文彦は新聞を無造作に折りたたむと、深い吐息を漏らした。


「こんなカンニングが…」




ひと月ほど前、文彦は勤務先の学校で入学試験の監督業務に当たった。
100名ほどの受験生が入る教室の担当で、監督は5人。
文彦は、そのチーフを任されていた。


受験室へ向かう前に、問題の配付や答案の回収など5人の監督の分担を決めていく中で、
文彦はそのときの自分の言葉を思い出していた。


「監督は何のためにいると思いますか?」


受験室では、試験開始の告げられるまでにやらなければならないことがたくさんあった。
受験票を忘れた者はいないかの確認。
試験中、机の上に置いたままでよいものの説明。
携帯電話などに関する注意。
問題、解答用紙の配付。
そして、替え玉受験防止のための写真照合などなど。


ところが、いざ試験が始まってしまうと、とたんに手持ち無沙汰に思えてくる。
もちろん巡回をすることもあるが、5人の監督がひっきりなしに傍を通り過ぎるようでは
受験生の気が散るであろうことは、想像に難くない。


試験開始前と終了後に配付やら回収やらを迅速に行うだけならば、
その時だけ人手を手当てすれば済むことだが、
試験期間中にも当てられた監督は受験室の中にいるのである。


「監督は何のためにいると思いますか?」


カンニングの防止に目を光らせる?
それもあろう。


しかし、文彦が同じ受験室で監督に当たる者たちに知っておいて欲しかったのは、
そうこうことではなかった。


受験生は、この日のために一所懸命に受験勉強をやってきたはずだ。
その実力を遺憾なく発揮してこそ、試験にも意味がある。
本人も合否に納得がいくだろう。


それだけに、受験生が何かしらの意志表示として手を挙げたときには即応してやらなければならない。
トイレかもしれない、気分が悪いのかもしれない、鉛筆を落としてしまったのかもしれない…。
いずれにしても、困っていることには間違いないのだから。


受験生の人数が多い教室に多くの監督が置かれるのは、
こうした点に目端を行き届かせるためだと文彦は思っていた。
だから、監督が手持ち無沙汰であるはずがないと。




事件の続報では、

「カンニングを見過ごした監督の体制」が問題となっていることを告げていた。


こうした指摘がなされるということは、世間ではそもそも試験監督が、
例えは悪いが受刑者が黙々と作業を怠らずにこなすための監視役ででもあるかのように

考えているということなのだろうか。


一挙一動をも見逃すまいという監視の目が

何人もの監督から向けられる中で試験が行われるべきとするならば、
受験生の実力発揮などお構いなしということなのだろうか。


「そんな悠長なことを言っているから、巧妙なカンニングを見落として、公平性を欠くことになるんだ!」


文彦は自分の行いに罵声を浴びせられたような気がした。
そうした言い分も分からないではない。
が、しかし…と文彦は思う。


何かが違っている。
もっともっと大きな何かが違っている…。