2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています(てか、遂に実旅後、一年を経過してしまいました(>_<))。前回は、治安が極度に悪化していた幕末の京都において、その治安維持に奔走した「新選組」が誕生した経緯や、結成直後に駐屯していた「壬生寺」を訪れた際の様子などをお届け致しました👇
そして今回上洛の最大の目的を遂げる時がやって来ました
それが「東本願寺」参拝です
と言うのは、chuは浄土真宗大谷派(同派の事を「真宗大谷派」と称することが多いです)の敬虔な門徒(浄土真宗では、お他宗さんが自派に属する俗人を「信徒」と呼びますが、浄土真宗では門徒と呼んでいます)。本来であれば東海道新幹線「のぞみ」が京都駅に到着した直後には「東本願寺」をお詣りせねばならぬところを、ホレ、何せ5泊6日分の荷物を持ち歩いていたので、一旦、ホテルに行き荷物を預けることとしたのは良しとして、そこからは観光ルートを勘案した結果、京都駅近くにある「東本願寺」には戻らず、「金閣寺」に出向いてしまったのは既報の通り![]()
本来であれば入洛直後に参拝を予定していたところだったのですが、その他の旅程の都合上、なんと最終日前日の旅5日目の参拝となってしまったのでした
皆さまからは“敬虔な真宗門徒なんでしょ
”とお𠮟りを受けそうです
はいスミマセン、私はその程度の信仰心なのです…ってことは全くなくて、熱い篤い信仰心を持っています。「正信偈」も諳んじる事が出来ますよ
ただ、「東本願寺」への訪問が遅くなったことに対しては深く反省することとして、先に進みましょうか
で、こちらが「東本願寺」の山門の役割を果たしています「御影堂門(ごえいどうもん)」。このように道路の反対側から眺めていてもその大きさが判るというものですが、正面21m、側面13m、高さ27mで、木造建築の山門としては世界最大級
また木造建築の二重門としては、日本一の高さを誇ります。重層造りで、楼上には東本願寺の正式名称である「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」の額が掲げられ、浄土真宗の根本聖典『仏説無量寿経』が説かれた場面を表す、釈迦如来・弥勒菩薩・阿難尊者の三尊像が安置されています(通常非公開)。国の重要文化財にも指定されています。
そして、今の説明の中で“楼上には東本願寺の正式名称である「真宗本廟」の額”と言及してしまいましたが、実は「東本願寺」の正式名称は「真宗本廟」と言います
その理由を語る前に「東本願寺」が誕生した経緯などにつき、ごく簡単に御説明させて頂きますことお許しください。真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、親鸞聖人が亡くなった後、彼を慕う弟子たちが聖人の遺骨を納めた廟堂を建て、そこに聖人の影像(お姿を写した像)を安置したことに始まります。当初は簡素な墓所でしたが、1272年頃に現在の大谷本願寺湖地がある場所に改葬され、聖人の影像を安置する廟堂が建てられました。これが「大谷廟堂」と呼ばれるようになりました。その後、第3代覚如上人の時代に「本願寺」という寺号が名乗られるようになり、次第に寺院としての形が整えられていきました。現在の「真宗本廟」は、親鸞聖人の影像を安置する「御影堂」と、本尊の阿弥陀如来を安置する「阿弥陀堂」という二つの主要な建物で構成される両堂形式となっています。 また浄土真宗の本山には、この「東本願寺」とは別に直ぐ近くには「浄土真宗本願寺派」の総本山である「西本願寺」があります。浄土真宗には10ほどの分派があり「真宗教団連合」による緩やかな連携関係にはあるのですが、その中でも一番勢力(門徒数)を持つのが「西本願寺」(門徒数790万人は日本国内の宗派別の中で最大です)を総本山とする「浄土真宗本願寺派」で、親しみを込め“お西さん”とも呼ばれています。対するchuが属する「真宗大谷派」(門徒数は浄土真宗本願寺派に次ぐ780万人)の総本山が「東本願寺」でして、愛称は“お東さん”、浄土真宗各派閥の中では2番目の規模を誇ります。では、本願寺派の本山が「西本願寺」と呼ばれているのに対して、大谷派の本山には「東本願寺」という立派なお寺があるのに正式名称を「真宗本廟」と呼ぶのでしょうか。例えば大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂(ごえいどう)及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派]の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定されています。しかし1969年になり、いわゆる「お東騒動」という真宗大谷派内部での対立が顕在化。大谷派内部でのこの抗争はこの後10年にも及びました。この対立の背景には、“法主を絶対的な存在として尊崇し、権限を集中させる考え方”と“各個人の信仰を大切にし、教団の民主的な運営を求める改革派の考え方(同朋会運動)”という、近代社会における宗教のあり方をめぐる二つの異なる考え方がその根底にありました。この対立を受け大谷派内部は大混乱をきたすと共に、外からは単に大谷派内部の権力争いとみられていたことから“お東騒動”と揶揄されていたのです。しかしこの騒動の結果として1987年(昭和62年)には「単位宗教法人本願寺(通称 東本願寺)は、「包括宗教法人 真宗大谷派」によって解散させられ、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収され、その直属の宗教施設とされたのでした。その結果、「東本願寺」は単位宗教法人(真宗大谷派)としての寺院ではなくなったこともあり通称「東本願寺」は正式名称を「本願寺」から「真宗本廟」に改めることになったのでした。そのため現在、「真宗本廟」は真宗大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではないのであります。こうした流れを受けて、これ以降厳密には、本願寺と呼ばれる寺院は、「浄土真宗本願寺派」本山の「本願寺」(通称「西本願寺)のみとされています。ですがしかし、真宗大谷派の門徒の多くはchuも含めまして“真宗大谷派の本山の名称は「東本願寺」”と信じて疑わず、現在でも「真宗本廟」の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて使用されているのでした
「東本願寺」と「真宗本廟」との関係につきましてごくごく簡単に記しましたが、門徒ではない、ごく普通の皆さんにはあまり関係のないことですよね
しかし実はこれよりすっと昔の、浄土真宗が東(真宗大谷派)と西(浄土真宗本願寺派)に分裂した経緯などにも言及したいのですが、その話をするには織田信長による宗教弾圧と、「関ヶ原の戦い」辺りまで遡らなければなりませんので、紙面の限られたアメーバブログではとても不可能
ですので、墓石屋さんが簡略に説明していますサイトを見つけましたので謹んでこちらにリンクさせて頂きますね👇
で、ここにきて漸くと言いましょうか、やっと「東本願寺(真宗本廟)」の公式Webサイトをリンクさせて頂ける運びとなりました
嬉しいです![]()
今回はここまで
この後は、京都最後の夜に繰り出します。ですが“料亭”などには行ってません、てか、行けませんというのが正確ですね![]()
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