大きな地震がありました。


ちょうど昨日は勤務先で仕事中でした。

最初は「あ、地震だ」と言っても、多少揺れるくらいのことは珍しくもなんともありませんから、

驚きもしませんでしたけれど、そのうちに「ずいぶん、長く揺れるなぁ」と思ったあたりで

「これはぁ?!」と揺れが大きくなりました。


即座にYahoo!のトップ画面を出してみると、

宮城県だったかな、ともかく東北の方で地震があったと報じていたのですが、

そっちの方の地震で東京がこれほど揺れることってあったかなぁと。


後から知ったところでは、どうやら震度5弱だったようで、

これ以上の揺れだと本当にまずいことになるなという線を知った思いであります。


建物からの退避指示に従って、建物前の広場に出たときにも

微妙な余震で船に乗ったときのような感じで、

揺れが終わってるだろうのになんとなくゆらゆらしているような気がしたものです。


やがて、帰宅可能な人は移動してよしとアナウンスがあったのですが、

電車はいっさい動いておらず、駅は人でごったがえしている始末。

やっぱり東京で、これ以上の地震が起きたら、

とにもかくにもアウトだなと、これは確信ですね。


幸い自宅がさほど遠くないので歩いて帰宅しました。

同じ方向、逆方向、歩いてる人がたくさんいましたけれど、

中には決して近くないところまで歩く方もおいでだったのでしょうねえ。

遠距離通勤にならざるをえない東京って…なんてことも思ったり。


帰宅してテレビを見ると、もうこれは大変なことになっているわけです。

おそらくは皆さんもご存知のとおり。


昨晩も東京でも何度か揺れを感じましたし、

今に至るも東北ばかりか長野や新潟などまでの広域で断続的に地震が起こってますから、

いったいどうなっちゃうんだろうかと思ってしまうところです。


より震源に近いところや原発のお近くの方々にはまだまだ心配の尽きないところですけれど、

なんとか被害が広がらないことを祈らずにはおられません。

「汝の隣人を愛せよ」ではありませんけれど、
本来的にイエス の教えというのはシンプルで素朴でありますね。


深いことを言い出すと「愛」の概念がどうのとなってしまいますけれど、
隣人の身を我が身と同じように考えてそれぞれが接すれば、平和ではないかというような。


ところがどうもその後の展開を見る限りでは、
この寛容の精神はどこへいっちゃったのかいね?と思しき歴史の場面場面に

突き当たったりしますね。(今でもというつもりは毛頭ありませんけれど…)


もともとシンプルな教え、諭しであったものが、
宗教として一本立ちしていく過程で教義やら教理やら儀式やら、

理論武装のよろいを纏っていくにつれ、
他者(キリスト者以外)に不寛容になっていったような。


新大陸アメリカの先住民 たちへの対応も、
また欧州域内でも異端や魔女と目した人たちを次々火あぶりにしていったりしたことも。

(宮廷画家ゴヤ が見たような…)


ですが、歴史におけるキリスト教の不寛容は、実はかなり早くからあったのだなぁと
映画「アレクサンドリア」を見て思ったわけです。


映画「アレクサンドリア」


映画の中で語り起こす年代は紀元391年であります。
ローマ帝国治世下のエジプトはアレクサンドリアが舞台となりますけれど、
そもローマ帝国自体がほどなく(395年)東西に分裂するわけでして、
帝政ローマにとっての世紀末という頃合でもありましょうか。


かつては目の仇にされたもののローマ帝国が国教とすると、
その版図のあらゆるところでキリスト教は広がりを見せたとしても、まあ不思議ではない。
アレクサンドリアでもまたしかりという。


ところが、土着の信仰に帰依している人たちもキリスト教徒も
「こっちの神様のがえらいんだぞぉ」的な争いに陥ってしまうのですね。
しかも、土着組が比較的統治者層に多い(まあ、保守的とも言えますね)わけですが、
キリスト教はいわゆる民衆に浸透していってますから、
争いといっても、ある種革命の暴動みたいなところもあるわけですね。


元よりローマ帝国自体がキリスト教という大きなお墨付きがありますから、
争いを制したキリスト教側は権威を纏うことになってしまいまして、
「お前はまだキリストの教えを信じぬのかな?不届き者め!」みたいになるという。


こうした不届き者のアイドル(偶像ですね)とされてしまったのが、
実在した女性天文学者・哲学者・数学者であったヒュパティア(レイチェル・ワイズ )でしょうか。

(何とか学者・何とか学者と連ねましたけれど、この頃の学問はボーダーレスですよね)


学者ならではなのか、ヒュパティアは必ずしも何の宗教が言い悪いということでなくって、
科学を信奉していたことで、キリスト教には帰依しない方向であったのでしょう。


何しろ、天体の観測から導き出すのは地動説であり、
しかも惑星の楕円軌道にまで思い至るとあっては、
単に教えを信じないどころか、「動いているのは地球の方」などと神をも恐れぬ研究となれば
不届きどころではなくなってしまうわけです。


後の言い方からすれば、不埒な言説で大衆を惑わす魔女てなことになるのでしょう、
最後には死に至らしめられてしまうのですね。
(映画では、いささかのロマンティックさを塗して描いていますが)


それにしても、映画の冒頭、

ヒュパティアが広く学問を語り伝える場面で取り上げられていたのは何と!

万有引力のお話でありますし、実在した人物とはいえ、どこまでが本当の話なのかとは思うものの、
地動説も惑星の楕円軌道も1000年以上もお蔵入りしてしまうとなれば、
歴史に「もし」は無いもののヒュパティアが独自の研究を続けていたらどうなっていたろうか…
てなことを想像せずにはいられないような。


もっともキリスト教の不寛容なかりせば…とは、
歴史のいろんなところで「もし」を生み出すものではありますが。

雑誌の「PEN」(本屋でぱらぱらと見るだけで、ついぞ買うには至りませんが)がサポートしている
「ECO & ART AWARD 2011」 応募作の展示に立ち寄ってみたのですね。
新宿のコニカミノルタプラザが会場であります。



「ECO&ART AWARD 2011」@コニカミノルタプラザ

あらゆるところで「エコ」が気に掛けられるご時勢ですので、
畢竟アートの世界でもエコが扱われることになるというわけでありましょう。


ビジュアルアーツ部門とプロダクト&コミュニケーション部門、

二つの部門にわたって実にいろいろな創意工夫が見られるのですけれど、
見に来た人たちにも気に入った作品に投票してもらって受賞作を決めようということらしく、
募金箱に100円を投じて投票券を購入(100円寄附すると投票券がもらえるというべき?)するという。


入り口近くでの呼びかけではちと違った言い方でして、
100円の募金に協力すると、伊勢谷友介さんがデザインしたバッヂがもらえ、
そして、ついでに?投票券が付いてくるといったふうでしたでしょうか。


伊勢谷友介さんデザインのバッヂ

で、伊勢谷友介さんって誰よ?ということなんでありますが、
もちろんアメリカ映画の
「ブラインドネス」 にも出ていた俳優とは知っていたものの、
芸大美術出身で美術家(?)とも言われているとは、いささかも認識するところではなかったので、
「バッヂはどうでもいいから、投票券ください!」てな感じだったかも。


そのバッヂがこんなんですが、
だいたいこの手のバッヂってのは、何か使い途がありましょうかねえ。
持ち帰ってしばらくは、どこかしらに放置され、捨てられちゃうんではないかと。
エコを看板にしたイベントに果たして相応しいのやらどうやら??


とまあ、それは余談でありまして、出展作の方のことですけれど、
より実用的なプロダクト&コミュニケーション部門の方が面白かったような。
実際、すぐにも使えそうなものがいくつかありましたし。


一巡りしてちょっと気を引かれたのが、文庫本を買ったときの袋でもあり、
その後はそのままブックカバーにもできるという包装用紙。

題して「BOOK COVER BAG」(まんまですな)。


一瞬、便利かなとも思ったんですよね。
確かに、この作品に投票している人は結構いたようです。

投票箱代わりに牛乳の空き瓶(この辺りもエコ意識なのでしょう)が置いてあるので、
投じた票の多寡が外側から分かるものですから。


ではありますけれど、よおく考えたら、
所詮紙なのでブックカバーとしてもさほど使い回しがきくわけではないですから、
買った本を家に持ってかえるだけの袋よりはマシですよということかなと。


それだったら、買ったときに袋はもらわずに、
その上で革(合成皮革でも何でもいいんですが)のブックカバーを

使ったらいいんではないかと思った次第です(あくまでエコ的にですが…)。


で、結局のところですけど、

骨の修理が簡単にできる傘というのに一票投じてきたのでした。


以前、ひどい風雨のときだったですが、コンビニの店外にあるゴミ箱に、
ひしゃげて悲惨な状態になった何本ものビニール傘が突っ込まれていたのを見たのですね。


この手の傘は修理するより新しく買っちゃった方が安いとしても、
このうち捨てられ方はひどいものだと思ったわけです。


作るときには生産ラインが出てきていて、機械に作らせるからコストが抑えられ、
一方で修理はと言えば、ひとつひとつ手作業ですから労賃が掛かることになる。
でも、自分で簡単に修理できるとなれば、労賃を意識することもないですから、
買うよりも安上がりと思えるのではなかろうかと。


それで思うんですが、技術を進歩させていく先の一つのあり方として、
「自分で修理が簡単にできる」という点があってもいいのではないですかね。


長く使えば使ったなりの愛着も生まれますし、尚のこと長く使う気になるのではないかと。

今の世の中は余りに買い替えさせようという魂胆に支配されてすぎてますよね。
メーカーの人たちは、その辺りを何とも思わないのでしょうかねえ…。


おっと、展示の話から飛躍してしまいました。
ともあれ、一つ一つの作品にはそれぞれの作者が思うところの「エコ」意識が詰まっていて、
「そうだよなぁ」と思ったり、「そうではないんでない?」とも思ったりするところから、
また新たな意識が生まれてくるような…。


そうしたきっかけになるイベントなのですから、やっぱりバッヂはどうも…。
(まだ、言ってる…)


そうそう、同時開催している写真家マイケル・ニコルズによる

野生動物の写真展も見ものでありますよ(孤高の白サイとか…)。


マイケル・ニコルズ写真展@コニカミノルタ・プラザ

文彦は新聞を無造作に折りたたむと、深い吐息を漏らした。


「こんなカンニングが…」




ひと月ほど前、文彦は勤務先の学校で入学試験の監督業務に当たった。
100名ほどの受験生が入る教室の担当で、監督は5人。
文彦は、そのチーフを任されていた。


受験室へ向かう前に、問題の配付や答案の回収など5人の監督の分担を決めていく中で、
文彦はそのときの自分の言葉を思い出していた。


「監督は何のためにいると思いますか?」


受験室では、試験開始の告げられるまでにやらなければならないことがたくさんあった。
受験票を忘れた者はいないかの確認。
試験中、机の上に置いたままでよいものの説明。
携帯電話などに関する注意。
問題、解答用紙の配付。
そして、替え玉受験防止のための写真照合などなど。


ところが、いざ試験が始まってしまうと、とたんに手持ち無沙汰に思えてくる。
もちろん巡回をすることもあるが、5人の監督がひっきりなしに傍を通り過ぎるようでは
受験生の気が散るであろうことは、想像に難くない。


試験開始前と終了後に配付やら回収やらを迅速に行うだけならば、
その時だけ人手を手当てすれば済むことだが、
試験期間中にも当てられた監督は受験室の中にいるのである。


「監督は何のためにいると思いますか?」


カンニングの防止に目を光らせる?
それもあろう。


しかし、文彦が同じ受験室で監督に当たる者たちに知っておいて欲しかったのは、
そうこうことではなかった。


受験生は、この日のために一所懸命に受験勉強をやってきたはずだ。
その実力を遺憾なく発揮してこそ、試験にも意味がある。
本人も合否に納得がいくだろう。


それだけに、受験生が何かしらの意志表示として手を挙げたときには即応してやらなければならない。
トイレかもしれない、気分が悪いのかもしれない、鉛筆を落としてしまったのかもしれない…。
いずれにしても、困っていることには間違いないのだから。


受験生の人数が多い教室に多くの監督が置かれるのは、
こうした点に目端を行き届かせるためだと文彦は思っていた。
だから、監督が手持ち無沙汰であるはずがないと。




事件の続報では、

「カンニングを見過ごした監督の体制」が問題となっていることを告げていた。


こうした指摘がなされるということは、世間ではそもそも試験監督が、
例えは悪いが受刑者が黙々と作業を怠らずにこなすための監視役ででもあるかのように

考えているということなのだろうか。


一挙一動をも見逃すまいという監視の目が

何人もの監督から向けられる中で試験が行われるべきとするならば、
受験生の実力発揮などお構いなしということなのだろうか。


「そんな悠長なことを言っているから、巧妙なカンニングを見落として、公平性を欠くことになるんだ!」


文彦は自分の行いに罵声を浴びせられたような気がした。
そうした言い分も分からないではない。
が、しかし…と文彦は思う。


何かが違っている。
もっともっと大きな何かが違っている…。

オペラは日程と懐具合の調整さえつけば「出かけようかな」とは思うところではありますけれど、
振り返ってみると、どうもオペラというものを芝居の延長として見ているところがあるなぁと
今さらながらに気付いたわけです。


いわゆる「オペラ通」の人たちとは違う見方をしているんだろうなと思いますし、
その辺が、いつも言いますように「半可通」の真骨頂ではありましょう。


でもって、どこら辺が違うのかと言うと、
いちばん特徴的なのは出演者をあんまり気にしてないということでしょうか。


これはオーケストラの演奏会でも、

例えば「このソリストが、コンチェルトを弾くから行こう!」ということが
およそ無いこととおんなじかもしれません。

再現芸術の機微をあんまり気にしてないということになってしまいましょうかね。


それでも、よぉく考えてみれば、人の声というのは楽器の中で(あえて楽器と言いますが)
何よりも個性的な楽器ではなかろうかと。


ここで「声紋認証ができるくらいだけんね」と妙に科学的なことを持ち出すまでもなく、
弾き方のくせとかいうレベルでなくして、

決定的に音色が違う、ひとつとして同じ音を出す楽器がないからですね。


今さらながらにそんなことに思い当たってみると、
人の声という楽器が持つ音色に着目してもいいのかなと思ったわけです。


ふとそんなことを思いつつ、
オーケストラ・コンサートながらソプラノの独擅場という演奏会を聴いていたのですね。
題して「エヴァ・メイ=オペラ・アリアの夕べ」であります。


「エヴァ・メイ オペラ・アリアの夕べ」


だいたい、歌手の方がリサイタルでオペラのアリアを歌う演奏会というのは多々ありましょうけれど、
フル・オケをバックにというのは、なかなかに贅沢な企画ではないかと。


ピットに隠れたオケではなくってステージ上にでん!と構えたオーケストラは

(それなりの加減はあるにしても)極めてパワフルに音を出してきますから、

これに対抗するソリスト(歌手です)もその楽器(声です)を
フル稼働してるんではなかろうかと思ったりするわけです。


でもって、今回のヒロインであるエヴァ・メイの歌声は?ということになるんですが、
(素人の言い分ですからそれなりに受け止めていただきたいところながら)
「無理がない発声だなぁ」ということなんですね。


オペラ歌手の方々は皆さん、練習に練習を重ねているわけですから、
傍で見ていて感じるほどではないのでしょうけれど、
どうも「いきり立って声を出してんでないかい?」というふうに見える(聴こえる)ことがままあります。


が、この方はとっても自然に、それ故の伸びやかさを持って歌ってらっしゃる。
これには、好感が持てますよね。


いちばん最後に歌ったドニゼッティ 「連隊の娘」からのアリアあたりで出てくる高音部分などは、
ちと薄さが感じられるものの、シルクの手触り(誇張が過ぎますが)であって、
例のいきり立ちよりはむしろ心地よいような気がします。


…てなわけでして、歌ものをお好みの方から見れば、何を今さらということにはなりましょうけれど、
ま、今少し「声」という楽器に目を向けてもいいのかなと思ったのでありました。