陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(八・改名の諸説と諸葛恪)-全九回
8.陸遜 改名の背景に関する諸説陸遜が改名した理由や背景は様々な説を目にします。ただ、正直申しまして、各説の初見はどこであるのか、見た説はオリジナルなのか引用なのかわからず、さらに似たようなことを考えていた説もあります。引用元を明記しにくい面もありますので、各説をかなり曖昧な形で列挙させていただきます。(※1)「遜」の孫やしんにょうに着目する、「遜」の漢字の意味に理由がある、「議」を変えたかった、「議」は避諱して記録された、改名させられた、死後書き換えられた、改名により無名を装った、複数の名前を持っていた等々。実に様々な説がありますが、それだけ多くの方が改名に謎を感じ、想像を巡らしているのだろうと思います。9.諸葛恪と陸遜、孫権陸遜の改名理由は、史書に何も記されていない以上、どれ程検討や考察を重ねても真相なのかわかりませんが、それでも史書の記述を手がかりに一説提示したく思います。今回着目したいのは、陸遜が亡くなった後の呉で重要な地位を占めた諸葛恪の字が「元遜」であり、改名後の「陸遜」と一文字共通することです。これを偶然の一致とせず、諸葛恪が陸遜の改名に関係した可能性を検討したいと思います。まず諸葛恪ですが、三国志の後半に登場する人物で、姓から察しやすいように、諸葛瑾の子であり、諸葛亮の甥にあたります。頭の回転が速かったようで、巧みな受け答えが複数の逸話で残されていますが、相手をやり込め、主君である孫権におもねる面があり、自分が優位に立つために頭脳を使っている印象は否めません。陸遜が亡くなった後、呉で大将軍や丞相といった高位に昇り、荊州に駐在しますが、軍事作戦の失敗などから恨みを集め、殺害されています。諸葛瑾、諸葛亮、陸遜が性格や行動に懸念を示し、諸葛恪伝は陳寿が芳しくない評を記した人物が集まる「諸葛滕二孫濮陽伝」に含まれていますので、史書には偏向があることを差し引いても、高い能力を持つ一方で目立つ欠点がある人物だったのでしょう。そんな諸葛恪と陸遜との関わりですが、『正史三国志』に以下のような記述が見られます。(※2)(a)陸遜は諸葛恪に対して「諸葛恪の気持ちは目上の者を凌ぎ、目下の者を軽んじている。徳を安んじる基本の行いではない」と言った。(b)諸葛恪は陸遜から良く思われていないことを知っており、書状で「陸遜の立派な意見『今、立派な人物がいなくなり、助け合って国を盛んにしなければならない。世間では人を貶める風潮が強く、才能ある人物も駄目にされている』を聞き感服した。愚考であるが、ひとりに全てを求めるべきではない。孔子は欠点がある人間でも長所を捨てるようなことはしなかった。今は人材が不足しているため、邪な性格ではなく志がある人物は力を発揮させ、細かい問題は大目に見るべきである。後漢末、士大夫たちは誹謗しあうことで災いを招いた。批判され恨みが生じると、讒言が入り込む隙ができる。小さな過ちを責めていると、恨みが生じ、国の中に欠点のない人物がいなくなる」と述べ、陸遜の意見に賛同した。(a)は陸遜伝内、(b)は諸葛恪伝内に記されており、陸遜の言葉に対する諸葛恪の返答であるとは明記されていませんが、実質返答と考えても支障がなさそうな内容です。ただ、諸葛恪の人物像を考えると、(b)の書かれた内容に違和感は拭えません。諸葛恪は張昭や孫登(孫権の子)に対しても臆せず言い返し、同盟国の重臣である諸葛亮や費禕[費イ]であっても尊重する様子は見せず、誰に対しても遠慮ない態度を取ります。しかし、この陸遜に対する書状では、鋭い返答で論破しやり込める、諸葛恪らしさは隠れています。表面的には陸遜を立てて従っていますが、やんわりと反論しているような印象も受けます。次に、陸遜の死にまつわる孫権との関わりを確認します。(※3)(c)二宮の変(孫権の後継者争い)の際、孫権が孫和(皇太子)と孫覇を同じ待遇にした。陸遜は支持する孫和と孫覇の差をつけるべきと、孫権に対して何度も上書した。(d)陸遜は無理に流刑にされ(原文:枉見流徒)、その後も孫権は何度も使者を送って責め、陸遜は憤死した。(e)陸遜の死後、孫権は、楊竺が挙げた陸遜に関する二十の事項について、陸抗(陸遜の子)に問いただした。陸抗の返答により、孫権の疑いは解けた。(f)その数年後、孫権は陸抗に「讒言を信じて陸遜との義に背いた。陸遜について問いただす書は焼いて誰にも見せてはならない」と言った。これらから、孫権は陸遜に関する讒言を信じて流刑にした上、責めた自覚があることがわかります。ここで諸葛恪の書状を見返すと、「批判され恨みが生じると、讒言が入り込む隙ができる」「小さな過ちを責めていると、恨みが生じる」という箇所が孫権の行動と重なります。陸遜から後継者について何度も上書された孫権は、後に陸抗に問いただすことになる楊竺が挙げた二十の事項、一種の讒言を信じて恨みが生じたと見えないでしょうか。その結果、陸遜への流刑、詰問に進んでおり、諸葛恪はまるで、孫権が讒言を受けて陸遜への恨みを持つまでを見通していたかのようです。そして陸遜が憤死した後、諸葛恪は大将軍に就き、陸抗と任地を交換してかつて陸遜が守っていた荊州を守ることになります。陸遜が呉で持っていた地位を、諸葛恪は着実に引き継ぎ始めたかに見えます。「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(終・一説の提示)」に続く(関連ブログ)「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(一・陸遜は注目されている)」「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(二・改名時期を絞り込むには)」「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(三・陸遜の改名時期 呉書編)」「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(四・陸遜の改名時期 蜀書編)」「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(五・陸遜の改名時期 魏書前編)」「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(六・陸遜の改名時期 魏書後編)」「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(七・改名に関する疑問)」前回「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(八・改名の諸説と諸葛恪)」本ブログ「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(終・一説の提示)」次回(続き)(※1)陸遜の改名について考えるにあたり、表記は陸遜を基本とします。ただし、史書にどのように表記されているかを示したい場合は、カッコ付で「陸議」「陸遜」と記します。(※2)陸遜伝および諸葛滕二孫濮陽伝の諸葛恪伝からの抜粋、要旨となります。(※3)陸遜伝からの抜粋、要旨となります。