関羽が張遼や徐晃と親交を結んだ背景
関羽は劉備に仕えていた一方で、曹操陣営の張遼や徐晃と親交があったことで知られています。劉備と曹操は最終的に敵対関係になりますが、劉備と曹操はともに許にいた時期があります。また、関羽は一時的に曹操のもとに身を寄せていましたので、関羽が曹操の配下と面識を持つことは十分あり得ます。関羽と張遼に限れば、劉備と呂布がともに徐州にいた時期に、会うことがあったかもしれません。ところで、曹操の配下には多くの人材がいますが、関羽が張遼や徐晃と親交を持ったのは、どのような背景があったのでしょうか。まず、曹操に仕えた主な武官のうち、関羽が曹操のもとを去るまでに配下になった人物について、陣営への加わり方で分類します。【曹操の挙兵頃からの配下】夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、楽進、典韋、李典、于禁【何らかの勢力を率いていたが曹操の勢力下に入る】許褚[許チョ]、臧覇、張繍【他勢力から曹操の配下になる】関羽(劉備)、張遼(呂布)、徐晃(楊奉)※カッコ内は元いた勢力このように、関羽、張遼、徐晃の3人は、いずれも他勢力から曹操の配下になりましたが、その経緯は、関羽 曹操が劉備を攻め敗走させた後、捕らえて配下にする。偏将軍になる。張遼 曹操が呂布を滅ぼした後、配下にする。中郎将、関内侯になり、後に裨将軍になる。徐晃 曹操が献帝を迎え入れた頃、楊奉を攻めた際に配下にする。裨将軍になる。となっています。いずれも敵対相手の将から配下に迎え入れられ、張遼は中郎将、関内侯になりましたが、当初与えられた将軍号は全員下位のものです。そのため、曹操陣営内では似たような立ち位置だったと考えられます。場合によっては、3人とも降将という立場から、肩身の狭さを感じていたかもしれません。許褚[許チョ]、臧覇、張繍も別の勢力から曹操の勢力下に入りましたが、許褚[許チョ]は曹操を警護する役になり、臧覇は琅邪の相に任じられて徐州と青州を治め、張繍は列侯、揚武将軍になったばかりか、娘が曹均(曹操の子)の妻になって曹操と姻戚関係になります。元々別の勢力だった点は同じでも、関羽、張遼、徐晃が「一降将」として扱われたことに比べると、相対的に厚遇されたと言えそうです。そのため、関羽、張遼、徐晃にしてみれば、曹操の挙兵頃からの配下や、自分たちより厚遇された人物よりも、境遇が似ている者の方が仲間意識を抱きやすかったのではないでしょうか。現代でも企業などの組織で同じような立場の人同士が仲良くなることがありますが、三国時代も同じように近い境遇にある者同士で距離が近くなることは、ごく自然なことと考えられます。また、関羽と徐晃はともに司隷河東郡の出身で同郷になります。張遼の出身である并州雁門郡は、司隷河東郡や劉備が関羽、張飛とともに旗揚げをした幽州涿郡と比較的近い場所にあります。出身地が近いと言葉(訛り)や食文化、気質など通じるものがあるため、親交がより深まる要素になるでしょう。すなわち、関羽は張遼や徐晃と同じような境遇にあることから親交が始まり、出身地の近さも手伝って関係が深まったのではないかと考えています。