「汝の隣人を愛せよ」ではありませんけれど、
本来的にイエス の教えというのはシンプルで素朴でありますね。


深いことを言い出すと「愛」の概念がどうのとなってしまいますけれど、
隣人の身を我が身と同じように考えてそれぞれが接すれば、平和ではないかというような。


ところがどうもその後の展開を見る限りでは、
この寛容の精神はどこへいっちゃったのかいね?と思しき歴史の場面場面に

突き当たったりしますね。(今でもというつもりは毛頭ありませんけれど…)


もともとシンプルな教え、諭しであったものが、
宗教として一本立ちしていく過程で教義やら教理やら儀式やら、

理論武装のよろいを纏っていくにつれ、
他者(キリスト者以外)に不寛容になっていったような。


新大陸アメリカの先住民 たちへの対応も、
また欧州域内でも異端や魔女と目した人たちを次々火あぶりにしていったりしたことも。

(宮廷画家ゴヤ が見たような…)


ですが、歴史におけるキリスト教の不寛容は、実はかなり早くからあったのだなぁと
映画「アレクサンドリア」を見て思ったわけです。


映画「アレクサンドリア」


映画の中で語り起こす年代は紀元391年であります。
ローマ帝国治世下のエジプトはアレクサンドリアが舞台となりますけれど、
そもローマ帝国自体がほどなく(395年)東西に分裂するわけでして、
帝政ローマにとっての世紀末という頃合でもありましょうか。


かつては目の仇にされたもののローマ帝国が国教とすると、
その版図のあらゆるところでキリスト教は広がりを見せたとしても、まあ不思議ではない。
アレクサンドリアでもまたしかりという。


ところが、土着の信仰に帰依している人たちもキリスト教徒も
「こっちの神様のがえらいんだぞぉ」的な争いに陥ってしまうのですね。
しかも、土着組が比較的統治者層に多い(まあ、保守的とも言えますね)わけですが、
キリスト教はいわゆる民衆に浸透していってますから、
争いといっても、ある種革命の暴動みたいなところもあるわけですね。


元よりローマ帝国自体がキリスト教という大きなお墨付きがありますから、
争いを制したキリスト教側は権威を纏うことになってしまいまして、
「お前はまだキリストの教えを信じぬのかな?不届き者め!」みたいになるという。


こうした不届き者のアイドル(偶像ですね)とされてしまったのが、
実在した女性天文学者・哲学者・数学者であったヒュパティア(レイチェル・ワイズ )でしょうか。

(何とか学者・何とか学者と連ねましたけれど、この頃の学問はボーダーレスですよね)


学者ならではなのか、ヒュパティアは必ずしも何の宗教が言い悪いということでなくって、
科学を信奉していたことで、キリスト教には帰依しない方向であったのでしょう。


何しろ、天体の観測から導き出すのは地動説であり、
しかも惑星の楕円軌道にまで思い至るとあっては、
単に教えを信じないどころか、「動いているのは地球の方」などと神をも恐れぬ研究となれば
不届きどころではなくなってしまうわけです。


後の言い方からすれば、不埒な言説で大衆を惑わす魔女てなことになるのでしょう、
最後には死に至らしめられてしまうのですね。
(映画では、いささかのロマンティックさを塗して描いていますが)


それにしても、映画の冒頭、

ヒュパティアが広く学問を語り伝える場面で取り上げられていたのは何と!

万有引力のお話でありますし、実在した人物とはいえ、どこまでが本当の話なのかとは思うものの、
地動説も惑星の楕円軌道も1000年以上もお蔵入りしてしまうとなれば、
歴史に「もし」は無いもののヒュパティアが独自の研究を続けていたらどうなっていたろうか…
てなことを想像せずにはいられないような。


もっともキリスト教の不寛容なかりせば…とは、
歴史のいろんなところで「もし」を生み出すものではありますが。