2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています。旅も4日目に入り、chuの大好きな京都の個別スポットを巡る旅へと入りました
前回はこちら👇
京都市バスで銀閣寺道から一乗寺下り松まで楽ちん乗車
しかしこれ、若かりし頃であれば歩いていました![]()
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が、今日はここまで祇園四条から清水寺~八坂神社と、僅かな区間をバスと地下鉄乗車でワープした後、蹴上から銀閣寺道まで歩き通したのでさすがに疲れた
で、お洒落なお店が立ち並ぶ白川通の沿道をバスの車窓から眺め、これから向かう「詩仙堂」の最寄りのバス停が一乗寺下り松なのです。そして今日、ここまで来ました行程としては祇園四条~銀閣寺までは「東山エリア」だったのですが、一乗寺下り松に着いた時点でここからは「洛北エリア」へと入りました
「詩仙堂」に向かう道すがら、こちらが一乗寺下り松なのですが、この場所は近江(現在の滋賀県)から比叡山を経て京に入るための古くからの交通の要衝。そしてこの松は旅人の目印として古より受け継がれた樹木で現在のものは5代目なのだとか
そして実はここは宮本武蔵決闘の場でもありまして
江戸時代初期に活躍された剣豪・宮本武蔵がここで吉岡一門の数十人と決闘を行った場所。その時武蔵は、近くの八大神社にて勝利を祈願しようと思ったのですが、神仏に頼ろうとした自分の弱さを恥じ(“神仏を尊んで神仏に恃(たの)まず”のアレですよ
)、参拝をせずに決闘に挑んだと伝えられています
(文豪・吉川英治さんの「宮本武蔵」にて紹介され、後に同決闘のSceneをメインとした映画化もされています)
バス停からダラダラとした坂を登る事、十数分、今日は早朝から動き始めていることに加え、この坂道、さらに暑くて暑くて堪らない突き刺さるような日差しですからかなりの体力を蝕まれていきました
、ですが遂に辿り着きました
ここが「詩仙堂」
そしてここはchuが京都通いを始めるきっかけを創って下さいました、chuにとりましは正に聖地なのであります![]()
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こちらが「詩仙堂」の入り口。あ、先ずは「詩仙堂」のオフィシャルWebサイトをリンクさせて頂きます👇で、chuが何故、「詩仙堂」を“京都通いを始めた原点”と崇めているのかにつきましては追々と![]()
そこそこ長い石段を上がっていきます。そしてその両側には竹林
日差しが直接差し込まないこの石段に届く微かな日の光は木漏れ日のみ。これをして“詫び寂び”からの世界である静寂がここにあります![]()
なお一口に「詩仙堂」と称していますがこの建物は「至楽の間」と「詩仙の間」の二つから構成されています。こちらは受付を兼ねた「至楽の間」の入り口です![]()
すると直ぐに目につくのが「至楽の間」や「詩仙の間」に飾られている、中国からの影響を大きく受けている文字、飾り物、書、そして中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画など
そしてこれらは「詩仙堂」を創った方が卓越した文人だったからです![]()
こちらが中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画(※編集の都合で全ては掲載していません)。これらの肖像画は江戸時代の絵師、狩野探幽により描かれたものですが、とりあえず、ここまで建物の中に足を踏み入れて来て、何か不思議に思いませんか
と言うのも、chuは“寺院めぐり”をしているつもりなのですが、この「詩仙堂」、お寺という感じがしません…普通、寺院であれば御本尊があり、お賽銭を入れる賽銭箱などが至る所に有りそうなところ、そうしたものが少なく古美術品を集めた草庵のような印象を受けます。
そうなんです
それもそのはず、ここは元々は寺院ではありませんでした
え、どういうこと
それはこの建物の創建に際しての経緯から語らなければなりません。今でこそ「詩仙堂」と呼ばれているこの建物ですが元々は安土桃山時代の末期から江戸時代初期を生き抜いた石川丈山により造られた草庵。しかし丈山は元々は徳川家康の家臣でありました。時は慶長3年(1598年)、家康の近侍となりその忠勤ぶりに信頼を寄せられるのですが、大坂夏の陣に出陣した際、家康が先陣争いを禁じていたにもかかわらず軍令に反して抜け駆けをしたため、家康からは激しい叱責を受けると共に、これがきっかけとなり側役を解かれ野に下ります。こうして軍令に背いた丈山はその後妙心寺にて隠居生活を送りつつも寛永18年(1641年)になると隠居のために丈山自らが草庵を造りました。これが「丈山荘」と名付けられた山荘だったのです。つまり「詩仙堂」ははなから寺院として建立されたものではなく、丈山が隠居のために建てた山荘だったのです
それが故に建物内に掲げられています中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画、の全ての頭上には丈山が隷書体にて記した漢詩が書かれています。そしてこのことは丈山が武士道のみならず、漢詩、儒学、茶道のみならず庭園設計まで自ら仕上げてしまうという、実に多くの能力を有していたことを表しています。そしてこのことはあまり歴史書には書かれていない事なのですが、chuが“京都通い”を始める原点となりましたものが、ここにあるのです。もうかなり昔のことですが、chuが高校生であった時の事。高校2年生の時に習いました現代国語の時間。H間先生と言う、20代後半の男の先生でした。H間先生は大分県別府市の御出身で京都の立命館大学に進み、教師を志し国語の先生となった方
しかし当時も今も生徒から疑問が集中していたのですが何故、大分県御出身の先生が地元の大分県でも、また大学時代に馴染んでいた京都府でも、また近畿圏でも、九州圏でもない、恐らく今までは地縁血縁などなかったであろう千葉県で教師になろうと思ったのか
chuの高校は公立高校でしたから千葉県の教員採用試験を受けているわけで、前述しました出身県や生活圏での教師になろうとは思わなかったのでしょうか
また、“どうしても関東圏で”と思ったとして、それならば東京都の教員採用試験を受けるでしょうから、何ゆえ、千葉県へ
なる疑問は在学中は勿論、卒業後も遂にその謎が解き明かされることはありませんでした
まぁ、それは置いといて、H間先生が授業で取り上げて下さいましたのが教科書に載っていましたズバリ「詩仙堂」という章。作者は「ビルマの竪琴」を記されました竹山道雄さんです
短編小説ともいうべきこの随筆は、単行本になるほどの頁数がないため、その後も単行本として発刊されることはなく、また勿論、高校時代の教科書を残しておくほどのスペースは我が家にはありませんので残念ながら、もう読むことは出来ない
と思って検索をかけてみたら「昭和文学全集28」という括りで幾つかの図書館に蔵書としてあるにはあるみたいです👇こちらは東京都立図書館のもの。しかしchuは東京都民ぢゃありませし、今では都内在勤でもありませんので残念ながら借りられないの![]()
で、竹山道雄さんが綴られた「詩仙堂」には、石川丈山が大坂夏の陣で先陣の功を競ったため、家康の逆鱗に触れすべての役職を解かれ野に下った…その後、寺院での修行後に、老齢になり隠居のために庵を立てたのがこの「詩仙堂」であり、丈山の文人としての類まれなるその才能がいかんなく発揮されている建物であるとして、この「詩仙堂」を絶賛しています。しかし竹山さんがここでサジェストしたのは“果たして丈山は本当に隠居をするためにこの庵を建てたのか”というもの。時代は江戸幕府が始まったばかりの事。天下泰平へと動き始めたものの家康にはまだ不安が残っていたに相違ありません。武力統一を成し遂げた家康が、関ヶ原の戦いで自らに刃を向けた武家に対しては厳封の上、遠隔地に移封するなど、いわゆる外様大名として遠ざけた代わりに、信のおける武将らを後の親藩、譜代大名としての礎を築こうかというその時代に、家康が一番警戒したのは誰かと言えば、言わずもがなの「帝」、そう朝廷(天皇陛下)であります。事実、この時代の「帝」であられました中でも1611年に御即位されました御水尾(ごみのおてんのう)は、幕府が執行していた「禁中公家諸法度」により、朝廷の講堂全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれたうえに、その運営を摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得ることによって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされたこと等、がんじがらめにされていたことで家康からなる徳川将軍家に激しい敵意を持つに至ります。ちなみに「禁中公家諸法度」を作ったのは、後には“大欲山気根院僭上寺悪国師”なる、大変な悪名も付けられた家康の茶坊主と化していた「南禅寺」塔頭「金地院」の住持であった以心崇伝という僧侶であることは、「南禅寺の三門」を訪れていた時に御紹介させて頂きました
御水尾天皇の、徳川将軍家への怒りは相当のもの。そのため後に勝手に退位もしています![]()
家康と、当時の朝廷との抜き差しならぬ緊張関係をして果たして家康が手をこまねいて、こうした時代を傍観していたのでしょうか
が、未だに歴史上の謎ながら、文武に優れていた丈山を家康は敢えて野に放った上に、京の都で朝廷の動きを監視し逐一、報告させていたという、推測に他ならないものの。語り継がれている話もあります。正に歴史mystery
国語の授業では、文中にも記されている竹山道雄さんの推測と共に、学生時代を京都で過ごしたH間先生、独自に京都の時代背景なども盛り込んだ大変興味深い授業にして下さいました。そんなこんなで当時は行ったことのない「詩仙堂」にchuは強い憧れにも似た気持ちを抱いていたのでした。その後、高校を卒業後に、その前から京都に通い詰めていました高校時代の友人で今なお親交のあるS山君から京都行を誘われて、修学旅行とは異なる、“自分のプラン”で初めて京都を訪れ、そこで高校時代に憧れていた「詩仙堂」を訪れたことがchuの“京都通いの原点”となったのでした
ところでこの“石川丈山の密偵説”はそこそこ検証もされており、ネット上にはこのような記事もありましたので謹んでリンクさせて頂きます👇
即ち創建当時の「詩仙堂」は、石川丈山が隠居をする際に建てた山荘だったのですが、当時としては破格の長寿を全うした丈山は90歳でその生涯を閉じ、後に「丈山寺」として寺院化され、そして現在の「詩仙堂丈山寺」という曹洞宗の寺院へと変わって行ったのでした
さて、それではここからは「詩仙堂」の魅力をお伝えすべく、写真をアップして参ります
こちらが、この場に居合わせた方、全てと言っていい程の皆さまが無言で座り込んでしまう「庭」でございます
まだ一瞬しか御覧頂いておりませんが…
恐らくこちらの皆さま方のように“金縛り”の状態になっているのでは![]()
chuも静かに座って「庭」を見入る事と致します
なお「詩仙堂」の造園も全て丈山の設計によるものです![]()
角度を少し変えてみて![]()
奥まったところに戻り
と、色々な構図からの“襖絵”を愉しむchu
まさに心が無になります![]()
今度は庭園に降りてみます。庭に出る手前には特製の草履が置かれていて、皆さん、それを履いて庭に降り立ちます。先ほど来、御覧頂いています枯山水の庭には入れません。そうです、「詩仙堂」の枯山水庭園は歩く庭ではなく、鑑賞するためのお庭なのですから![]()
そしてこちらはししおどし。竹山道雄さんの「詩仙堂」にも“静寂を破る音”として、しっかりと記述がありました![]()
そして此処を訪れたのは9月中旬のこと。しかし外気温は30℃を軽く超えていますからとても秋の気配を感じるどころではないのですが、少しだけ色付いたススキを見ると確実に季節が進んでいることを伺わせます![]()
庭園の、巡回出来る一番奥まったところにありました永代供養塔の御案内。“あ、そうだ
「詩仙堂」はお寺だったんだ”とここががお寺であることを認識させてくれる看板でした![]()
このように苔むしたお庭から侘びと寂びを感じ取れます![]()
庭園歩きを終えて再び「詩仙の間」へ。
そして「庭」の観賞。この先、あと何回来られるか(ひょっとしたらこれが最期になるかも知れません![]()
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京都はやはり遠い
)、この景色を瞼に焼き付けておきたいものです
そしてどうぞ皆さんも、皆様も畳に座った気持ちになり、このお庭を御観賞下さい
そしてchuと一緒に金縛りになりましょう![]()
こちらは「詩仙堂」のオフィシャルWebサイトに掲載されている写真ですが、同寺の魅力を広く皆様にお伝えいたしたく、転載させて頂きます(紅葉と冠雪が、このお寺には特に似合うようです
)
さて、今回「詩仙堂」にはどれくらい滞在していたでしょうか
時計を確認してみたら2時間近く庭を見ていたことになります![]()
けど、その価値は大なのですよ![]()
後ろ髪を引かれる思いで参道を下っていきます。
さようなら「詩仙堂」![]()
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私の原点回帰が今、閉じようとしています![]()
次回も洛北探索![]()
【こんな偶然って
】
全くの偶然
今日、このblogを書き終える前の事。朝の段階でしたがFacebookの“知り合いかも”のスライドに、
と思った人が出て来て、メッセンジャーで直接、mailを送ってみたのです。もし間違えであればご容赦くださいとの文言を添えて。するとなんと、さっそく返信があり御本人でした
一番最初に赴任した際の職場の同期生
ずっと疎遠になっていたのですが、こんな偶然ってあるのですね
Y原君と言います。しかも彼は立命館大をご卒業されていたことを瞬時に思い出してしまいました
京都旅行の回想記をblogで綴っていた最中(さなか)に、まさに奇跡の邂逅では![]()
Y原君、本当に久しぶりですがこれからもどうぞ宜しくお願い申し上げます![]()







































































































































































































