引き続き、2025年9月7日に行われた、「三国志大文化祭2025」および「三国志学会第二十回大会」の所感を中心に記します。
〇歴史書の取捨選択にはどういった背景があるのか
歴史書とはいえ、その時代に起こったことが全て書ききれるものではなく、例えば時の政権に配慮して都合よく解釈されることや、記されないことがあるというのは、今さら堂々と書くようなことではないのかもしれません。
その良し悪しはともかく、歴史書に記されないとはどういうことか、考えてしまいました。
陳寿が編纂した「三国志」、すなわち裴松之の注を除く本文は、内容が簡素であると評価されています。陳寿自身の手による記述は「書きたいこと」なので、編纂の目指すところが現れるでしょう。一方、編纂にあたり参照、引用された書物は、全てが陳寿の「三国志」と同様に簡素だったとは考えにくく、採用されなかった部分があるはずです。晋や司馬氏に配慮する部分もあるでしょうが、そうではない部分が陳寿の「不要と考えている」部分になるのだと思います。
正史三国志は全体に事実関係を淡々と記しているとか、信憑性に乏しい情報は記さないとか聞いたことがあります。歴史に大した影響を与えない、感情や物語、教訓、風評などは不要と考えたのかもしれません。
その一方で、本当に陳寿は明確に方針を定めて「三国志」を編纂したのだろうか、そう考える自分がいます。
もし陳寿がいい加減な人間だったなら、命じられたから三国志を記したものの、極力手を抜きたくて簡素な内容に留めたのかもしれません。あるいは、なるべく短い文章で表現することが、陳寿やその周囲で流行っていたのかもしれません。司馬遷の史記は物語性が高いと言われますが、対抗して徹底的に事実のみの記録につとめたのかもしれません。木簡の上限が指定されていた可能性だってあり得るでしょう。
もちろん、これだけの分量の書物を作り上げるのは、相当な能力が求められ、並大抵の労力では完成しなかったでしょう。しかし、陳寿が高い使命感を持ち、真摯に「三国志」の編纂に取り組んだかは、本人に聞かないとわからないことです。現代において正史三国志がどれだけ重要な書物だとしても、陳寿が1800年先まで見据えて編纂に取り組んだとは思えません。
可能性を言い出すときりがありませんが、三国志の本文から陳寿の編纂方針は推定できても、どんな志だったかはわかりません。もし陳寿が現代の三国志研究を見ることがあれば、「みんな真剣に研究しているけど、そこまで深く考えて三国志は書いていない」などと言い出すかもしれない。ひねくれた考えですが、そう思ったりもするのです。
『三国志学会第二十回大会を拝聴して(魏志倭人伝の限界)』に続く
(関連ブログ)
『三国志学会第二十回大会を拝聴して(二・三国志演義の諸葛亮像)』前回
『三国志学会第二十回大会を拝聴して(三・歴史書の取捨選択)』本ブログ
『三国志学会第二十回大会を拝聴して(四・魏志倭人伝の限界)』次回(続き)
『「三国志」とは何なのか、知るほどに悩む(八・「正史三国志」は事実か)』
(※1)
ちくま学芸文庫「正史三国志」呉書呉主伝、『魏略』より引用した箇所を要約しています。