もちろんタイトル的には大いに関連はあるものの、
やはり有名なところからの借り物感覚が強かった「世紀末の赤毛連盟 」ですけれど、
やっぱり読み直してみるかなと思うわけですね、コナン・ドイルの「赤毛連盟」を。


シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)/コナン・ドイル


この一作は「シャーロック・ホームズの冒険」なる作品集の2番目に収録されてまして、
ホームズ作品としては「緋色の研究」「四つの署名」に続く初めての短編集で1891年の刊行ですから、
世はまさに世紀末でありますね。


庶民の生活という点では「感染地図 」に描かれたコレラ禍に曝された人々の様子を、
そして上流階級の方は「
バジル氏 」あたりでも思い浮かべればいいでしょうか。
そういう時代のロンドンのお話。


有名な話ですから筋立てを多くは語りませたんけれど、ホームズの説明によれば

「(犯人側の)相棒の頭の赤いところから思いついたにちがいない」というだけでして、
それではコナン・ドイツ自身がどうして思いついたかということになりますと、
先に「世紀末の赤毛連盟」を読んだからでありましょうか、
ロセッティやらが描いたような
ファム・ファタル の赤毛がどうしてもチラつくわけですね。

(そうそう、犯人側の赤毛の相棒の名が、ウィリアム・モリスというのはなんとしよう…)


話をご存知の方なら「てなこといっても『赤毛連盟』にファム・ファタル的な女性は出てこないけんね」
となりましょうか。

ところが!です。


「シャーロック・ホームズの冒険」は雑誌「ストランド」に連載された短編をまとめたもので、
「赤毛連盟」は2番目のお話と言いましたけれど、最初の作品はといえば「ボヘミアの醜聞」なのですね。


これまたご存知の方が多いでしょうけれど、ホームズの裏をかいてまんまと逃げ仰せ、
ホームズに敵ながら天晴れとばかりに写真を手元において敬意(教訓?)を抱かせた女性、

アイリーン・アドラーが登場するお話なわけです。


ボヘミアの王侯を相手に強請りをしかけた犯人と分かっていながらも、
ホームズの指示に従ってアイリーンに罠をしかけるワトソン博士の心中はこんな具合。

私としては、自分がこの美しい婦人をたばかっているのだと思うと、そしてそれが甲斐々々しくけが人(ちなみにホームズの芝居)を介抱しているのを目にしては、かつて覚えのないほどの恥ずかしさで、穴でもあったらはいりたいくらいであった。

ホームズよりはいささか単純な性格と思しきワトソン博士とはいえ、こうも簡単に篭絡されてしまう。
しかもアイリーンの側から何をするでもないのに、です。
こりゃあ、どう考えても典型的ファム・ファタルに擬えてもおかしくないのではないかと。


そしてここで「世紀末の赤毛連盟」にあったアイリーン・アドラーに関するところを引いておきます。

英国グラナダ・テレビ制作の「シャーロック・ホームズの冒険」シリーズの…「ボヘミアの醜聞」では、並外れた美貌と才知と決断力により、女嫌いのホームズに終生忘れがたい印象を与えたアルト歌手アイリーン・アドラー(演ずるはゲイル・ハニカット)が、赤い髪の持ち主として表されていた。

元々の話にはアイリーンの髪の色まで書かれてはいないのですけれど、世紀末らしいというのか、
それ以降ずっとの暗黙の了解なのか、このファム・ファタルには赤毛で違和感のないところだったのでしょう。


となればですよ、「ボヘミアの醜聞」を書き終えて次回作に臨むコナン・ドイルにとっても、
姿かたちの描写はなくとも赤毛のイメージを持っていたかもしれませんし、
そこが思案の出発点で生まれたのが「赤毛連盟」であった…と考えるのは単に推測なんですけどね。


ところで「赤毛連盟の原題は「The Red-Headed League」でして、

これを個人的には「赤毛連盟」と思い込んでいますし、
「世紀末の赤毛連盟」の著者・高橋裕子さんも同様かと思いますが、
どうやら多くの訳書で「赤毛組合」とされている場合が多いようなのですね。


連盟と言う言葉が大仰に過ぎるのかどうかですが、組合と言われてしまうと、
また随分とイメージが変わってしまうような。
ここはひとつ「赤毛連盟」ということでは、いかがなものなんですかねえ…。

致し方なしながらも先の震災後はたくさんの展覧会が中止になって

「誠にがっかり」の企画が多々ありました。


音楽でも多くの来日公演が取り止めとなりましたけれど、個人的に残念なところといえば、
先月の読響でマーラーの5番を振るはずだったズデニェック・マーツァルが来られず代役が立ったり、
さらにそれよりもヘレヴェッヘのバッハが聴けなくなったあたりでありましょうか。

他にも、チケットは入手してなかったものの行こうかなと思ってたのなら、
セルゲイ・ナカリャコフとかまあいろいろ加わりますけれど。


そんな折だけに、いつキャンセルの報が入るのかとびくびくもので待ち構え、
結局聴くことができたのが「タリス・スコラーズ」でありました。


古ぅい音楽に詳しいとか、合唱に取り分け興味があるとかいうことではないのですが、
何とはなし「タリス・スコラーズは聴いておかねば!」みたいな気がしたものですから。
たぶん「感動の予感」みたいなものを感じたのかなと。


タリス・スコラーズ日本公演2011


ところで「スペインの音楽」と題されたプログラムはセバスティアン・デ・ビバンコの2曲の前後を
トマス・ルイス・デ・ビクトリアの作品で挟んだもので、メインはビクトリアの「レクイエム」でありました。


なんでもビクトリアは今年没後400年(生没年は1548-1611)だそうで、
古楽の世界では今年ビクトリアの演奏会が山ほどありそうです。


ただ、その生きた時代がスペイン・ハプスブルク朝の全盛期、

フェリペ2世、フェリペ3世の時代となると、音楽を背景で考えてしまうところも出てきますね。


1517年のルターに始まる宗教改革に立ち向かう形になったローマ・カトリックとしては、
熱烈な擁護者でもあったスペイン王室とタッグを組みながら、
ビクトリアのような優れた宗教音楽を作れる者をローマに貸し出し?していた…

わけではないかもですが、ビクトリアはもっぱらローマで活躍したそうな。


素晴らしい音楽でもって、カトリック信仰に留まらせようとしたのか、籠絡しようとしたのか、

宗教がらみでかなり血生臭いことも行われたスペインではありますけれど、
こたびの演奏会では音楽だけに没入させてもらおうかと。


タリス・スコラーズは歌手10人に指揮者というこぶりな編成で「え?そうなの?」と。
CDであれこれ聴いたときには、大合唱とは思ってませんがそれでも10人とは思ってなかったもので。
しかしながら、この10人が歌い出すと声の広がりは大変なものがありますね。


最初の歌い出しを聴いただけで「あ、教会で聴きたいな」と思ってしまったのでして、
もちろん曲が宗教曲だというのはあるにせよ、はっきり言ってラテン語の歌詞がそのまま分かるでなし、
そうした面でというよりはやはり歌唱の力で出てくる教会との親和力とでもいいましょうか、
そんなものがやおらビビッと来たわけです。


声質としても均一性を磨いているのでしょうね、

その響きは「オルガンのよう」などとありきたりの表現が浮かぶところですが、
演奏が進んでいくにつれ「あれ?おや?」と思いましたのは、響き全体がオルガンに聴こえるというよりも、

声の響きの中からあるはずのないオルガン伴奏が聴こえてくる気がするのですよ。


それが、時にはオルガンのようであり、時には金管楽器、

高いほうなら柔らかなコルネット、低い方ならトロンボーン、テューバのようでもあるという。


あるところではハーモニーを支えてくれてたかと思えば、

あるところではオブリガードとして聴こえてくるように思えるのですが、
伴奏は一切ないはずなので、これは全て人の声のなせる技とは凄い人たちだなと思ったわけです。
やっぱり、どこかしらの礼拝堂のようなところで一度は聴いてみたいものでありますよ。


ちなみに、ホールにNHKのカメラが入ってました。
8月にBSで放送するんだそうです。
個人的にはBSが見られない環境ですが、ご覧になる方がおられたとして、
同じような印象をもたらることがありましょうかね…。

先日の「ムットーニ 」展でも出向いた八王子市の夢美術館には

これまでも何度か足を運んだことがあるのですけれど、駅から美術館に向かう道すがら、

「あれ?ここってもしかしてユーミンの実家じゃね?」と気がついたのですね。

果たしてこの「荒井呉服店」、HPで見たらばやっぱり!でありました。


まあ、そんなことから思い立ってみれば、

「中央フリーウェイ」に出てくる「右に見える競馬場、左はビール工場」ってやつのですね、

(個人的に競馬場はどうでもいいんですが)ビール工場には行ったことが無かったなと。

かくして出向いたサントリーの武蔵野ビール工場でありました。


またまた梅雨の合間でどんよりとはしつつも雨はないので、

「出かけるかあ」ということですから、当日電話予約をして出かけたのでありますが、

工場の守衛所のところからして(クレヨンしんちゃん的には)若いおねいさんが出迎えてくれるという、

要するに休日はもっぱら工場見学者対応なのでありますかねえ…。


ところで、その守衛所でもって「工場見学です」と来意を告げると

「予約は?」「お名前は?」と問われた後で、衝撃的なひと言が告げられました。

敢えて「blockquote」で囲っちゃいます。


ところで、電話予約の際にも申上げたかと思いますが、お客様には試飲コーナーで清涼飲料をお召し上がりいただくことになりまして…

ぬあんと!ここはビール工場ではないんかいね?と言葉を発する前に、

受付のおねいさんの視線が、乗ってきた自転車に注がれていることに気付くわけです。

向うも申し訳なさそうながら「自転車は軽車両にあたりますので」と。


住まいから8キロくらいかなと、

なまじ自転車で行けちゃいそうだと思ったために工場まで乗り付けてしまいましたが、

ビール工場の見学で最大のお楽しみは最後の試飲ではないのくわぁ!と思ったところで後の祭り。

工場見学の間じゅう、「スタッフが過ってビールをお出ししないよう、これを首におかけ下さい」とは。


自転車も軽車両です。飲酒運転はいけません!


「私はハンドルキーパーです」の上に小さな文字で

「車・バイク(同乗者含む)・自転車を運転の方」とありますけれど、

「自転車を運転する」意識はこれまで持ったことがないのでありました。

道交法が出てきてしまうと、ぐうの音もでませんが。


でも、徹底してるなと思いましたのは、工場まで車やバイク・自転車で来た人のみならず、

「今日じゅうに運転する可能性のある方はお申し出ください」と言うのですね。

自己申告頼みではありますけれど、確かに「きちんと注意を促した」ことは間違いないですものね。


ところで、ガイドツアーを担当する別のおねいさんに連れられてグループで移動しながら、

原料たる水(武蔵野台地の深い深い深いところからくみ上げているそうな)と麦とホップの説明に始まる

仕込→発酵→貯酒→濾過→缶詰という製造工程を見て回ることになります。


しかしながら、日曜日には生産ラインは止っているようで、

実際のところが見られないのは工場見学としてはさびしい所です。

先の震災の影響から節電を意識して、工場見学を差し当たり土日のみで受け入れているそうですので、

ま、致し方なしでありますが。


そしてたどり着いた試飲コーナー。

ここに至るまでの間にガイドツアーを率いるおねいさんは、これでもか!というほどに

「ザ・プレミアム・モルツのおいしさは!!!」みたいなことをふきこんでくれてるのでありますが、

「ハンドルキーパーの方はこちらへ」と言われて出てきたのが「なっちゃん」でありました…。


2杯目で「オールフリー」なるアルコール・ゼロのビールまがい飲料を飲みましたけれど、
もどかしさは募るばかりでありまして。


ま、出がけに気がついてHPから1枚プリントを出していったおかげで、

けっこう立派なビール・グラスが貰えましたので、

帰宅したらこれで、うぐうぐと「ザ・プレミアム・モルツ」とやらを堪能するかと思ったのでありますよ。

ユーミンの「中央フリーウェイ」でも聴きながら…。


せめてグラスをお土産に…

先に聴いたCDでベルワルド の交響曲を指揮していたオッコ・カムが

第1回カラヤン国際指揮者コンクールの優勝者であることとほとんど関係はないのですけれど、

これまたたまたま図書館で目についたので借りてみたのが、

「カラヤンとLPレコード」という本でありました。


カラヤンとLPレコード/板倉 重雄


著者である板倉重雄さんは小学校の音楽の授業で聴いたスッペの「軽騎兵」序曲に魅了されて、

音楽室で聴いた「その」レコードをおねだりしたことがクラシック音楽との長い付き合いの始まりとしていて、

まさに「その」レコードがヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮のフィルハーモニア管の演奏であったそうな。


年代的に近しいからでもありましょうけれど、

個人的に初めて買った(買ってもらっただったかな)クラシック音楽のLPが

東芝EMI(当時)から出ていた「カラヤン名曲1000」という廉価盤シリーズの1枚で、

オッフェンバック の「天国と地獄 」を筆頭に、「軽騎兵」序曲も入ってました。


板倉さんが入手したものは教育用レコードとして編集したもの(何しろ音楽室のと同じですから)ですが、

手元にあった(とうの昔に擦り切れて捨ててしまいましたけど)方は

今、検索してみましたら、どうやらAA-5108というカタログ番号だったものの、

音源としては全くおんなじ「軽騎兵」であったことでしょう。


あいにくと板倉さんほどに感銘を受けるほどには感受性が無かったのでしょうけれど、

次に入手したのがドイツグラモフォンの廉価レーベルであったヘリオドール・シリーズの

「運命/未完成」(マゼール指揮ベルリン・フィル)ことまでおんなじとなると、いささか気味が悪い…。

(個人的「コレクション事始め 」は確か以前書きましたね…)


ただ、その後の展開が大きく違うのでして、

板倉さんの場合は大叔母さまから「廉価盤なんて!」と一喝され、

即座にカラヤン指揮ベルリン・フィルの盤を買い与えられたのだとか。

カラヤンに対する思いのようなものは、こうしたことからも醸成されたのでありましょうか。


「とにかくカラヤン」みたいな時期がありましたよね(もちろんアンチもいたわけですけれど)。

もとよりへそ曲がりなタイプで「一番人気」のを避けて通るところがありましたから、

その後もカラヤンのレコードを買うことはありましたが、厳選(?)していたのですよ。


それでも癪なことに(これ、アンチの心理ですね)

どうもカラヤンの周りには「かっこよさ」があったのも事実かと。


特に本書で言われるような、ジャケット・デザインなどもトータルに見た

「パッケージ・ソフト」としてのLPレコードを考えた場合なおのことかもしれません。

本書の図版でもって、カラヤンのレコード・ジャケットを振り返ってみると

あれもこれも懐かしい(たとえ買ってはいなくとも)ものがたくさん。


そうした懐かしい思いになりつつも、

本書を通じて改めてカラヤン芸術とは何ぞやみたいところを考えたりすることになったわけで、

要するに(とまた簡単に言ってしまうとカラヤン党の方々に叱られそうですが)「美しさ」なんだろうなと。


それがまた揶揄されるところにもなる一方で、

(どこかで目にしたのですが)「こんだけ美しいのに、文句言えっか?やれるもんならやってみろ」的な

反論もまたあろうと。


ただ「やっぱり」と思われる(本書中で他の書物からの引用)部分を

引用させてもらうとしましょうか。

ご存じのように、私はV.カラヤン氏を心から敬愛しており、とりわけ交響曲第4番では、その芸術的な構成と内容の美しさに、深い感動を覚えました。

これは、シベリウス が自作の4番シンフォニーをカラヤンが録音したものに触れて、

プロデューサーのウォルター・レッグに宛てて書いた手紙の一部ということです。


そしてもう一つ、カラヤン、ベルリン・フィルのモスクワ公演の後、

ダヴィド・オイストラフがインタビューに答えたものの一部分。

ロシアの聴衆はショスタコーヴィチの交響曲第10番の彼(注:カラヤンを指す)の演奏にとても感動したんだよ。ショスタコーヴィチ本人もすごく感動して、私に個人的に、自分の交響曲がこれほど美しく演奏されるのを聴いたことがなかったと言ったんだよ。

どうでしょう、シベリウスは「内容の美しさ」と言い、

ショスタコーヴィチ は「これほど美しく演奏されるのを聴いたことがな」いと言う。やっぱり!かなと。

別のカラヤン本 では、この部分、ちと否定的な捉え方かと)


これほど「美しさ」と結びつく演奏を作りだすのに、カラヤン自身はどう考えていたのでしょう。

有名な言葉なのかもですが、カラヤン本人のひと言です。

何をどこから取り入れたか、どこから何を取り入れたか認めることを、私は少しも恥とは思いません。

さきほども登場してもらったウォルター・レッグの回顧録にあるのですが、

ドビュッシー の交響詩「海」のある部分でシャルル・ミュンシュの採ったテンポに感心したカラヤンが

「こんどやってみよう」と言う部分に続く言葉なのですね。


とかく自分本位というか、自分ならではオリジナリティーで勝負しそうな指揮者という職業の人が、

いかに素晴らしくとも「二番煎じ」のそしりをまぬかれないであろうことに対して、

「少しも恥とは思わない」と言い切れるところが、すごいですね!


カラヤンが亡くなって20年以上が経ちますけれど、

亡くなってからも毀誉褒貶は相変わらずだったりしますと、

今度は(前言を翻して?)いささか肩入れしてもいいのかなと思い始めたり。

久しぶりにヘルベルト・フォン・カラヤンの造り出した音世界に耳を傾けてみましょうかね。

市の図書館で見かけましたのが「錯視芸術の巨匠たち」なる一冊。
先日「騙し絵」の関係にちらっとすれ違ったので手にとってみたのですね。


錯視芸術の巨匠たち―世界のだまし絵作家20人の傑作集/アル セッケル


表紙からして、いささかの見覚えがと思いましたら、
これがしばらく前にトーキョーワンダーサイト渋谷で作品展を見た
ヴィック・ムニーズ の手になるもの。


作品展ではもっぱらゴミの山を利用して、

あれこれのものを適宜配置しなおすことによって高い所から見下ろせば
「お、絵になっとる!」というところを写真展示していたのですけれど、
この本の表紙ではおもちゃの兵隊のプラスチック製フィギュアが使われていたようで。


「錯視」を利用した芸術となると「こうしたものも含まれるのか、なるほど」と思って、
ぱらぱらと見始めますと、いやぁ何とも目がちかちかしてくるのですなぁ。


明らかに目の錯覚を利用した絵画というのかデザインは
動いているはずもないのに、目の方で(目と脳で)勝手動いているかのように判断してしまい、
結果、動いていると知覚してしまうのですね。


いくつもの円が描かれているだけなのに、ぐるぐる回って見えてしまう。
直線が並んでいるはずが、余計な線が錯覚を生んでたわんでいるように見える。

色の加減まで使いこなすとでしょうか、まるで水が滴っているとしか思えない、などなどですね。


最後の水の滴りのようなのは北岡明佳作品「滝」というものでして、

ここで画像を勝手にお見せするわけにもいきませんが、

同氏のHPに錯視ネタがてんこもり状態ですので、ご興味のおありの方はぜひどうぞ。

(「北岡明佳の錯視のページ」へのリンクはこちら


日本人作家で忘れてならないのは、先にお亡くなりになられた福田繁雄 さん。

やっぱりお名前を出さずに通り過ぎることはできないなと思うのでして、

作品の一例でいえば、何やらぐじゃぐじゃっとしたガラクタの寄せ集めに光を当てると、

出来た影がバイクであったり、帆船であったり、実に見事な影のアートなのですね。


一方で、エッシャー 的なありえない図形もたくさん掲載されてました。
このありえない図形を絵の中にはめ込んで、

エッシャーは「物見の塔」やら「滝」やらを描いたわけですが、
不可能図形というよりは平面には本来あり得ない遠近の具合を逆手にとったりしたのが

ロブ・ゴンサルヴェス作品かなと。


こちらも勝手に画像を頂戴できませんが、

本書に掲載された作品とは別に絵本を手がけているようですので、

そちらで雰囲気を味わっていただければと思うところです。


終わらない夜/セーラ・L. トムソン


画像が小さいのでよく分からないかもですが、

湖のような水面に岸辺の木々が映り込んでいる…

一見それだけに見えますが、映った側つまり下側をよぉく見ると、

湖から何やら女の人が・・・・おおおおおおお、怖い!!!


ただでさえ怖がりなのに、この類いを引用するのは誤りでありましたが、

他の作品はなかなかにシュールと見ることで勝手な解釈なりが膨らみそうなものばかりなのですよ。

シュールという言葉はともかくも、マグリットなどの世界と遠からぬものを感じたりもするわけです。

ですので、こちらもゴンサルヴェス作品をたぁんとご覧いただけるリンクをこちら に。


とまあ、ここに取り上げたのはほんのひと握りでしたけれど、

本書には20人もの騙し絵作家の作品が載っているのでして、

こりゃやはり一度は騙されてみる価値があるような気がいたしますよ…。