2025年9月21日に標記タイトルのバスツアーに参加させて頂きました
今年は2025年、先の大戦が終わりましたのが1945年(昭和20年)でしたから、今年は節目の戦後80年の年。世界を見れば現在、2ヵ所で戦争(中東は武力衝突)が行われており、また日本国内を眺めてみても、核兵器の保有を肯定したり、ややもすると戦争の出来る国の体制に近づきつつある今の時世に懸念を感じています。こうした状況の下、松戸市選出の立憲民主党千葉県議会議員の関根ジローさんと、無所属の松戸市議会議員・増田かおるさんの共催で行われたのが今回のツアー
ま、ツアーと言いましても旅行ではなく“社会科見学”という言葉がぴったりかと
(あまり使わないかも知れませんが新たに“社会科見学”というカテゴリーを設けました
)そしてこの日訪れた見学場所は4か所。何れも交通の便はあまり宜しくない場所であることに加え、同じ日にそこそこ離れてた場所にある四か所もめぐることなど、なかなか個人では実現しにくいプランです。ですがマイクロバスを借りあげた上に全行程の運転を関根ジローさんが担ってくれましたことで、非常に効率的であり、さらに廉価なバスツアーが実現できたのはジローさん、増田さんのお力によるものと厚く感謝する次第でありました
また今回、こうした施設を見学させて頂いたことで平和への願い、平和であることの大切さの再認識が出来ましたことはとても貴重な体験でした
例によりまして撮影枚数が膨らみましたので数次に分けさせて頂き、「平和」であることの大切さをお伝え出来れば、と思っています![]()
集合場所は松戸市役所正面。出発は7時10分です。このマイクロバスは確かに普通運転免許でも運転は可能なのですが、車両の長さが普段運転している乗用車とは異なりますから、chuに運転できるか
と問われましても“出来ません”と答えます
バス横に立っている男性は関根ジロー千葉県議会議員。ジローさんは永らく松戸市議会議員として御活躍され、現在は松戸市選出の千葉県議会議員として御活躍頂いている期待の若手政治家です![]()
こちらは増田かおる松戸市議会議員。chuは今回のツアーで初めてお会いする方です![]()
さて、今日最初の訪問先は「鈴木貫太郎記念館」
場所は千葉県野田市。そして現在は野田市、なのですが平成の大合併により野田市に編入された旧関宿町にその記念館は所在しています。またこの旧関宿町は千葉県の最北端に位置しており、chuは何度か訪れたり或いは茨城県方面に向かう折に通過したことはある町ですが、恐らく千葉県民の方の中にも、地図上での所在地は御存知でも実際に訪れたことがある方は極めて少ないのでは
と思える所。これは例えば、千葉県の最南端である南房総市には、多数の千葉県民の方は訪れたことはあると思われますが、逆に最北端である旧関宿町は訪れない
そしてこの違いは南房総市エリアが千葉県を代表する観光スポットであるのに対し、旧関宿町には目を見張るような観光要素は見当たらない少ないからなのであります
では何故、そのような(辺鄙な)地に「鈴木貫太郎記念館」があるのかと言うと、鈴木貫太郎公の出身地が関宿だから、なのでした
ですが出身地とは言っても生まれたのは現在の大阪府堺市。鈴木貫太郎公は関宿藩士で代官を務めていた鈴木由哲の長男として1968年、生を受けました。そしてこの時、大阪府堺市の一部が関宿藩の飛び地となっており、そこに赴任していた由哲の長男として現在の大阪府堺市で出生したのです。しかし貫太郎公が生まれた1968年とは慶応3年のこと。生まれて直ぐに戊辰戦争が始まり江戸幕府の終焉と共に関宿藩もなくなります。そのため関宿藩の公用方を務めていた父も当地を離れ東京に居住。その後、5歳の時に関宿に移り住みました。以後、成長した鈴木貫太郎公は18歳になると海軍兵学校に入校し後に日清、日露戦争に従軍。その後、大正末期には海軍大将に昇任しさらには連合艦隊司令長官(1924年)、軍令部長(1925年)を歴任するなど海軍トップまで昇り詰めた生粋の軍人です。では「鈴木貫太郎記念館」を目指していざ出発🚌
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、松戸からは流山街道を北上すること1時間40分(途中15分間の🚻休憩を挟みました)後の8時50分に到着しました![]()
こちらが「鈴木貫太郎記念館」駐車場側の出入口。こちらの文字盤に明記されておりますが、鈴木貫太郎公は終戦時の内閣総理大臣
「ポツダム宣言」を受諾し、戦争を終わらせた(正確に言うと終わらせるようなシナリオを書き上げた)方だったのです。そしてこの功績は極めて大きかった![]()
戦後80年、その後の日本国は国際紛争に加担することはもちろん、巻き込まれることもなく平和の恩恵を受け続けられているのは鈴木貫太郎元内閣総理大臣の御英断によるものと断言できるのでした
そしてこの記念館の設立目的は「内閣総理大臣として日本を終戦に導いた鈴木貫太郎の功 績を広く紹介する」ことを目的に建設されたものであり、貫太郎公御愛用の品々や書簡、 「最後の御前会議」を始めとする貫太郎の事跡を偲ぶための油彩画など を所蔵し、展示されているのです![]()
あ、「鈴木貫太郎記念館」がある千葉県旧関宿町(現野田市)の場所はここ👇赤で〇囲みした場所に位置しています。青で〇囲みしたのがchuの住む松戸市。まぁ休憩を挟まなければ1時間強で来られる場所(ただし道路が空いていればですが
)ですので、殊更遠い訳ではないのですが、お出かけ大好き人間のchuをしても、あまり訪れることはありません。何故なら…観光要素が少ない町だからなのです![]()
千葉県と茨城県の県境をなす利根川と、千葉県と東京都や埼玉県との都県境を流れる江戸川とに挟まれたデルタ地帯が、旧関宿町の最北部…なのですが、実は最北部の赤色で〇囲みしたデルタ地帯は実は既に茨城県だということを知る方はとても少ないですね![]()
こちらは記念館入り口脇に建つ「為萬世開太平」の文字が記された塔。この言葉は“万世のために太平を開く”とい意味で終戦の詔書にも用いられた文言だそうです。そして意味するところは“後々の世のために平和を開く”と言うもので平和を望んだ鈴木貫太郎公は戦後、この言葉を色々な所に揮毫されたそうです![]()
太陽光線の関係でちよっと読みにくいですが、“終戦内閣総理大臣「鈴木貫太郎記念館」”と刻まれています![]()
こちらが「鈴木貫太郎記念館」を説明している野田市のホームページ。なお同記念館は現在、令和元年の台風19号の影響及び耐震診断の結果、当面の間は臨時休館しております。とあります。
https://www.city.noda.chiba.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/040/850/kihonnkousou.pdf
前述のように、現在は休館中の記念館ですが、開館日には浸水被害の少なかったロビーにおいて小規模な資料の展示や映像資料の公開、副館長による解説と、敷地内の見学などは自由となっております
またchuは過去にこちらの記念館を訪れたことはありましたが、当時は展示物を通り一遍に眺めただけでしたのであまり記憶には残っておらず、ましてや鈴木貫太郎公の功績に気付くことはありませんでした
chu的には“鈴木貫太郎公は千葉県が唯一、輩出した総理大臣(当時)”程度の認識しかなかったことを、今、猛烈に恥じております
なおその後、民主党政権時代には、現在、「立憲民主党」の代表を務めておられます野田佳彦さんが総理大臣を御務めになられましたから、わが千葉県が輩出した内閣総理大臣は2人ということになります
そしてこの日は事前に関根ジロー県議が説明のお願いをしておりましたことから、9時ちょうどから副館長による説明を頂くことが出来たのですが、冒頭のDVD視聴を始めとして、その後の説明がとても詳細でしたので鈴木貫太郎公の功績を今さらながらでしたがとても良く理解する事が出来ました![]()
前回来館した際の“展示物をただボーっと眺めた”時と比べると、その理解度には雲泥の差がありました
こちらの小スペースにて副館長からの説明を頂く事が出来ました👇(全員退出後に撮影しました)。また、正面に掲げられている絵画は「最後の御前会議」の様子が白川一郎氏によって描かれましたもの。撮影は禁止されておりましたので絵、そのものの撮影はしておりませんが、副館長の説明では、広島・長崎に原子爆弾(当時は新型爆弾と呼ばれていたそうです)が投下され、一般市民をも含めた想像を絶する犠牲者を出した後であったにも関わらず、陸軍関係者の中にはなおも“本土決戦”を強硬に主張する勢力が圧倒的。実は鈴木貫太郎公、この時既に齢は77歳と高齢。小磯内閣が総辞職した際、敗戦色の濃いこの時期に、総理大臣を引き受けようとする人は少なく、徹底抗戦を叫ぶ軍部出身者やその影響を受ける者が総理大臣になろうものなら、戦争は終わりません。このままでは日本国内すべてが本当に焦土と化すことを危惧した昭和天皇は、幼少の頃より母親代わりとなり育ててくれた乳母の足立たかさんの夫でもある貫太郎公にも心を許す間柄だったそうで、“何とか戦争を終わらせたい。そのためにこの時、総理大臣を務められるのは貫太郎、貴公しかいない”と頼み込み、何度も固辞したにもかかわらず再三再四の天皇陛下からの依頼を断り切れずに総理大臣となったそうなのです。そして昭和天皇が貫太郎公に頼みたかったことは、徹底抗戦ではなく、一日も早い終戦を迎える事だけ。そして終戦時に受け入れた「ポツダム宣言」は、実はもうちょっと早い時期(1945年7月26日)に提示されていたのですが、当初、日本国はなるべく有利な条件での終戦を模索し、なんとあのソビエト連邦に米国との仲裁を期待していた![]()
その後のソビエトが、当時、日本と締結していた「日ソ中立条約」を一方的に破り参戦し、今なお不法占拠を続けている北方領土を強奪
旧満州国に居た日本兵や民間人をシベリアに強制連行し抑留したことは今の若い方にも知識として知っていることを期待したい。そしてこの「ポツダム宣言」受諾に当たり、色々な条件を付けての受諾(例えば戦争犯罪については日本国内で裁くなど)を試みるも連合国側からはことごとく却下され、唯一、「国体護持」(即ち天皇制の維持)だけを求めて受諾することになるのですが、実は連合国側ではこの国体護持すら担保する明確な意識はありませんでした。ですのでそのような下では「ポツダム宣言」を受諾すべきではない、とする意見が大勢を占める中、貫太郎公はひそかに昭和天皇と通じ、天皇陛下が御前会議を招集するという形を作り、その席上で天皇陛下から「ポツダム宣言」を受諾する旨の御発言を導き出したのでした。その際の「御前会議」の様子が描かれているのがこちらに飾られている絵画なのであります
こちらは複製のもの普通に販売されていましたが👇、「鈴木貫太郎記念館」のものは、例え複製ではありましても恐れ多くて撮影するわけには参りません![]()
こうして陛下自らが招集された御前会議にて、今まで強硬論を唱え続けた軍幹部も、陛下の御聖断とあれば流石に受け入れざるを得ず8月15日を迎えることになったのです。そしてこの流れは、貫太郎公と昭和天皇とが太いパイプと強い信頼関係が醸成されていたからこそ、出来たシナリオだったのでした。また昭和天皇と貫太郎公との結びつきをより強靭なものにしたのが貫太郎公の二度目の妻の足立たかさん、その人だったのでした。なお貫太郎公には先妻に大沼とよさんがおり、子供も3人授かっていたのですがとよさんは病没。その後、20歳近くも年の若かった足立たかさんと再婚されたのですが、当時、宮中にいたたかさんに貫太郎公との縁談を勧めたのも昭和天皇だそうな。そうです、昭和天皇はかなり前から貫太郎公にも信頼を寄せており、さらに乳母代わりのたかさんと貫太郎公がめでたく夫婦になったことで、全幅の信頼を寄せていたのでした。なお副館長からの説明では冒頭にDVDの観賞があったのですが、それにはたかさんの生の声と映像とが用いられていました。実は貫太郎公は1936年(昭和11年)、たかさんとの結婚後20年近くが経過していましたが、当時、侍従長を務められていた時に「2.26事件」でクーデターを起こした軍の一部に襲われ瀕死の重傷を負っています。幸いにして一命はとりとめられたのですが、夫である貫太郎公が襲撃された際、隣室に居合わせていたたかさんは、夫の死を覚悟したこと等を語って下さっていました。とても貴重なDVDでした。
また説明の中では、日本国の最大のミスはソビエトに仲介を期待したこと…日本とソ連とは1946年までの間、互いの国を攻撃しない「日ソ中立条約」が結ばれていたため、欧州戦線では協力関係にありました米国に対して一定の影響力を持つと期待した日本がソ連を頼ったことと、また広島、長崎への原爆投下は一般的には米国主導での終戦を急いだ米国が最終兵器として投下した、そのためには非人道的な被害も仕方ない…という流れで語られることも多かったのですが、またそのことを公の席で表明した閣僚経験者にも居ましたね、“あれは仕方なかった”と発言した久間章夫前防衛相、しかもこの人は原爆が投下された長崎県選出の代議士でしたから呆れてものが言えません![]()
しかし原爆投下時の米国大統領、トルーマンは大統領に就任するまで、新型原子爆弾が密かに開発されていたことは知らず、しかし大統領就任後に新型爆弾が完成したことを知り、その威力を試すべく、それまで空襲被害を受けていないために都市機能が温存されていた新潟、京都、広島、小倉、長崎の五か所を爆弾投下の候補地として、その中から地形的な要因から新型爆弾の攻撃威力を確認しやすかった広島と小倉を選びました。しかし小倉に関しては8月9日に爆撃機が爆弾投下に向かった際に上空の雲が厚く下界が確認できなかったため投下が出来ず、急遽、長崎に代わったのですが、米国はこの新型爆弾の威力を試すべく、広島にはウラン型、長崎(当初の目標は小倉)にはプルトニウム型の新型爆弾を使用していることから、“戦争の終結を急いだ”ということではなく、“日本が降伏しないうちに新型爆弾の性能を試したい”という、実験的な意味合いがとても強かったのだ、ということも解説して下さいました。ところでここまでchuは“新型爆弾”とか原爆と称していましたが、これは核兵器。世界中、どこを見回しても核兵器が武器として使用され、その被害を受けた国家は日本国しか現在のところでは有りません。核兵器は廃絶しなければならない、との声が世界中に沸き起こる中、残念ながら世界で唯一の被爆国であるわが日本国は、国連常任理事国以外の国家が核兵器の保有を禁じる「核拡散防止条約」は批准しているものの、核兵器の使用を禁止する「核兵器禁止条約」には批准していません
民間団体である「日本原水爆被害者団体協議会」が2024年にノーベル平和賞を受賞したのは記憶に新しいところですが、国としての“核兵器の使用は禁止する”という態度はしてはいません。ただ、この件に関しては日本国の周囲には現に核兵器を有している国家が複数存在している事もあり、また、米国の“核の傘”により安全が護られている(ホントかよ
という声もありますが)現実を考えるとするとやむを得ないとも言えます
世界中の国が一斉に核兵器を廃棄すればいいのですが、現実問題としてそれは難しいので、粛々とアピールをし、世界中の各団体、組織が核兵器廃絶に向けて「ノーベル平和賞」を受賞するような活動が活発になって来ることを願うばかりです。なお、少々脱線しますが、核兵器保有に関して言えば、“国家VS国家”の関係であれば互いの国は相手から攻撃を受けないための抑止力が働くのですが、国家ではない組織が核兵器を保有した場合、攻撃する側は護るべき組織や自国の市民はおりませんから核兵器の使用に躊躇はありません
即ち“国家ではない組織”とはテロリストに他ならず、しかし日本国内にも多数ある原子力発電所には核兵器の素材となる物質が貯蔵されているのですから、保管は勿論のこと、外部からの侵略に対しても強固な守りが求められます。しかし原子力発電所の警備は警察官による「原発特別警備部隊」がその任に当たっており、確かに通常時に警察官が所持する短銃よりは高性能・高威力を発揮する武器の装備品を有してはいますが都道府県警察から出向してきている各管区の機動隊の隊員が任期制・交代制で警戒隊を組織しているに過ぎない体制のため、“テロリスト制圧専門部隊”とは言い切れない
しかしどうも日本人には“(テロリストによる襲撃など)そうしたことは生じない”というような、正常性バイアスが強いのかも知れません。“危機管理”と言う言葉を編み出されました初代の「内閣安全保障室」長でありました佐々敦行さんは危機管理に対して“悲観的に準備をし、楽観的に対処せよ”という名言を残されました。これは発生する恐れのあることにには最大限、生じうる被害を想定し準備を行い、しかしもし災害が発生したのであれば十分に準備をしていたのだから、慌てず悲壮感を抑え淡々と対処しなさい、という意味です。少し、「鈴木貫太郎記念館」から外れてしまいましたので元に戻ります
こちらが記念館で配付されていますパンフレット。鈴木貫太郎公の詳細が伝わります![]()
今度は「鈴木貫太郎記念館」の敷地内を散策しました![]()
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既に邸宅は無くなっていますがここに邸宅がありました、との説明など。鈴木貫太郎公は終戦から3年後の1948年、ここ旧関宿町の自宅にて永眠されました。享年80歳。令和に続く現在までの「平和」を導いて下さいました大偉人なのでありました![]()
引続き記念館の周囲を巡ります
こちらは最寄り間バス停です。公共交通機関で来る場合は東武野田線の川間駅か、伊勢崎線の東武動物公園駅からバスになります。
そしてこちらの石碑には“鈴木貫太郎翁終焉の地”と刻まれており、揮毫されたのは後に内閣総理大臣となりました吉田茂氏。そうです、今なおキングメーカー気どりしている“老害あって一利なし”そのものの、ASO何某のおじいさん。chuはASO何某は、ホントに老害
口をひん曲げてへらず口を叩き自民党を下野させた張本人
総理在任中はホテルで会食ばかり。カップラーメンの値段を聞かれて“400円かな”(2008年のことです。実際は100円前後でした)と、庶民感覚とはかけ離れた経済感覚を持った人間が総理を務めていましたが、それ故の選挙大敗、普通の感覚で言えば引責辞職、政界引退は当たり前なのですが何故か自民党の政権復帰後には副総理格に収まり、今でもあれやこれやと口出ししています
とっとと引退せいや
あ、ASO何某とは麻生太郎です![]()
そのASO何某はここに来たことがあるそうで、“爺様が揮毫された文字をもっと近くで見たい”と所望、そのためU字溝を逆さまにして踏み台にしたんだそうな
そんなことからこのU字溝を“麻生台”と呼ぶようになったそうです
で、選挙の折には党の要人が訪れ、この“台”に立ち、ここで演説をするのが定番なのだとか
あの小沢一郎さんもここで演説されたようです。ところでここ、旧関宿町を含む野田市は、現在では南隣の流山市と併せた千葉7区なのですが、この選挙区は一応、“都市部扱い”ながら旧関宿町はかなりカントリー色が強い場所です
しかも都市部の選挙区としてはかなり広い面積となっていまして、候補者は遊説が大変![]()
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更に現在、千葉7区からはここのところ連続して自民党の斎藤健さんが当選しており、しかも同氏は農水相、法務相、そして出身官庁である経産相までも務める自民党内の重鎮になりましたので、今では選挙はとても強い
なので千葉7区には他党は中々、候補者を擁立できず例えば立憲民主党では“不戦敗”状態が続きそうです![]()
ASO台はこんな感じで設置されています![]()
で、ASOD台に上がると確かに文字がくっきりと見えます
それとここに立つとなんか政治家になった気分![]()
で、それにあやかってchuも乗ってみた
てか、今さら選挙には出ませんけどね![]()
ソレニシテモナンカハラガデテイルヨウダ![]()
以上、「鈴木貫太郎記念館」を見学させて頂きました様子をお届け致しました。今回のツアーでは副館長さんからは詳細な説明を聴かせて頂きましたことで、昭和天皇の“命を受けた”と言っていいでしょう、鈴木貫太郎公が戦争を終結させ、そして現在も続く平和の礎を築いて下さりました方、との思いを強くしました。余談ですがchuが入学した時の大学の学長は、終戦時の鈴木貫太郎内閣の文部大臣を務めていました太田耕造先生でした。学長と一学生個人でしたから、指さしで直接お会いしてお話をさせて頂く機会は残念ながらありませんでしたが、太田学長の回顧録には終戦当時の天皇陛下の御聖断を下さりました様子などが綴られており、また終戦時の文部大臣でしたので、荒廃した国を復興させるためには何にもまして若人への教育だ、と御考えになり教育界に入られた方。そうしたお話が書かれていました回顧録の内容を読ませて頂きましたことを、今回の機会で思い出させて頂きました。当時のchuは18歳、過去に聞きかじった程度の記憶しかなかったchuでしたが太田学長のお話(回顧録です)を瞬時に呼び覚ましてくださいました。参加させて頂き本当に良かったです
次回に続きます![]()
















































































































