3.陸遜の改名時期 呉書編
○呉書における陸遜の表記
陸遜の改名時期を絞り込むにあたり、最初に呉書を確認します。呉書における「陸議(改名前)」と「陸遜(改名後)」の使い分けは、以下のようになっています。(※1)
【呉書】基本的に「陸遜」で統一されているが、以下箇所では例外的に「陸議」と表記されている。
(a)陸議・・・陸遜伝の冒頭に「本名議(もとの名は議)」と記されている。
(b)陸議・・・石亭の戦いの前に、周魴が曹休をおびき寄せる手紙に陸議と記されている。(228年頃/賀全呂周鍾離伝、周魴伝)
(c)陸議・・・『傅子』において、孫権は陸議ほか張昭、諸葛瑾、朱然らを用いて江南を安定させたと評されている。(年代不明/呉主伝、『傅子』からの引用部分)
(「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(二・改名時期を絞り込むには)」に記した内容と同じです)
呉書は「陸遜」で統一されており、改名前であっても「陸遜」と表記されていることから、改名時期の参考になりません。その中にあって3箇所「陸議」と表記されていますが、それぞれ性質が異なっており、個別に確認します。
○元の名を記している箇所について
まず(a)における「(陸)議」ですが、元の名を記している箇所ですので、当然「議」と表記することになります。ここには改名したことがわかるだけで、時期や理由には言及されていませんが、わずかながら手がかりになることがあります。
三国時代の人名では、成人になり字(あざな)をつける時に、(姓名の)名に関連する文字を選ぶ場合があります。陸遜の字は「伯言」ですので、元の「議」と「言」には通じるものがあります。成人になった時に名と関連する文字を使って字をつけたのであれば、成人になった時点では「陸遜」より「陸議」の可能性が高くなります。
陸遜の生年は183年であり、成人年齢を数え年齢20歳(※2)とすると、202年の時点ではまだ「陸議」だったと考えることができます。
○周魴伝の「陸議」表記について
次に(b)の周魴の手紙で「陸議」と表記されている箇所ですが、この部分は手紙であるため、当時の状況を示していると考えられます。
手紙に限らず誰かの言葉も同じですが、忠実にその時のことを残すなら「当時どうだったか」で記すのは自然なことです。例えば魏書武帝紀では曹操が「太祖」、蜀書先主伝では劉備が「先主」と表記されていますが、手紙や言葉の中には「曹操」「劉備」との表記が見られます。先主伝に、徐州牧だった陶謙が重病になり「非劉備不能安此州也(劉備でなければ、この州を安定させられない)」と言ったことが記されていますが、この「劉備」が「先主」では陶謙の言葉として不適切になります。
同じように考えると、周魴の手紙は書かれた当時「陸議」だったことを示しており、「陸遜」に書き換えるようなことはせず、手紙の内容をそのまま残したと考えられます。石亭の戦い(228年)当時、少なくとも曹休(魏)は「陸議」と認識していることがわかり、おそらく「陸遜」への改名前だったのでしょう。
もしかすると、陸議から陸遜に改名した直後であったため、誰のことか認識できるように手紙には元の「陸議」と書いたのかもしれません。仮にそうだったとしても、改名した時期は228年から大きく遡ることはないと考えられます。
○『傅子』における評について
『傅子』は魏および晋に仕えた傅玄による著作ですが、この「陸議」と表記されている箇所がいつ頃書かれたものか判然としません。『傅子』自体は3世紀中頃の成立とされていますが、晋書には『傅子』の成立について、以下のように記されています。(※3)
・傅玄は若いころから学問に専念し、高位に就いてからも著述をやめなかった。
・国を治めることや、故事などをまとめ『傅子』と名付けた。
・内篇、外篇、中篇に分かれており、内篇ができると、子の傅咸が王沈に見せた。
傅玄は、長年書き溜めていた著述を『傅子』としてまとめたと見られますが、肝心の「陸議」と表記した箇所をいつ頃書いたかはわかりません。言及されている朱然が呉の中心になった時期からすると、220年代半ば以降ではないかと考えられる程度です。
また、成立の途中、内篇を子の傅咸が王沈に見せたとあります。傅咸がある程度の年齢である15歳に達していて、王沈が亡くなるまでに内篇ができたとすると、253年(傅咸は生年239年)から266年(王沈の没年)とやや幅があります。この頃、既に陸遜は亡くなっていますので(没年245年)、どこかの時点で孫権の評に「陸議」と書いていたものを、『傅子』にまとめる時にそのまま採用したと考えるのが妥当なように思います。
『傅子』については、改名時期を検討するにあたり、あまり参考にならないと考えられます。
○小結 呉書から考えられる陸遜の改名時期
ここまで呉書の内容を見てきた結果は、以下のようになります。
・元の名と字の漢字の類似性から、成人になった202年頃は「陸議」
・周魴の手紙より、石亭の戦いのあった228年かその少し前の時点では「陸議」
・『傅子』における孫権の評で「陸議」と書かれているものは、いつ頃のことかわからない
これらをまとめると、陸遜の改名時期は石亭の戦い(228年)以降と考えられますが、魏に改名が伝わる時間差を考慮すると228年を少し遡る時期も可能性として考えられます。
「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(四・陸遜の改名時期 蜀書編)」に続く
(関連ブログ)
「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(一・陸遜は注目されている)」
「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(二・改名時期を絞り込むには)」前回
「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(三・陸遜の改名時期 呉書編)」本ブログ
「陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(四・陸遜の改名時期 蜀書編)」次回(続き)
(※1)
陸遜の改名について考えるにあたり、表記は陸遜を基本とします。ただし、史書にどのように表記されているかを示したい場合は、カッコ付で「陸議」「陸遜」と記します。
(※2)
字をつける年齢は、礼記の「男子二十、冠而字」「女子許嫁、笄而字」に従っています。ただ、曹操の子である曹沖は、13歳で亡くなっていますが、字として「倉舒」が残されており、必ずしも成人になればつけるとは限らないのかもしれません。
(※3)
『晋書』(Webサイト「中國哲學書電子化計劃(https://ctext.org/zh)」2026年8月時点)の以下箇所を参照し、要約しています。
列伝第十七 傅玄