少し前にロシアの作曲家カバレフスキー に触れて、
子どもたちの音楽教育に取り組んだてなことを書きましたけれど、
子どもが「音楽」に興味を持てるようにと書かれた本を出しているのだとか。
そこで、近所の図書館でカバレフスキーを検索してみますと、
「道化師」のギャロップなどが収められたCDに混じって、本が一冊ヒットしました。
題して「三頭のくじらとその友だち」。
もし開架で並んでいるところを見かけても、
音楽書コーナーでは「間違いでないの?」と思うのようなタイトル。
ですが、カバレフスキー先生は音楽への興味を抱かせる入口に三頭のくじらを持ってきて、
音楽を支えるものとして紹介しているのですね。
この「支えるもの」という部分は、
昔々この世界は「地球」というような球体とは思ってもみなかった時代、
大地は何かに支えられてあるという考え方がありましたよね。
いちばん下にはでっかい亀が踏ん張っていて、その上で三頭の象が支え…といったような。
この三頭の象に相当するような「支えるもの」、これが三頭のくじらが出てくる由縁なのですが、
ロシアの伝承ではくじらなんですかねえ…。
とまれ、この三頭のくじらでありますが、音楽を支えるという言い方をしますと、
三つの要素としてはリズム、メロディ、ハーモニーてなことが浮かんできたりするところですけれど、
カバレフスキー先生はもそっと子どもに寄った形のイメージを提示するのですね。
ずばり!三頭のくじらによって象徴されているものは、歌、踊り、行進、この3つだと言うわけです。
特別に「音楽」なるものを意識しなくとも、これらには親しんでいるでしょう、ね!ということのようで、
「音楽の勉強をしましょう」と言われると「げげっ!」となる子どもたちも
「みんなで歌いましょう、踊りましょう、行進しましょう」となれば「は~い!」となりますね、
とカバレフスキー先生は言うのですね。
歌と踊りは分からなくもないですが、行進ってのはどうなんでしょ?
「なんとなくソヴィエト?」みたいな気がもしてしまうところでして。
本書ではさまざまな踊りとしてロシアのものばかりでなく他の国の踊りの形式である、
ポロネーズやマズルカ、そして古いところではメヌエット等なども紹介して、
メヌエットが使われているところからシンフォニーに触れていったりと
確かに子供向け音楽啓蒙書といった感はありますけれど、
ソヴィエトの体制、政策を称揚することが前提になっている気がするという。
当時(出版は1972年)は、こうでもしないと
子供向けの本も出せないといった状況であったかとも想像しますが、
それでも子どもに向けた本を書きたいという熱意にまさるところがあったのか、
それとも音楽を語りつつしっかりと体制擁護を伝えようとしたのか、
その辺りカバレフスキーの真意のほどまでは分かりませんけれど。
ただやっぱり「それでもなぁ…」と思うところをちょっと引用させてもらいます。
小見出しに「革命の声に耳をすませよう」という部分です。
私たちの素晴らしい同時代人、ソビエトの作曲家、ドミートリー・ショスタコーヴィチは、その創作の初期にも成熟期にもロシア革命のテーマを扱い、いくつかの大作をそれに捧げました。
…ここ(交響曲第11番「1905年」)には、作曲家独自のメロディーと入れかわったりからみ合ったりして響く一つの節があります。これは、今世紀の初め、勇敢なロシアの革命家たちが自由のために闘いの旗を高くかかげながら創り出し歌った曲なのです。これらの歌はシンフォニーのメロディーに姿をかえ、歌詞なしで、複雑な形になったり変曲されたりして響いています。けれども、私たちの誰もがシンフォニーを聞きながら、特別説明されなくても、何が語られているのか、作曲家が何を表わしたかったのかを理解できるでしょう。
ショスタコーヴィチ
の肩を持つわけではありませんけれど、
自作の交響曲が子供たちに向かってこのように説明されたことを
ショスタコーヴィチはたぶん苦笑いではすまない気分にいたのではなかろうかと思ったりしたのですね。
Wikipediaのカバレフスキーの項には、こんな一節があります。
「社会主義リアリズム」の擁護者であり、戦後の作風は「大衆的で平易で大当たりを取った」とは言われがちだが、このような評価は当時のソ連のどの作曲家にも当てはまる。
表面的には「当時のソ連のどの作曲家にも当てはまる」ことが
ショスタコーヴィチにも例外ではないと思うものの、
「社会主義リアリズムの擁護者」という部分はどの作曲家にも当てはまる評価ではないでしょうし、
どんな思いで曲作りをしていたのかは、それぞれの作曲家によって一様ではないものがありましょうし。
おっと、気が付いたら子どもための音楽の本の話からずいぶんと逸れてますが、
気がつけば「ショスタコーヴィチとカバレフスキーはスタンスが違う」との思い込みで進めてしまってます。
果たしてそれでいいのかどうか。
こうした思いつきもまた機会でありますから、
いささかなりともショスタコーヴィチ探究に向かってみるとしますかね…。
