2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています。旅も5日目に入り、chuの大好きな京都の個別スポットを巡る旅へと入りました
前回はこちら👇(てか、まもなく実際の旅から一年が経過してしまいますので、急げ急げ![]()
![]()
てか
)
そしてここからは旅の5日目、202年4年9月20日(金曜日)の様子をお届けして参ります。で、この日の行動予定をざっくりと述べますと、スタートは東山エリア、その後は洛北に向かい、そして落成、洛中、そして洛南エリアと全て京都市内。移動のための交通手段は一部区間だけTAXI🚖をしましたが、それ以外は京都市営地下鉄と市バス
この日も「地下鉄バス共通一日券」を使い尽くしています
ではこの日最初の訪問先は浄土宗の総本山である「知恩院」
“お念仏からはじまるしあわせ”こそが浄土宗の宗是であり、開祖者の法然上人に出逢い悟りを開きました親鸞聖人はその後、浄土真宗を興すのですが、chuが属する真宗大谷派の開祖である親鸞聖人の師であります法然上人も、当然にしてchuの宗教上の師でもあるのです![]()
東山通にある「知恩院前」下車。実は昨日もこの直ぐ近く(祇園界隈や八坂神社など)に来ていましたが、祇園からバスに乗っちゃいまして知恩院は素通りしちゃいまして、“日を改めて伺おう”と思っていたところの翌日の訪問となりました
ホテル前の千本旧二条から知恩院前までは市バス201系統にて乗り換えなしで来られましたのですが、京都市中心部はバス路線が網の目のように張り巡らされていて本当に便利ですね
ただ市バス内には、“100円の利益を上げるのにどの路線(系統)がいくらかかっているか”とした案内が各車両に貼りだされていて、しかし旅行客はそこまで気にされる方は少ないのでしょうから、京都市民の方への周知だと思いました
(こちらは御参考まで)👇
「知恩院」を代表する建物の一つでもあります「三門」は国宝です
ところで寺院の入り口に立つこの手の門のことを「さんもん」と言いまして、寺院によっては山門と書いたり、三門と書いたりと、その綴り方については寺院により様々なのですが、知恩院ではこの門を三門と綴り、この門の意味するところは「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)であると教えており、そのため浄土宗系の寺院の多くは三門と称することが多いそうです(例えば東京は芝「増上寺」(浄土宗の著名な寺院です)の三門は“三解脱門”です)
「知恩院」に来てこの「三門」の前に来ると、その大きさと共に威厳さに圧倒される思いです
この三門の創建は元和7年(1621)で、その大きさはと言うと正面約50m、側面約12m、高さ約24mの堂々たるもの。国内に現存する木造の門としては日本最大級の大きさなのだそうです
そのためなのでしょうか、京都の寺院で思いつくものの三つは
と聞くと、金閣寺、清水寺(の舞台)、そして知恩院の三門という答えが多いそうです![]()
三門の柱の間から石段が覗けていますが全容を見るとびっくします
そう、この石段は結構長くて、そして急なんですよ![]()
今日も早朝にホテルを出発してはいるものの、既に8時30分は過ぎてますので気温は急上昇chu![]()
![]()
“あの石段を登るのか
”と思うと早くもめげそうになるほどの外気温になっています![]()
さぁて、いよいよ“登り”に取り付きますかって、👈は、なんか登山の領域ですよ![]()
![]()
はぁはぁぜぃぜぃ![]()
![]()
![]()
![]()
そしてやっとこさ登り切りました![]()
![]()
てか、この石段を登ったことだけで息を切らしていると思われたら心外なので言い訳をさせて頂きますと、バス停の「知恩院前」は、この三門の目の前にあるわけ出来なく、バス停から三門まで続く「知恩院道」と呼ばれる参道が結構、長いんですよ
“知恩院前”っていうバス停だから「知恩院」は真ん前方思ったら、違うんだなぁ、これが![]()
こちらが「知恩院」周辺地図 小さい赤の丸が「知恩院前」のバス停で、右側の赤い丸が三門です。で。青い実線が「知恩院道」なのですが、この距離はバス二停留所分くらいの距離がありますよ
周辺の位置関係をお示ししますと、下にある青い丸印は「八坂神社」、左側の青い丸は祇園白川。祇園白川や八坂神社から「知恩院前」バス停前まで来たとして、知恩院三門まではそれ以上の距離があるのです。しかし「知恩院道」は既に「知恩院」の境内ですから、ここに路線バスのルートを設けるわけにはいかないですからね![]()
こちらが「知恩院」境内案内図。さすが浄土宗の総本山ですのでデカいですよ
そしてこの急な石段ですが、これは参拝を終えて帰りがけにわかったことなのですが、三門下と本堂の間…即ち急な階段で高度差を稼ぐ部分ですが、これはお年寄りや身体の御不自由な方にはちとしんどい(>_<)ってんで、三門脇と本堂脇とを結ぶシャトルバスならぬシャトルワンボックスカーが運転されています。それがこちらのイラスト👇(詳しくはリンクしましたホームページに掲載されています)
こちらは法然上人の御影(みえい)を祀ることから、「御影堂(みえいどう)」と呼ばれる本堂で国宝です
現在の御影堂は寛永16年(1639)に徳川3代将軍家光公によって建てられ、間口45メートル、奥行き35メートル 幅3メートルの外縁をめぐらし、そのスケールは壮大のひと言
そしてchuが赴きましたこの時間、堂内では朝のお勤めが行われていました。しかし「知恩院」の浄土宗は、chuが属する真宗大谷派(浄土真宗)とはとても近い宗派ではあるものの、やはりお念仏の口上は異なるようで、正直、よくは分かりませんでした
しかし浄土宗の総本山で、本山にいらっしゃるお坊さんですからそれなりの高尚の方と思われます。浄土宗の門徒ではないものの、本堂にてお念仏をお聞かせいただき誠に有難うございました![]()
のどが乾いたので飲み物を買いましょう
するとなんとこの自販機から…
“南無阿弥陀仏”の声が流れてきました
やるな
「知恩院」の自販機は![]()
そして「知恩院」を後にしましたchu、「知恩院前」からバス🚌に乗車して次は「金戒光明寺」へ。しかしこのお寺さんも“最寄りのバス停”と言ってもそこそこ歩かされます![]()
![]()
またバスの本数もそう多くはなく、アクセス的にはやや不便かな
バス停「岡崎道」にて下車し、一応、道標は出されて入るものの少々分かりずらかった![]()
と言っても過去に何度も訪れてはいましたが、アクセスの仕方が異なっていました。と言うのもここは昨日訪れていました「哲学の道」とは白川通を真ん中に挟んだ西側に位置しており、東山エリアの散策との組み合わせが可能な立地場所なのです
(後で位置関係をお知らせします地図を貼り付けます)
そして無事辿り着きましたのが「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」、通称「黒谷(くろだに)」です
そしてこちらも先ほど訪れていました「知恩院」に続き浄土宗の寺院。
ちなみに通称名となっている「黒谷」の由来ですが、「金戒光明寺」は法然上人が比叡山の黒谷を下り、初めて草庵を結ばれた地です。つまり“黒谷”とは比叡山山中(延暦寺境内の一部)の地名から名付けられたものなのです。
さて、左側に掲げられた木製の看板を御覧下さい。何々、“京都守護職本陣”とあります
で、“京都守護職”って何
そしてここからがchuの琴線に触れるところ。chuが京都通いをする大きな理由でもあるのです。時は幕末、ペリー提督の黒船が浦賀沖に現れたことで太平の世を破られた時世のころ、上級武士よりも特に下流武士による、外国船を打ち払え、などの威勢のいい声が跋扈し始めます。いわゆる、「攘夷(じょうい)」なのですが、当時、ごく一部の国との交流を除き外国との窓口を閉ざしていた幕府にとり、大砲を積んだ軍艦を江戸湾入り口まで引き連れて開国を迫るペリー来日は大難題
下級武士がアジテーターに踊らされ、藩論を転じ大きな力を付けて来た西国藩は京都にも進出し、一部の公家をも操り始めました。その頃の江戸はと言うと徳川政権は13代将軍の徳川家定。この家定は生まれつきの病弱かつ重篤な病を患っており、開国を迫られ右往左往する幕臣を束ねることもままなりません。しかし家定の信を取り付けていました大老・井伊直弼は独断で諸外国に港を開放することを決定、このことに不満を爆発させた下級武士は攘夷に加え尊王(そんのう)の「尊王攘夷」思想を掲げ大暴れ。そしてこの頃から政治の中心は江戸ではなく京都にスライドしていたのですが、江戸幕府の幕臣たちは京都の情勢を測りかねていました。井伊直弼による「安政の大獄」もあり世情は益々不安定に。しかし開国の決定を下した幕府に対し、不満を募らせた下級武士や不逞浪士が殺戮など、テロの限りを尽くした場所が京都だったのです。この激動の時代に幕府は早急に家定の後継将軍選びに入ります。「安政の大獄」を受けて激高した志士たちが起こした「桜田門外の変」で井伊直弼は殺害され、世情は益々不安定化。また14代将軍の座を巡り水戸派(一橋派)と南紀派とが多数派工作を繰り広げるのですが、水戸派の代表である水戸藩主の徳川斉昭公は、後継将軍の選定に大きな力を持つ大奥から嫌われており、まだ10代の慶福(よしとみ)が選ばれ、後の徳川家茂(いえもち)となります。ここに来て、今までの世であれば朝廷(帝)から信と認を受けた征夷大将軍が政(まつりごと)を執権していたのですが、徳川幕府開闢以来、かつてなかった“朝廷の声を聞く”状況となり、徳川家茂は京都に上洛することになりました。しかし既に京都では不逞浪士が跋扈し殺戮が横行する治安が著しく棄損された場所。かような地に将軍を送り込まざるを得ない幕府としては京都の治安を安定させることを急務とし、新たに作りました「京都守護職」に会津藩主の松平容保公を充てます。ですが当初、この職に任じられることを固辞し続けていた容保公ですが、年若き家茂を補佐するために、これまた新たに作られた将軍後見職に就いていました一橋慶喜公に押し切られ不承不承、就任します。結果としてこのことが戊辰戦争における最大の激戦地となりました「會津戦争」を惹起させることとなるのです。あ、ここで明治維新への流れを説明し尽くす紙面はありませんので深入りは避けますが、その「京都守護職」に就きました松平容保公と、その臣下である会津藩士が京都の治安維持に奔走している時に駐屯したのがこの「金戒光明寺」なのであります![]()
「京都守護職」に就いた松平容保公は、当初は徳川幕府に反抗的な下級武士や、脱藩している不逞浪士であったとしても“話せばわかる”と対話重視の姿勢を打ち出していたのですが、幕府の考え方に近い公家に対してまでテロを繰り広げる等の蛮行を止めず、遂には武力を以て京都の治安維持に務めざるを得なくなります
その後の、時間的には数年間なのですが京都を舞台とした戦火が繰り広げられ、会津藩士にも死者が続出、そのため「金戒光明寺」を本陣としていました會津藩士の亡骸はこのお寺に手厚く葬られたのでした。大の會津贔屓でありますchuが「金戒光明寺」を参拝させて頂くことは、幕末に、テロリストに対峙するために故郷の會津を遠く離れ、故郷に戻ることなくこの地に散った會津藩士に鎮魂の思いを捧げるための訪問なのでもあるのです![]()
こちらは「金戒光明寺」の“山門”。同寺は浄土宗の寺院なのですが、何故か山門と称します。理由は…分かりません![]()
そして「金戒光明寺」の境内はそこそこ広い
で、このお寺が「京都守護職」と會津藩士が駐屯する理由となりましたのはその境内の広さ。何せ常時1000名を超える會津藩士が駐屯するのです。狭い寺院では対応出来ないことに加え、将軍家茂や、将軍後見職である一橋慶喜公が滞在する「二条城」にも近くなければなりません。
それではしばらく境内散策をお楽しみください![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
こちらが御影堂。本堂です![]()
御御影堂は少し高くなった場所にあり山門を見下ろすことが出来るのですが、実は「金戒光明寺」は徳川家康が江戸幕府を開いた時から寺院であると共に“城郭”的な要素も持たせた寺院。“見晴らしがいい”ということは“見渡しがいい”ことを意味しており、西日本の各地に点在している、“隙あれば徳川幕府を潰そうか”と虎視眈々としている外様大名の軍勢が京に迫ろうとした場合、その様子をいち早く知ることが出来るという機能を有しているのでした![]()
また「金戒光明寺」は、京都守護職であり会津藩主である松平容保公が、京との治安維持のためにその力を頼った「新選組」が決結成された場所でもあります。詳しくは同寺ホームページサイトを是非、御覧下さい👇
そしてワタクシことchuは新選組が大好きで心から心酔しています
なお元々新選組の母体は江戸の多摩が発祥で、“新選組の源流を訪ねる”ことをchuは今まで歩んできており、その一部につきましては拙blogにもアップさせて頂いております
例えば新選組副長として激動の時代に大活躍されました土方歳三公が生まれ育った東京都日野市や、近藤勇局長とは今生の別れの地となりました千葉県流山市、そして最後まで徳川幕府に殉じ、北海道に渡り「蝦夷共和国」を創り似非官軍に対峙するも頼りにしていた軍艦・開陽丸を座礁させ失意に沈んだ江刺と、そして歳三公最期の地となりました北海道函館市(当時は箱館)、の全ての聖地を巡礼しています
そしてここ「金戒光明寺」で新選組は結成され“会津藩御預かり”として武士の身分を確立させた後に、幕末の京都の治安維持に奔走したのです。しかしこの事に触れている日本史の教科書は皆無に近いのが残念でなりません(>_<)。しかし今でこそ、新選組の果たした役割は認知されているのですが、一昔前であれば単なる“人斬り集団”的に捉えられていましたのは悔しい限り
偽の錦旗を作り一部の公家を操り、忠義を尽くし幕府方に殉じた各藩に“朝敵”のレッテルを貼りつけ、“海賊王になる”と誓ったルフィーたちが言うところのワンピースでいう“世界政府”を創り上げ、しかし明治以降には、徳川幕府が築いていた社会インフラを“しれっと”使い、いかにも“自分たちが明治の近代国家を築いた”的に吹聴する西・南国出身者が造った政府が新選組を評価することは絶対になかったのであります
因みに東京都千代田区九段に有ります「靖国神社」には戊辰戦争で犠牲になった武士の魂を祀るために明治になり造られた新しい神社。その後、戊辰戦争以降の“国のために戦い犠牲になった武士や軍人の魂”を「英霊」としてこれを祀る神社として、特に終戦記念日には平和を願う沢山の方々が参拝に訪れる神社なのですが、実は靖国神社には“戊辰戦争以降の国のために戦い散った魂を敬う”であるはずの設置根拠のところ、新選組隊士や會津藩士、その他、彰義隊や奥州越列藩同盟などの旧幕軍に与し散った武士の魂は祀られていません。恐らくこのことを知っている方は少数派なのですが、新選組や旧幕軍の、尽忠報国を尽くした志士たちの魂が祀られていない靖国神社をchuが参拝することはありません
(なお、「西南の役」を起こし最終的に明治政府に潰されました南国の首領は、戊辰戦争勃発に向けて狡猾な仕掛けを仕向け続けた悪の権化なれど、教科書的には一応“明治の元勲”的な扱いを受けてはいますが、靖国には祀られていません、がしかし、戊辰戦争の戦で散った命ではない、病死であったにも関わらず、靖国に祀られているT・Sと言う西国のアジテーターの一人が居ます。これは維新後、西国出の者が多数、総理大臣に就いていることから、まぁ“英霊”は、西国出の輩により何とでも差配されていたのですよ
)
そして本堂裏にあります「會津藩士の墓地」、は正にchuにとりましても聖地なのであります![]()
故郷を遠く離れた京の地で、京都を守護する君主に使え志半ばに散った若き志士たちを見守る藩主・容保公。固辞し続けた「京都守護職」就任を引き受けざるを得なかった会津藩に伝わる家訓を持ち出されては、もはや、やむなしと言ったところだったのです
(会津藩に伝わる家訓とは、藩祖の保科正之公が3代将軍家光より受けた命を末代に渡ってもこれを全うさせるために、正之自身が“会津松平家の宗家である徳川将軍家には絶対の忠誠を尽くすもの”と定めたもので、養子として会津松平家に入った容保公は、これを受け入れざるを得なかった…と言われていますが、容保公御自身の確固としたお人柄の賜物と広く信じられています)
今回、chuが京都を訪れたこと自体が久々の事。そして前回、上洛した際には時間の都合上「金戒光明寺」を訪れることが出来ませんでしたので、今回、たっぷりと時間が取れました「三都物語」の旅程の中に訪れることが叶ったのでした
騒乱の幕末時に、京都の治安を護るために命を失いました會津藩士と新選組隊士の亡骸と「英霊」は、ここに祀られているのです
今回の上洛での目的の一つでもありました「金戒光明寺」参拝が叶いましたことに感謝です
そして次に訪れましたのは「金戒光明寺」のお隣にあります「真如堂(しんにょどう)。こちらは昨日、訪れました「安楽寺」や「法然院」(青色で〇囲みしました。青の実線は「哲学の道」です)。そしてこの日に訪れたのが赤で〇囲みしました「金戒光明寺」と「真如堂」。昨日と今日、白河通りを間に挟み、その距離は数百メートルと、とても近い場所を訪れているのです
しかし昨日散策していた場所は「東山エリア」でしたが、同じ左京区でありながら、「金戒光明寺」や「真如堂」を“東山エリア”と感じることはなく、またそう呼ぶ方もいない、摩訶不思議なエリアなのです![]()
その「真如堂」、正式な名称は「真正極楽寺」という天台宗の寺院なのですが、一般的には「真如堂」と語られる方が多く、この寺院の見どころとして参道の両脇に連なるはもみじの木が有名です。またこのことが、京都市内には“紅葉の名所”と呼ばれるところは数ありますが、中でも特に美しい紅葉の名所として知られています
chuが訪れました季節は9月ですので見事なまでの青もみじでした
まぁ、例えば5月の新緑の候、の時期などならば特にでしょうが、青もみじは青もみじで、それはそれは美しくもあるのですが、ね![]()
【御参考】今は青もみじの参道の風景でしたが両脇の木々が赤く染まるとこんな感じに
もう、見事と言う言葉しか見つからない京都を代表する紅葉なのです
(写真はお借りしました)
境内を散策します![]()
![]()
![]()
こちらが本堂。入母屋造りの本瓦の建物は、小さいながらも重厚感があります![]()
「真如堂」の説明です![]()
本堂前から参道を眺めます。
「金戒光明寺」と「真如堂」、chuは何時もセットで訪れる寺院。そして今から約160年前のこと…ですからもの凄い昔ってことではないのですが、当時、荒れに荒れていた京都の治安を護るため、遠く會津(現在の福島県会津若松市)から治安維持の任に就いた會津藩士の皆さま、そしてやはり京都の治安を護るため急遽結成された新選組、歴史の教科書では大きく取り上げられることはないのですが、chuはこの方たちの功績をずっと尊敬し、そして称えてきましたし、これからも自身の命ある限り、そうさせて頂く所存です![]()
「真如堂」からは最寄りのバス停は「錦林車庫前」。京都市営バス最大の車庫の拠点でもあります
ここから次の訪問先に向かうのですが、とある場所からはバス便が激減します
さぁて、どうやって次の目的地に向かったのでしょうか
(冒頭に記しちゃ伝てましたね
)















































































































































































