2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています。旅も4日目に入り、chuの大好きな京都の個別スポットを巡る旅へと入りましたウインク前回はこちら👇

京都市バスで銀閣寺道から一乗寺下り松まで楽ちん乗車ウインクしかしこれ、若かりし頃であれば歩いていました走る人走る人走る人が、今日はここまで祇園四条から清水寺~八坂神社と、僅かな区間をバスと地下鉄乗車でワープした後、蹴上から銀閣寺道まで歩き通したのでさすがに疲れたニヤニヤで、お洒落なお店が立ち並ぶ白川通の沿道をバスの車窓から眺め、これから向かう「詩仙堂」の最寄りのバス停が一乗寺下り松なのです。そして今日、ここまで来ました行程としては祇園四条~銀閣寺までは「東山エリア」だったのですが、一乗寺下り松に着いた時点でここからは「洛北エリア」へと入りましたニコニコ「詩仙堂」に向かう道すがら、こちらが一乗寺下り松なのですが、この場所は近江(現在の滋賀県)から比叡山を経て京に入るための古くからの交通の要衝。そしてこの松は旅人の目印として古より受け継がれた樹木で現在のものは5代目なのだとかキョロキョロそして実はここは宮本武蔵決闘の場でもありましてびっくり江戸時代初期に活躍された剣豪・宮本武蔵がここで吉岡一門の数十人と決闘を行った場所。その時武蔵は、近くの八大神社にて勝利を祈願しようと思ったのですが、神仏に頼ろうとした自分の弱さを恥じ(“神仏を尊んで神仏に恃(たの)まず”のアレですよウインク)、参拝をせずに決闘に挑んだと伝えられていますニコニコ(文豪・吉川英治さんの「宮本武蔵」にて紹介され、後に同決闘のSceneをメインとした映画化もされています)

こちらは宮本武蔵の決闘についての概略です👇

バス停からダラダラとした坂を登る事、十数分、今日は早朝から動き始めていることに加え、この坂道、さらに暑くて暑くて堪らない突き刺さるような日差しですからかなりの体力を蝕まれていきました絶望、ですが遂に辿り着きましたビックリマークここが「詩仙堂」ウインクそしてここはchuが京都通いを始めるきっかけを創って下さいました、chuにとりましは正に聖地なのでありますクラッカー合格チュー

こちらが「詩仙堂」の入り口。あ、先ずは「詩仙堂」のオフィシャルWebサイトをリンクさせて頂きます👇で、chuが何故、「詩仙堂」を“京都通いを始めた原点”と崇めているのかにつきましては追々とウインク

こちらが「詩仙堂」の出入口、三門に代わるべく小有洞の門。ここから少々長い石段が続きますニコニコ実はバス停を降りた後には晴れが照り付ける猛暑の中、ダラダラとした上り坂を上って来ましたのでかなりダメージを受けていたのですが、この門をくぐった先の石段に日差しは差し込まず、さらにこれから久しぶりに邂逅出来るであろう庭園の図をイメージしただけで今までの疲れがすっ飛びました爆  笑(ポパイがオリーブからほうれん草を貰った時、はちと古かった爆笑濡れた頭を代えてもらって元気復活のアンパンマンのような気持ちですチュー)

そこそこ長い石段を上がっていきます。そしてその両側には竹林ビックリマーク日差しが直接差し込まないこの石段に届く微かな日の光は木漏れ日のみ。これをして“詫び寂び”からの世界である静寂がここにあります照れ

なお一口に「詩仙堂」と称していますがこの建物は「至楽の間」と「詩仙の間」の二つから構成されています。こちらは受付を兼ねた「至楽の間」の入り口ですニコニコ

すると直ぐに目につくのが「至楽の間」や「詩仙の間」に飾られている、中国からの影響を大きく受けている文字、飾り物、書、そして中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画などニコニコそしてこれらは「詩仙堂」を創った方が卓越した文人だったからですニコニコ

こちらが中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画(※編集の都合で全ては掲載していません)。これらの肖像画は江戸時代の絵師、狩野探幽により描かれたものですが、とりあえず、ここまで建物の中に足を踏み入れて来て、何か不思議に思いませんかキョロキョロと言うのも、chuは“寺院めぐり”をしているつもりなのですが、この「詩仙堂」、お寺という感じがしません…普通、寺院であれば御本尊があり、お賽銭を入れる賽銭箱などが至る所に有りそうなところ、そうしたものが少なく古美術品を集めた草庵のような印象を受けます。

そうなんですビックリマークそれもそのはず、ここは元々は寺院ではありませんでしたびっくりえ、どういうこと??それはこの建物の創建に際しての経緯から語らなければなりません。今でこそ「詩仙堂」と呼ばれているこの建物ですが元々は安土桃山時代の末期から江戸時代初期を生き抜いた石川丈山により造られた草庵。しかし丈山は元々は徳川家康の家臣でありました。時は慶長3年(1598年)、家康の近侍となりその忠勤ぶりに信頼を寄せられるのですが、大坂夏の陣に出陣した際、家康が先陣争いを禁じていたにもかかわらず軍令に反して抜け駆けをしたため、家康からは激しい叱責を受けると共に、これがきっかけとなり側役を解かれ野に下ります。こうして軍令に背いた丈山はその後妙心寺にて隠居生活を送りつつも寛永18年(1641年)になると隠居のために丈山自らが草庵を造りました。これが「丈山荘」と名付けられた山荘だったのです。つまり「詩仙堂」ははなから寺院として建立されたものではなく、丈山が隠居のために建てた山荘だったのですびっくりそれが故に建物内に掲げられています中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画、の全ての頭上には丈山が隷書体にて記した漢詩が書かれています。そしてこのことは丈山が武士道のみならず、漢詩、儒学、茶道のみならず庭園設計まで自ら仕上げてしまうという、実に多くの能力を有していたことを表しています。そしてこのことはあまり歴史書には書かれていない事なのですが、chuが“京都通い”を始める原点となりましたものが、ここにあるのです。もうかなり昔のことですが、chuが高校生であった時の事。高校2年生の時に習いました現代国語の時間。H間先生と言う、20代後半の男の先生でした。H間先生は大分県別府市の御出身で京都の立命館大学に進み、教師を志し国語の先生となった方ニコニコしかし当時も今も生徒から疑問が集中していたのですが何故、大分県御出身の先生が地元の大分県でも、また大学時代に馴染んでいた京都府でも、また近畿圏でも、九州圏でもない、恐らく今までは地縁血縁などなかったであろう千葉県で教師になろうと思ったのかキョロキョロchuの高校は公立高校でしたから千葉県の教員採用試験を受けているわけで、前述しました出身県や生活圏での教師になろうとは思わなかったのでしょうかキョロキョロまた、“どうしても関東圏で”と思ったとして、それならば東京都の教員採用試験を受けるでしょうから、何ゆえ、千葉県へ!?なる疑問は在学中は勿論、卒業後も遂にその謎が解き明かされることはありませんでしたニヤニヤまぁ、それは置いといて、H間先生が授業で取り上げて下さいましたのが教科書に載っていましたズバリ「詩仙堂」という章。作者は「ビルマの竪琴」を記されました竹山道雄さんですニコニコ短編小説ともいうべきこの随筆は、単行本になるほどの頁数がないため、その後も単行本として発刊されることはなく、また勿論、高校時代の教科書を残しておくほどのスペースは我が家にはありませんので残念ながら、もう読むことは出来ないショボーンと思って検索をかけてみたら「昭和文学全集28」という括りで幾つかの図書館に蔵書としてあるにはあるみたいです👇こちらは東京都立図書館のもの。しかしchuは東京都民ぢゃありませし、今では都内在勤でもありませんので残念ながら借りられないのショボーン

で、竹山道雄さんが綴られた「詩仙堂」には、石川丈山が大坂夏の陣で先陣の功を競ったため、家康の逆鱗に触れすべての役職を解かれ野に下った…その後、寺院での修行後に、老齢になり隠居のために庵を立てたのがこの「詩仙堂」であり、丈山の文人としての類まれなるその才能がいかんなく発揮されている建物であるとして、この「詩仙堂」を絶賛しています。しかし竹山さんがここでサジェストしたのは“果たして丈山は本当に隠居をするためにこの庵を建てたのか”というもの。時代は江戸幕府が始まったばかりの事。天下泰平へと動き始めたものの家康にはまだ不安が残っていたに相違ありません。武力統一を成し遂げた家康が、関ヶ原の戦いで自らに刃を向けた武家に対しては厳封の上、遠隔地に移封するなど、いわゆる外様大名として遠ざけた代わりに、信のおける武将らを後の親藩、譜代大名としての礎を築こうかというその時代に、家康が一番警戒したのは誰かと言えば、言わずもがなの「帝」、そう朝廷(天皇陛下)であります。事実、この時代の「帝」であられました中でも1611年に御即位されました御水尾(ごみのおてんのう)は、幕府が執行していた「禁中公家諸法度」により、朝廷の講堂全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれたうえに、その運営を摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得ることによって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされたこと等、がんじがらめにされていたことで家康からなる徳川将軍家に激しい敵意を持つに至ります。ちなみに「禁中公家諸法度」を作ったのは、後には“大欲山気根院僭上寺悪国師”なる、大変な悪名も付けられた家康の茶坊主と化していた「南禅寺」塔頭「金地院」の住持であった以心崇伝という僧侶であることは、「南禅寺の三門」を訪れていた時に御紹介させて頂きましたニコニコ御水尾天皇の、徳川将軍家への怒りは相当のもの。そのため後に勝手に退位もしています叫び

家康と、当時の朝廷との抜き差しならぬ緊張関係をして果たして家康が手をこまねいて、こうした時代を傍観していたのでしょうか!?が、未だに歴史上の謎ながら、文武に優れていた丈山を家康は敢えて野に放った上に、京の都で朝廷の動きを監視し逐一、報告させていたという、推測に他ならないものの。語り継がれている話もあります。正に歴史mysteryウインク国語の授業では、文中にも記されている竹山道雄さんの推測と共に、学生時代を京都で過ごしたH間先生、独自に京都の時代背景なども盛り込んだ大変興味深い授業にして下さいました。そんなこんなで当時は行ったことのない「詩仙堂」にchuは強い憧れにも似た気持ちを抱いていたのでした。その後、高校を卒業後に、その前から京都に通い詰めていました高校時代の友人で今なお親交のあるS山君から京都行を誘われて、修学旅行とは異なる、“自分のプラン”で初めて京都を訪れ、そこで高校時代に憧れていた「詩仙堂」を訪れたことがchuの“京都通いの原点”となったのでした照れところでこの“石川丈山の密偵説”はそこそこ検証もされており、ネット上にはこのような記事もありましたので謹んでリンクさせて頂きます👇

即ち創建当時の「詩仙堂」は、石川丈山が隠居をする際に建てた山荘だったのですが、当時としては破格の長寿を全うした丈山は90歳でその生涯を閉じ、後に「丈山寺」として寺院化され、そして現在の「詩仙堂丈山寺」という曹洞宗の寺院へと変わって行ったのでしたニコニコさて、それではここからは「詩仙堂」の魅力をお伝えすべく、写真をアップして参りますウインクこちらが、この場に居合わせた方、全てと言っていい程の皆さまが無言で座り込んでしまう「庭」でございます照れまだ一瞬しか御覧頂いておりませんが…

恐らくこちらの皆さま方のように“金縛り”の状態になっているのでは爆  笑

chuも静かに座って「庭」を見入る事と致しますウインクなお「詩仙堂」の造園も全て丈山の設計によるものですニコニコ

角度を少し変えてみてカメラ

奥まったところに戻りカメラと、色々な構図からの“襖絵”を愉しむchuラブまさに心が無になりますチュー

今度は庭園に降りてみます。庭に出る手前には特製の草履が置かれていて、皆さん、それを履いて庭に降り立ちます。先ほど来、御覧頂いています枯山水の庭には入れません。そうです、「詩仙堂」の枯山水庭園は歩く庭ではなく、鑑賞するためのお庭なのですから照れ

そしてこちらはししおどし。竹山道雄さんの「詩仙堂」にも“静寂を破る音”として、しっかりと記述がありましたウインク

そして此処を訪れたのは9月中旬のこと。しかし外気温は30℃を軽く超えていますからとても秋の気配を感じるどころではないのですが、少しだけ色付いたススキを見ると確実に季節が進んでいることを伺わせますニコニコ

庭園の、巡回出来る一番奥まったところにありました永代供養塔の御案内。“あ、そうだビックリマーク「詩仙堂」はお寺だったんだ”とここががお寺であることを認識させてくれる看板でした爆笑

このように苔むしたお庭から侘びと寂びを感じ取れますウインク

庭園歩きを終えて再び「詩仙の間」へ。

そして「庭」の観賞。この先、あと何回来られるか(ひょっとしたらこれが最期になるかも知れませんあせるあせるあせる京都はやはり遠い絶望)、この景色を瞼に焼き付けておきたいものですチューそしてどうぞ皆さんも、皆様も畳に座った気持ちになり、このお庭を御観賞下さいウインクそしてchuと一緒に金縛りになりましょう爆  笑

こちらは「詩仙堂」のオフィシャルWebサイトに掲載されている写真ですが、同寺の魅力を広く皆様にお伝えいたしたく、転載させて頂きます(紅葉と冠雪が、このお寺には特に似合うようです照れ)

さて、今回「詩仙堂」にはどれくらい滞在していたでしょうかニコニコ時計を確認してみたら2時間近く庭を見ていたことになりますびっくり滝汗けど、その価値は大なのですよチュー

後ろ髪を引かれる思いで参道を下っていきます。

さようなら「詩仙堂」バイバイバイバイバイバイ私の原点回帰が今、閉じようとしています照れ

次回も洛北探索照れ

 

【こんな偶然ってびっくり

全くの偶然!?今日、このblogを書き終える前の事。朝の段階でしたがFacebookの“知り合いかも”のスライドに、!?と思った人が出て来て、メッセンジャーで直接、mailを送ってみたのです。もし間違えであればご容赦くださいとの文言を添えて。するとなんと、さっそく返信があり御本人でしたびっくり一番最初に赴任した際の職場の同期生ビックリマークずっと疎遠になっていたのですが、こんな偶然ってあるのですねビックリマークY原君と言います。しかも彼は立命館大をご卒業されていたことを瞬時に思い出してしまいましたビックリマーク京都旅行の回想記をblogで綴っていた最中(さなか)に、まさに奇跡の邂逅では合格クラッカーY原君、本当に久しぶりですがこれからもどうぞ宜しくお願い申し上げますチュー

2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています。旅も4日目に入り、chuの大好きな京都の個別スポットを巡る旅へと入りましたウインク前回はこちら👇

「安楽寺」と「法然院」、二つの寺院参拝を終え(※「安楽寺」は境内にすら入れていませんが、あの参道を訪れたことで良しとしますニヤニヤ)「法然院」参道を抜け出た後は「哲学の道」には戻らず「法然院通」を歩くこと10分、到着したのが足利8代将軍の足利義政公により創建された「銀閣寺」ですウインク

ところでこの寺院の名称は「銀閣寺」として世間に知れ渡っていますが、正式な名称は「慈照寺(じしょうじ)」で、臨済宗相国寺の院外塔頭。臨済宗相国寺派の寺院です。ところで「銀閣寺」と聞けば何かにつけ対比されるのが「金閣寺」(旅の初日、チェックイン前に荷物をホテルに預けてイの一番に出向いたのが「金閣寺」でした)👇

そして「金閣寺」は金箔がキラキラ輝く舎利殿「金閣」が世界的にも有名ですウインク一方、「慈照寺」の観音殿が「銀閣」と呼ばれている「銀閣寺」ですが現在は勿論のこと、過去においても銀箔が貼られていたという事実はありません真顔では、銀箔も貼っていないのになぜ“銀閣”と称されるようになったのかと言いますと、江戸時代に観音殿が月明りに照らされて銀色に見えたことから「銀閣寺」という名称が広まったと考えられているのだそうびっくりところで銀箔を貼らなかったのは予算の関係で銀箔を貼れなかった、なる説もあったようですがそれは間違った噂ですパンチ!しかしお寺としては観光客誘致の効果を考えて、あえて“銀箔は貼ってはいないが「銀閣寺」”なる名称を使い続けているようですグラサンですが「金閣寺」はその名の通り華やかでゴージャスな建物なのですが、対する「銀閣寺」は味わい深く渋い建物であり、“いぶし銀”という言葉がピタリと当てはまりますニコニコそしてchuは今まで何十回も京都を訪れているのですが、その中でも「銀閣寺」には何度も足を運びましたが、「金閣寺」には今回の入洛前には中学生の修学旅行での訪問時にしか拝観しておりませんでした。はて、その違いは何でしょうかキョロキョロま、それは立地場所によることも大きいのですが、と言うのも、京におけるchuの定宿は以前、御紹介させて頂きました東山区の「石塀小路」にある民宿「寿栄屋」さん。で、今回も歩いてきました走る人走る人走る人東山エリアを北上するコースがchuのテッパンルートですので、とりあえずの終点が「銀閣寺」だから。翻って、「金閣寺」は東山エリアから遠く離れている(※遠いって言っても10㎞は離れていませんが爆笑)上にアクセスは市バスに限られていたため、中々足が向かなかった…しかしこれは立地上の理由であり、本当の理由は“「銀閣寺」は“味わい深く渋い建物であり、いぶし銀”というところウインクこれをもっとchu的な感覚で言葉にすると“侘びと寂び”と言う言葉がピタリと当てはまりますチューですので「金閣寺」の派手で映える豪華さはchuには似合わないまです爆  笑そうです、10代の後半からchuは地味ニヤニヤその昔、野村克也さんが、当時、人気絶頂でした王貞治さん、長嶋茂雄さんをして“「王貞治と長嶋茂雄、ONが太陽を浴びる向日葵(ひまわり)ならば、オレは野にひっそりと咲く月見草」”という名言を残されましたがそうです、これですよチューchuは、自分は目立たなくてもいい、ひっそりと道端で咲いている月見草で十分照れ(但しこの言葉は野村さんがそれで十分、と思っている訳ではなく本当はオレだって実力があるのにパ・リーグだから全然注目されないよプンプンと若干、自分を卑下している部分もありますが…)そのような自覚がありましたから、華美な「金閣寺」よりも「銀閣寺」が好きなのでしたウインクさて、それでは「銀閣寺」境内を御案内して参りましょうウインクこちらは境内図。「金閣寺」の境内も広かったですが、敷地の大きさで言えば「銀閣寺」も同様、かなりの広さですニコニコですが「金閣寺」は4万坪、「銀閣寺」は6600坪とのことで、実はかなりの違いがありました爆笑

「安楽寺」と「法然院」、東山を、否、京都を代表する(但しchu談爆  笑)と言ってもいい二つの寺院を訪ねて来たばかりですが、その二つの寺院の静寂さとは一転、ここにはワンサカと参拝客が押し寄せてきます。「法然院」からはたった10分ほど、歩いただけなのですがねニヤニヤ

そして拝観券を購入する中門をくぐるといきなりこのお庭照れもう、こうしたお庭に触れただけで感動しまくりなのですチュー

こちらが向月台ニコニコ向月台とは高さ180cmほどの円錐型の砂で固めた構造物。月夜の晩には白砂に月影がほのかに映えて美しいそうで、それが「銀閣寺」と呼ばれる所以になったものですウインクしかし向月台がこの形になったのは江戸時代も後期になってからとのことですから、室町時代に完成していた「慈照寺」が当時から“銀閣寺”と呼ばれていたわけてせはなくて、寺院の正式名称である「慈照寺」と称されていましたニコニコ

そしてこちらが「慈照寺」の「観音殿」でいわゆる“銀閣”と呼ばれているもの。「慈照寺」は、元々は足利義政公が建てた山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで「慈照寺」と名付けられたのですが、華美を好まなかった義政公は自らの美意識を伝え、その結果として簡素枯淡の美を映す一大山荘が完成、それが「銀閣寺」のルーツであり、後に“「東山文化」は侘びと寂びの世界”と言われている、東山文化の真髄、象徴となる「銀閣寺」を世に残したのでしたチュー

こちらの「観音殿」と「向月台」、は「銀閣寺」を代表するアングルですねウインク

敷き詰められている敷石、も風情があります照れ

そして実は「慈照寺」を「銀閣寺」と呼ばせしめたものがこちら👇波を打った砂地模様のここは銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる

お庭。「観音殿」(方丈)の前に白砂を段形に盛り上げた銀沙灘ニコニコその後方にある円錐状の構造物が向月台です(但し向月台が今の形になったのは江戸時代中期になってから、ということは前述しました)。そしてこの銀沙灘は月の光を反射させるため、さらに向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったもの、との俗説もありますが、これら二つの砂盛りは室町時代ではなく江戸時代中期以後のもの、と言われています。しかしこうした作庭はかなり独創的でもあり、世界に類例を見ない造りになっていますウインク以下、2枚の写真を御覧頂きこのお庭が出来た当時のことに思いを馳せて下さい。すると銀沙灘には月明かりが輝き、その月が向月台の上に移動し、すると「観音殿」の建物がまるで銀箔を纏ったように見え、そこから金箔を貼り付けた「金閣寺」に対抗し、“「慈照寺」こそ銀閣なり”なる流布が、これを実際に見た人たちから発せられ、そして「慈照寺」は「銀閣寺」と呼ばれるようになった…。そしてこれは江戸時代中期に入ってからの事、というのは歴史時の数々の資料にも残されていることなのですウインク

そして今回のblog、サブタイトルにて“侘びと寂び 東山文化の象徴”と記しましたが、東山文化とは、現在の京都の東山エリアを中心に広がった室町時代中期の文化全般を指す言葉。繰り返しになりますが、足利8代将軍の足利義政公が築いた東山山荘(現在の「銀閣寺」です)を中心に武家、公家、神僧らの文化が融合して生まれたものであり、「慈照寺」(現在の「銀閣寺」)は東山文化を代表する建築物なのです照れまた、注目しておきたいのは室町時代の時代背景ニコニコ例えば「金閣寺」を造りました足利3代将軍足利義満の時代では、南北朝時代の動乱がようやく治まり、それまで伝統的であった公家文化に加え、新興の武家文化との融合を特色とし、さらに中国大陸(明)との勘合貿易や禅宗の流入など、大陸文化も入り込み、とても華やかで華美な文化が特徴となりました。これを「北山文化」と呼んでいますが、それを象徴するものとして造られたのが義満が北山に建立した山荘。そしてこれに金箔を施したのが「金閣寺」だったのですニコニコそしてそこから60年の歳月を経て義政公の時代になるのですが、市井では、応仁の乱に代表される諸々の戦乱に明け暮れるようになり、しかし一方、能、茶道、華道、庭園、建築、連歌などの多様な芸術も開花した時代。そしてこれらは次第に庶民にも浸透し、今日まで続く日本の文化を数多く生み出したのですニコニコまた京都が戦火に見舞われたことで、文化人や知識人の多くが地方の守護大名に身を寄せたため、地方への文化の伝播も進みましたニコニコ「北山文化」と「東山文化」、室町時代を代表する二つの文化ですが、こうした時代背景からその性格には差異は多く、貴族的・華麗な足利義満の北山文化に対して、幽玄、侘び、寂びに通じているのが足利義政公の東山文化なのですニコニコで、極論をしてしまえば“貴族的、優雅”と“幽玄、侘びと寂び”の違いがあるわけでして、元々が地味で華美を嫌い、侘びと寂びとが大好きなchuが東山文化を愛し北山文化には距離を置くのは当然と言えば当然のことなのでした爆笑そうしたこと故、chuは「金閣寺」には殆ど出向かず、しかし「銀閣寺」には何度も訪れていたのはこうした理由があったからなのでした照れ

 

こちらは方丈(本堂)。銀沙灘に向き合い建っていますニコニコ

そしてこちらが方丈前から眺めた銀沙灘と向月台 その奥に「観音殿」があるのですが、満月若しくはそれに類する大きな月の月明かりが銀沙灘に照らされて、その光は少し高くなった場所に設けられた向月台に集められ、そして「慈照時」は月明かりに晒されてまるで銀箔が貼られたようにも見える…これこそが正に「銀閣寺」の名称の起こりなのですチューただ残念なことに、「銀閣寺」の拝観時間は17時までショボーン月明かりが燦燦と輝く時間には、一般の参拝客は境内には入れませんゲローですが江戸中期に整備されました銀沙灘と向月台、ここから眺めるその景色は「金閣寺」の華美とは異なる、まさに“侘びと寂び”の集大成であることは間違いありません。ですが現代の一般人は見られないショボーン「特別公開」って、ないのでしょうかキョロキョロと思って調べてみたところ、あるにはあるのですが、それは“秋の特別拝観”と称した、普段は公開していない本堂、東求堂(とうぐどう)、弄清亭(ろうせいてい)の内部にある宝仏などを、ガイド付きのツアーとして行うものであり、実施される時間は昼間帯のみ。銀沙灘と向月台が月明かりに照らされて燦燦と輝き、「観音殿」を“銀閣”に見せるであろう時間帯での拝観は残念ながらありませんえーん国内外を問わず、超VIPであればきっとこうした制約などは撤廃されるんだろうなニヤリと思ったら、なんだかなぁ…ですニヤリ

さて、ここからは銀沙灘の前を離れ、静寂に包まれた苔むすお庭にやって来ました走る人走る人走る人ところで本日、この時間帯に「銀閣寺」を訪れている方はとても多いのですが、境内が広い上に“苔むす緑の庭”には意外と人が少なくてびっくりでしたびっくりそうです、これこそ“侘びと寂び”の世界なのに、ですねウインク

そしてここからは境内の中でも一番高い部分にある丘を登っていきまして…こちらは義政公がお点前の際にお使いになりました水を汲みだした「お茶の井」ですニコニコまたこの井戸は、1000年を経過しました現在でも、茶会の際には使用されているそうですウインク

「銀閣寺」の境内で一番高い場所になるのがこちらウインク「観音殿」を見下ろすことになってしまい不遜な気もするのですが滝汗「展望所」とされていましたので仕方がないかニヤニヤ奥側には京都の市中も良く見える風光明媚なポイントですニコニコ

そして回遊路の終点に近づくと、入り口からに入ったばかりのところから見た「観音殿」を、今度は後ろ側から眺めることになりますニコニコ

まぁ、でも同じ寸法かつ正方形の建物ですから、どちらから眺めても同じだったりします爆  笑

こちらは総門。拝観券を販売している中門と、こちらの総門の間は“銀閣寺垣”と呼ばれる50mほどの砂利道の参道ですが、この参道はこれから参拝に向か方と、参拝をし終えた方とが双方向から行き交うため、とても悠長にカメラを構えることは出来ませんでした絶望

ただ、総門に至るまでの石畳のこの参道も中々ですウインクフレーム内に人が映り込まない一瞬を撮影出来たものです照れ

そしてこちらにて再び「哲学の道」と合流ビックリマークここから西へ200m。「白川通」との交差点である「白川通今出川交差点」が「哲学の道」の終点ですニコニコ「哲学の道」、chuは「安楽寺」と「法然院」とを訪れましたので、ごく一部の区間のみ、ルートを外れましたが、この後向かいます洛北に行くためのバス停まで歩きましたので「哲学の道の」起点と終点、ちゃんとマーキングすることが出来ました爆  笑

市営地下鉄東西線の「蹴上駅」を降りた、インクラインの台車が展示されていた蹴上から「白川通今出川」交差点を渡り少し下った場所にあります市バスのバス停「銀閣寺道」まで、距離にしたら3㎞あるかないか、くらいですので長くはないのですが、寺社の拝観は勿論のこと、写真を撮影しながら行ったり来たりしているので思いのほか時間を要します爆笑今回、地下鉄の「蹴上駅」を降りてからバス停まで歩いた道のりはこんな感じでしたウインク次は、東山エリアを離れ、洛北エリアと向かいますニコニコちょいと疲れたのでバスを利用させて頂きますねウインク

 

 

 

2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています。旅も4日目に入り、chuの大好きな京都の個別スポットを巡る旅へと入りましたウインク前回はこちら👇

chuの住む関東地方、首都圏の千葉県松戸市ですがここ連日は35℃を優に超える外気温ゲローただ、連日、40℃越えを記録している関東地方中北部(埼玉県北部、群馬県、栃木県)に比べればはるかにましと言ったところで、ですが外での活動が全然できていませんショボーンそしてホントは真夏にマッチしたプランも計画していたのですが、諸々の事情でやむなく中止に追い込まれえーんよって前回アップしました街歩き以外の旬ネタがありません叫びと言うことで「三都物語」、連載再開ですが、まだまだ先は長いのでこちらも休み休みの掲載とさせて頂きますねウインクとは言いましても実際に旅をしたのは昨年9月のことですから、間もなく一年が経過してしまいます爆  笑ネジを巻いてそれなりに急いでダッシュダッシュ書き上げて参りますニヤニヤさて、前回では蹴上から疎水沿いを通り南禅寺エリアを御紹介させて頂きまして、疎水沿いの「哲学の道」を歩いて行こうかというところでTo be continuedとなりました。今回はその続きですニコニコそしてこちらは前回でもお見せしましたエリアマップでしたが一部加筆させて頂いておりまして、左上、赤い実線でお示ししているところが「哲学の道」。そして赤色で〇囲みしたところが、今回のblogにて御紹介させて頂きます“THE 東山”を感じる二つの寺院で「安楽寺」と「法然院」ですウインク

こちらが「哲学の道」ニコニコところで“哲学の道”なる名前の語源は何なのキョロキョロなるご質問は当然あろうかと思いますが、その理由は極めて単純で、京都帝国大学で哲学を研究していた哲学者の西田幾太郎さんが思索しながらこの道を散歩していたことから、何時の頃からか“哲学の道”と呼ばれるようになりました。そしてそのルートはと言うと、先ほどchuが歩いてきました「永観堂」近くにある若王子橋を南端とし、そこを流れる琵琶湖疎水沿いを通り、銀閣寺の西に位置する今出川通の銀閣寺橋までの1.5㎞の区間を言います。ですので1.5㎞ですから普通に歩けば20分程度で通り抜けてしまえるのですが、それはほれ、疎水の山側は森林が続く中、ところどころに今からchuがお邪魔します“THE 東山”(※ただし所在地は東山区ではなく左京区鹿ケ谷です、以下同)を感じる寺院がある他、疎水沿いに有る樹木は春は桜並木が連なり初夏は木々の新緑、そして秋は紅葉と、また市の中心部にも近く交通アクセスが容易な場所にありながら、四季折々に景色が変化する自然が美しい区間で、京都でも最も人気のある散歩道として知られており、訪れる方が極めて多いルート照れなのでカメラをしながら散策していると、僅か1.5㎞の道は1時間でも2時間でもかかって歩く場所なのです爆  笑そしてこの時は観光シーズンとは言えない9月の平日ではあったものの、この日は沢山の外人さんと遭遇しましたニヤニヤところでこれ、最近特に感じる事ですが、今年1月に行きました岐阜県の白川郷や高山市の旧い町並みもそうでしたが、著名な観光スポットには、いまでは日本人よりもインバウンドの外国人の方がはるかに多いですよえー外国の方に、日本にお越し頂き日本の魅力を感じて頂き、帰国された後にはさらなる親日家となって頂けるのは大いに結構なのですが、それにより日本人の日常の行動や生活に制約が生じるのはなんだかなぁ、と思いますえーですが現段階では殊更、“日本人ファースト”を叫ぶつもりはありませんので、得体のしれない某党を支持する気持ちは今は勿論のこと将来においても全くありませんがねニヤリテカ、イッテルコトガデタラメナウエニキモチワルイデスヨパンチ!真顔

「哲学の道」を歩いていきます走る人走る人走る人

chu一行は永観堂、南禅寺方向から歩いて来て、法然院、銀閣寺方向へと進みます。ここで手前を左折すると真如堂と金戒光明寺(黒谷)に向かうのですが、中でもchuは金戒光明寺には特に篤い思入れがある寺院ニコニコ日を改めて訪問することになりますウインク

なお先ほど来、今、歩いているエリアをして“THE東山”と記していますが実はここは既に東山区は抜けていまして左京区の鹿ケ谷。水路閣のありました「南禅寺」も左京区なのですが、chu的には南は「清水寺」から、この後訪れる「銀閣寺」エリアまでを“東山エリア”として認識しておりそのように紹介させて頂きますニコニコで、この左京区の鹿ケ谷と言えば「平家物語」での“鹿ケ谷の陰謀”として知られているところです👇

ただ残念なことに「安楽寺」は通年拝観は行なわれてはおらず、拝観できるのはこの期間だけ👇ですので今まで何十回も京都通いをしているchuでも残念ながら「安楽寺」さんを拝観したことは有りませんショボーン

こちらは「安楽寺」さんの紅葉と真冬の様子、とても美しいウインク(写真は同寺のホームページから転載させて頂きました)

で、こちらが“拝観は出来ない”通常期(9月)の「安楽寺」ニヤニヤ しかし秋にはこの石段の両側が赤く染まるのですねウインク

拝観(境内に入るための)時ではないため、木戸は固く閉じられていますチーンですが、大好きな「安楽寺」、はここまででも大満足ですウインク

そしてchuの“安楽寺好き”が高じてか、そうでなかったか、は分かりませんが爆笑(いえ、間違いなく「安楽寺」というお寺の名前に惹かれましたチュー)わが家の法要は千葉県松戸市にあります「安楽寺」さんに執り行いをお願いしております。その「安楽寺」では月に1度の法話(安楽会)や11月の報恩講、御正月の修正会には可能な限り参加させて頂いておりますニコニコで、京都の「安楽寺」とchuが月参しています松戸の「安楽寺」、は同じ名称ですが実は本山と分院等との関係にあるわけではありません。何故なら京都の「安楽寺」は浄土宗系の単立寺院なのですが、松戸の「安楽寺」は京都の東本願寺を本山とする浄土真宗(真宗大谷派)の寺院なのでありますウインク(そうです、chuは敬虔な真宗大谷派の真宗門徒なのですニコニコ)

で、次に訪れましたのがこれまた“THE 東山”を感じる、こちらも浄土宗系単立の寺院である「法然院」さんニコニコここも観光客の多い南禅寺や永観堂、銀閣寺に挟まれた東山北部のエリア(くどいようですが行政区は左京区です)なのですが、先ほどの「安楽寺」同様、琵琶湖疎水沿いの「哲学の道」からは東側に100m程入り込んでいるからなのでしょうか、辺りの喧騒をよそに、静まり返っていますウインク(但し紅葉の季節にはそれなりの拝観者もきちゃいますがニヤニヤ)しかしもしここにもインバウンドの外国人観光客が押し寄せようものなら、その時はもう“京都は終わった”チーンと言わざるを得ないほど、京都の、東山の魅力を残してくださっていますウインクそしてこの「法然院」さん、境内は然程広くはないものの、こちらの長い参道が、“本当に静かな京都の風情”を誘いますウインク

長い参道を歩くと漸く山門です。chuは紅葉の季節に来たことはありましたがその時はまだ10代後半と20代前半の頃。そのためデジカメなどはなく、しかしここで撮影させて頂きましたその見事なまでの美しい京都の紅葉、は今も脳裏に深く刻みこまれているのです照れ

そしてこうした👆👇写真、カメラを構えつつ人が入り込まないように念じながら、と言うか多分、極めて強いオーラメラメラメラメラメラメラ…“来るなよ来るなよ来るなよパンチ!”を発しながら仁王立ちしたchuが居たはずです爆  笑

山門を潜ると境内が望めまして、庭を整備されているボランティアのスタッフさんがいらっしゃいましたニコニコ

なお「法然院」さんの境内への出入り、拝観は通年無料であり6時から16時の拝観時間には自由に境内を参観出来ますニコニコ通常は本堂等の建物内は非公開ですが、とても良く整備された境内の庭園を思い思いの角度から眺め、最高の“THE東山”の寺院の風情をお感じ頂ければもう言うことはないのでありますチューなお「法然院」さんでは現在、お寺の講堂を使い講演会やコンサートなどを定期的に開催されているそうですので、リンクさせて頂きました同寺のホームページをこまめにチェック頂ければと思いますウインクまた“特別公開”として年2回ほど、普段は非公開の本堂などを公開する期間があるそうでして、この手の特別拝観は“京の冬の旅”などとしてJR東海のCMで流れますので“ははぁ~ん、法然院もこれに倣ってるんだな”と思いましたらあにはからんや、「法然院」さんの特別公開は冬ではなく春のと秋の年2回で春の一般公開が4月1日から7日まで、秋の一般公開が11月18日から24日だそうですニコニコそしてその期間中には大学の古美術部などの学生ガイドが常駐し、陶器や民芸品などの展示即売会などを行ったり、またその際には庫裏の建物内に無料で入ることができる他、前述しましたが現在は貸しギャラリーとなっている講堂では小規模な写真展や絵画展などの各種展覧会が入場無料で開催されることがあるのだとかウインクなお前記の実施時期に関しましては既出のものを転載したに過ぎませんので、御訪問を計画されている方におかれましては事前に同寺のホームページ等にてご確認の上、お出かけくださいウインクそして今まで何十回も「法然院」を訪れているchuですが、残念ながら「法然院」の特別公開の時期何当たったことはない滝汗てか、「法然院」といい先ほどの「安楽寺」といい、chuが頻繁に京都を訪れていました頃に、たとえ一定の期間でありましても“特別公開”をしていたって記憶は…ないよなぁえー当時は、スマホは勿論のこと、インターネットもありませんでしたから、情報をキャッチする手段は紙媒体の広告が主だったのですが、京都の一寺院が特別公開を告知をするために、例えば朝日や読売のような全国紙にそうした宣伝広告を打つことは考えにくいですし、またその当時も存在していたであろう「るるぶ」や「まっぷる」に類する旅行雑誌に掲載…されていたのならば“京都ウオッチャー”として知られる友人のS山君のアンテナにかからないわけはないですから、「安楽寺」や「法然院」(法然院は境内への出入りは自由でしたので普段は非公開の本堂など)の“特別公開”が始まったのは少なくとも「平成」年代に入ってからではキョロキョロと思っていますビックリマークなおこの後は「法然院」さんの素晴らしい庭園を御覧下さい。chuはこれこそ、東山エリアを、もとい、京都を代表する寺院と信じてやみません照れ

そして当然ながらこの日も暑かったあせるあせるあせる日陰のない場所でお庭のお手入れをされていましたスタッフの皆さん、適宜、水分補給の休憩を取られ、その際には色々とお話をさせて頂きましたと共に、“今がチャンス”とばかりに撮影に勤しみ爆  笑あ、この時も心の中で山門に誰かが現れないよう、願っています爆  笑

「法然院」、相も変わらずこの庭園はchuの心の中に素晴らしい情緒と趣きとを残して下さいましたチュー

今回、(行政区は左京区ですが)東山では特に秀逸な二つの寺院ビックリマークその情緒と趣きとをお届けすることが出来たものと感じています照れ次は「銀閣寺」を御案内致しますウインク

 

 

 

 

7月22日(火)に有楽町から越中島まで歩きましたオリジナルの「駅からハイキング」の最終回、今回は「勝鬨橋」を渡り、その後「月島もんじゃストリート」を抜け「越中島」までの道程ですが、35℃に迫ろうかという炎天下の下、無事に歩き通すことが出来ました(^^)vそしてゴール地点を京葉線の「越中島駅」にした理由などは追々とグラサン「築地本願寺」や「築地場外」「かちどき橋の資料館」等を御案内して参りました中編はこちら👇

ところでこの橋の名前は「勝鬨橋」。そして勝鬨(かちどき)という名前の由来は1905年(明治38年)の「日露戦争」での勝利を記念してのことだそうな。ちょうどその頃、築地と月島との間にこの橋が架けられましたことから“かちどき橋”転じて「勝鬨橋」になったのだそうですウインクしかし“かちどきばし”をワードで綴ると直ぐに正確に変換されますが、自分で書いてみて、って言われると書けないし多分、読めもしません爆  笑

橋の中ほどを渡っています走る人走る人走る人あちらに見えている橋は隅田川の最下流部かつ隅田川で一番新しく架けられた橋で「築地大橋」ウインク架橋は2014年(平成26年)ですから、やっと10年が経過したところ。江戸時代から、“大川”と呼ばれ親しまれ、26もの橋がありましたのに平成も中期になり何故に突然に架橋が…なんて、これは新しい道路が貫通することになったことで架けられた橋。「東京オリンピック2020」に合わせて、晴海に選手村が造られたのですが、選手村から国立競技場までの選手を移送させるルートとして計画されたのが晴海~築地大橋~旧築地市場横(大型バスの駐車場になりました)~新橋~虎ノ門~国立競技場、なるルートが策定されたことにより新たに架けられた橋。隅田川の最下流部にして、橋の南側はもう海です波波波

こちらは「築地市場」の跡地。見事なまでに更地になっていますが、2026年度には新たな再開発事業がスタートすることが決まりましたニコニコ

そして間もなく「勝鬨橋」の中央部へ。この建物は4つあるうちの一つで、橋を跳開させる技術員が居る詰め所となります。手前に小さな信号が確認出来ますが、あの信号は歩行者用ですねウインクで、今ではこの橋の中央部が跳ね上がることはないので自動車、人とも通行止めになることはありませんから、信号は使われていません。

そしてこちらが245mある橋の中央部。かつ、両方向の端を起点として跳ね上がる50m部分の中央部でもあります。ここを境にして、橋は左右に跳ね上がるのですウインク

ここがまさに中間地点だビックリマーク

で、橋が跳開すめ様子はジオラマや写真にて、前回blogで紹介済のため、気になる方は前回のblogを御覧頂くとしまして、ここからが実に貴重な映像(静止画ですが爆  笑)をお見せ致します合格クラッカーこれはchuが、日本橋を出発して隅田川をクルージングした時に撮影したもの(2014年12月撮影)。船で隅田川を移動したことは何度かあるのですが、小型船でクルージングしたのはこの時限りのことでして、クルーザーに乗っていますchu、今から「勝鬨橋」を潜りますチュー

そしてこちらが「勝鬨橋」のど真ん中の部分ビックリマークあのギザギザを境にして、この橋は左右にせり上がるのですチューこんな貴重な画像はそうそうあるもんぢゃございません合格クラッカーその時の拙blog…あの時は、まだ「いいね」をくれる方が少なかったblogを始めた黎明期でしたが、今ではたくさんの方に「いいね」を頂き、とても励みになっています照れ(隅田川クルージングの👇のシリーズは8回でお届けしていますので、もしお時間がございましたならばチラ見して頂ければとウインク隅田川クルーズの魅力を余すことなくお伝えしています照れ)

「勝鬨橋」を渡り「晴海通り」を進み、都営地下鉄大江戸線の「勝どき駅」に来ました。この勝どき周辺は、現にchuは今日も有楽町から歩いてきましたから有楽町や銀座からは十分な徒歩圏内なのですが、ですがこれが毎日の通勤通学となったらちと話が違うドクロだって、chuは“気ままなお散歩”ですから、銀座から30~40分かけて歩いて来てますが、これが毎朝毎晩、晴れてるときも雨の日も、30分以上は歩けないでしょニヤリそんな時に救世主の役割を果たしてくれたのが、地下鉄開業だったのでしたクラッカー合格そしてそのことは、少し後にも述べますが、元々ここは中央区と言う東京のど真ん中だったのですが、都心へのアクセスの面からやや不便でしたので、今ほど脚光を浴びる場所ではなかったのです叫び

勝どき、月島、晴海エリア(赤色線で囲んだ部分は、黒で〇囲みした都心部からは距離が微妙に離れている上に以前は鉄道網がなかったため、頼りは都バス(路線バス)のみの、“中央区なのに陸の孤島”と揶揄されていた場所だったのです(>_<)

勝どき駅から月島の「月島もんじゃストリート」に向かい歩きます走る人走る人走る人途中、運河(つきしまがわ)を渡ります。正面は月島川水門で、屋形船が係留されています。そしてこの手の船は夜が出番のため、今は静かに待機chuです爆笑

そしてここからが「月島もんじゃストリート」ウインク

300mほどの、この道路の両側に約50軒ものもんじゃ屋さんが軒を連ねますウインク

マップはこちら👇

しかしお昼に営業しているお店は少なく活気がありませんでした滝汗平日だからなのでしょうかキョロキョロ

しかし夕方以降だと、各お店の前には若女将さんらが立ち並び、呼び込み合戦が少々、えげつなかったりしてニヤニヤ(※写真の店舗がそうした呼び込みをしていた訳ではありません)こちらはもんじゃストリートの総合案内所。東京メトロ有楽町線と都営地下鉄大江戸線の月島駅は直ぐ近くですウインク

そして相生橋を渡るとそこは越中島。ちなみにこの橋は隅田川に架かる橋ではなく、隅田川から分岐している晴海運河に架かっていますニコニコ

こちらが晴海運河。前方には東京スカイツリーの先っぽが見えていますウインク

晴海運河を南下する曳航中のタグボート 左側の超高層ビルは佃島のマンション群ですニコニコ

曳航中の船をカメラこのタグボートは小さいながらも相当の馬力の持ち主とお見受けします爆笑

こちらが佃島に林立している超高層のマンション群びっくりしかし中央区ではもうマンションはいらないって機運が高まっていますニヤリ

それは、以前は都心中の都心である中央区に所属していながら、勝どき、月島、佃島エリアには鉄道網がなかったため“中央区内の陸の孤島”と揶揄されていたことは前述しましたが、1974年(昭和49年)に開業した東京メトロ有楽町線(当時は帝都高速度交通有楽町線)が、長い間の終点となっていた銀座一丁目駅から1988年(昭和63年)に現在の新木場駅まで延伸開業したことで、月島駅が開業、そのため遂に“中央区の陸の孤島”が解消され合格クラッカーすると月島駅は有楽町まで僅か3駅、時間にして5分でアクセス出来ることとなり、このエリアの利便性が著しく向上ビックリマークそうすると放っておかないのが不動産業者ですニヤリ時代は奇しくもバブル前夜.。o○.。o○.。o○👈泡、ですグラサン瞬く間に再開発が進み、このような超高層のマンションならぬ“億ション”が林立したのでしたポーン

月島駅が開業したことで利便性が飛躍的に高まった月島、佃島エリア👇

しかし急激かつ過激な再開発がこのエリアにもたらした影響も大きく、以前、月島エリアを歩いた時にこのような貼り紙がありましたっけ👇

さて、相生橋を渡り、この日目指していたのが東京海洋大学構内にあります重要文化財「明治丸」👇

だったのですが、この施設は道路の反対側で、向こう側に渡るには、相生橋手前の交差点まで戻るか、かなり先に見えている歩道橋を渡り、またここまで戻らなくてはなりません絶望しかしこの炎天下メラメラメラメラメラメラ既に気力は蝕まれておりドクロ道路の反対側からこの写真を撮影出来たことで“良し”とせざるを得ませんでしたショボーン幸いにも錨はこちら側の歩道にも展示されていましたのでこちらをカメラ爆笑次の写真は東京海洋大学の正門。ん、重厚感ある立派な建物ですねウインク東京海洋大学は共に120年以上の歴史を持つ東京商船大学と東京水産大学とが2003年(平成15年)に統合して誕生した国立大学。そして元々、この地にキャンパスがありましたのが東京水産大学で、文字通り、水産業を学ぶ大学。また本業は魚類学者ながら、タレント、イラストレーターとしても活躍されているさかなクンは東京海洋大学の旧水産大学部門の客員教授でもありますニコニコ

そして何とかゴールのJR京葉線越中島駅に到着クラッカー合格京葉線は、東京駅から千葉県の房総半島の付け根である千葉市の蘇我駅まで、東京湾の沿岸部を通る比較的新しい路線で、沿線にはTDR(「東京ディズニーリゾート」、“東京”と冠していますが所在地は千葉県浦安市です爆  笑)や、幕張新都心の中心である海浜幕張駅(千葉市)などがありますウインク野球観戦好きのchuが千葉マリン球場に行く際にもしばしば利用しているのがこの京葉線ですニコニコなお起点の東京駅からこの先の潮見駅手前までは地下鉄の線路となっています。

そしてこの駅、海波波波が近くて、いわゆる、ゼロメートル地帯にあるため公道から駅構内に入るには3段ほどですが階段が設けられており、例えば高潮などで道路に海水が押し寄せて来たとして、少しでも被害を少なくしようとする細工がなされていますウインク

さらに越中島に関してもう一つ話題提供ビックリマークこの駅は東京23区内のJR東日本の駅で、乗降客数が最少なのですニヤニヤ(※私鉄を含めれば乗降客数がもっと少ない駅もありますウインク)そのため…かどうか、23区内のJR東日本の駅全てを調べたわけではないので分かりませんが、この駅は無人駅ですびっくりですが交通系ICカードは使用できるのでchu的には何ら問題ないのですが、ほれ、無人駅にある例の乗車証明書ビックリマークボタンをポチッと押して貰っちゃいました爆  笑

そしてこの日の“オリジナル版「駅からハイキング」”のお疲れ会の開催場所を考えて、そのための利便性の良い京葉線の駅をゴールにしたのでしたウインクと言うのも、chuは京葉線沿線に住んではいないのですが(京葉線は松戸市内を通りません)、京葉線を経由して武蔵野線に直通している電車が20分間隔でありますニコニコ

15時30分発の府中本町行き、に乗車しますウインク

越中島から乗り換えなし、35分で新八柱駅に到着ビックリマーク猛暑の中を彷徨っていましたので、越中島駅から座れた時は、とても嬉しくチュー楽ちんでした照れ

そしてこの日の“お疲れさん会”の会場がここだビックリマーク何時もの「駅ハイ」では松戸駅に戻り、松戸駅周辺でのことが殆どでしたので、たまには趣きを変え、新八柱駅を最終ゴールにしたのでしたウインク

乾~杯生ビール喉が鳴るとはこのことですチューおかずも旨い爆  笑

そしてこの日歩いたルートがこちら👇前編の冒頭でお見せしましたガイドブックのコースでは月島駅がゴールだったのですが、そこから更に越中島駅までを加えたオリジナルのコースですウインクガイドブックと異なるルートは青線で示しました。で、①がオリジナルで訪れました「東京アートセンター」、②がお疲れさん会の開催場所を考慮して選んだゴールの越中島駅ですウインク

【おまけ、というか本当の目的】ところでchuはこの日、何をしに上京したのでしょうかウインク実は本当の目的はこれでした👇爆  笑しかし有楽町駅近くにあります「西銀座チャンスセンター」、ここでサマージャンボ宝くじを購入したのですが(※chuならぬ注 chuは年4回のジャンボ宝くじ以外は宝くじを買いませんが、ジャンボを買う場合は必ず西銀座チャンスセンターで購入します。その方が当たる確率は高そうなのでニヤニヤなお今まで高額当選したことは…一度もありません爆  笑)、それだけだと直ぐに用事は終わってしまいますから、「駅からハイキング」に倣った街歩きを決行したのでしたウインク暑い最中、本当に頑張りましたchuビックリマーク自分を褒めてあげたいです爆  笑しかし“お疲れさまでした”なんて労いの言葉よりも欲しいのは7億円です爆  笑当たったら、ご報告します口笛ウソデスてへぺろ

35℃に迫ろうかと言う猛暑でしたので、“億の細道”である1番窓口も空いていましたウインクこれ、とっても珍しいことなんですよびっくりそして色々な金運グッズ…は今までに買ったこと、ありませんニヤリだから当たらない…ニヤニヤのかな爆  笑

 

7月22日(火)に有楽町から越中島まで歩きましたオリジナルの「駅からハイキング」、今回は「築地本願寺」と「勝鬨橋」などの様子をお届け致しますニコニコ銀座周辺を歩いた際の様子をお届けしました前編はこちら👇

生糸の専門ショップ、「東京アートセンター」にてお買い物をした後にchu一行が向かいましたのは「築地本願寺」ニコニコchuは真宗門徒ですのでもちろんここには何度も来ていますウインク

ですが実はこのお寺さんは「浄土真宗本願寺派」の寺院(本山は京都の「西本願寺」)で、真宗大谷派(本山は京都の「東本願寺」)門徒であるchuとは所属している宗派が異なりますあせるあせるあせるしかしまぁ、親鸞聖人を開祖とした宗派であり、また宗派が異なるからと言って、近親憎悪から来る、互いの宗派との厳しい対立をしていると言ったことはなく、「真宗教団連合」👇

なる、浄土真宗10派を纏めた会を構成する主流2派でもあることから、chuが「築地本願寺」を訪れることにいささかの問題もないのでありますニヤニヤで、chuが過去にこちらを訪れたのは「駅ハイ」のコースに入っていた時もそうなのですが、やはり浄土真宗の教えを乞いに行くことや、後は“銀ブラ”(👈古い滝汗もはや死語か爆  笑)した後で、ちこっと休憩させて貰ったりと、つまり親鸞聖人の教えは、“来るもの拒まず去る者追わず”なのでした爆笑で、こちらが「築地本願寺」ウインク

なのですが、改修工事chuでして、同寺院の目玉でもある古代インド模様をモチーフとした本堂は御覧の通りショボーンそしてこの本堂、

以前のものは関東大震災時に被災したため、新たに建て替えられた(竣工は1934年)のですが、当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造り。また壁面などには大理石の彫刻がふんだんに用いられる等、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔となっており、本堂は重要文化財にも指定されているのですウインクなお👇の写真2枚は2022年2月の「駅からハイキング」参加時に撮影したものですニコニコ

ここから再び2025年7月22日撮影分。重要文化財に指定された経緯などが説明されていますニコニコ

しかし暑いメラメラメラメラメラメラ熱すぎます叫びと言うことで、本堂に入り休憩をばダッシュダッシュダッシュ

祭事が執り行われていない時は本堂への出入りは自由ニコニコ冷房の効いた室内で暫し暖を取る…もとい、涼をとりますウインクあと、chuは真宗門徒ですので正信偈をある程度はそらんじて唱えられますのでお堂の前にて拝みます。こちらの写真は職員の方から許可を頂き撮影させて頂きました。

しかし今日ここにお邪魔させて頂きましたのは拝むためではなく涼をとるためニヤニヤ暫し休憩させて頂きました後に本堂を後にしますチュー

暫し涼をとらせて頂き本堂を辞そうとすると“お帰りの際に本堂に一礼ください”とありますので、振り返り(休憩させてもらったことも含めててへぺろ)一礼をし、「築地本願寺」を後にしましたニコニコ

次に訪れた…というより、散策しつつ通過しましたのが「築地場外」の飲食店街。元々この地にありました「築地市場」の敷地の外にあったことから、「市場」の「外」を表す意味で“場外”という言葉が使われていたのですが、その築地市場がお隣、江東区の豊洲に移転してしまった後でも、この地は未だに「築地場外」と呼ばれたままの“立派な観光スポット”として、今後も繁栄を極めていくことでしょう爆  笑つまり近くに市場があろうがなかろうが、もはや今ではそんなことは関係ないようですニヤニヤ

そして築地場外では昨今のようにインバウンド観光客襲来によるオーバーツーリズムが顕著化する以前から、ここを闊歩しているのは外人さんが圧倒的に多数ゲロー従いまして、中には良心的な価格帯で食物を提供しているお店もないことはないのですが、多くのお店では観光客、しかも金払いの良い観光客相手の“築地価格”の提供が圧倒的ですニヤリこれなど👇“ランチ限定”と銘打たれていますが、この価格帯だと手軽に食べられるものではありませんニヤリ(都心のサラリーマンが毎日の昼食として深く考えず躊躇なくに支出出来るお金は1000円までが目安。コロナ禍前ならワンコインランチってのも普通にありましたから、当時、chuとしては大いに助かっていました爆笑)

そして「築地場外」の顔!?とまでは言い切れないキョロキョロかもですが、この方が特に有名な「すしざんまい築地喜代村」さんです👉https://www.kiyomura.co.jp/

“平成 13年4月、築地場外に日本初の年中無休、24時間営業の寿司店『すしざんまい本店』を開店。以後、全国に次々と店舗を拡大。日本で一番安くてうまい、行列ができる寿司チェーンとして国内はもとより、海外からの観光客の圧倒的支持を得る”とありますから、ここが1号店ですウインク

現在、日本全国に58店舗を展開している「すしざんまい築地喜代村」は、良質なネタと良心的な価格をウリにしているお寿司屋さんですが、はて、こんなにしたんだろうかキョロキョロ一番、手頃な釜揚げシラス丼で1400円、ネギトロ丼で1650円は、まぁランチとして手を出せないものではないですが、海鮮丼は3600円滝汗北海道ウニイクラ丼は5000円、ウニ大トロ丼は7150円と(もっと高いものもあります)、とてもぢゃないけど平時ではパーが出ませんゲローなおこれは「しんざんまい」店内で提供されるメニューの一部です真顔

そして、“外人さん向け”キョロキョロの店頭販売されていたものがこちら👇確かに大トロと思しきものも入っていましたが、30℃を超える沿道で売られているのですから、陳列時にはこのように冷蔵庫に入れられているとは言え少々鮮度が気になります滝汗これを購入したとして店内では食べられませんから、炎天下の中を持ち歩いたとしたら、と思うと心配でしかありませんゲロー(その場で数分で立ち喰いするのならば別ですがねニヤリ)

と言うことで「築地場外」はただ単に、通過するという意味で歩き去りました走る人走る人走る人走る人走る人ニヤリあと、築地市場が豊洲に去った後に完成したこちらの施設は「築地魚河岸」👉築地魚河岸は、築地市場移転後も築地の活気とにぎわいを将来に向けて継承するため、中央区が設置した、仲卸を経営母体とした小売り店など約60軒が入居する生鮮市場、とあります。いま流行りの“公設民営”ってやつでしょうか真顔またこうも書かれています👉 築地魚河岸は「食のプロに支持され、一般客・観光客にも親しまれる、食のまち築地のにぎわいの拠点となる施設」を目指しています…しかし、“食のプロ”は豊洲市場に行きますし、この後、館内にも入りましたが、一般客が手軽に手を出せる価格帯ではありません。つまりこの施設も観光客、しかも円安の影響もあってか、カネをばらまく外国人観光客向けの施設、と言わざるを得ません真顔折角の公設民営施設でありながら、運営側の「民」が、金払いの良いインバウンドの外人相手のあこぎな商売に手を染めているこの事業(※これは官の事業を官民一体で効率的に行うPFIとは全く異なりますよパンチ!)に対して中央区民の税金も投入されているんだろうな、と思うと色々と考えさせられた場所でした真顔(中央区民の皆さん、この実態を御存知ですかえー)

でしたが“Photoスポット”としては映える壁画がありましたので、こちらでカメラしてお終いです爆笑chuが再びこちらを訪れることは、ないでしょうニヤリ(もっとお手頃で、かつ新鮮な魚介系の食べ物を食べさせてくれる飲食店が千葉県内の、chuの生活圏内に何店舗もあることを知っていますのでニヤリ)

で、次のお目当てが「かちどき橋の資料館」👇こちらも以前に参加しました「駅ハイ」コースに組み込まれているのですが、なにせ運営が「(公財)東京都道路整備保全公社」という、もろお役所ニヤニヤ同じ東京都の傘下団体で、都内にある幾つもの庭園を管理している「東京都公園協会」であれば、“来園者目線”での運営をしてくれているのですが、こちらは所詮、東京都建設局の天下り先でしょうから、その運営も“お役所仕事”そのものニヤリ何せ開館しているのが毎週火曜日・木曜日・金曜日・土曜日と週4日のみ。入館は無料なのですが、入館したくても中々できない理由はその管理運営の方法にありました、とさえー

で、こちらが「かちどき橋の資料館」コーナー入口に掲げられています、2025年現在、隅田川に架橋されている全27橋の紹介。隅田川は東京都北区の岩淵水門で荒川と別れ、北区、荒川区、足立区、墨田区、台東区、江東区、そして中央区を通り東京湾に注がれる全長24㎞の一級河川ウインク江戸の頃には特に現在の浅草、日本橋界隈では「大川」という名称で庶民にはとても親しまれていましたニコニコそしてこの24㎞の河川に架かる橋の数は27橋ウインクつまり、橋と橋との間隔は距離にすると平均1㎞は離れていないことになり、なるほど、そのため隅田川が都心と都心以外とを結ぶ橋であるにも関わらず、各所で幹線道路の渋滞が生じにくいのは、橋の数が多いビックリマークということがその理由のようですニコニコ

こちらは同じくコーナー横に写真展示されていたもの。今から渡ります「勝鬨橋」が何で有名なのかと言うと、それは“可動橋”👉「勝鬨橋」の場合は跳開橋なのですが、こうした橋は橋下の水路(河川)に船が航行させるために橋を開いたり、あるいは回転させたりして航路を確保する「可動橋」なのです。こちらは全国の可動橋の写真👇こんなにもあることに驚きですびっくり

「可動橋」は、航路を確保させるために橋自体が動くという橋で、橋の中では特殊の部類に入ります。「可動橋」の各種スタイルにつきましてはwiki様に譲るとして、現在使用されている「可動橋」はもうかなり少ないですねショボーンこれは陸上の交通機関(陸送)が発達してきたことに加え、舟での運送が激減したため、わざわざトラックを止めて舟運を優先させる必要がなくなったからに他なりません真顔

こちらは「かちどき橋の資料館」で頂きました2種類の資料。両面をスキャンしたのですが、貼り付けるとどう回転させても縦型に固定されてしまいました(>_<)多少醜いのですが、スマホ画面を横にするなどして、拡大して御覧頂ければ幸いですお願い

 

そしてここからが、ジオラマにより「勝鬨橋」の跳開する様子を御覧下さい照れ船は手前の東京湾側から上流に向かい進んでいますウインク船が近づくと橋の中央部を境に跳開が始まり…

船が支障なく通行出来るよう、跳開した道路部は70度の角度を保っていますウインク

で、船が通過し終えると道路がが戻り、安全確認がなされたうえ、人、車、あと都電も行き来できるようになるのです照れ

その時の様子を詳しく説明しているパネルがこちらの3枚👇橋の全長は246m

そして実際に橋げたが、橋の中央を境(頂点)として両サイドに開く(跳開)する距離は50m。赤で示したのが道路部分で、その角度は70度で固定。道路が70度までせり上がるために要する時間は僅か70秒びっくりそして船を行き来させる間の、道路を通行止めにしている時間は20分。その後、70秒かけて道路を元に戻し安全点検をしたうえで陸上通行を再開させていたそうです。ではこうして橋が開くのは一日何回あったのか、気になるところですよねウインク資料によりますと、戦前は1日5回開いていたそうです…あれびっくり思っていたよりは少なかったびっくりしかし戦後の昭和22年から35年までは1日3回に。昭和36年以降は1日1回になったそうです真顔折角の可動橋なのですが、橋の跳開が減少した理由につきましては先ほども言及しましたが、物資を輸送する手段は昭和30年代に入ると船や鉄道から自動車へとシフトしていき、このため隅田川を航行する大型の輸送船が減少した上に、「勝鬨橋」が連絡している銀座と晴海とを結ぶ晴海通りの渋滞が増し、その結果、昭和45年11月29日を最後に橋の開閉は中止となりました真顔

ここで「勝鬨橋」の歴史を見ていきましょうウインクそれは今でこそ、月島や佃島、勝どきなどには中央区が誇る!?(これには諸説あるようでして、古くからの住民は“もう勘弁してくれ”との悲鳴を上げています叫び)地上50階建てに迫ろうかと言うタワーマンションが林立しているのですが、元々、江戸時代の埋め立てにより造られたこれらの地は“離島”でしたので、内地の築地側に来るためにはそれぞれ佃の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡し、と言った渡し船を利用して行き来をせざるを得ませんでした口笛「勝鬨橋」は1940年(昭和15年)、こうした月島の交通不便を解消し、当時、埋め立てが進んでいた晴海や豊洲地区の開発支援のために架橋された橋だったのです。ところが隅田川河口部は、江戸から明治、大正、昭和初期にかけて江戸・東京の重要な港湾エリアであり河岸には荷物預かり、倉庫、加工工場と造船所が建ち並ぶようになり、そこに物資を運び込む船はマストが高い船舶や大型船も運航されていたため、一日数回でしたが航路を確保するための橋が必要になり、跳開型の可動橋である「勝鬨橋」が架橋されたのでしたウインク

こちらは開通初めて跳開した時の様子を収めた写真ですウインク“1日5回、予約制”とありますが、前述のとおり終戦2年後の昭和22年からは1日3回に減らされていますショボーンなお👆の絵もですが、👇の写真も、通行している船舶は貨物船ぢゃないようなニヤニヤどう見ても観光客船のようですが爆笑ま、いまでも隅田川には定期的なシーバスが運航されている他、遊漁船になり舟遊びをするプランは多数、ありますから隅田川、遊び心も多い河川なのです照れ

【遊び心の隅田川爆笑

 

それではここからは少し専門的なお話など。こちらは橋そのものを跳開させる発電設備で直流の発電機です。そのデカさには驚かされますびっくりまたモーターを動かし、それにより複数のギザギザの円盤をかみ合わ、橋をせり上げていくのですがそれが僅か70秒で上がってしまうことに驚きを隠せませんでしたびっくりびっくりびっくり

こちらは高圧配電盤。なおここはあくまでも資料館であり、実際に「勝鬨橋」の開閉運転をしていたのは橋脚にある合わせて4つある運転室と機械室。そこに8人の運転員が入り、モーターの作動から配電盤の監視、そして機械の作動状態などをウオッチしていたのです。大変、責任のある重要な任務でありました。誠にお疲れさまでしたお願いけど特に昭和36年からは1日1回の跳開作業でしたから、また跳開作業の時間として、上げ下げで140秒、橋を上げたままの時間が20分…しかし晴海通りの交通量の増大を受け、“極力、「勝鬨橋」開閉のための交通止め時間は短くしたい”、がお上ならぬ東京都から指示されていたと思いますから、前後の安全確認作業をしたとしても精々、長くて40分…或いはもっと短くて30分だったかもしれませんウインクすると開閉スタッフの方の実質的労働時間って、凄く短くないですかニヤニヤ(橋を動かしてない時でも、常時、機械の状況を監視していなきゃならないんだよプンプンバカヤローパンチ!なんて言われちゃうかもですから、先に謝っておきましょうお願い爆笑)

こちらは27ある隅田川に架かる橋のうち国の重要文化財に指定されている3つの橋で、「勝鬨橋」の他に元禄11年(1698年)に掛けられた「永大橋」と、1928年(昭和3年)に架けられた「清澄橋」が選ばれていますウインク選定理由としては「勝鬨橋」はわが国最大規模の跳開橋であり、永代橋と清澄橋は関東大震災後の帝都復興事業の象徴がその理由ですニコニコ文化財への指定は比較的新しく2007年(平成19年)11月のことですが、都道府県が管理する橋としての文化財指定、それも3橋同時の指定と言うのは初めてのことなのだそうですウインク

さて、「かちどき橋の資料館」を辞す前に、ライトアップされている各橋梁の写真などの説明ウインク全部で12橋ですから、隅田川に架かる27橋の全てがライトアップされているわけではないようですが、以前chuは、学生時代の友人のS藤君が中央区新川端に勤めていて、茅場町界隈で生ビール日本酒をした後、酔いを醒ますためにコンビニで買ってきた生ビールとつまみを永代橋の袂(の公園)で食べたことがあったのですが、その時に見たライトアップされた永代橋の素晴らしさは今でも脳裏から離れませんチュー“水辺のにぎわいを創出する隅田川橋梁群のライトアップ”いいぢゃないですか拍手拍手拍手拍手拍手(都庁本庁舎壁面へのプロジェクションマッピングには、コストの面からも賛否両論があるようですが、ねニヤリ)

ガンガンに冷房が効いていました「かちどき橋の資料館」でしたが、一歩、館外に出ると外はメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラゲロー

ですがこの橋を渡らなければ本日のゴールには着けません滝汗いざ「勝鬨橋」へ走る人走る人走る人

有楽町から越中島までの街歩き、次が最終回ですウインクなお「かちどき橋の資料館」運営につきましては多少、辛口な印象も述べてしまいましたが、展示物などにつきましては大変参考になり、とても満足のいく見学となりましたことを申し添えますクラッカー合格どうもありがとうございましたウインクあともう少し、開館日を増やして頂ければ言うことなしですウインク