、こちらを訪れた時にはこれほどの案内掲示板はなく、chuの記憶に残っているのは写真でお見せしました石碑とカーネルサンダースさんだけでしたから、これはこれで隔世の感がありました
お店を出て、少し付近を巡回しますとこのような史跡ばかり![]()
ここは大村益次郎と佐久間象山公が暗殺された場所で高勢川沿い、木屋町通の中ほどです。幕末期、この界隈には正にテロリストが跳梁跋扈していたのでした。ですが大村益次郎の場合は、維新後に彼が目論んでいた西洋式の軍改革(徴兵制度)により武士としての職を奪われることを恐れた身内の長州藩士に斬られているのですから、悪事(後に似非官軍となるグループの幹部として南国藩と密かに結び、土佐脱藩の坂本龍馬が仲介する武器商人グアバ―から最新式の武器を買い込み旧幕府軍を壊滅させた張本人です)に加担した報いですな
chuは大村の銅像が、「靖国神社」の参道につっ立っているのも不愉快ですw
余談ですが、この頃の銃器の性能は目まぐるしく進歩しており、それは当時、アメリカでは南北戦争があったため、銃器性能の著しい進化がみられたのです。当時の幕府は、まだ初期の初期、織田信長が桶狭間の合戦で勝利をおさめた火縄銃に毛の生えた程度のゲベール銃を標準装備していたのですが、それがミニエー銃、そして最後はスナイドル銃へと急速に性能を進化させていくのですが、南北戦争が終結し、古くなった銃をグアバ―はアメリカから仕入れて来ては日本に売り捌いてポロ儲けをしていたのです。坂本龍馬と共に
そして大村益次郎は元々は医師ですが、蘭学に優れていたことで若くして宇和島藩に仕え、そこで翻訳を任されたことで銃器につき詳しくなるのですが、その後、故郷の西国藩に抱え上げられ、その“知識”を西国に伝えた“功績”を崇められ、遂には「靖国神社」に銅像が建てられているのでした
何が“日本国陸軍の父”だ
日本の近代軍の創始者は、意味不明の罪名を着せられて斬首された小栗上野介忠順公以外の誰でもありません
しかし、歴史の教科書にはその事はひと言も記されてはいませんね
なぜでしょう、それは南西国藩主導によって造られた“明治政府”なるものが、徳川幕府の功績を消し去りたいからのもの以外にはありません![]()
鴨川に架かっていた橋は三条大橋でしたが、高瀬川に架かっているのは三条小橋です![]()
こちらは木屋町通の西を流れる高瀬川![]()
京と大坂(当時の書き方)の間を行き来していました高瀬舟の模型です![]()
“勤皇派”でありながら、不逞浪士の内輪もめ(内ゲバですな
)で惨殺されたのが本間精一郎の遭難碑
こちらは旧土佐藩の屋敷跡。土佐藩と言えば、外様ながら幕末の藩主は山内容堂(当時は豊信)公。最後の将軍・徳川慶喜の良き理解者であり佐幕はでもある「公武合体」推進派の一人でした。しかし藩主を甥の豊範に譲る頃には、藩内は倒幕の急先鋒となった脱藩藩士である坂本龍馬らの力を抑えきれず、また京の土佐藩邸は「新選組」に追われている不逞浪士どもが逃げ込む館と化すなど、chu的には許すことの出来ない史跡としての館なのでありました。またこの当時、後に「明保野亭事件」と呼ばれる“事件”が発生。これは會津藩士の柴司が土佐藩士の麻田時太郎を不逞浪士と誤認し攻撃を加える傷を負わした出来事で、その際、麻田は傷を負ったものの生命に別条はなかった。また当時の會津・土佐両藩は公武合体を進める友好関係にあったのですが不逞浪士が潜伏しているとの報を受け、「新選組」と會津藩士との合同の探索方が「明保野亭」を急襲、その際、西国藩の不逞浪士は居なかったのですが、たまたま居合わせた土佐藩士の麻田が現場から逃走しようとし、會津藩士の柴司が追撃します。攻撃を受けた際、麻田は初めて自身が土佐藩士であることを名乗り、そのため柴は攻撃を止め、屯所(金戒光明寺)に戻った後に事の顛末を報告します。會津藩では(この時は)友藩の藩士を誤認とはいえ誤って攻撃を加えてしまったことを詫び、医師及び医薬品の提供を申し出るものの土佐藩はこれを固辞。と言うのは土佐藩内では、後ろ傷を負って戻った麻田に対し、敵に背を向けて逃走したことから“士道不覚悟”の者として、かような者の傷の手当はせず、それどころか切腹を命じます。しかしその後、土佐藩内の一部の者から公然と會津藩に対し報復すべしとの声が高まり、會津藩としては柴司の行為は職務上の行為であるとして不問としていたのですが、土佐藩との関係悪化を避けるべく、苦悶します。そもそも「明保野亭」探索時に名も名乗らず、逃げ出そうとした麻田に非があるのは明らかなのですが、松平容保公を始めとして會津藩がこの問題に苦悶する姿を知った柴司は兄と相談の上、自らの切腹を決断し、兄に介錯を頼み切腹。これにより會津・土佐両藩の緊張関係を回避することが出来たのでした。柴司の葬儀には會津藩士の他、新選組隊士たちも参列してその死を惜しんだのでした。墓所はchuが午前中に訪れました金戒光明寺にあります。「明保野亭事件」についての詳細はこちらから👇
木屋町通を散策中![]()
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派出所(交番)と🚻を発見
いかにも“京都”っぽい造りです![]()
そして記念すべき京都最後の夜の“食べ納め”がこちら👇「餃子舗眠眠」三条店![]()
って、京都の方には全く珍しいお店ではないと思われます。それに京都発祥の町中華と言えばなんと言っても「餃子の王将」
ところで、世界中の全てのお料理の中でchu華料理が大好きなchu
(あ、いわゆる町中華が出すメニューでして、ふかひれ何とかとか、ツバメの巣とかの類のコース料理ではありません
)。実は「餃子の王将」も「餃子舗眠眠」もchuは初めて京都で食べました
確か10代も最終晩の頃だったと覚えています。で、この二つのお店の味とメニューと安価さに、当時は貧乏学生でしたchuは大感動
しかし京都旅行を終えて松戸に戻っても、「餃子の王将」も「餃子舗眠眠」も当然、市内にはありません。松戸市内どころか当時は東京都内にもなかったと思います。で、30代になってからでしょうか(或いはそれよりもうちょっと前かも知れません。「東京ドーム」になる前の、まだ「後楽園球場」があった時代。最寄りの水道橋駅近くに「餃子の王将」が出来、喜び勇んで駆けつけたことを昨日のことのように思い出します
そして時代は変わった⚡⚡⚡なんと今ではchuの地元の千葉県松戸市にも「餃子の王将」は出店しています。ところが、もう一つの“餃子の巨匠”であります「餃子舗眠眠」は、京都に行かなければ食べられない
…しかしこれはchuが知らなかっただけ、だったようでして、実は「餃子舗眠眠」の店舗は関東にも進出していたようです
しかしchuはそのことを知りませんでしたので、東京都内の「餃子舗眠眠」には行ったことはありません
で、今回の上洛時には“何としても「餃子舗眠眠」に行くんだ”と固く心に誓っておりましたことが、遂に京都最後の夜に実現することが出来たのでした![]()
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拙blog読者の皆様におかれましても、「餃子の王将」や「大坂王将」は知っていても「餃子舗眠眠」は知らない、という方は案外多いのではないかと思われます。現に“町中華命”のchuですら、“「餃子舗眠眠」の餃子は京都に行かなきゃ食べられない”と信じて疑いませんでしたから
(ですが「餃子舗眠眠」の発祥は実は大阪ミナミの千日前。ですので京都発祥ではなく大阪生まれ、なのですが京都への進出はかなり昔に遡りまして四条に進出したのは1956年のこと。そうです、chuは四条にあった「餃子舗眠眠」に行っていたのでした。ちなみに「餃子の王将」は、1967年に四条大宮に一号店を開いたのが最初でしたから、「餃子の王将」よりも「餃子舗眠眠」の方が歴史があるのでした
)と言うことで、chuが京都で食べていた「餃子舗眠眠」と「餃子の王将」の店舗は、東山安井にありましたchuの定宿の「寿栄屋」さん(※2025年7月19日出稿の拙blog「三都物語」その15を御参照下さい)から徒歩圏内の四条河原町界隈にあったものです
しかし、chuが知らないうちに「餃子舗眠眠」が関東に進出されていたとは…これは“迂闊だった”では済まされないことですよ
しかしchuは今では、「駅からハイキング」等のイベントや何か特別な所用でもなければ中々上京することも少なくなりましたから、やはり「餃子舗眠眠」は、“上洛した時のお楽しみ
”にとっておきたいお店なのです![]()
炒飯と餃子の、これぞ“王道”ですぅ
てか、「旅籠茶屋池田屋 はなの舞」にて、少しだけでしたが![]()
してましたので、これだけ食べ終わったらお腹がいっぱい
苦しいです![]()
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お腹もいっぱいになり、楽しかった5日間、素晴らしい思い出がたっぷりと詰まりました四条河原町まで歩きます![]()
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またいつの日か、この景色を見られますように
との思いを込めて![]()
前々日にも四条河原町から千本旧二条行きの🚌(46系統)に乗っていましたので、バス停までは迷わず直ぐに行く事が出来ました![]()
そして以上、ここまでが2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子の、5日目までのものです。金閣寺参拝に始まり、個人旅で訪れるのにはハードルが高い丹後半島にある伊根町や、日帰りでしたが神戸タウン、あ、大阪は“三都物語”と言いながらも電車の乗り継ぎだけの滞在に終わりました
その後は京都の各神社仏閣、思い出の地を辿りました。そして最終日前日になっちいましたが、真宗大谷派門徒のchuがどうしても参拝したかった「真宗本廟(東本願寺)」など、月曜日から金曜日までの5日間、天候にも恵まれ(てか、35℃を超える連日の猛暑にはまいりましたが
)最高でした
で、本来であれば旅最終日の様子も語りつつ、この5泊6日の京都滞在記を〆括りたかったのでした。ですが…誠に残念なことに、京都滞在最終日(2025年9月21日)に見たものは、blogに綴るのも憚れる、そして楽しかった旅の想い出、憧れの都・京都のイメージを大きく損なう事象に出会うだけのものとなりました。旅の最終日、5日間の疲れもピークに達していたため、朝は久しぶりの寝坊をし、チェックアウトの11時少し前までホテルで寛いでいました。ここからは荷物もある事ですから遠くには行けず、また混雑している寺社にも行けません。ですので「新京極」を訪れお土産屋さんの軒先を眺めつつ、最後は“京の台所”として知られている「錦市場」を訪れ、そこで昼食を頂いた後にはいかにも“京都らしい”“京都に行ってきました”的なもの、例えば数種類もの「おばんざい」などを見繕おうと思っていました。なに、例えナマものだとしても、保冷剤さえ入れれば新幹線で東京まで2時間ちょい、東京から松戸までは30分ちょいですから自宅までであっても3時間ちょい。であれば十分、「おばんざい」は持ち帰れるな
と思っていたのです。ホテルをチェックアウトする前までは…ところが、現実はこんな感じ。しかも周りに居るのはインバウンドの外国人観光客ばかり。まぁそれはそれでいいのですが、超円安を受けてかインバウンド客の財布の紐は緩く、それを目当てにしている店側の対応のなんと情けないことよ
まるで“日本人など、相手にしてないよ
”“外人さんの邪魔なんだよ、早く出てってくれよ”
的な対応を受けたのでした
“え、ちょっと待ってよ、ここは“京の台所”と言われた「錦市場」ぢゃないの
”と言いたくても、聞きたくても、とてもとてもそんな疑問すら挟むことすら許されない、異様な空間なのでありました
そしてもちろん、ここに関わられています人、以外の京都の方が大多数だと思われますので、chuは“錦の住人”に対してはっきり言っちゃいます
“誇り高き都人(みやこびと)が、こんな商いをして恥ずかしくないのですか
”と
(※東京都内にもインバウンド客は溢れていますし、「築地場外」など、いわゆる“観光地価格”で商売しているスポットもある事にはあります。ですがこんなにもあからさまに“ニッポン人お断り”的な商売をしているスポットは、東京にはありませんからね
)
とても思い出深かった今回の京都訪問、久しぶりの上洛でしたが、最後の最後に来てガッカリ![]()
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その「錦市場」、オフィシャルWebサイトには今だに“400年の歴史を有し「京の台所」として親しまれる「錦市場」、各お店が自信をもってお勧めする厳選する 京料理の食材など云々”と謳われていますが、はっきり言ってこれは大ウソです
オフィシャルWebサイトをリンクする気にもなれませんので、しません
「錦市場」の商店主たちはこれから先もこうした商いを続ける気なのでしょうか
“「錦市場」が、日本人から見放される”日が来るのは、そう先の事ではないような気がします![]()
さて、“三都物語”と題しました今回の「京都/大阪/神戸の旅」は26回もの永きに渡る連載となりました。実際に旅をしたのは2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程でして、既に1年間が経過してしまいましたが、“長期連載物”ゆえに途中にちょこちょこと旬ネタが入り込み、完結までの期間がこのような結果になりましたことをお詫び申し上げます。とても思いで深き京都紀行ではありましたが、最後の最後に実に嫌な思いをしたのもこれまた事実。そしてそのことは是非とも正直かつ正確にお伝えいたしたく、また、今回のblogのサブタイトルは“~河原町&木屋町三条界隈+α~”としましたが、この「α」こそ「錦市場」であることのchuなりの抗議でもあります
1000年の歴史を持つ京都。日本の都はなんと言っても「京都」です。このことを最後にお伝えし、今回の旅の、〆の言葉とさせて頂きます。長々とお付き合い下さいましたことに衷心より御礼申し上げます。 by chu
【次回以降ですが予定稿のblog宣伝】![]()
2025年9月2日から2泊3日で訪れました博多旅、は既にごく一部だけですが“速報版”としてお届けしています。この本編が始まりましたならば、またそこそこの長編となる予感がします
その際はどうぞ宜しくお願い申し上げます![]()




































































































































































































