呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(十二・命運が尽きる時)-全十五回
12.命運が尽きる最後の戦い呂布は下邳[下ヒ]で、項羽は垓下で最後の戦いに敗れ、死を迎えます。この最後の戦いについて、歴史書の記述を確認します。(※1)(呂布)・曹操軍は下邳[下ヒ]を包囲し、呂布は袁術に救援を求めるため1000騎あまりを率いて出陣するが、敗北して下邳[下ヒ]に戻る。曹操は沂水と泗水を溢れさせて城を水攻めにし、城内の不和もあって侯成、宋憲、魏続が陳宮を縛って曹操に降伏。呂布は白門楼に登り、包囲が厳しくなると降伏した。一説には、囲みが厳しくなると、呂布は部下に自分の首を取って曹操のもとに届けさせようとしたが、部下たちは忍びなく一緒に降伏したともいわれる。呂布は曹操に対し、自分を使うように訴えたが、周囲の助言もあり処刑された。(※2)(項羽)・劉邦軍は垓下を包囲し、兵士に楚の歌をうたわせる(四面楚歌)。項羽は現状を嘆く詩をうたい、約800人を引き連れて囲みを破り、戦い続ける。烏江で亭長から船で江東に逃れるよう勧められたが、天が自分を滅ぼすとして断り、騅(項羽の乗馬)を亭長に譲り徒歩で戦う。項羽は数百人を殺し、最後は昔馴染みの呂馬童を発見すると、自分の首を捧げるとして自刎した。呂布は守りきれず降伏し、生き延びようとしたが処刑されたことに対し、項羽は戦い続けて限界を迎え、生存の道を拒否して自刎しており、一見すると対照的な最期を迎えています。しかし、その過程を注意深く見ると、・呂布は下邳[下ヒ]の周囲を水で、項羽は垓下の周囲を故郷の歌でそれぞれ囲まれたことが、敗北につながるきっかけとなる。・呂布は周囲を水に囲まれて敗北につながり、項羽は烏江(川のそば)にたどりついた後に自刎しており、水に近い場所で最期を迎えている。・呂布は侯成ら配下武将が降伏し、項羽は呂馬童が劉邦側にいるのを発見しており、自分の味方だった人物が敵側になっている。・呂布は部下に自分の首を取るように言い、項羽は呂馬童に自分の首を取るように言ったが、どちらもそうはしなかった。といった点が共通しています。呂布と項羽の行動ではなく、外的要因にあたる部分で共通すると言えます。ただ、呂布と項羽を特徴づける程の内容かというと、そこまでの強さはないように感じます。小結:呂布と項羽は最後の戦いにおいて、対照的な行動を取っているが、外的要因に共通点が見られる。『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(十三・人物評)』に続く(関連ブログ)『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(一・呂布の強さ)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(二・項羽の強さ)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(三・裏切りと主君の殺害)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(四・武人としての姿)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(五・貂蝉と虞)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(六・配下との関係)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(七・内なる敵)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(八・ゆかりの地)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(九・袁術と英布)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(十・陳宮と范増)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(十一・劉備と劉邦)』前回『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(十二・命運の尽きる時)』本ブログ『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(十三・人物評)』次回(続き)『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(十四・両者の共通点を整理)』『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(終・項羽のモデルは呂布)』(※1)歴史書に拠る部分は、ちくま学芸文庫「正史三国志」魏書呂布臧洪伝、ちくま学芸文庫「史記」項羽本紀を参考に、抜粋、要約していますが、箇所が多くなるため都度注釈はつけないようにします。それ以外の資料を参照した場合には参照元を記します。なお、共通点を見出す目的のため、小結につながる記述に絞る場合があることはご容赦ください。(※2)沂水と泗水を溢れさせることは、ちくま学芸文庫「正史三国志」魏書武帝紀に拠ります。「一説には」で示している部分は「後漢書」呂布列伝に拠ります。