NHK-TV「さかのぼり日本史」を時折見るのですけれど、

今月は「室町・鎌倉“武士の世”の幕開け」という4回シリーズでありますね。


足利義満の時代から足利尊氏、北条時頼、そして源頼朝の時代へと

歴史を遡行しているわけですけれど、それぞれの回でのエポックメイキングとなる年号が示されています。


最初が南北朝が再統一された1392年、次いで室町幕府の成立した1336年、

そして撫民政策が始められた1252年、最後が1180年で武家政権の誕生ということなんですが!
源頼朝による武家政権の誕生というのは、即ち鎌倉幕府の成立ではないんでしょうか…。


実はこれ以前にも(といっても最近のことですが)類似のことがありまして、

外国から来られた方によるお国紹介ミニ講座のようなものを覗いたときのことでした。


その国の歴史の概略をたどる年表の中に、

そのとき日本は?的に日本史に関わる年号と出来事がいくつか記されていて、
そこに鎌倉幕府の成立が確か1180年とあったものですから、
失礼ながら「あらら、間違っちゃって。外国の方なればやむなしかぁ…」などと

思っていたわけなのでよ。


こちらの理解といたしましては、鎌倉幕府の成立は1192年。
なんつったって、「いい国作ろう鎌倉幕府」とばっちり暗記してるわけで、
今となってはどうでもいいことながら、「意欲に満ちたコロンブス」と同じくらい定着しちゃってるのですね。


しかし、NHKがというより、日本のマスメディアがこうした教科書的な歴史のことで

「あらら、間違っちゃって…」はさすがに無かろうと思うところでありまして、
不動の定着度合いを誇ると考えていた知識(?)が今、ぐぅらぐぅらと揺らいでしまったのですよ。


そこで例によって、いささかの探究を始めましたところ、
全幅の信頼を置いてよいものかどうかとは思いつつもよく引用するWikipediaには、

こんな記述がありました。

かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在では実質的な成立は1192年より前すなわち1185年であるとする説が支配的である。

えっ?かつての通説?
ということは、今は通説ではないということ?
それでは、鎌倉幕府はいつできたのでしょう。


Wikiでは「1185年であるとする説が支配的である」としていますけれど、

この言い方は決定的ではないということなのでしょう。


先のNHKの例でいえば、

1180年という年に「武家政権の誕生」としてあって、鎌倉幕府の成立とはしていない。
となると、鎌倉幕府というもの自体あったのか、無かったのか。
武家政権は生まれたけれど、鎌倉幕府とは呼ばなかったのか。


はて歴史研究の進捗なのか、解釈が変わってきたかどうしたことやら。
とまれ、1192年に源頼朝が征夷大将軍となったことは変わらぬものの、
それをもって鎌倉幕府というか、頼朝による鎌倉を本拠としての武家政権ができたとは
今では考えられていないということなんでしょう。


本当ははっきりしていた方がすっきりはするんですが、
たぶん頼朝政権というものが段々と確固たるものになっていったことがあるので、
どの時点を取るのかによって、1180年なのか、1185年なのか、それとも別の年なのか、

見解が分かれるところなのでしょうなぁ。


かつては「( ① )年、( ② )は鎌倉に( ③ )を開いた」、

この文の( )内にそれぞれ適切な語句を入れなさい…みたいな試験問題が出せたのでしょうけれど、

今はできないわけですね。


歴史の勉強としては、頼朝政権が確立していく過程として、

1180年から1192年の間に段階的に起こったことを分かっておかないといけない。
こりゃあ、大変だぁ。でも、この方が断片的でない歴史認識はできそうですけれど。
だいたい教科書的には、どういうふうに書かれているんでしょうねえ…。

少し前にロシアの作曲家カバレフスキー に触れて、

子どもたちの音楽教育に取り組んだてなことを書きましたけれど、
子どもが「音楽」に興味を持てるようにと書かれた本を出しているのだとか。


そこで、近所の図書館でカバレフスキーを検索してみますと、
「道化師」のギャロップなどが収められたCDに混じって、本が一冊ヒットしました。


題して「三頭のくじらとその友だち」。
もし開架で並んでいるところを見かけても、

音楽書コーナーでは「間違いでないの?」と思うのようなタイトル。


ですが、カバレフスキー先生は音楽への興味を抱かせる入口に三頭のくじらを持ってきて、
音楽を支えるものとして紹介しているのですね。


三頭のくじらとその友だち―音楽の本 (1981年)/D.カバレフスキー


この「支えるもの」という部分は、

昔々この世界は「地球」というような球体とは思ってもみなかった時代、
大地は何かに支えられてあるという考え方がありましたよね。


いちばん下にはでっかい亀が踏ん張っていて、その上で三頭の象が支え…といったような。

この三頭の象に相当するような「支えるもの」、これが三頭のくじらが出てくる由縁なのですが、
ロシアの伝承ではくじらなんですかねえ…。


とまれ、この三頭のくじらでありますが、音楽を支えるという言い方をしますと、
三つの要素としてはリズム、メロディ、ハーモニーてなことが浮かんできたりするところですけれど、
カバレフスキー先生はもそっと子どもに寄った形のイメージを提示するのですね。


ずばり!三頭のくじらによって象徴されているものは、歌、踊り、行進、この3つだと言うわけです。

特別に「音楽」なるものを意識しなくとも、これらには親しんでいるでしょう、ね!ということのようで、
「音楽の勉強をしましょう」と言われると「げげっ!」となる子どもたちも
「みんなで歌いましょう、踊りましょう、行進しましょう」となれば「は~い!」となりますね、
とカバレフスキー先生は言うのですね。


歌と踊りは分からなくもないですが、行進ってのはどうなんでしょ?
「なんとなくソヴィエト?」みたいな気がもしてしまうところでして。


本書ではさまざまな踊りとしてロシアのものばかりでなく他の国の踊りの形式である、
ポロネーズやマズルカ、そして古いところではメヌエット等なども紹介して、
メヌエットが使われているところからシンフォニーに触れていったりと
確かに子供向け音楽啓蒙書といった感はありますけれど、
ソヴィエトの体制、政策を称揚することが前提になっている気がするという。


当時(出版は1972年)は、こうでもしないと

子供向けの本も出せないといった状況であったかとも想像しますが、
それでも子どもに向けた本を書きたいという熱意にまさるところがあったのか、
それとも音楽を語りつつしっかりと体制擁護を伝えようとしたのか、
その辺りカバレフスキーの真意のほどまでは分かりませんけれど。


ただやっぱり「それでもなぁ…」と思うところをちょっと引用させてもらいます。

小見出しに「革命の声に耳をすませよう」という部分です。

私たちの素晴らしい同時代人、ソビエトの作曲家、ドミートリー・ショスタコーヴィチは、その創作の初期にも成熟期にもロシア革命のテーマを扱い、いくつかの大作をそれに捧げました。

…ここ(交響曲第11番「1905年」)には、作曲家独自のメロディーと入れかわったりからみ合ったりして響く一つの節があります。これは、今世紀の初め、勇敢なロシアの革命家たちが自由のために闘いの旗を高くかかげながら創り出し歌った曲なのです。これらの歌はシンフォニーのメロディーに姿をかえ、歌詞なしで、複雑な形になったり変曲されたりして響いています。けれども、私たちの誰もがシンフォニーを聞きながら、特別説明されなくても、何が語られているのか、作曲家が何を表わしたかったのかを理解できるでしょう。

ショスタコーヴィチ の肩を持つわけではありませんけれど、
自作の交響曲が子供たちに向かってこのように説明されたことを

ショスタコーヴィチはたぶん苦笑いではすまない気分にいたのではなかろうかと思ったりしたのですね。


Wikipediaのカバレフスキーの項には、こんな一節があります。

「社会主義リアリズム」の擁護者であり、戦後の作風は「大衆的で平易で大当たりを取った」とは言われがちだが、このような評価は当時のソ連のどの作曲家にも当てはまる。

表面的には「当時のソ連のどの作曲家にも当てはまる」ことが

ショスタコーヴィチにも例外ではないと思うものの、
「社会主義リアリズムの擁護者」という部分はどの作曲家にも当てはまる評価ではないでしょうし、
どんな思いで曲作りをしていたのかは、それぞれの作曲家によって一様ではないものがありましょうし。


おっと、気が付いたら子どもための音楽の本の話からずいぶんと逸れてますが、

気がつけば「ショスタコーヴィチとカバレフスキーはスタンスが違う」との思い込みで進めてしまってます。

果たしてそれでいいのかどうか。


こうした思いつきもまた機会でありますから、

いささかなりともショスタコーヴィチ探究に向かってみるとしますかね…。

先日、TVで映画「借りぐらしのアリエッティ」が放送されてました。
見たことがなかったものですから、ついつい見てしまったのですね。


借りぐらしのアリエッティ [DVD]


見終わって思うところは、何とはなし「うむぅ…」という印象が拭えないといいましょうか。
何だか釈然とせんなぁと。


そこで、元々こういう話なのか、それとも映画化にあたってどの程度か手心を加えたのか、
原作であるメアリー・ノートン作「床下の小人たち」を読んでみようと思ったのでありますよ。


床下の小人たち―小人の冒険シリーズ〈1〉 (岩波少年文庫)/メアリー ノートン

それにしても時代の変化ということもありましょうか、
「床下の小人たち」がファンタジックな想像を掻き立てるタイトルと

受け止められた時代もあったのでしょうけれど、
「借りぐらしのアリエッティ」に比べると、今やキャッチーな度合いが低いかなとは思うところです。


オリジナル・タイトルは「The borrowers」ですから「借りる人たち」の意でありましょうけれど、
さすがに「借りる人たち」よりはまだ「床下の小人たち」の方が好奇心を擽るかも。


それでも、本文の中には「借り暮らし」という言葉が何度も出てくるのですから、
せめて「借り暮らしの小人たち」てなタイトルではどうだったでしょうか。
もっとも「借りぐらしのアリエッティ」という映画が出来た後だから思うことやも知れませぬが。


ところで、このタイトルでひとつ押さえておきたいのが、
元々は「The borrowers」ということで複数形だということですね。


これが映画にするときには「借りぐらしのアリエッティ」になっている。

つまり、借り暮らしをしている人たちのお話でなく、
アリエッティという少女を大きくクローズアップしたお話になっているというところでしょうか。


もちろん、原作でもアリエッティは話の流れを握っている人物ではありますけれど、
映画ほどアリエッティ中心というわけではなく、そしてアリエッティと男の子との関わりが
メイン・テーマになっているわけでもないのですね。


ここにやはりジブリらしさの手心が加わっているのだなと思うところでして、
映画の中のアリエッティは快活で物怖じせず、ちょっぴり自信家でしっかりした女の子という設定。
他のジブリ映画でいくらでも見られるキャラクターではないかと。


ですから、そうした女の子にとって

床の上の人間の住まいに出て行って何かしら「借りてくる」という行為jは、
いわば大人への通過儀礼として現れてくるわけです。

例えて言えば、「魔女の宅急便」でキキがほうきに乗って一人旅に出るといったことと同じでしょうか。


つまり、アリエッティの成長を見守る視点があることを考えても、

やはりどうしたってアリエッティに焦点が当てられた話になるという。


では、原作のアリエッティはどうかと言いますと、
映画では冒頭で庭の草木の間をアリエッティは走り回っていることと全く対照的に、
一度も床下から外へ出たことが無いという設定なのですね。


原作のアリエッティが「借りてくる」ことに関わるのは、
「こんな床下にずっと閉じ込められていて!」という思いの爆発があってのことでして、
環境は全く違うながら
ディズニー 映画「アラジン 」のジャスミン姫を思い出したりもするところです。
「外の世界はどんなだろう」という籠の鳥状態というわけで。


ただ、予めこうした状況があってこそ、
「人間に見られる」ことがいかに危ういことと小人たちが捉えているかが想像されるのではないかと。
映画のように庭を走り回っていて「見られなかったか」「大丈夫」てな具合の脅威で
済まされるものではないわけですね。


一方で、アリエッティとやりとりをする男の子ですけれど、
映画では14歳のアリエッティと同年代であると思われますが、原作では10歳の子どもです。


いかなアリエッティに(原作ではアリエッティの一家に)ご機嫌取りとはいえ、
やおら棲家の屋根をはずしてドールハウスのあれこれを持ち込むという行いには驚かされたのですが、
10歳の子どもならやっちゃうだろうねえと思ったり。


映画ではアリエッティとの淡い恋を醸すためにも14歳という年齢にしたのでしょうけれど、
小人たちは人間に見られること自体たいそうな危機意識を感じているのに、

この振る舞いはあまりに短慮と言わざるを得ないですものねえ。


ところで、原作の10歳の男の子はアリエッティだけでなく、彼女の父親とも母親とも言葉を交わします。
それに遠く離れたアナグマの巣に住まっているというアリエッティのおじさんに手紙を運んでやり、
返事をもらって帰ったりします。


そして、直接的に姿を見せるわけではないものの、
アリエッティの家族以外の人たちのことが話題に出たりすることで
「借り暮らしの小人たち」の様子というものを想像させることにもなるのですね。

ですから、やっぱり「小人たち」のお話なのですよ。


この物語の生まれ故郷たる英国では、

モーティマー夫人の不機嫌な世界地誌 」ではありませんけれど、

自国の利益のために他の小国(中には発展が遅れているという国々もあったけでしょうけれど)の

人びとに対して「人を人と思わぬ」振る舞いで相対してきた歴史がありますね。


それを本書が書かれた1952年頃ともなると(英国自体の凋落傾向も関わるように思いますが)、

「いつまでも植民地帝国の宗主国でなはない」ことからも、

いままでのお山の大将であったのとは違う目線が出てこようというものです。

「差別だの、搾取だの、そんなのいけん、いけん」と。


「そうしたことがこのファンタジーには入ってますよ」とまで言うつもりはありませんけれど、

読み手にはそうしたことも伝わりうるところではありますね。

「借りぐらしの小人たち」を、例えば「民族」みたいに捉えれば。


いかんせん、これをアリエッティと翔の物語にするということは

(それはそれでウェルメイドなのかもですけれど)
どうやらちっちゃくなってしまったのは物語そのものなのかもしれないなあとも思ったり。

たぶん考え過ぎでしょうけれどね。


そうそう釈然としないと思ったのは、元々イギリスの話を日本に置き換えながら、

アリエッティの家族は原作そのままの名前だったこともありますね。


借りぐらしの人びとが長らくそこに根ざしてきたとするならば、

そして外国映画のアテレコ的でなく日本語での会話が成り立つのならば、

文化的にも日本の要素を多分に背負っているはずと考えても不思議はありません。


が、そんなところへもってきて、アリエッティと翔と言われましてもね…。

やはり、そこだけにしかフォーカスされてない物語だったのだなと、

原作を読んで思ったわけでありました。

近くの図書館に行った折に「そうだ!」と思って、CDのコーナーを覗いてみたのですね。


ここのところ「忠臣蔵 」の探究に目が向いていたものですから、
その芝居のスピンオフのようにして出来上がった古典落語 があったはずと探してみたところ、
ありました、ありました。

決定盤!!特選 古典落語2 ベスト/VARIOUS ARTISTS


後に彦六を名乗った八代目林家正蔵師匠による「淀五郎」を収めたCDを借りてきたのですよ。


この「淀五郎」という一席は、沢村淀五郎という役者のお噺。
一座の興行で「仮名手本忠臣蔵」の四段目をやることになりましたが、
塩冶判官を演ずるはずだった役者が病いにかかって、その代役に大抜擢されたのが淀五郎であったと。


仮名手本の四段目は

刃傷沙汰を起こした塩冶判官(要するに浅野内匠頭ですな)の切腹場面が見せ場でありまして、

部屋の外に控えた塩冶家の家来一同、「ひと目なりともお目通りを!」と願い出ますが、
筆頭家老の大星由良助が来ぬうちは罷りならんとして、「由良助はまだか!」と言うも現れない由良助。


やがて判官は腹に一刀突き立てるところとなりますが、
ようやく現れて平伏したのが由良助と知った見届け役の方から「ちこう、ちこう(近くへ近くへ)」の声が係ると、
即座に寄り添った由良助に判官が「待ちかねたぞ、由良助」と言って落命するという…。


さて、この芝居を淀五郎の判官、座長の市川團蔵が由良助で幕を開けたのでありますが、
切腹シーンに差し掛かり、現れた由良助に「ちこう、ちこう」と声が掛かっても、

いっかな由良助は判官に近寄らない。


淀五郎はどうしたことかと思いながらも、次の日もその次の日もやっぱり由良助は近づかないので、
座長にお伺いを立てたところ「本当に腹を切るぐれえでないと…」てな話になって

すっかりその覚悟をするという。


近くで別の興行をやっていた中村仲蔵 親方には日頃何かと世話になったと暇乞いに言ったところが、
筋違いの芝居をしていたのではと諭されて帰った翌日。
ようやっと近くへやってきた由良助に淀五郎判官のひと言「待ちかねたぞ、由良助」で下げとなります。


同じ仮名手本の五段目、定九郎の役作りで苦労した中村仲蔵親方ですから、
淀五郎への諭しにも人情が染みるところでありますけれど、
それにしても本来この話は仮名手本をよく知ってる前提で作られていたのでしょう。
でないと、下げが分からない…。


そこんところを正蔵師匠はさらりと仮名手本入門編みたいな話を前振りしてくれるものですから、
無理なく笑えるものになっていたのではと思うのでありますよ。


さて、忠臣蔵の噺も師走がらみなら、同じCDに入っていた「御神酒徳利」もまた師走のお話。
今でいう大掃除に当たる「煤掃き」から噺が始まるのですから。

六代目三遊亭圓生師匠で聴きます。


年末休みに入ってばたばた行うのが大掃除てな印象ですけれど、
江戸の頃合いは12月13日と日にちの決まった大仕事だったようで。


お店の煤掃きをしたところが、どうした加減か将軍家拝領の御神酒徳利が見当たらないと大騒ぎに。
使用人の善六が家へ帰ってふっと思い出してみれば、「大事なもんだから、とりあえず水瓶の中に」と
自分が御神酒徳利をしまいこんだことに気がついた。


さりながら、いまさらと決まりが悪くて言い出しかねているところへ、
女房が「そろばん占いでもって、失せ物の在り処が分かりましたってことにしちまいなよ」と

唆すんですなぁ。


戸惑いながらもその手のほかに道はなしと善六がやってみますと、
自分が置いた場所を占いのごとく見せかけただけとは誰も思わず、

「たいへんな占いもあったものだ」とまた大騒ぎ。


さらには、お店に来ていた大坂は鴻池の番頭さんがこれを聞きつけて、「ぜひお力をお貸しください」と。

礼金に釣られて番頭共々大坂に行くことにしたものの、

いざというときにはすぐに逃げ出すことを考えていた善六に、
神奈川で泊まった宿でも失せ物探しの話が舞い込んでしまうという。


さて、本当はできもしないそろばん占いの名人にされてしまった善六のそののちは…。
先ほどの「淀五郎」のような噺よりも、ずっと新鮮味が肝心の笑いどころになると思いますので、
これ以上はお聴きになってのお楽しみということで。


落語ですから面白おかしく仕立ててあるものの、
この一席を聴いて思ったのは「情けは人のためならず」ということでありますかね。


最初の御神酒徳利探しこそ「嘘も方便」のうちであったかと思いますけれど、
その後は善六自身が思いもよらぬ展開ばかりのうちにも、
「人に情けをかければ回りまわって自分のためになる」てな因果応報的なところを
優しく伝える術になっているような気がしたのですね。


とまあ、そんな堅い事を言わずにストレートに笑ってた方がいいかもですが。
どうでしょ、来るお正月には落語をお楽しみいただくというは。

泉岳寺 に行ってきたといいましたけれど、目的地の単純往復では面白くないものですから、
JR山手線の田町駅で下車し次の品川駅まで歩くことにして、途中の泉岳寺に寄るという形、
しかも第一京浜国道(旧東海道の一部)沿いに歩けばまっすぐですけれど、

それもまた味気ないものでして、右往左往しつつも

スタンプラリー的なチェックポイントをクリアしていくように歩いてきたのでありました。


まずは田町駅を西側、つまり山手線の内側方向へ出ると目の前には第一京浜ですが、
これに沿って右手(日本橋方向)に進みますと、程なく日比谷通りと合流する芝五丁目交差点にでます。
その横断歩道のところに、「西郷南洲・勝海舟会會見之地」碑があるのですね。


「西郷南洲・勝海舟会會見之地」碑


まだ西郷隆盛が駿府城にいるときに

官軍包囲網をすり抜けて使いにやってきた山岡鉄舟 の意気を感じたのか、
東進してきた西郷は勝海舟との会見に応じ、結果江戸城無血開城が約されるという、

あの会見場所であります。


と一端は幕末気分となったところで、第一京浜を渡ってまた田町駅方向に引き返すと、
右手に慶應仲通りなる小路が見えてきますので、ここに入り込むのですね。


おそらくは慶應の学生にも重宝される飲食店が軒を並べる狭い道ですが、
道が左手に折れるその角のところにひっそりと「水野監物邸跡」という説明板が建てられています。
(とってもわかりにくいので、うっかりすると見過ごす可能性大かと)


水野監物邸跡


今では名残りの何もないところですが、岡崎藩水野家の邸跡でありまして、

吉良上野介を討ち果たして泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に報告をした後、

赤穂浪士 の面々は4つの大名家に分けてお預けとなり、

神崎与五郎ら9名がこの水野邸で切腹となったという…。


そのまま慶応仲通りを突き抜けて桜田通りを右折、

三田通り交番前の信号の次の角を左に入ってだらだら坂を上って行きますと、

左側に大きな敷地のイタリア大使館が現れますが、ここは元伊予松山藩松平家の邸であって、

ここでも大石主税ら10名がお預け、切腹した場所なのですね。


外交問題にならないよう即座に退散しますが、平日なら庭園見学などできるらしいです。

とまれ、そのままイタリア大使館を廻り込むようにして、三田綱町(鬼退治の渡辺綱ゆかりらしい…)を過ぎ、

首都高の下を抜けると麻布三の橋に至ります。


そこからほどなく曹溪寺というお寺さんに到着。

ここは映画「最後の忠臣蔵」で取り上げられた寺坂吉右衛門の墓所なのですが、

ご住職(らしき方)に「何か?」と問われて、「これこれこうこう」と来意を告げると、

「申し訳ないが、非公開なので。檀家さんのためのものだから」と至極もっともなお答え。


神妙に退散を致したわけですが、ご住職(らしき方)のお顔つきからするとですね、

言葉は丁寧ながら、さぞや迷惑蒙ってるかもしれんなぁと思うところでありますね。


やっぱり赤穂浪士の生き残りともなると、

そも討ち入りに加わらない脱盟者とも思われてしまったことなどもあるのかも…。

ですが、「墓まいらー 」もほどほどにと肝に銘ずるところでありましたので、

行き方もかなり端折って書きました(今のご時勢、どうなりとも調べられるでしょうけれど)。


さて、三の橋の大通りに戻ってしばし南下、左手に魚籃坂を見てこれを登っていき、

桜田通りとの交差点を渡ってから左に折れ…と、たどり着いたは長松寺。


今度は妙に細かく書いてますが、こちらはちゃあんと道端のインフォメーション地図にも

「荻生徂徠墓所」という案内が出ていますので、訪ねてもOKということなのでしょう。


荻生徂徠之墓


これまた唐突に荻生徂徠の登場ですけれど、討ち入り果たした赤穂浪士の処断を巡る議論の中で、

私闘を許すは公儀の面目立たずとして(こういう言い方ではなかったかもですが)

断固切腹を主張し、実際その通りになったことから四十七士とは大いに関係ある存在なのでありました。


いったん魚籃坂に戻り、そのまま途中のカレーハウスを過ぎて右折するのですが、

カレーハウスとは荻生徂徠以上に唐突ですな。


英国式カレー Sunline


でもですね、わざわざ「お水はいっさい出しません」というのが気になりますよねぇ。

もっとも「英国式のカレーって、そもそもどんな?」とも思いますし。

返す返すも休業日だったのが残念でありましたよ。


ところで魚籃坂を右折し、都営高輪一丁目アパートの角もまた右折してしばし進んだ先の小さな案内掲示、

これに従っていくと「大石良雄外十六人他忠列の跡」に至ります。


「大石良雄外十六人他忠列の跡」


先に触れた赤穂浪士お預けの場所のひとつ熊本藩細川邸の跡でありまして、

首謀者大石内蔵助他16名が切腹をしたのが、この場所ということになります。


さて一旦、さきほどの都営高輪アパートの角までもどって通りを渡り、

ほんの少々魚籃坂方向に戻って歯医者の先の角を右折します。


この細い坂道を降りていきますと、こんなに入り組んだ狭い路地がまだ残っているかてなふうな道でして、
道なりに右折左折を繰り返しながら進んでいくと、やおら泉岳寺の山門前に到着するのですね。


で、泉岳寺のことは先に書きましたので、泉岳寺参詣の後のお話。

参道を真っ直ぐに進むと第一京浜に出ますので、これを右折して高輪二丁目の交差点の次の角を

右に入って坂を上り詰めると東禅寺というお寺さんに到着します。


最初のイギリス公使館跡 東禅寺


またしても幕末の話に戻りますが、最初のイギリス公使館が置かれたのがこのお寺さんだろうで。

ここから第一京浜に戻ってしばらく南下すれば、品川駅に到着となりますが、
結果的に幕末に始まり忠臣蔵を経てまた幕末に戻るというお話…おあとがよろしいようで。