先日オープニング・コンサート を聴いた「府中の夏 北欧の風音楽祭 」では、
あまり聴かれぬ北欧、特にスウェーデンの作曲家の曲を取り上げるのが特徴ということでしたけれど、
主催団体からしてステーンハンマル友の会 という音楽家集団なのですね。


となれば、ステーンハンマルを聴いてみようとなるわけですが、あいにくと手持ちがないので、
同じくスウェーデンの作曲家 であるフランツ・アドルフ・ベルワルド(1796-1868)を聴いてみることに。


以前北欧の作曲家によるアンソロジーのCDで聴いたのと同じく

オッコ・カム指揮のヘルシングボリ交響楽団の演奏で、交響曲4曲をメインにした2枚のCDでありました。



ベルワルド:交響曲第1番「厳粛な」, 第2番「気まぐれな」 (ヘルシンボリ響/オッコ・カム) ベルワルド:交響曲3番,第4番/カム



交響曲というと、どうしてもドイツ中心に考えてしまうところがあって、スウェーデンの作曲家というだけで

後期ロマン派か20世紀音楽 に片足つっこんだくらいの位置にいるのだろうと思ってしまうのですけれど、
生年を見る限りシューベルト(1797~1828)と同世代ですから時代の気風ではロマン派といえましょうか。


ざっくりとした印象でくくっては何ですが、

20世紀あたりのところよりは奇を衒うでなく確かに聴きやすいという印象かなと。


さりながら、4曲のそれぞれに付されたタイトルは第一番から順に
セリューズ(厳粛な)、カプリシューズ(気まぐれな)、

サンギュリエール(風変わりな)、ナイーヴ(素朴な)というもので、

それぞれの気分を音楽に反映したとなればもはや古典派とも言えず…

という以上に目新しいものではなかろうかと。

形式的にもソナタ形式でありそうながら型破りになっている点やらを考えるとなおのことかもです。


ところで、気分を映したと思しきタイトルでは取り分け第2番の「気まぐれな」交響曲などは、
もう見るからに、でなくて聴くからに?「気まぐれな」ふうが横溢していて、何だか妙に楽しいのですね。
この第2番の終楽章終結部のあたりタカタカタカタカ、タァーン、タァーン!と笑ってしまいそう。
(と、タカタカだけではなんのことやらでしょうけれど)


ベートーヴェン 以降のシンフォニストは、年代的に近ければ近いほど、
「何だってベートーヴェンは交響曲をこんなふうにしてしまったんだ!(怒)」と
皆その呪縛に苦しんだであろうと思われるところですけれど、
そうしたことがおよそ感じられない気楽さは、

作曲の出来具合として大したものかどうかとは全く別に魅力でもあろうかと。


ではありますが、ドイツ音楽保守本流意識のあった?メンデルスゾーン あたりは
ベルワルドのシンフォニーに「なんだ、こりゃ?」的感想を残しているようでもあります。


そうは言っても、シンフォニアがシンフォニーになっていったことからも、
そもそもシンフォニーに絶対はないのでしょうから、

シンフォニー自体が変わっていくのも止むないところがありましょうし、
ベルリオーズ がそうだったように本家意識から遠いところで自由な展開がなされたのは頷けるところかと。
(本家に近いあたりで交響曲に背を向けるのは、むしろ交響曲を意識しての反動ですよね、交響詩とか)


ベルワルドのことで考えれば、

スウェーデンというお土地柄(音楽でベルリン留学してたりしますが)と
整形外科医で生計を立てたりして(宮廷楽団のヴァイオリニストでもありましたが)

作曲は独学というあたり、いかにも自由なことをしそうだという気はしますよね。


ということで、聴いてきたベルワルドでありますけれど、こういっては何ですが、

聴いたCDで一番惹かれたのは余禄的に収録された「エストレラ・デ・ソリラ」序曲でしょうか。
吹奏楽 でやったら「かっちょいい」系の曲になるんじゃないかなぁと思ったりしたのでありました。

いつの間にやらしばらく前になってしまいましたけれど、
NHKの「タイムスクープハンター 」でちょんまげの話 を見てからというもの
「髪の毛」に関する本でもと思っていたところで図書館で見つけた一冊をゆるりゆるりと読んでいたのですね。


以前ずいぶんと興味深く読んだ「ヴィクトリア朝万華鏡 」の

共著者である高橋裕子さんの書かれた「世紀末の赤毛連盟~象徴としての髪」であります。


世紀末の赤毛連盟―象徴としての髪/高橋 裕子


ちょんまげとは一切関係ないところではありますけれど、
著者のあとがきにはこんなふうにあります。

本書はここ十年ほどの間に雑誌に発表した文章から、「髪の毛」「世紀末」「ラファエル前派」に関する論考を加筆修正、新稿を加えてまとめたもの

ということなんですが、これら3つのキーワードがうまい具合に絡み合った話の連続で、
確かに著者自身が言うように「大風呂敷を広げた」感があり、

まとまりの点では先の「ヴィクトリア朝万華鏡」に及ばずとも、
それはそれは興味深い話の数々ではあるわけです。


まずはタイトルどおりに「赤毛」の話から始まりますけれど、
日本人の間ではおよそ見かけることのない「赤毛」の、
欧米においても少数派であるが故の差別的イメージの解説あたりは、なるほど!と。


ただ、「ラファエル前派 」が同じ土俵にのっかってくるのはハテナと思いつつも、
言われてみれば!の世界でして、ロセッティの描く女性には実にたっぷりした赤毛が登場するという。


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「レイディ・リリス」

時はまさに「世紀末 」でありまして、
この頃にいわゆる「美人」というものの大きなパラダイム転換があったのだそうで、
ここで肝心なのが「
ファム・ファタル 」のイメージ化とつながりがあるそうな。


時まさに世紀末は、イギリスではヴィクトリア朝 なのですけれど、
実態はどうあれ基本的には良妻賢母、平和な家庭みたいことが大いに推奨された時代ながら、
ひたひたと女性が自立に向けた歩みを始めることにもなるわけです。


世の男性にとって良妻賢母型は望むところながら、それはあくまで表向き、
男性に伍して自立的な女性はある意味癪に障るところながら、
大いに征服欲を掻き立てられる存在であったろうと。


もっともそれが返り討ちにあってしまうものですから「ファム・ファタル」なのですが、
そうした御しがたさの表れとして、それまで少数派として差別的扱われた「赤毛」が
いわばこれまでと異なる女性の象徴として浮上してきたようでもありますね。


元来、女性の髪といえば、ブロンド対ブルネットの構図はあっても、そもそも赤毛は埒外のようで、
もっぱらブロンドとブルネットの女性を髪の色から類型化して対立構図のように扱ってきたところがあると。
マリリン・モンローが出た「紳士は金髪がお好き」といった映画が出来るのも
そうした背景あらばこそなんだそうで。


そう言われれば、先日見た「ユア・アイズ・オンリー 」でも(もはや原作にない話ながら)、
金髪のリン・ホリー・ジョンソンとそうでないキャロル・ブーケを比較して描いていたなと。
このあたりは欧米では普遍的な見方なのかもしれませんね。

日本では髪の色の違いがどうのというのはほとんどないので、即座にぴんとはきませんが。


と、どこまでは本書の話でどこから個人的感想なのかごっちゃの書き方になってますが、
最後に先ほどちょっと触れた「美人」の意識の違いの点で、
ボッティチェリの描く女性はヴィクトリア朝までの価値観でいうと、
いわゆる「醜女」以外の何ものでもなかったそうな。


ボッティチェリ「プリマヴェーラ」部分


では美人とは?
例えばラファエロが描く聖母の類いであって、
ルーベンス ほどではないにしても?)いささかふっくり系の丸みを帯びたお顔つき。
さらにひあ手の指の付け根にはえくぼ状のへこみができてるみたいなふっくら加減こそ!
ということらしいのですね。
(安心される方がたくさんおられるやも…失言)


とまあ、著者ご本人の言う「大風呂敷」ではありませんが、
書いてる方もまたかなり話がとっちらかってしまってしまいました。
とまれ、なかなかに示唆に富み面白い一冊ではあったなと思うのでありました。

わりと近くにありながら訪れたことのなかった美術館がありまして、
明治・大正・昭和を駆け抜ける107年の彫刻人生を歩んだ平櫛田中の

邸宅に隣接する彫刻美術館であります。


平櫛田中旧宅(彫刻美術館ポストカードより)


とはいえ、日本美術に疎く、彫刻にも疎く…となりますと、
そも平櫛田中(ひらくしでんちゅう)とは名前なの?てなくらいなモノ知らずなわけですが、
館内のビデオをじっくり見てみることで、養子に出た先が平櫛家、元の家が田中家ということで、
両方合わせて平櫛田中と号したのだそうでありますよ。


日頃美術館に出向いたときには絵画にばかり目を向けて、
フロアに置かれた彫塑作品はひと周りしながら眺めやる程度なのですけれど、
ここは彫刻美術館でありますから、基本的に見るべきものは彫刻ですね、当たり前ですが。


ということで改めて彫刻に改めて目を向けてみますと、
「これはこれで面白い」という気がしてくるから不思議なものです。


平櫛田中「法堂二笑」(平櫛田中彫刻美術館ポストカードより)


例えば、これは「法堂二笑」という作品。
二体に分かれたものですが、配置まで含めて作者の意図なのでしょうか、
この置かれ方、バランスは絶妙ではないかと。

(この画像よりはも少し左手に廻り込んで見ると良いかと)


特に一歩後方に立つ僧侶の視線の送り方とそれがたどり着くと思しき様との間合いには
ついつい感心してしまうわけです。


絵画でもその意図するところに「ふむう」と考えてしまう場合がありますけれど、
この「転生」などもそのひとつ。


平櫛田中「転生」部分(同館ポストカードより)


一見、不動明王とかそうしたものの像かなと思ってしまうのですが、
なんだか妙に舌が長い…というより変てこな形をしていますね。
これは、人を吐き出している鬼の姿なのだそうですよ。


何でも作者の故郷である岡山の言い伝えで、
人を喰らう鬼と言えども、生ぬるい人間は不味くて食えぬと吐き出しているのだとか。
生ぬるいは、生半可というか、ちゃらんぽらんというかそういうことなのでしょうけれど、
鬼に喰らわれるのもありがたくないですが、吐き出されるようではいたたまれんですなぁ。


そうした作品を作るくらいですから、作者のモットーとしてはこうしたものであったようです。
美術館となりの旧宅の玄関に掛けられた色紙に書かれておりました。

いまやらねばいつできる

わしがやらねばだれがやる

気概たるや良しというべきでありましょうか。
これに旺盛な好奇心が加わって、
107歳という長命で天寿を全うするまで彫刻に打ち込むことができたのやもしれませぬ。


これも館内に展示された色紙にありましたけれど、
100歳を迎えての言葉だそうでありますよ。

六十七十ははなたれこぞう
おとこざかりは百から百から
わしもこれからこれから

いやあ大したものです。
田中の人生の半分にも及ばぬうちから、老人力がついてきたなどとは言ってはおれんですね。


ところで、真正面から取り組む作品がある一方で、時に息抜きとも思われる作品があるようで、
こちらの方は見る者にも笑顔をもたらしてくれるのですから、
田中翁自身もにこにこしながら制作しておられたのかもと思ったりするわけです。


そんな作品が小さな鬼のシリーズでありましょうか。
せいぜい高さが10cm、幅が20cmくらいの大きさ(小ささ)で、
鬼が耳をふさいで逃げていく様子を描いた作品は、タイトルが「福は内」。


たぶん、背後からはたくさんの豆がぶつけられているのでしょう、
そして「鬼は外、福は内」の大合唱は耳をふさいで聞こえてしまう。


もはや逃げるに如くはなしという状況には思わずにやり。
「転生」の鬼とはずいぶん違う趣きです。


「かがみ」と題された作品も小さな作品ですけれど、
しゃがみこんだ鬼が頭の左側だけにある角を握って鏡を見ているのですね。


どうしたものか右側の角が折れてしまったようで、
鬼にもバランス悪く見えるのか、どうやら左の角も折ってしまおうとしているらしい。
どちらも角がなくなると、反って鬼らしくなくなってしまうことには
どうやら知恵が廻りかねているようすです。


こうした硬軟取り混ぜた作品を見てから、旧宅の方へ廻りますと
玄関先にそれはそれは太い木の幹が立っておりまして、
なんでもここから作品を彫りだすために田中が取り寄せたのだとか。


平櫛田中旧宅前におかれたクスノキ



その太さを見るだけでも「大したもんだなぁ」と思ってしまい、
ついつい「もう」でなく「まだまだ」の人生観で臨もうかという気にさせられるのありました。

少年は追い詰められていた。
無理も無い、その屋敷には差し当たり住まう者はなく、

持ち主にも少年くらいの年齢の子供はいない。


「君は誰だ?」
「僕?ええっと…江戸川、江戸川コナン!」


ということで、「名探偵コナン 」の中でちっちゃくなってしまった工藤新一が
「江戸川コナン」と初名乗りをあげる場面でありますけれど、
命名の元はと言えば、追い詰められて背にした本棚にあった「江戸川乱歩 全集」と
コナン・ドイル作「シャーロック・ホームズ 全集」とから組み合わせたわけで、
これは言わでもがなでありました。


しかしまあ、切羽詰った中でなんとか日本人の名前として
ぎりぎり許容範囲と思しき組み合わせになったと言ってよいのでありましょうか。
「コナンってのはどうよ?」ではありますが、ま、落語家さんにもいましたし。


思うに、パッと思いつきで名乗りをでっち上げるのに、
近くにあるものを見てとはいきにくいのが日本語ですけれど、
反面英語というか、英米人の名前はも少し自由なのかなと。


以前見た映画「奇跡のシンフォニー 」でも、たまたま通りすぎるトラックに書かれていた文字から
主人公の少年に「オーガスト・ラッシュ」という呼び名が付けられる場面がありました。
そして、久しぶりに見た「ミセス・ダウト」も同じ要素があったと初めて意識したのですね。
(おっと、奇しくもどちらにもロビン・ウィリアムズ が出てました)


ミセス・ダウト (特別編) [DVD]/ロビン・ウィリアムズ,サリー・フィールド,ピアース・ブロスナン


主人公ダニエルは子供がそのまま大人になったような、子供たちには楽しいお父さんなわけでして、
いかにもロビン・ウィリアムズにぴったりの役どころ。
ところが、仕事にもあぶれ、家庭でも妻のミランダ(サリー・フィールド)とぎくしゃくし、

生活力という点では心もとない。


結果、離婚を切り出され、子供とはほんの一時の面会しか許されなくなったことを嘆くダニエルは、
妻が出した家政婦募集の広告を見て、自慢の声色を使って応募の電話をかけるのですね。
英国出身の老婦人を装って。


「ところで、あなたのお名前は?」
電話の向こうからミランダに尋ねられたダニエルは

手近にあった新聞の見出しを見て「ダウトファイア」と名乗るのでして、
この「Mrs. Doubtfire」が実は原題であるわけです。


ちなみに新聞にあった文というのは、こんなのでありました。

Police doubt fire was accidental.

それにしても「ダウトファイア」という名前はどうなんでしょうねえ。
奇妙な感じを受けることはないのでありましょうか。
少なくとも映画の中では「変な名前!」的な言及はありませんでしたが。


上の文で分かるように、動詞と次の名詞を持ってきてまして、
名詞doubtの目的語は「Fire was accidental.」全体ですから、
doubtとfireが直接的に結びついているわけではありませんし、
「doubtfire」がひとつの単語として何かしら意味を持つのでもない。
(直訳的な雰囲気では「不審火」みたいな気がしてしまいますが…)


ところで、映画の中ではMrs.Doubtfireですから、
邦題の「ミセス・ダウト」は実に勝手なタイトル付けではあります。
ダニエル扮するダウトファイア夫人は表向き何をやってもそつなくこなすわけですが、
その実素性の知れない怪しげな疑わしいご婦人という点で「ミセス・ダウト」というのは
結構秀逸な邦題なのかもしれないですね。

梅雨の合間の暑い一日、第1回北欧の風音楽祭のオープニング・コンサートを聴いてきたのですね。
「北欧の風」と聞いただけで、湿気が払われてカラリとするような気分になれるのは
この時期ありがたいことなわけです。


とはいえ、この「北欧の風音楽祭」とやら「いったいどこで?」と思われるでありましょうか。
実はこの音楽祭には枕詞が付いておりまして、「府中の夏」というもの。
つまり正式名称は「府中の夏 北欧の風音楽祭 」というのでありますよ。


第1回府中の夏 北欧の風音楽祭


欧州では夏に、いわゆる音楽のオフシーズンにいろんな音楽祭が催されてまして、
ルツェルンザルツブルク 、さらにはバイロイトといったあたりが大どころでしょうけれど、
そうでなくてももうそこここで、そのときだけでその土地の名前が知られているような音楽祭が
目白押しなのですよね。


それに肖ってか、日本でも草津やら軽井沢 やらで夏に音楽祭が開催されるようになってますし、
「東京の夏」なんつうのもありましたっけ。


それらの向こうをはって「府中の夏」とは何とも地味だし、とってもローカルな感じ。

スタッフもどうやら東京農工大のピアノ部の学生たちが手伝ってるという状況のようで、
その手作り感は「北欧の風音楽祭」というかなり大きく構えた看板とイメージが一致しません。


ではありますが、第1回にしてオープニングからファイナルまで都合7回の演奏会が設けられ、
この企画のためにスウェーデンからピアニストも一人招聘し、
普段なかなか耳にする機会のない北欧、とりわけスウェーデンの作曲家の作品を紹介する

という特徴を持って、しかも関連企画で北欧写真展まであるというのですから、なかなかやるもんだなと。


というところで、オープニング・コンサートでありますけれど、
ヴァイオリニストがお一人とピアニストがお二人。
ソロだったり、組み合わせを変えたりしながらの演奏の数々は、
「タイスの瞑想曲」やショパン のピアノ曲といった超有名曲を織り交ぜつつ、
音楽祭の宣伝も兼ねてスウェーデンの作曲家 の作品が3曲演奏されました。


その作曲家というのが、
ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル、エルランド・フォン・コック、
そしてトーア・アウリンという人たちなのですが、おそらく全く聴いたことのない曲ばかり。


ペッテション=ベリエルのピアノ曲は最初の一曲であれよあれよと終わってしまったものの、
他の2曲(いずれもヴァイオリンとピアノのデュオ)はなかなか楽しい曲でした。
民俗的な要素なのか、途中「おや?」という展開が入ったりするのも
意表をつかれる楽しみといいましょうか。


という具合に、知らない曲を生演奏で聴くというのはなかなかに楽しいものでありまして、
さしあたりこぢんまりとした室内楽編成が精一杯なのかもしれませんけれど、
「府中の夏」というからにはぜひぜひ府中市や市内にある農工大のアマチュア・オケや
東芝府中の吹奏楽団、さらには楽器好きの市民も集まって、
徐々にでも「フォル・ジュルネ」になっていくと面白かろうなぁと
府中市民でもないのに勝手に妄想を膨らませてしまうのでありました。