例年であれば紅葉シーズンの幕開けとされる、関東地方の最北部に位置しています栃木県の塩原温泉と那須岳周辺なのですが、10月3日現在の気温は塩原温泉が25℃、那須岳山麓でも18℃でした😓これでは木々が色付くわけ、ないですよね😁今回は速報編としてお届けさせて頂きます。けど、昨年の「三都物語」も、あと残り少なくはなりましたが書き上げてません😅9月上旬に出向きました博多編も手つかずのまま😔ですので今回の速報版が“本編”になるのかは全く未定ですが、10月上旬の那須塩原界隈の様子をお届けさせて頂きますね😉

こちらは宇都宮市を起点とする新交通システムでLRT。宇都宮ライトレールです😉開業は2年前で、是非、乗ってみたかったので“乗り鉄”してきました🙌

塩原温泉郷の手前にあります「回顧(みかえり)の吊橋」です。ここには何度も訪れていますが、“塩原温泉に来たらここでしょう!”なので立ち寄りました😉

こちらが吊橋です。けどここには来るまでの間、山間部を通ります。クマの目撃情報が相次いでるのは知ってましたので、熊除けの鈴は必携ですね😓

こちらは今回のお宿。メタケイ酸が含まれた豊富な湯量を誇るこのホテルは掛け値なしの源泉掛け流し!で、こちらの源泉が湧生しているところに玉子(フロントにて1個100円で販売されてます)を、お湯に漬けると30分で温泉卵が完成します🙌超美味😆

こちらは那須塩原の「恋人の聖地」。標高は1000㍍を少し超えたところで関東平野をまんべんなく眺められるポイントです😉

そしてこちらが那須連山!ここは那須連山の盟主であります茶臼岳ロープウェイの山麓駅付近で、標高は1300㍍超。気温は18℃でした。ここ数年の猛暑化が始まる前であれば、早ければ9月の下旬、遅くとも10 月上旬には紅葉が始まるのですが、今回は全くでした😣

那須連山の登攀は、来夏にアタック!予定ですが😁(山はすでに引退していますがロープウェイを使えば何とかなりそうです😉)

こちらは殺生石。伝説が残されていますが詳細は後日に(多分(笑))

そして最後の訪問先は宇都宮市にあります「みんみん」の本店🙌平日の15:00過ぎでしたが整理券をとっての“参戦”です😉
chuが頂きましたのは焼き餃子と揚げ餃子のセット😆さすが、“餃子の本家”でして美味し(うまし)です🙌ところで数年前にから“雨後のタケノコ”の如く出店攻勢が続いていました群馬県はみなかみ町を発祥とする無人店舗の餃子やさん「餃子の雪松」、今ではすっかり見かけなくなりましたね😔あれはいったい何だったんでしょうか?😁ちなみにchuは福島市在住が長かった事もあり、“餃子と言ったら福島市でしょ”なのです😉

以上、速報版でした😉
※「餃子の雪松」は、まだ何店舗かは残っているそうです。関係者の方々にお詫び申し上げます。

 

2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています(てか、遂に実旅後、一年を経過してしまいました滝汗ニヤニヤ)。旅も5日目に入り、chuの大好きな京都の個別スポットを巡る旅へと入っておりまして、前回のお届けは幕末における「政」(まつりごと)の中枢となっていました「二条城」を訪問。その際の様子がこちら👇

「二条城」からはバス移動🚌ダッシュ🚌ダッシュ🚌ダッシュ で、やって来ましたるは壬生(みぶ)。近くを京福電鉄嵐山本線(嵐電)が通っており、小さな踏切を渡るとそこには…

“第14代将軍・徳川家茂公が上洛するので、不逞浪士が跋扈している京の都で上様(うえさま=時の将軍の敬称)の上洛に先立ち京に入りて上様を警護する”との名目で集められたのが江戸市中に燻ぶっていた浪人や農工商を生業としていた輩たち。当時、これを仕切っていたのが清河八郎という庄内藩郷士。しかし実は清河には幕府の役に立ちたい等の気持ちは微塵もなく、逆に西国にいた尊王攘夷派の輩と気脈を通じ合い、倒幕の勢力として使おうとの魂胆から浪士隊を募ることを考えました。その際の理由が前述の“第14代将軍・徳川家茂公が上洛するので~”でした。浪士隊は清河に引率される形で中山道を使い京に到着。すると清河はすぐさま本意を露わにします。即ち到着した浪士隊を壬生の新徳寺に集め、“本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にある”と宣ったのです。京都に着いたばかりなのにもう江戸に戻る、と言われて驚いた浪士隊の面々でしたが、給金を貰っている手前、これに従う隊士も多く、復路は東海道を使い江戸に戻ります。なお幕府はこの時初めて清河八郎の魂胆を知り、怒り心頭にムキーしかしこのまま不逞の輩集団を京都に残しておくのは危険と判断し、江戸に戻すことを認めます。で、浪士隊が戻るや否や、幕府は危険分子である清河八郎の暗殺を企図。下手人は後に京都において「見廻り組」として治安維持にあたった、“坂本龍馬を斬った男”とも言われた佐々木只三郎です。なお江戸に戻った浪士隊は幕府から「新徴組」という名前が付けられ庄内藩預かりとなり江戸警護に従事するものの、烏合の衆の集まりだったため、江戸市中警護の際にも酒を飲み、ゆすりまがいのこともするなど、その秩序たるやとても武士の集団とは思えないほど、レベルは低かったようです。ですが戊辰戦争が始まると意気に感じた一団は力を発揮、庄内藩と行動を共にするようになり、最後は庄内藩と運命を共にするという気概を持ち合わせた集団だったようです。そして話は戻りますが、清河八郎が“本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にある”と宣い、急ぎ江戸に戻ることを指示してきたことに対して浪士隊の中に居た近藤勇が率いる「試衛館道場」の面々は、将軍警護と言う本願を成し得ず直ぐに江戸に戻ることに反対、この「試衛館」一派には水戸藩脱藩の芹沢鴨ら数人も同調。この二つのグループを主体として公武合体に基づく攘夷実行の実現を目指すことを目的として「新選組」の前身である「壬生浪士組」が誕生したのでした。しかし、元々は将軍警護のために集めた烏合の衆団であったため、幕府としても京都に残った集団が何をしでかすかわからない怖さがあり、しかし近藤らの「試衛館」グループと、芹沢が率いる水戸派は幕府への忠義の志は篤く、取り敢えず幕府に刃向かう可能性は少ないと見るや、京の治安維持には人出が必要ということで、「京都守護職」の任に就いていた松平容保にその管理監督を委ねます。こうして近藤ら「試衛館」隊士と、芹沢率いる水戸一派は「壬生浪士組」として“會津藩御預かり”という形に落ち着いたのでした。そしてこの「壬生浪士組」は、たまたま壬生の新徳寺に集結し、近隣の郷士宅にたまたま一時的な事ととして分屯していただけだったのですが、結局引続き近隣の郷士宅に分散して住まわせることになるのです滝汗その郷士が八木家であり、前川家などであったのでした。こちらが八木家付近ですニコニコ八木家や前川家を始めとする、「壬生浪士隊」を引き受けざるを得なかった壬生の郷士たちは、突如、己に降りかかった災難を恨んだことは間違いありませんガーン叫びドクロ

八木家についてはこちらを御参照下さい👇八木家や前川家らの皆さんが不承不承、受け入れたのが「壬生浪士組」。即ち彼らの出自はどこぞの立派な藩士ではなく、脱藩した浪人や、武士でもない農工商出身の身分の輩。であるので、正規な武士であれば、壬生の郷士たちも、例え本心は違えども“お侍さん、お侍さん”としておもてなしをしたであろうところ、隊の名称からして“浪士組”であることから、“何をされるか分かったもんぢゃない”として、必要最小限以外のことでの関わりを避け、また陰では“壬生浪(みぶろう)”と呼び蔑んでしたのでした。そもそもこの「壬生浪士組」の構成メンバーは、芹沢鴨や新見錦など、水戸一派は水戸藩を脱藩した、かりにも士族の身分を有していたかつては武士ではありましたが、方や近藤勇校の一派は「試衛館」という町道場の食客が清河の徴募に応じて集まった集団で、当初のメンバーで武士の身分を有していた者は、松前藩脱藩の永倉新八や仙台藩に居たとされる山南敬助くらいのもの。局長の近藤勇公は町道場「試衛館」道場主の養子になったのであり、副長の土方歳三公は幼少期、江戸に丁稚に出ては悪さをやらかし(奉公先の女中を腹ませた、と言われています)多摩に戻った後は、家業の「石田散薬」を売り歩いていた商人でした。しかし「新選組」に関しての途中の説明は大幅に割愛…てか、「新選組」の歴史を語るとすれば、その起点は「壬生浪士組」として結成された1863年2月、終点は土方歳三公が箱館で戦死した1869年(明治2年)5月11日まで。期間にしてみれば僅か6年間の歴史に過ぎないのですが、この間にはとても数百枚の紙面では語り尽くせないものがあるのです。と言うことで例えばこちら等を御参考にしてみて下さいウインク

そしてこの後に「壬生浪士組」は「新選組」となり、一時、最大勢力は300名弱の隊士を抱える大集団となり不逞浪士が跳梁跋扈していた京都の治安を護ったのです。その後さらには「會津藩御預かり」ではなく、幕府から直接召し抱えられた幕臣にまでなったのですが、この時、壬生村の郷士の方々が先々の「新選組」の大活躍を想像だに出来なかったのは仕方のないことかも知れませんニヤニヤただ、“現在の歴史”を伝えています明治政府が伝える歴史においても、「新選組」が明治政府に刃向かったことや、「新選組」が“人斬り集団”に過ぎなかったことは吹聴していますが、駐屯先としていきなり壬生村の郷士宅に居座ったものの、その中で地元の住民たちに迷惑をかけた…あ、これにはちこっとだけ、釈明が必要でして「壬生浪士組」を構成した「試衛館」の近藤勇公と、芹沢鴨率いる水戸一派があったのですが、芹沢鴨の水戸一派は壬生村ではないものの、大阪に出向き力士たちと大乱闘を繰り広げたり、大問屋に押し入り金の供出を強要したりとまさにやりたい放題の乱暴狼藉を繰り広げ、遂には「壬生浪士組」を預かっていました會津藩主の松平容保公から芹沢鴨ら、水戸一派への粛清命令が下されました。この任を成し得た近藤勇公ら「試衛館」グループが「新選組」の礎を築いていくのですが、その後の「新選組」からの不祥事は殆ど、は聴こえては来ませんでした。なぜならば「新選組」には“鉄の戒律”とも言われた「局中法度」があったからなのでした。

そして「壬生浪士組」は「壬生寺」を本陣に定め、さして広くはない境内なのですが、その境内で日々、剣術の研鑽に励んでいました。また「壬生浪士組」の管理監督を委ねられていた會津藩主・松平容保公は、「壬生浪士組」を市中見廻りに積極的に活用するようになります。こちらが「壬生寺」です。そしてこのお寺、例えば京都市内には桜や紅葉の美しさが有名な数多くの寺院があるのですが、こうした何れにも該当しておらず、ですのでインバウンド客は勿論のこと、日本人の観光客の方でもそれぼと多く飲んたが訪れることはないお寺さん。ですがこれが「新選組」の熱狂的なファンの方であれば話は全然異なりますチューそうです、chuは熱狂的な新選組ファンですから、「壬生寺」にはもう10代の後半から訪れ続けています照れ

そしてこちらは「新選組」を扱った別棟…ですが、その昔にはありませんでしたから、昨今の“新選組ブーム”に乗り、新たに作られた施設のようですニヤニヤ(拝観料が必要です)

こちらが本堂。このお庭の四方に幕を張り、剣術の稽古が繰り広げられていたのです。ただ「壬生浪士組」はここで新隊員の募集を行うのですが、集まって来る者の身分でどこかの藩に所属している武士は、長州藩が送り込んだ間者を除くと一人もいません。脱藩浪士か、農工商身分の者です。前にも触れましたが「新選組」の起源はと言うと、局長の近藤勇公は「試衛館」という町道場の主に過ぎず、しかもその流派も天然理心流(てんねんりしんりゅう)という、現在の東京都多摩郡部で発祥したチャンバラ剣法を基にしたもの。当時、江戸市中を席巻していた北辰一刀流のような、誰もが知る、学ぶものが多い剣術とは異なっていましたので、同じ「形」で対峙しない剣術稽古のため、結局はチャンバラ劇のような稽古になっていたそうです。がしかし、実践においてはいくら剣の流れが綺麗でも、先に相手に一撃を喰らったら死を意味しますから、この“喧嘩殺法”は、風雲急を告げる幕末において、市中見廻りと取り締まりを任としていた「新選組」にとりましては実に合理的な剣術であったと言えそうですウインク

「壬生寺」境内の鐘楼。「新選組」一番隊隊長の沖田総司は性格がとても明るく、そしてひょうきん。ですが剣術の腕は「新選組」の中でもずば抜けて優れていたそうです。また沖田総司は子供好きで、稽古が終わった夕方には壬生村の子供たちを集めて一緒に鬼ごっこに興じていた、などの文献も残されています。またこの鐘楼台に登り、鐘を突くのも総司がよくこなしていたそうですウインク

本堂前から三門方面を眺めます。この石畳は当時のままのものなのでしょうかキョロキョロ

今から約160年余り前のことですから、それほど昔のことではありません。京都の治安を護ることに日夜、奔走し、しかし南西国の輩が不良公家と結託して、恐れ多すぎる仕業である錦旗を偽造ムキーその結果、似非官軍が時代の主流に踊り出てくると、公武合体、佐幕を本旨としていた「新選組」はやがて時代の波に翻弄されて行きましたえーんなお「新選組」がこの「壬生寺」に居たのは1865年3月までのこと。隊士が増えたことで稽古場が「壬生寺」の境内ということと、周辺の郷士宅への分屯ではキャパが間に合わなくなったため「西本願寺」へと移ることになりました。ですので「新選組」が「壬生浪士組」として京都に到着した1863年2月から、壬生には2年とひと月の滞在だったのでしたウインク

ではここからは新しく作られました“新ZONE”の御案内ます走る人走る人走る人chuが20代前半の頃までここを訪れていた時にはなかった施設ですウインク

一部、写真撮影が禁止の場所もありましたので、撮影出来たものを御覧頂ければと思いますニコニコここからは「壬生塚」というエリアで「新選組」隊士のお墓があります。新選組局長・近藤勇公の胸像と遺髪塔、 新選組屯所で暗殺された隊士・芹沢鴨と平山五郎の墓(水戸一派)、勘定方・河合耆三郎の墓の他、隊士7名の合祀墓が。またその合祀墓には池田屋騒動で亡くなった隊士・ 奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らも葬られているそうです。

「新選組」局長の近藤勇公と、副長の土方歳三公の胸像がありました。その昔に「壬生寺」を訪れた際にはこうしたものはありませんでしたし、「壬生寺」の拝観にはお金はかかりませんでした。ま、今回も「壬生寺」の拝観は従前どおり無料なのですが、新しく作られました「新選組」の施設(「壬生塚」と「壬生寺歴史資料室」)への拝観料と言うよりも“入場料”という方が正確かも知れませんウインクが必要です。

“「新選組」誕生の地”は紛れもなく、この「壬生寺」であり、「新選組」を愛するchuら、熱狂的なファンにとりましたはまさしく「聖地」なのでありますチューしかもこの場所は、6年弱と言う短い期間ではありましたが、幕末の動乱期、正しく風雲急を告げる中で、ここから登り龍の勢いの如くの活躍を始めた場所ですビックリマークchu宅近くにあります千葉県流山市の陣屋では、近藤勇局長と土方歳三副長との今生の別れとなった場所、JR板橋駅前には近藤局長が斬首された場所、函館市の一本木門は土方歳三副長(蝦夷共和国陸軍奉行並)が絶命された地…何れも「聖地」ではありますが、やはり「壬生寺」に来ると沖田総司一番隊長が、夕暮れ時に子供たちと戯れていた姿が想像出来てパワーが貰える気がします照れ今回の「三都物語」にて、久しぶりに「壬生寺」お詣りさせて頂くことが出来てとても嬉しかったです照れ

 

 

2025年9月21日、松戸市選出の立憲民主党千葉県議会議員の関根ジローさんと、松戸市議会議員(無所属)・増田かおるさんの共催で行われた標記タイトルのバスツアーに参加させて頂きました。このツアーは1日で4か所の関連施設を巡るものでして、三ヵ所目の訪問先は、埼玉県東松山市にあります「埼玉平和資料館」。またの名を「埼玉ピースミュージアム」と呼ばれている、展望タワーも持つ平和の伝承館。この施設は戦争の悲惨さと平和の尊さとを後世に伝えるために1993年(平成5年)8月1日に完成したものです。訪問時の様子はこちらから👇

そしてこちらが4か所目の訪問先で本日最後の見学先となりました「丸木美術館」ウインク

この美術館には広島出身の画家、丸木位里と奥様の俊(※奥様の御出身は北海道です)ご夫妻が原爆投下の数日後に広島市に入り、そこで目のあたりにした惨状や多くの被爆体験者の証言をもとに、夫婦共同制作で全15部からなる「原爆の図」が展示されている美術館です。chuは初訪問なのですが、実は同美術館は建物の老朽化から改修されることになり、建物の改修に加えて傷んだ作品群を修復、そのため今月末を以て長期休館となるとのこと。そのため今回の平和を学ぶツアーを企画して下さいました関根ジロー県議は、戦後80年を迎えた今年、何とか休館前に平和ツアーを組みたいとお考えいただき、今回のツアーを企画し開催されたのでした。

こちらが「丸木美術館」の正面出入口。この建物外観も、“味がある”ということで来館者には好評なようで、“美術館再開後もこの建物の雰囲気は残してほしい“という声が数多く寄せられているそうです。

同美術館の開館は1967年(昭和42年)。丸木位里と俊ご夫妻が私費を投じで自宅の隣接した場所に建てられたもの。ところが実は御夫妻はそれより前、chuが住む千葉県松戸市に住まいを構えておられたそうで、ちょうどその頃から美術館建設の構想をお持ちになり、居宅隣の松林を購入しようとされたのだとか。しかし価格面で折り合いがつかずにこの話は御破算になり、その後、ご夫妻は埼玉県東松山市に転居され、当地に「丸木美術館」を開館させたのだそうです。しかし民間の美術館建設にあたっての不動産取引に関して当時は松戸市などの行政が関与することもなく、仕方なかったと言えばそうなのですが、今にして思えば松戸市としては大きな“戦争遺産”を逃したとも言えそうです。で、同美術館にある原爆関連の「原爆の図」は14部(撮影が可能な絵は2階に展示されている1~8部までの作品です)。なお「原爆の図」は全編で15部あり、残りの1部は長崎市の「長崎原爆資料館」に展示されているのだそうです。chu一行は一昨年、長崎市を訪れており、「平和公園」には行きましたがすぐ近くにありました同資料館には足を運びませんでしたことを今さらながら後悔しています(>_<)なおこの後、撮影したものの一部の「原爆の図」をお見せするのですが、美術館でありながら写真撮影が許されているのは異例と言えば異例。少しでも数多くの方に見て頂き、原爆の悲惨さをお知り頂き、平和への願いの気持ちを強めて欲しいという御夫妻の気持ちが伝わって来るようです(なお、写真撮影が許可されているのは同美術館2階に展示されている8部にわたる「原爆の図」のみでして、1階に展示されている他の作品の写真撮影は出来ませんので念のため申し添えます)。なお「原爆の図」はとても特徴的な作品群でして、いわゆる背景はなく、苦痛に喘ぐ人、そのものがこれでもか、とばかりに描かれていまして、頭の中で“美術作品なのだ”と分かっていても、素晴らしい絵画を鑑賞した後の爽快感などを感じることはありません。原子爆弾がいかに非人道的な、許されざる武器だったのか、ということが分かります。今般の参議院議員選挙において議席を急速に伸ばした某党。その中に東京選挙区から当選した女性議員は核兵器保有に肯定的な意見を語っていましたが、原子爆弾が投下されたことによる被害はどんなものだったのか、この「原爆の図」を見たことがあるのか、と問うてみたい気持ちでいっぱいです。また御夫妻は、全15部の「原爆の図」を完成させるまでに30年の歳月をかけているのですが、日本国がまだ独立を果たす前(米国統治下)にも創作活動は続けられており、しかし原爆を投下した当事者の米国が日本を統治していたわけですから原爆報道は規制されていたのだそうで、そのため“米国を刺激したくない”という思惑も働き作品名に“原爆”という名称は使わず、例えば一番最初の作品には「幽霊」という名称が付けられています。しかし米国の占領下であった時代においても全国各地を巡回し、またその後には世界中にも出張展示がなされるなど、原爆の非人道性を人々にいち早く伝える役割を担ってきたのでした。それでは今から美術館に入ります。

こちらが一番最初に描かれた「原爆の図」で、そのタイトルは「幽霊」。先ほども触れましたが「原爆の図」には背景が描かれてはおりません。ただ、ただ、人のみです。原爆投下後の広島で、焼けただれた皮膚を引きずり歩く人々の姿が描かれています。そしてこの作品は全15部のうちの最初に描かれたもの。丸木夫妻が「幽霊」を描くにあたっては“それは幽霊の行列。一瞬にして着物は燃え、顔や手や腹はふくれあがった。水ぶくれは破れて皮膚はぼろのように腕からたれ下った。やり場のなくなった手を半ば挙げて「痛いよ痛いよ」と人々は子供のように泣きながら群れて歩いた。妻も子も夫も,変わり果て、焼けただれたお互いを発見し合うことが出来なかった。黒い雨が、墨の滝のように、粉みじんに分解してくずれ散った家や道路や素裸の人々の上に降りそそいだ。折り重なった屍体、黒く焼けて歯だけ白い屍体。屍体は足のふみ場もなく全市に満ちて、やがて息もつけぬ程の匂いが風にのって流れた”と作品化にあたっての気持ちを語られました(1950年2月24日『婦人民主新聞』に掲載された言葉を転載させて頂きました)

先ほどの言葉が綴られているパネルです。

このような「原爆の図」の作品が8部ほど展示されていました。。以下、作品群をアップ致します。なおこれらの作品は何れも畳一畳分の大きさの絵を、屏風のようにつなぎ合わせた形をとっています。そしてその理由とは、もし当時、統治していました米国から作品展示につきクレームが付けられた場合、直ぐに撤去し隠し持つため、持ち運びがしやすいようにこのような形にしたのだそうです。

左側のお二人は、丸木ご夫妻御自身が実際に御遺体を運ばれた際の様子を思い起こして絵画化されたものだそうです。

いかがでしたか、“これでもか、これでもか”という程に描かれました原爆により被災した凄惨な光景。爆心地一帯の温度は6千度を超えていたそうで、その近くにいた人の身体は一瞬にして溶けてなくなったそうです。そしてこれらは芸術的な絵画ですから「鑑賞」と言う言葉を使うのですが、果たしてその言葉が妥当なのかどうかも分からなくなりました。

正視するのも辛いところがありました。普通であれば優れた絵画などを鑑賞させて頂いた後には感動を覚えるものですが、これらの作品群を鑑賞させて頂きましたが正直、爽快感を感じることはなく、ただ、原子爆弾の凄惨さを感じただけ。しかしそれこそ原子爆弾の悲惨さを全世界に知らせたいとする丸木夫妻の思いに他ならないのです。核兵器を廃絶しなければならない、それをするのは私たち、一人一人がそのことを訴え続けていくことが必要なのだと、改めて感じた「丸木美術館」の観賞でした。

 

こちらは2階に展示されている1部~8部までの「原爆の図」の撮影は可能です、という御案内👇

こちらは入場に際して頂きました資料👇「原爆の図」は海外にも出張展示され、平和を願う気持ちの広がりを全世界に広めていくことに役立っているのでした。(美術館の入館料は900円です)

chuは拙blogをFacebookにもリンクしているのですが、blogの紹介文章にはこう綴りました👇

「戦後80年 平和を学ぶ日帰りバスツアー」、最後の訪問先は「原爆の図」が展示されています「丸木美術館」。私は初めての訪問でしたが、美術館で絵画を鑑賞と言えば、感動と爽快感を味わうものなのですが、「原爆の図」を鑑賞した後、そのような気持ちにはとてもなれませんでした。しかしこの絵画は、世界中の至る所で出張展示されているそうです。核兵器廃絶に向けて、その運動が広まることを願っています。昨今、俎上に上る「集団的自衛権」や「集団安全保障」がなにも“戦争に加担するためのもの”とか“米国と共に自由社会を護るための義務”等とは必ずしも思いません。しかし、“いかに戦争に加わらないための法整備?”との論調にはそのロジックと国会答弁にはとても納得できません。集団安全保障を遂行することで自衛官が戦地に赴くことによる戦死もあり得ます。そのため“それだと自衛官を志望する若者は居なくなる”との観測に対して“国防を志す若者は多い”と、特定の識者はいいます。果たして今の自衛官、職務に就く際には宣誓をして入隊しているのですが、そこまでひっ迫した認識を持ち入隊した自衛官がどれくらい居るのでしょうか(勿論、居ることも否定しません)。実際、自衛官志望者の多くは、例えば“東日本大震災で災害復興に取り組んでくれた自衛隊に感謝し、自衛官を志望しました”という志望理由が多いのだそうです。私は現職中、職務により陸海空の幹部自衛官(chuはノンキャリアですのでカウンターパートは将官ではなくて佐官クラスですが部隊を率いる方々です)との接点が数多くありました。しかしこうした他志望動機に対して旧知の幹部自衛官は“志望動機が間違っている、自衛官の最大の任務は国防にある”と断じました。確かにそれはそうなのですが、また、徴兵制に関しても、“今の戦争・戦略はハイテク戦、そのため超短期間で戦争は終結するのだから徴兵による素人が来ても戦力にはならないから徴兵制などあり得ない”とも言いました。さて、ウクライナ戦争はどうでしょうか?まさに近代戦です。しかも、もう3年以上も続いています。核兵器こそ使われてはいませんが多くの兵士や一般市民の方の命が失われています。これが戦争の現実です。巷間言われていることのハイテク兵器が使われているであろう戦争ですが、決して短期では決着していない現状をこうした識者はどう検証されるのでしょうか。自衛隊への志願者が少なくなれば、徴兵制も見えてきます。それを肯定する政党も先の参院選では躍進しました。“新しい戦前”にしないためにも、既に現役を退いた私たちロートルではありますが、平和を護るために動かなければならない!と考えた今回のバスツアーでした(^^)v

 

 

その後鑑賞を終えましたツアー参加者は、晩年には御夫妻のアトリエとして使われていました「流々庵」に集合、これにて本日のツアー、全ての訪問先での見学を終えました。参加者一人一人が感想を述べあったのですが、皆さんしっかりと“平和を学ぶ”大切さを再認識したことを語っていました。

最後に本日の「戦後80年 平和を学ぶ日帰りバスツアー」の参加者、集合写真ですニコニコ前列中央が増田かおる松戸市議会議員、左端が関根ジロー千葉県議会議員ですウインクchuは後列、右から3人目ウインク

それではおさらい。本日の「戦後80年 平和を学ぶ日帰りバスツアー」の訪問先の位置関係ですウインク

①「鈴木貫太郎記念館」②「桶川飛行学校平和祈念館」③「埼玉県平和資料館」④「丸木美術館」です。右下の青色で〇囲みしたところが起点の千葉県松戸市。これらの訪問先は何れも首都圏ではありましたが、③と④以外は近接はしておらず、松戸からの往復の移動距離は300㎞近くになりました。そして今回のような効率的な移動は公共の交通機関では無理な話。しかしマイクロバスを借りて下さった上に、関根ジロー県議、いえ、ジローさんが全ての区間を運転して下さいました。chuはただバスに座っていただけ爆  笑しかもジローさんは今回のツアー催行に当たり、全ての施設の下見をして下さっていたようです。県議会議員としてのお仕事もお忙しい中、僅かに残った貴重なお時間を使い今回のツアー開催を実現させてくださいました合格クラッカー本当にありがとうございました照れ

「戦後80年 平和を学ぶ日帰りバスツアー」、御案内のポスターを再掲載させて頂きます。ジローさん、増田かおるさん、本当にありがとうございましたビックリマーク

【特別編】

2025年3月16日投開票の千葉県議会議員補欠選挙におきまして関根ジロー千葉県議会議員、誕生の瞬間ですクラッカー合格(左から安藤じゅん子衆議院議員(千葉6区選出)、戸張とも子松戸市市議会議員、二階堂剛松戸市市議会議員)。何れも立憲民主党の議員さんですウインク

 

 

2025年9月21日、松戸市選出の立憲民主党千葉県議会議員の関根ジローさんと、松戸市議会議員(無所属)・増田かおるさんの共催で行われた標記タイトルのバスツアーに参加させて頂きました。このツアーは1日で4か所の関連施設を巡るものでして、二ヵ所目の訪問先は、元々の目的は陸軍の戦闘機パイロットを要請する飛行学校。しかし終戦間近には、ここから巣立っていかれたパイロットの卵たちは特攻隊員となり、沖縄戦に従軍し敵艦隊に体当たりをして若き命を散らしたのでした。涙失くして読めないお手紙なども展示されていました(なお、当該お手紙の写真はありませんのでご了承ください)「桶川飛行学校祈念館」を訪れた時の様子はこちら👇

さて、我ら一行を乗せた🚌は「桶川北本IC」から圏央道を爆走…と言っても1区間先の「川島IC」で高速道路を降り、国道254号を北上します。余談ですが、この国道254号線は東京都の文京区本郷から、豊島区池袋、板橋区、練馬区などを通り埼玉県の川越市へと向かう東京23区内の北西部を通る基幹ルート。chuの実家がある練馬とを行き来する際には頻繁に通行する勝手知ったる国道なのですが、練馬以遠を通ることはありません。また川越街道は、そのやや北側を江戸から京都までを結ぶ五街道の一つ、中山道が通っており、これはchu宅近くを通る水戸街道(国道6号線)が五街道の一つである日光街道(国道4号線)の脇街道でとされていることと同様、川越街道は中山道の脇街道と言う位置付けのようです。ところで圏央道を降り立ちました埼玉県川島町は既に川越市を過ぎていますから、果たしてこの国道254号の名称は川越街道のままでいいのかなキョロキョロなる疑問も生じました。しかし答えは明瞭爆笑片側一車線の狭隘な国道254号は片側二車線の快適な道路に様変りされており「川島バイパス」と呼ばれているようでした爆笑なお国道254号線の終点は長野県の松本市。そう言えば昨夏、松本を始めとする信州を訪れた際、美ヶ原高原の北側にも国道254号線が通っていてびっくりしたことを思い出しましたウインクさて、本題です。川島町を通り抜けてやって来ましたのは同じく埼玉県の東松山市にあります「埼玉平和資料館」。またの名を「埼玉ピースミュージアム」と呼ばれている、展望タワーも持つ平和の伝承館。この施設は戦争の悲惨さと平和の尊さとを後世に伝えるために1993年(平成5年)8月1日に完成したものです。なおこの時代背景…はバブル経済の末期の頃グラサンしかしプランが練られた時に土地を取得し、建物を建てているためなのでしょう、公共施設とは思えぬほどの豪華さで“バブリー感”がハンパないですぅニヤニヤ ま、建物の外観や設備はおいといて、この資料館には戦争に関する資料や戦前から戦後期の生活用具などなついて調査・収集・保存展示すると共に、戦争体験者の証言の記録や講演会の開催など、様々な事業を行い、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に継承していく役割を担った施設なのだそうです。埼玉県の施設ということもあってか入場は無料なのですが、翻って見て、わが千葉県にはこのような施設はありませんから、“平和を希求する”という意識は千葉県の行政よりも埼玉県の行政の方が勝っているのだと考えざるを得ませんショボーンちなみに「鈴木貫太郎記念館」を管理しているのは千葉県野田市、「桶川飛行学校平和祈念館」を管理しているのは埼玉県桶川市と、何れも公共の施設。また何れの施設も見学の際の料金は必要ありません。ただ、施設の維持管理のため、協力金を納める募金箱は設置されていました(もちろん強制ではありません)。で、到着しましたビックリマーク「埼玉県平和資料館」ですウインク

滞在時間は1時間ほど。途中、模擬授業の体験コーナーがあり、そこに参加するとき以外は館内の行動は自由でしたので諸々の展示物などを見学していきます。ですがchuは何よりも“高い所が大好き”チューその昔、山やchuが真っ先に向かいましたところは平和資料館のシンボル棟でもあります展望塔爆  笑海抜147.5mの展望室からは関東平野が一望できて、秩父山系や丹沢山塊、富士山はもとより、日光白根連山、筑波山、あとは人口構造物ですが大宮ソニックシティを始めとするさいたま新都心の高層ビル群や東京スカイツリーまでも見渡すことが出来ましたチュー周りを遮るものなど何一つない展望塔ですから、これはとても素晴らしいですクラッカー合格と言っても、眺めの良い展望塔と“平和を願う”何かとの直接的な関係はありません爆笑

こちらは埼玉県西部に跨る、奥武蔵や秩父山系の鳥観図。ま、埼玉県の施設ですから埼玉県の山や都市しか描かれていないのは、しょうがないってか爆  笑

こちらは展望室から眺めた景色。アップしたのは1枚だけです(光の関係で窓ガラスにchuが写っちゃいますのでニヤニヤ)左下に見えている茶色の建物は大東文化大学。同大学のキャンパスが東松山市にあることは知っていましたが、こんなにも辺鄙な場所都心から離れた場所だということは、初めて知りましたびっくりツウガクスルノハタイヘンダあせるあせるあせる

さて、「埼玉県平和資料館」を訪問したのであれば体験は必修の模擬授業を受けに行きますウインク前述しましたように、この建物全体はバブリーな色合いが濃く、かなり近代的な建物なのですが、今から向かう場所は、とある戦前の日常生活が繰り広げられている場所にタイムスリップします。そのためこちらの“タイムマシーン”に乗り、80年の時空を超えるのですウインク

こちらは動く歩道。走ってはなりませぬ口笛慌てて時空を超えようとすると「時をかける少女」で行方不明になってしまわれたおばあさんのようになってしまいますのでガーン👈って、古いビックリマーク古すぎます滝汗この話を御存知の方はchuと同年代ですな爆  笑

そしてタイムトンネルを抜けると、そこには戦中の、どのご家庭にもあったような居室です。部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台には御馳走が並んでいましたよウインクそしてこちらは民家近くにある小学校の教室。当時は「国民学校」と呼ばれていたものでした。“生徒全員”、ここてでの“生徒”は「平和を学ぶバスツアー」の参加者が扮しますニコニコなおこの模擬授業は、一日10回前後、催されるためそれに合わせて来館者が集まり模擬授業を受けるシステムですウインクそしてこの場に集まった皆さん、はさすがに戦前生まれの方は居なかったようですが、それでも参加者の皆さんが若かりし頃、通われていた小学校の教室の光景を懐かしみます爆笑もちろんchuもウインク当時の小学校にはクーラーは勿論のこと、暖房はコークスのだるまストーブ、便所は溜弁のところすらありました滝汗から、思い出したくないですゲロー皆さん、そんなこんなを思い思いに写真を撮影しつつカメラ照明が少々暗かったため、ぶれてしまっていますが御容赦をお願い

すると少ししてからおもむろに黒板のところにスクリーンが降りて来てビデオ上映が始まり教師が登壇。手前には生徒が座ります。見たところ、小学校4,5年生くらいの感じでしたニコニコそして先生、「国民学校」の指導要領にのっとり授業を始めるのですが、時は太平洋戦争中、授業に先立ち全員に歴代天皇陛下の名前を復唱させますびっくりさらに男子児童に対しては17歳になったら軍隊に入りお国のために役立つ人間になることを諭します。この時、女子児童から“女は軍隊には入れないのか”との質問が。すると教師は“女の子は、軍隊に入らずとも、戦争に行く軍人さんを後ろから支えることが立派な仕事だ”と言いきりました。生徒一同納得の図。また教師は現在、開戦されている戦争の意義、日本軍、ひいては日本国の行為の正当性をとうとうと述べ、この戦いは大東亜共栄圏を創るためのものである、と断言。児童に“大東亜共栄圏とは何ですか!?”と質問をしますが誰も答えられませんでした。そしてその時、空襲警報が鳴り響き…さて、ここで「国民学校」とは何ぞや、ということなのですが(AIによる回答です)👉国民学校とは、1941年(昭和16年)から1947年(昭和22年)まで存在した日本の初等教育機関です。これは、日中戦争勃発後の社会情勢を背景に、それまでの尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)を改組して設立されました。主な特徴は以下の通りです。目的 皇国(こうこく)の道に則り、国民の基礎的錬成(れんせい)を目的としていました。これは、天皇のために尽くす国民を育成するという国家主義的な教育を意味します。制度 尋常小学校が国民学校初等科(修業年限6年)に、高等小学校が国民学校高等科(修業年限2年)となり、義務教育年限は6年から8年に延長される予定でしたが、戦争の悪化により実現しませんでした。教育内容 教科は「国民科」(修身、国語、国史、地理)、理数科、体練科、芸能科の4教科が中心で、女子には裁縫、高等科では実業科が加わりました。特に国民科は、ナチスドイツの国民科をモデルに、郷土愛から愛国心へと発展させる仕組みでした。呼称 子どもたちは「児童」や「学童」ではなく「少国民(しょうこくみん)」と呼ばれました。廃止 1947年(昭和22年)に学校教育法が施行され、国民学校は廃止され、現在の小学校制度に再編成されました。

 

また、児童たちが答えられなかった「大東亜共栄圏」とは(AIによる回答です)👉第二次世界大戦中に日本が提唱した「大東亜共栄圏」は、アジア諸国が欧米列強の植民地支配から脱却し、日本を中心とした共存共栄の経済圏を築くというスローガンでした。

この構想は、1940年7月に第2次近衛内閣が「大東亜新秩序」の建設を掲げた際に、その拡大版として提唱されました。当初は日本・満州・中国を中核とするものでしたが、後に東南アジア、インド、オーストラリアなどを含む広範な地域を対象とするようになりました。しかし、その実態は、日本の軍事力によるアジア支配を正当化し、資源や労働力を確保するためのものであり、各地で反日運動が起こりました。1943年には東京で大東亜会議が開催され、日本の勢力下にあった国々の代表が集まり「大東亜共同宣言」が採択されましたが、具体的な効果は限定的でした。関連する概念として、「八紘一宇(はっこういちう)」という、全世界を天皇のもとに一つの家とする思想があり、大東亜共栄圏の理念と関連付けられることがあります。

 

アジア諸国が欧米列強の植民地支配から脱却し、日本を中心とした共存共栄の経済圏を築くというスローガン”なのですが、被統治国にしてみれば、それが欧米であろうが日本であろうが同じことニヤリというのは次の段にて“しかし、その実態は、日本の軍事力によるアジア支配を正当化し、資源や労働力を確保するためのもの”と書かれており(あ、書いたのはAIてすよ口笛)各地で反日運動が巻き起こったことは紛れもない歴史的事実です真顔また「大東亜共栄圏」構想では八紘一宇の精神をその基軸に置くとされていたようですが、そもそもの八紘一宇ととは「日本書紀」の時代に記されたものであり、当時は勿論、大和国の他にどのような国や組織があるのかはわからない時代でしたから、あくまでも国内の統治を念頭に置き考えられた思想です。しかし1900年代に入ると地球のどこにどういう国家があるのかなどは概ね理解されていたことであり、その中にあって、現に日本の支配下に置こうとしている国に対して八紘一宇の精神を持ち出したとしても、それは日本国の中国や東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンに過ぎなかった、と理解されています。あ、故・安倍氏や高市氏に連なる方々、参政党の諸君らの考え方は異なるかも知れませんが世間一般では、太平洋戦争時における八紘一宇の精神は日本の太平洋戦争の行動を正当化するためのスローガンだった、と理解されています。そうです、元々の八紘一宇の意味は日本書紀の時代に遡らねばならないのですから、後の時代にとり、時の為政者に、自分たちの都合のいいように解釈されたのですから、八紘一宇の精神に何ら悪いところはなく、糺すべきは当時の“時の為政者”達なのですプンプンそして、この無謀な戦争を引き起こした面々は戦後の「東京裁判」で処罰されるのですが、多くの無垢の日本人に犠牲を強い、焦土と化したことにつき責任を負わされた戦犯の、中でも超一級の戦争犯罪者は「A級戦犯」とされ刑場の露と消えました。しかし“英霊を御霊い、二度と戦争への道を進んではならない”として当時の行動を戒めていたはずの「靖国神社」に対して、靖国神社を管理運営している宗教法人はあろうことか、このA級戦犯の霊を英霊として勝手に合祀してしまう事件がありました叫びドクロそのため「靖国神社」にA級戦犯の御霊が合祀されて以降、昭和天皇はそれまで欠かさず続けていた靖国参拝を行うことは無くなりました。平成天皇、令和の現天皇陛下も御即位後、靖国神社を参拝されることはありません。靖国神社を管理運営している宗教法人は、この事実をどのように理解しているのでしょうか。政教分離が保証されている日本国憲法では、国が宗教法人に対して干渉することは勿論できないのですが、“国”自体を靖国の宗教法人と気脈を通じた為政者によりコントロールされる可能性は、昨今の現状を鑑みるとゼロどころではなく、かなりの危険度が増しているのでは、と懸念しているのはchuのような中道(センターレフトかな)の人間だけでしょうか真顔

 

さて、話を模擬授業に戻します。教師が“大東亜共栄圏とは何ぞや”との質問をしていた時に、おもむろに空襲警報が発せられ、児童たちは急ぎ防空壕へと身を移すのですが、この模擬教室に実際の児童は居ませんからその役割を果たすのはchuたちツアー参加者になりますウインク教室のすぐ裏手に有りますこちらの防空壕に身を潜めます👇中はぎゅうぎゅうのおしくらまんじゅう状態でした爆笑

国内各地に空襲が始まる前の1944年(昭和19年)6月、この時米軍は、それまで日本が支配していた北太平洋・マリアナ諸島の一つであるサイパン島に上陸を開始します。既に戦況悪化の一途を辿っていました日本ではその前年の1943年(昭和18年)には、絶対に譲れない「絶対国防圏」を設定し、中でもサイパン島はその要衝とされていたのですが、上陸してきた米軍と、サイパン島を厳守していた日本軍との激戦は3週間にわたりました。しかし日本軍は陥落。その後、日本軍が使用していた基地を整備した米軍は爆撃機B29が離発着出来る爆撃機の発進基地とします。それにより米国は日本本土をB29の射程圏内に収めることが可能となり、結局、サイパン島を失ったことが日本の敗戦を決定づける戦いとなったのでした。なお、太平洋戦争の日本の敗戦を語る上では外せないサイパン島ですが、いまではすっかり平和なイメージが定着し観光要素の大きなスポットになっています。しかし当地において日本軍と米軍とが熾烈な戦いを繰り広げ、最後に日本軍が玉砕する時に、サイパン島内に居留していた民間の日本人は、地理的に日本に面しているとい理由からサイパン島の北端にある高台から“天皇陛下万歳”と叫びながら太平洋に身を投じています。そのため、この崖は後に「バンザイクリフ」と呼ばれるようになりました。観光でサイパン島を訪れる日本人の、どれくらいの方がこの史実を御存知なのかは分かりませんが、今では四方を美しい海に囲まれました常夏の観光地、サイパン島ですが僅か81年前にはこのような悲しい出来事があつたのです。6年前に天皇を退位されました平成上皇様は、天皇陛下としての御在位中、数多くの太平洋戦争の戦争遺跡の地を行幸啓されています。そしてサイパンのバンザイクリフで深く深く哀悼の意を捧げられたことで、それまでも数多くの戦争遺跡の地を巡られてきましたが、ようやく一つのけじめを付けることが出来ましたとお話下さり、平和へのお言葉を述べると共に平和への願いを語られたのは記憶新しいところです。平成天皇陛下(当時)のこうした身を以ての行幸啓には、深く頭を垂れましたことを鮮明に覚えておりますと共に、言葉では“戦時レジームからの脱却”とか“地球儀を俯瞰する外交”など、言葉だけが先行し、遂には何らをも成し遂げなかった口先だけの政治家が永らく日本国を率いている現状には、ほとほと愛想をつかしたくなる程です。

【御参考】サイパン島の戦いの話は、今回の「平和を学ぶバスツアー」とは直接の関係はないのですが、模擬授業中の空襲警報による防空壕への避難につき記述しているうちに、サイパン島玉砕(あ、これは日本国内各地への空襲が始まるきっかけとなった戦いてした)と、平成天皇陛下のサイパン島への慰霊の行幸啓につき綴りました。その際の宮内庁のホームページをリンクすると共に、バンザイクリフで深く慰霊のお姿をされています天皇皇后両陛下の御写真を掲載させて頂くことを何卒お許しくださいませ。

こちらは館内のメイン通路に描かれていました大壁画。埼玉県立松山女子高校書道部の皆さんの作品とのことで、地球全図の上に描かれた「平和」と「創造」の二文字ニコニコとても力強く、勇気を貰うと同時に平和への誓いを新たにさせて頂くことが出来ました照れ

フロント写真用にリサイズしたものです。

ここからは少し気分転換。てか、平和な時代だからこそのこうした“道の駅立ち寄り”が出来ちゃうのです爆笑話は前後しましたが、「桶川飛行学校平和祈念館」を辞した後、「埼玉県平和資料館」に赴く前に昼食休憩を兼ねて「道の駅 べに花の郷おけがわ」に立ち寄りましたウインク

「道の駅」の建物の外観が飛行学校の兵舎棟っぽいびっくりなるほどビックリマークと思ったら、実は「桶川」は中山道の宿場町でJR高崎線の桶川駅周辺には宿場町当時の建物が現存しているらしく、“宿場町おけがわ”をアピールしするためのこうした造りなのだそうですウインク

そしてツアー参加者の皆さんにはこちらのレストランで食事をして頂こうかと考えられていたそうなのですが…

祭日かつ晴天かつ正午頃、と三拍子そろった上に様々なイベントが催されていて「道の駅」の各施設は超満員満満満満満満叫び叫び叫び

「道の駅」滞在の時間は50分でしたが、食堂の混雑具合を考えると、とても食べている時間はありません滝汗と言うことで売店に入りおにぎりをゲットウインク後はお土産元を求めてふらりふらりと爆笑

こちらはUFOキャッチャーですが、ここは桶川市ウインク “桶キャッチャー”でした爆  笑って、あの桶を貰ってどうすんのよニヤニヤと思ったアナタ、まずはキャッチしたから心配して下さいね、そーいうことは爆笑ほれ、ちこっと書いてありますが、桶をカウンターに持っていくと864円相当の商品に交換してくれるんですって(桶は持ち帰らないでくださいビックリマーク)って書いてあります爆  笑

こちらは桶川をもじりました「OKEGAWA」。一部が花文字になっていました。

今回の「平和を学ぶツアー」、はとても参考になります。ですが旅行ではありませんので気分が華やぐものではありません。「道の駅 べに花の郷おけがわ」ではほんの暫しの間だけ、そして何時もは当たり前なので意識もしていなかったウキウキ感たっぷりの“お出かけ気分”を味わえたのでしたウインク次回がいよいよ最終回です。あと1回ほど、お付き合い頂ければ幸甚です。

 

 

2025年9月21日、松戸市選出の立憲民主党千葉県議会議員の関根ジローさんと、松戸市議会議員(無所属)・増田かおるさんの共催で行われた標記タイトルのバスツアーに参加させて頂きました。このツアーは1日で4か所の関連施設を巡るものでして、最初の訪問先は終戦時に内閣総理大臣を務めていました鈴木貫太郎公の功績を知らせる「鈴木貫太郎記念館」ウインクその様子はこちら👇

千葉県野田市に所在する「鈴木貫太郎記念館」の見学を終え、次の訪問先は埼玉県桶川市にあります「桶川飛行学校平和祈念館」へ🚌ダッシュ🚌ダッシュ🚌ダッシュ「首都圏中央連絡自動車道」(以下「圏央道」と略します)の「五霞IC」から、祈念館最寄りの「桶川北本IC」までは順調そのものニコニコただ、「鈴木貫太郎記念館」での副館長からの説明がとても丁寧だったため、少しばかり時間は押していたそうなキョロキョロで、到着したのが10時40分。ジローさんと増田市議が事前にお願いしていてくださったこともあり、祈念館スタッフの方が直ぐに駆け寄って来て下さいました。こちらが祈念館を紹介している桶川市のサイト👇

ところでこの施設の名称、偉人を称えたり、何かの出来事をメモリーズにする〇〇記念館ではなくて「平和祈念館」。この名称の意味するところは“平和を祈る館(やかた)”ビックリマークということは、時代背景にありました“平和ではなかった何か”を背負っていて、しかしそこから平和の尊さを学ぶんだ、という施設であることが何となくお分かり頂けるかと思います。追ってご説明させて頂きます。そしてこちらが施設の入り口…ですが、この施設は元々、当地に存在していた飛行学校を出来るだけ元の施設に忠実に復元した建物群。ですのでここは学校の正門ということになります。

「桶川飛行学校平和祈念館」。この施設は戦前・戦中ここに所在していました「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」の建物を活用し、平和を発信し、平和を尊重する社会の実現、及び地域の振興に寄与するための施設として、2020年(令和2年)8月4日に開館したものですニコニコで、そもそもの「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」とは1935年(昭和10年)に現在の埼玉県熊谷市に開校した「熊谷陸軍飛行学校」の分校として1937年(昭和12年)に設置されたもの。この時代はまだ太平洋戦争は開戦していませんでしたが、当時の戦争では戦闘機による制空権を確立させることが戦略上、最重要と認識されていた時期でもあり戦闘機のパイロット育成が急務とされていました。そのために「熊谷陸軍飛行学校」では学生を募集するのですが、学校に入校するためのいわゆる“入試”には、最先端の航空技術を学べるうえに養成期間中も給与が支給されたことから全国から人材が殺到し競争率はとても高く、結果として極めて優秀な人材が集まったそうです。全国各地から集まった生徒たちはここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための戦闘機の操縦教育を受け、一人前のパイロットとして巣立っていったのでした。しかしその後のは太平洋戦争開戦を受け、次々に戦地へ向かっうことになります。このようにしてパイロット…当初は陸軍の戦闘機パイロット養成機関としての役割を果たしていたのですが、戦況の悪化と共に養成に要していた期間を短縮せざるを得なくなります。またその後、終戦間際の1945年(昭和20年)になると、沖縄を舞台とした戦闘は熾烈の一途を辿ります。そのためその頃には“戦闘機パイロット養成”と言うよりは特攻隊員を派遣するための部隊となり、そのため養成期間を短くしたのは“特攻機に搭乗するパイロットなので(帰還する必要はないから攻撃を終え、敵の追撃をかわし基地に戻るという)難しい操縦操作は不要。なので養成期間も短くした”なる口さがなく的外れな見解もそこかしこから聞こえて来ていたそうです。しかし今回説明して下さいました館長さんからは、“養成期間を短くせざるを得なかったのは事実だが、それはまだ特攻隊が出来る前の話であり、また期間を短縮したその分、カリキュラムをぎっしりと詰め込んだので、教えるべき養成課程になんら不足はなかった”として、こうした見解が出ていたことに不快感を露わにさせていました。しかし結果として「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」で教育を受けたパイロットが特攻機に乗り込み、任務を全うしたことで二度と帰らぬ人となった卒業生が多数いたことも事実であるともお話して下さいました。そして時は戦後となり、桶川分教場の建物は引揚げ者のための「若宮寮」として、またその後は桶川市の市営住宅として2007年(平成19年)という戦後の永きに渡り使用されました。しかし逆にこのことが戦前戦中の貴重な“戦争遺跡”が往時のままの形で残すことになり、桶川市ではこの施設を不幸な一時代の歴史を知り平和を顧みる施設に出来ないかと構想したのだそうです。こうした構想の下、2016年(平成28年)には、守衛棟、車庫棟、兵舎棟、便所棟、弾薬庫の5棟が市の文化財に指定され、2018年(平成30年)から2020年(令和2年)にかけて、これらの建物について復元整備工事を実施されたのでした。

こちらは「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」と、当時の飛行場との位置関係を示した地図です👇赤色で〇囲みしたところが学校で、水色(空をイメージしてみましたウインク)で〇囲みした荒川右岸の河川敷に滑走路がありました。

そしてこの滑走路は戦後の一時期、耕作地になったこともあったそうですが、1964年(昭和39年)になると「本田技研工業」が航空業界への参入を目指して「(株)ホンダエアポート」を設立。その後、終戦25年後の1970年(昭和45年)には同社が航空事業のノウハウ収集と将来の実験を自由に行える場所として旧飛行場の跡地を買収・整備し「ホンダエアポート」の供用を開始したのでした。このように、戦前戦中を通して優秀且つ果敢なパイロットを育て上げたこの場所は現在でも滑走路として使用されているのです。

それでは校内に入ってみましょう。2020年に復元された施設ですので建物群は新築なのですが、建物の素材は可能な限り「桶川分教」時代の建物が活用されているそうです。

こちらは5つの居室毎に展示されている写真や資料等。祈念館スタッフの方の説明を熱心に聞き入るツアー参加者です。

説明を聞きながら各資料を見つめるツアー参加者の皆さん、それぞれ真剣な表情です。

こちらは航空工学のテキストなど。航空機の操縦や整備は航空工学の主要な学習分野ですが、右下に見えている図は対象物をめがけて爆弾を投下する際の航空力学の説明。戦闘機パイロットには特に物理学の知識が必須なのです。chuには絶対に無理だ絶望

以下、各教室毎に展示されていました写真を撮影させて頂きました。こちらは前述しました当時の滑走路に並べられました練習機です。

訓練の様子など。養成期間中では機体の整備や操縦などの実務と、航空工学や航空力学を学ぶ座学に二分されます。また分教場が保有していた航空機の数を上回る学生が在籍していたため、学生を二つに分けて午前と午後で実務と座学とを互い違いにチェンジして教育をしていたそうです。

この頃の戦況は次第に厳しさを増していた頃のこと。また日中の厳しかった実務訓練や難解なる座学の勉強でしたが、放課後のひと時が学生の皆さんたちに一時の開放感を与えてくれていた様子がうかがえます照れ放課後の一時を愉しむ姿だけは昔も今も変わらないようですウインク

こちらは寝室。またこの部屋の床面を御覧頂くとお分かり頂けますでしょうかキョロキョロ少し凸凹しているのですが、これは往時の床をそのまま再利用して復元された床です(今後も末永く保存するために新たに塗装は施されています)。また寝室内にギッシリと詰め込まれたベッドですが、皆さん、頭と足が互い違いになるように寝ていたそうで、このシステムは混雑時の山小屋と同じです爆  笑

“飛行学校から戦地へ”…もともと「熊谷陸軍飛行学校」は陸軍の戦闘機パイロットを養成する機関ですので、戦争が始まれば戦地に赴くのは必定でありました。開戦に至った経緯が説明されています。御存知の方も多いとは思いますが、説明書きされている文字を転記させて頂きます👉1937年(昭和12年)に始まった「日中戦争」は戦線を中国全土に拡大しながら長期化の様相を呈していた。戦争の長期化に伴い石油をはじめとする資源の確保及び中国を支援するイギリス・フランスの支援ルートを遮断するため1941年7月(※昭和16年の7月ですので開戦の5カ月前のことです)に、日本はフランス領インドシナに進出する。このことは英・仏のみならずアメリカとの関係も悪化させることになった。アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の全面禁止を決定した。同年12月、ハワイの真珠湾及びイギリス領マレー半島にて米英と戦端を開くことになり、太平洋戦争が始まる。中国のみならず東南アジア・太平洋諸島への戦線の拡大と戦争の長期化は物資や兵員の不足を招いた。こうした中、航空兵力の補充が急務となり、1943年(昭和18年)には桶川分教場の増築工事が実施される。しかしながら、本来は金具で補強されるべ部分を木材で補強するなど、当時、鉄が不足していた影響があらわれている。

こちらは「日中戦争」が始まった経緯などが説明されています👇

「盧溝橋事件」の概要につきましては数あるサイトの中からこちらの「しんぶん赤旗」に掲載された記事をリンクさせて頂きました(※「日本共産党」機関紙の見解ですのでかなりのバイアスを割り引いて読み込まなければならないのは勿論ですが、しかしそれを割り引いたとしても「靖国神社」側の見解よりも史実に近く正鵠を射ていると私は考えます。そもそも「日中戦争」が起きなければ日本が英仏や、アメリカと対決の端緒は生じなかったわけですから(※chuは「日本共産党」の党員でもなければ支持者でもありませんが、“左右両方面”から発信されるものはインフォメーションの一つとして集積し分析するのがインテリジェンスであり、情報評価と呼ばれています)そうしたことを踏まえて考えた上でこの記事が参考になると思いリンクさせて頂きました。勿論、“違うよ”というお声が多数ある事とも承知はしています。

太平洋戦争の推移についての説明です👇

こちらは熊谷空襲についての写真と解説。埼玉県熊谷市は陸軍の要塞でしたので敵方からの爆撃のターゲットとされたことは残念ながら避けられませんでした。ですが「熊谷空襲」があった日にちに御注目下さい。1945年8月14日の夜です。この時、連合国側は日本国が「ポツダム宣言」を受諾することを当然、知っていますから終戦日前日のこの蛮行は断じて許すことは出来ませんプンプンまた「鈴木貫太郎記念館」で副館長から御説明頂きました“日本が降伏してからでは米国は爆撃をする口実がなくなるので降伏する前に新型爆弾の威力を試したかったのだ”とおっしゃいましたが、下手すりゃ熊谷市にも核爆弾が投下されていた可能性すらあったことを考えると、熊谷は東京にも比較的近いこともありますから背筋が寒くなる思いでした。

そして戦況の悪化と共に、「熊谷陸軍飛行学校」は廃止されます。以右、転記します👉1945年(昭和20年)2月、不足する戦力を補うべく、教育隊の戦力強化を図るため、熊谷陸軍飛行学校の機能が停止され第2航空師団第6練習飛行隊として改修される。これに伴い、桶川分教場も閉鎖され、以後は特攻(特別攻撃隊)の訓練施設として使用されることとなる。特攻(特別攻撃隊)とは250キロ爆弾や500キロ爆弾などを航空機に装備し、機体ごと敵艦隊に体当たりする、操縦者の死を前提とした作戦である。特攻(特別攻撃)隊のうち、陸軍が沖縄戦のために編成し、知覧飛行場(現南九州市)や万世飛行場(現南さつま市)などの南九州の飛行場から出撃した部隊を「振武隊(しんぷたい)」と呼んだ。1945年3月27日に桶川分教場で教官を務めていた伍井氏が第二十三振武隊として、同年4月5日に第七九振武隊の12名が知覧飛行場に向かい飛び立った。

こちらが終戦を迎える僅か4か月前、沖縄戦に出撃し若い命を海に散らした第七九振武隊の12名。特攻の出撃場所こそ知覧飛行場でしたが、「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」で学んだ後にはその後の戦況悪化を受けて第2航空師団第6練習飛行隊に属し、帰らぬ人となったのです。

こちらが「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」の教官を務めていました伍井芳夫氏。伍井氏は1912年(明治45年)、今の埼玉県加須市で出生。旧制「不動岡中学」(※埼玉県の伝統ある県立不動岡高校の前身です)を卒業後、若い頃から航空機に憧れていたためパイロットになるため航空士官学校に入学し、その後、桶川分教場にて教官を務めることとなりました。伍井氏のお人柄はとても誠実とのことで多くの学生らの記憶に残っていたのですが、伍井氏は自分の教え子が次々に特攻(特別攻撃)隊に入り、“お国の役に立つ時が来ました”と言いその任務を全うしていく姿を間近に見続け、そして教え子だけにその任を背負わせ続けることに苦悩し、やがては自分から志願して1945年3月27日、遂には第二十三振武隊の隊長として知覧飛行場に向かうことになりました。そして知覧飛行場に向かう際には、自らが操縦していた戦闘機の翼を振り桶川上空を2度旋回、桶川に居住していた家族に別れを告げたそうです。当時桶川には、奥様と幼いお子様3人が暮らしていました。1945年4月1日、知覧飛行場を出撃した伍井氏が率いた第二十三振武隊は任務を遂行、慶良間諸島付近にいた米国艦隊に突入し帰らぬ人となったのです。享年32歳。

そしてこの後は兵舎棟の一室を使い期間限定で開催されていました「知覧特攻平和館」による出張展示を見学します。なお展示室内の資料や写真の撮影は禁止されていましたので写真はありません。今回の出張展示の期間は今年の11月24日(月・祝)までです。「知覧特攻平和会館」は鹿児島県にありますので、首都圏からは中々訪問しにくいと思われます。御関心のある方は、この機会にぜひ、「桶川飛行学校平和祈念館」を訪れてみることをお勧めいたします。

ここでは館長さんより先ほど来、見学させて頂きましたことの復習と、「知覧飛行場」の概要(ご参考までに「知覧飛行場」のオフィシャルWebサイトをリンクさせて頂きます)についての説明を頂きました。👆の御案内にもありますとおり、この展示室での説明は日時と定員が決まっているのですが、私たちが訪問しました9月21日はこうした日時には該当していなかったにも関わらず、平和祈念館の館長さんとスタッフの方は、実に丁寧な説明をして下さいました。もちろんこのことは、関根ジロー県議と増田かおる市議から予め、説明の御依頼をされていたからのことであります。今回の「平和を学ぶツアー」の、得るべきもの極めて大きいことがお分かり頂けることと存じます。、お二人の議員さんには深謝いたします。

そしてこの「知覧特攻平和会館」には、任務遂行により命を落とすことになりますパイロットの方が、出撃前に御両親やご家族に宛てた手紙、即ち「遺書」になるのですが、その文章が展示されていました。そう言えば以前、「知覧特攻平和館」を訪れた当時の小泉純一郎首相はその手紙を読み号泣されたことが報道されましたね。しかしなんとこの日、出張展示ということで、そのお手紙が「桶川飛行学校平和祈念館」に展示されていたのです。それには“父上様 母上様 〇〇(搭乗員の氏名です)は、やっとお国のお役に立てる時が参りました”で始まるお手紙。これを拝読させて頂きました私も涙にくれた…歳のせいか涙腺は弱くなりましたが、その当時の搭乗員の方の感情が瞬時に移り込んでしまいました。80年前のことです。またお手紙には第二十三振武隊隊長・伍井芳夫様の、まだ小さかろうお子様に宛ててのお手紙、“〇〇(お子様の名前)、父はお国のためにこれから~良く、母を助け~”とあり、これもまた涙腺崩壊、説明して下っている館長さんの声も潤んでおられました。

 

いいですか、皆さん、これが戦争の現実なのです。「桶川飛行学校平和祈念館」も「知覧特攻平和会館」も、こうした史実を後世の今に伝え、“平和を祈念”するための施設なのです。これらの施設は当時の戦闘機搭乗員の勇気や、国に殉じた行為を称賛しすことを第一義的にしたものではないのです。何時だったか、防衛相を務めた女性代議士(稲田朋美です)はこうした史実に対して“もし何かあったら(万一、日本が戦争をするようなことになったら)貴方たちに続くことを心に誓う”というニュアンスのコメントを残しました。正確に言うと英霊が祀られている(と言われている)「靖国神社」に関して“「靖国神社」というのは不戦の誓いをするところではなくて、「祖国に何かあれば後に続きます」と誓うところでないといけないんです”と堂々と宣わりました。さらにもう一つは“真のエリートの条件は2つあって、ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる。もうひとつは、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があることと言っている。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない”でした。昨今、今は亡き元首相の思想に寄り添い!?(※元首相のそもそもの思考回路にこうしたものはありませんでした。青木理さん著の「安部三代」を御覧頂頂ければ分かります)何かと声高に叫ぶ政権党の右派議員や今次国政選挙で急躍進した極右政党の議員にはこうした考えが根底にあり、その思想を基にした政治を追求されるのかと考えると、末恐ろしいものを感じます。戦争などの“もし”を起させないために最大の力を尽くすのが政治家の役割であり、“もし”を繰り返させないために、「桶川飛行学校平和祈念館」も「知覧特攻平和会館」も未来永劫の平和を祈念するモニュメントとして、その存在意義があるものと信じています。前記しました「靖国神社」境内にある「遊就館」という施設には、太平洋戦争が開戦に至った理由と戦争時での日本の正当性と行動を賛美し続けているものとは大違いです。またこうした“もし”に対して威勢の良い発言を繰り返す輩とは逆に、政権党の要職や党の中枢部にも長いこと在籍され、党内にも強い影響力を持っておられた元自民党幹事長の古賀誠さんは2025年9月20日、東京都内で開催されました「日本教職員組合(日教組)の第114回定期大会」において来賓に招かれた際、このような発言をされています👇

また古賀誠さんは議員辞職(政界引退)された僅か1年後のことでしたが、「しんぶん赤旗」のインタビューにも答え👇

平和の大切さを述べておられます。戦争世代の、戦争を体験している政治家が今のには勿論のこと、世の中に居なくなってしまうことにchuは強い危惧を覚えます。例えば内閣総理大臣をお務めになられた故・田中角栄さんも生前には“戦争を知っている奴がいるうちは日本は安心だ。戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い”と語られており、田中角栄さんを政治の師と仰いでいる石破茂現内閣総理大臣はこの言葉を常に肝に銘じておりました。石破総理はまた周囲には戦後80年の今年、“俺の中には角栄先生の言葉が残っている。戦争を知っている人が残っている最後の節目だ”と語り、外遊や国内出張の機会に先の大戦の現場を積極的に回ってこられています。自民党の党内抗争に敗れ、辞職せざるを得なくなったことはこうした政治家が表舞台から退場することを意味すると共に、“戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い”の現実味がひしひしと迫って来ているような怖さも感じます。また民主党政権時に財務相を務められた大蔵官僚出身の故・藤井裕久さんは“歴史観なくして政治を語れない”とした上で今の政治家に対して“戦争を美化する風潮が強すぎると感じます。極めて危険だと思います”と所感を述べています。そして現在の環境をして“世界の状況は、日本が戦争に至る直前の昭和初期と非常に似ていると思います。英連邦は1932年に連邦内だけ関税を安くするオタワ協定を結びました。保護貿易主義です。さらに同時期、英連邦、米国が金本位制を離脱して通貨安を誘導させました。最近の米中貿易戦争で起きている現象は、保護貿易・通貨安を引き起こしています。まさに昭和初期と同じだと思います。戦争にならないように祈るだけです”とも述べています。なおこれは2019年8月にやり取りされたインタビューの記事。その当時から既に6年が経過しており、藤井さんが危惧していた状況は益々強くなっては来ているとchuは感じています、こちらが藤井さんのインタビュー記事です👇御一読頂く価値はとても大きいと思います

今回「桶川飛行学校平和祈念館」を訪問、見学させて頂きました上に館長さん、スタッフの方から実に詳細な御説明を頂き、「桶川飛行学校平和祈念館」も「知覧特攻平和会館」も未来永劫の平和を祈念するモニュメントとして、その存在意義は極めて高いと感じました。また館長さんは最後の御挨拶の中で、“今のこの世の中を「新しい戦前」にしては絶対にいけない。そうさせないための、皆さま方(今回の「平和を学ぶツアー」一行に限らず、心ある市民の方々と解釈させて頂きました)の声は絶対に必要なのです”と〆て頂きましたことがとても印象強く残りました。今回の「平和を学ぶツアー」の中でも、特に印象に残った施設でありましたことを付言させて頂き、次の訪問先に続きます。