2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています。旅も4日目に入り、chuの大好きな京都の個別スポットを巡る旅へと入りました
前回はこちら👇
まず最初に訪れたのが琵琶湖疎水
琵琶湖疎水とは👉水量豊かな琵琶湖から京都へと水を運ぶ「琵琶湖疏水」は、滋賀県大津市観音寺から京都府京都市伏見区堀詰町までの全長約20kmの「第1疏水」、第1疏水の北側を全線トンネルで並行する全長約7.4kmの「第2疏水」、京都市左京区の蹴上付近から分岐し北白川に至る全長約3.3kmの「疏水分線」などから成りたっており、明治期の竣工以来、今なお現役で活躍している人工の運河です。
そうなんです、琵琶湖疎水とは、日本最大の湖である琵琶湖から京都市内に水を引き込むための運河なのですが、今回歩きますのは左京区蹴上から北白川に至る全長約3300mの「疎水分線」の一部です。起点を訪れます![]()
写真前方はトンネルとなっている水路の出口。その右側、レンガ造りの建物は旧御 所水道ポンプ室👉第1疏水から大日山貯水池に水を上げるポンプを据え付けた建物です。かつて、御所水道として、京都御所に防火用水を送水していました。明治期を代表する宮廷建築家であり、京都国立博物館や東京の赤坂離宮(現在の迎賓館)を設計した片山東熊(とうくま)の作品です。円柱付きバルコニーなどを備えた重厚感ある意匠に仕上げています。 「びわ湖疏水船」の乗下船場のすぐそばにあり、舟の乗下船時に間近で見ることができます。また、付近の大神宮橋からも眺めることができます。 令和2年(2020)4月、国登録有形文化財に登録されました、なのだそうです
(出典は日本遺産「琵琶湖疎水」Webサイトより)そしてここが「びわ湖疎水船蹴乗下船場」です。ルートはこちら👇
京都市山科地区から水路トンネルを抜けた場所が蹴上の「びわ湖疎水船蹴乗下船場」なのですが、ここから京都市中心街へはかなりの高低差があり、そのためそのままでは船は行き来出来ません。そこで考案されたのが「インクライン」と呼ばれる船そのものを運搬するシステムです。これは船をそっくりそのまま台車を担う車両に載せ込み、その車両が高低差を運ぶもの。
「インクライン」👉疏水上流の蹴上船溜と下流の南禅寺船溜を結んだ全長約582mの傾斜鉄道で、建設当時世界最長でした。約36mの高低差を克服するために舟を台車に乗せ、ケーブルカーと同じ原理で運びました。インクラインによって、舟は貨物の積み下ろしをせずに、高低差を乗り切ることができました。現在は、レールが形態保存されています。インクラインの中は自由に歩くことができ、観光名所としても親しまれています。春には、インクライン両側の桜が咲き誇り、華麗な様相を見ることができます(出典は日本遺産「琵琶湖疎水」Webサイトより)
その台車がこちら。ご覧のように船をそっくり台車に載せてしまっています。ですがこれは疎水を使っての運搬船が活躍していた頃に使われていたもので、現在は陸運が発達しているためこちらの「インクライン」は歴史的遺構として現状保存されているに留まります。現在運行されている「びわ湖疎水クルーズ」では使われていないのが少し残念ですね![]()


「そすいさんぽ」はこの辺りの歴史遺構を観察しながら疎水沿いに「哲学の道」などを通り白川通を抜け、最後は堀川通まで全長9.7㎞を散策するコースです
そしてここが蹴上側のスタート地点![]()
で、この時chuぱ疎水沿いに「南禅寺」を目指すのですが、従来、このスタート地点に来るルートとしては36メートルの高低差がある敷設されている線路上を、蹴上交差点から上がって来ていたのですが、今回は地下鉄を使い蹴上駅まで来てしまいましたので、その線路を歩きませんでした
ですのでこれは前回の上洛時に蹴上交差点から(標高差のある)線路を歩いてきたときの写真を参考までに添付させて頂きます。なお訪れた季節はちょうど桜が咲こうかとする時のもの。そして実はここは隠れた桜の名所でもあるのです![]()
蹴上の交差点と「インクライン」の横を通る三条通。そしてこの場所は御覧のようにかなりの傾斜があります。と言っても自動車であれば行き来できる坂道ですが、さすがに船は行き来出来ません![]()
こちらは「The Westin Miyako Kyoto」。そしてその昔の名称は「都ホテル」![]()
かのエリザベス女王が来日されて京都を訪れた折に御宿泊されました京都を、否、日本を代表する由緒&格調高きホテルです![]()
この辺りまで来ると三条通は眼下に見えています。
そしててっぺんが、先ほどの「びわ湖疎水船蹴乗下船場」近くに現状保存されている沿水船。この台車に載せて傾斜のある坂道を上下に行き来させていたのです。そしてご覧のようにこの台車の線路の幅がとても広いことにビックリしますよね![]()
そしてここからは、今回、上洛時の写真に戻ります
ここは蹴上発電所取水口
そしてこの横を通り過ぎるといきなり“ひっそり感”たっぷりの山道=獣道になります。「インクライン」周辺にはそこそこの人出があるものの、この辺りまで来るとパタリと人がいなくなります。chuは10代の頃よりこのルートを歩いていますので動じることなく歩けるのですが、京都に慣れていない観光客の方がこの道に足を踏み入れることはまずないでしょう
また鬱蒼とした木々が迫ってきていますので、この時期、クマとの遭遇が全くないとは言えません
なおこの事は次々回編あたりでお伝え出来るかと思うのですが、京都市内でのクマの出没、実はあるんですよ![]()
で、歩き始めた箇所は、疎水が真ん中に流れる山道でしたが、しばらく行くと左岸(疎水は蹴上から下っています/手前から前方に向かい流れています)の護岸はレンガで固められ、その横には転落防止のための柵が設けられていました。これは以前…と言っても、前回この道を通ったのはもう20年以上も昔のことですが、その当時にはなかった構造物ですから、転落事故などがあったのかも知れません![]()
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そして蹴上付近から疎水沿いを歩ける箇所はここまで。その先には人が立ち入りできないよう、鉄柵でふさがれているのは昔と変わりません![]()
そしてここからはかなり急な坂道を下ります![]()
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“坂道”と言うよりも崖に造られた階段を降りて行くという感じでまさに獣道
しかしすると突然、なんともレトロな構造物と遭遇します
で、これは何かというと先ほどの疎水が流れている“水道橋”で、その名は「水路閣」
またこの場所は「南禅寺」の境内に位置していますので“南禅寺の水路閣”と呼ばれています![]()
そしてここは人気スポットであり、訪れる方多数
なお蹴上からここを訪れるのにはchuが歩いてきたところが最短コースなのですが、あの獣道を通って来る方は殆ど居りません![]()
蹴上から南禅寺の水路閣までのルート、地図でお示しするとこうなります👇chuが歩いてきましたのが赤色で示した“獣道”ルート。に対して、一般的なのは黄色で示したルートとなります![]()
なお、この南禅寺水路閣の周辺にはこんな輩も出没しているようでして、注意が必要ですね👇![]()
そしてこちらが「南禅寺」👉臨済宗南禅寺派の大本山。正応4年(1291)、亀山法皇の離宮を、大明国師を開山に迎えて寺に改めた。創建時の建物は応仁の乱の兵火で焼失し、現在の伽藍は桃山時代以降に再建されたものです。なお同寺には、「南禅院」や「金地院」など、拝観可能な塔頭寺院が複数あるのですが、chuは何れも過去の上洛時に何度も訪れていますので今回は拝観しませんでした![]()
なお「南禅寺」には、小堀遠州作と伝えられている江戸時代初期の代表的枯山水庭園(方丈庭園)がつとに有名で、その造りは南側から西側にかけて5本の定規線を配した薄青色の筋塀(築地塀)をめぐらし、東西に細長い地形に作庭されており、石組はこの筋塀に添って配置されています。大きな石組を方丈側から見て左奥に配し、前方と右手には、白砂の広い空間が残されています(写真は南禅寺Webサイトから転載させて頂きました)。中々の名園で、chuが個人的に選ぶ“京の名園”にも入っています![]()
そして正面に見えているのが「南禅寺」の「三門」なのですが、実はとあることで有名なんです
それは歌舞伎「楼門五三桐」の
石川五右衛門の伝説のこと。天下の大盗賊、石川五右衛門はこの三門に登り、京都市中を見渡しながら“絶景かな、絶景かな”と宣うあれですが、実はこれは史実に基づいたものではなく完全な作り話なのだとか
と言うのも、創建(1295年)当時の山門は1447年に火災で焼失、その後再建されましたのが1628年で、これは五右衛門の死後、30年が経過した後の事。このことから物理的に五右衛門が三門に登った事実はないのだそうです。ですがでは何故、あの有名な“絶景かな、絶景かな”が歌舞伎の中で取り上げられたのかというと、そこには南禅寺に対する痛烈な皮肉が込められているのだとか。これには「南禅寺」の歴史を紐解く必要があるのですが、「南禅寺」が全盛を極めたのは室町時代、しかしその室町幕府には、足利尊氏、義満、義政など、それなりの成果を残した将軍以外が執権を握っていた時以外、必ずしも長期的な安定は望めず、将軍家・幕府からの加護が心許なかった「南禅寺」の“懐事情”も豊かではなかったそうです。そのような折、1447年の大火により寺院の多くを焼失させたのですが、この時幕府は「南禅寺」の復興を進めるために京都市民から一人当たり一文の、“勧進”とは名ばかりの半強制的な復興資金を認めたのだそうです。しかしこれにより、やっと再建が適ったと思ったところの「応仁の乱」の勃発。この乱を起点とし、ここから長い戦国時代へと突入するのですが、やがて天下統一を果たした豊臣秀吉が新しい寺領を定めたことで「南禅寺」は救われたのでした。しかし時代は1605年、「南禅寺」塔頭「金地院」の住持であった以心崇伝という僧侶、この僧侶は徳川家康の信を得て政治兼外交顧問も務めたのですが、「禁中並公家諸法度」や「武家諸法度」を起草、さらには「寺院法度」も創り全国の寺院を徳川幕府に屈服させた張本人
そのため、後には“大欲山気根院僭上寺悪国師”なる、大変な悪名も付けられたほどなのですが、この以心崇伝は徳川幕府の先兵となりち「南禅寺」を屈服させてしまったのです
秀吉の配慮により折角、再興が叶った「南禅寺」でしたが、その「南禅寺」塔頭「金地院」の僧侶が徳川の走狗となり大恩ある豊臣家を裏切り「南禅寺」を屈服させた…は、その昔、半強制的な勧進までさせられながらも「南禅寺」の再興を喜んだ京都市民の目には“「南禅寺」の裏切り”以外の何物でもなく、庶民感情としても納得できるものではなかったそうです。だからこそ、「楼門五三桐」の作者である並木五瓶は創作でありながら天下の大盗賊である石川五右衛門を敢えて三門に登らせ、裏切り者である「南禅寺」に対し“絶景かな絶景かな”と。つまり、「南禅寺」三門における“絶景”とは、恩ある豊臣方を裏切り、素早く徳川方に寝返った「南禅寺」の変わり身の早さを、“お前、大したもんだな![]()
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”と痛烈な皮肉を込めて大見得を切らせたものなのでした
なおこの“絶景かな”を受け、三門に登る拝観者は多いのですが、実はこの三門に登ったとして京都市中が見渡せるわけではなく、そのため素晴らしい眺望を期待していた観光客は一様にがっかりするのだとか
しかし当時、chuはこの逸話を知らず“絶景”を期待して三門に登ったものの、大した眺望は得られずガッカリした観光客の一人でもありました
因みに「南禅寺」の拝観では、本寺、各塔頭寺院、三門と、それぞれ拝観料が掛かりますので全てを拝観して回った場合、そこそこの拝観料が掛かりますことを申し添えます
(以下、3枚の写真が「南禅寺」の山門で重要文化財です)
さて、これにて「南禅寺」の境内を離れ北に向かって進みます![]()
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こちらは浄土宗系の「東山学園」中学&高等学校で場所は「南禅寺」と、モミジの綺麗な「永観堂」の真ん中あたり
余談ですが東山高校は日本のプロ野球やMLBで活躍された岡島秀樹投手の母校
前回、ここを歩いていた時、岡島投手はボストンレッドソックスに在籍されていましたが、OBを称える垂れ幕が掛けられていたことを思い出しました
そしてこのルートも「びわ湖疎水散歩」のコース途中でして、この辺りは琵琶湖からちょうど11㎞の場所のようです![]()
付近の地図です👇なおこの地図は左が「北」を指していますのでもの凄く見ずらい(>_<)地図上、現在地とされている場所から上に進むのですが、これは北に向かっているのではなく東に移動しているのです![]()
すると「哲学の道」に到着
ここから「銀閣寺」に向かい疎水沿いを北上するのですが、その途中の寺院にもちこっとですが立ち寄らせて頂いております![]()
以下次号(旬ネタを入れますので少しだけ休載させて頂きます)





































