ちょうど2年前の今頃でありましたね、

ムットーニのオートマタ を八王子市夢美術館で堪能したのは。


こたびは「ムットーニ・ワールド からくりシアターⅡ」と題して、

前回見られなかった作品ともどもの特別展が同じ美術館で開催中でありまして、

会期中の金・土・日にはムットーニさん自らが語りを受け持っての「上演会」が行われるというので、

出かけてきたわけなのですよ。


「ムットーニ・ワールド からくりシアターⅡ」@八王子市夢美術館


ところで、個人的には情報の疎さに自信があるにも関わらず知っているムットーニでありますから、

おそらくは説明もいらないのでしょうけれど、ちょっとだけ。


オートマタ=自動人形でありまして電気仕掛けで動くのですけれど、

これがまあよく出てきていること。

ただし、非常に精巧ながら、写実性をとことん追求するというよりは、

人形らしさをわざわざ?残してるあたり、思いを馳せる夢の世界と受け止めやすいのではないかと。


こだわりという点では、機械仕掛けであるが故にこれも敢えてでしょうけれど、

レトロSFチックな具合がまた「癖になりそう」なのでありまして、

フリッツ・ラング監督の映画「メトロポリス」なんかを思い浮かべていただくとよろしいのでは。


映画「メトロポロス」のアンドロイド


たくさんの展示作品が時間をずらしながら実際に動かしてもらえるわけですが、

見ながらあれこれ自由な思いを巡らすのも良しでありますけれど、

これに作者の語りがつくとですね、「なるほど、そういう思いで作ったものであったか」てなことが分かるという。


それにしても、ムットーニさん、当たり前のようではありますけれど、

ご自身で作られた作品を愛しておられるなぁ…という思いがよぉく伝わってくるのでありました。


ただ、前回ほどにはストーリー性の見られる作品が少なめであったのがいささか残念なところ。

その代わりと言っては何ですけれど、改めて一部作品に見られるシュールさに目が行ったのですよ。


小ぶりな仕掛けのせいか、余り目を止められない片隅に置いてあった「記憶の小部屋」や

「秘密の小部屋」といった作品などは、するめ的味わいがあろうかと。


このあたり、別コーナーに転じされた絵画作品がいささかフランドル風俗画のような趣きであって、

それこそトロンプルイユ とまでは言わないものの、

寓意を含んだヴァニタスにも通ずるところのあるや思ったりするにつけ、

「なるほどなぁ」とひとり合点するところでありました。


それにしても、会期中の毎週末、特に土日は2回ずつの「上演会」とは、

ムットーニさん、実は相当な語り好きなご様子。

見ている側がどうもそのテンションについていけてないところがあったようで。

ご本人には言えませんけれど、ちょっとばかり玉置宏 さんを思い出してしまいましたが…。

「トロンプルイユ」、要するに騙し絵 ですな。
聞くだけで何かあり気な感のある言葉なだけに、ついつい釣られて手に取った…
というのが、米田夕歌里さんの小説「トロンプルイユの星」でありました。
昨年の「すばる文学賞」受賞作でもあります。


トロンプルイユの星/米田 夕歌里


さる書評に曰く、紹介文はこんな具合だったのですね。

「消滅」によって私たちの記憶を組み替え、支配しているもうひとつの世界。その存在とのずれに苦しみながら、恐ろしくもきらびやかな未知の領域を鮮やかに描く。

これを読む限りでは「こてこてのSF?」てな気もしますし、
どうしたってジュリアン・ムーア 主演の映画
フォーガットン」を思い出してしまうのではなかろうかと。

(原題「forgotten」のカタカナ化ですが、音的にはかなり間抜けな…)


作者の米田さんは高校2年まで理系で来たのがふと思い立って(?)早稲田の一文に入り、
文芸専修とやらで文章修業をされたのだとか。
ま、文理の行き来自由なバリアフリーの中から生まれてきた作品なのか、
映画(のようにともすれば笑ってしまう)ほどの大袈裟感は無く、
もそっと身近な「ありそうな」話に思えたりもするのでありました。


とはいえ「消滅」なるものが、

メモしたはずのメモ帳が消え、机の引き出しに入れてあったハッカ飴の缶が消えるくらいはまだしも、
職場でバイトの石川くんが消え、ついさっき面接に来た女子学生が消え、

しかもそれまで彼らと関わった人間にも全く「覚えが無い」状況となれば、

「ありそうな」話とは言えなさそうかもですが。


と、ここで思い至るのは「覚えてない」と「思い出せない」の微妙な違いですかね。
どちらも「忘れた」のひと言で日常的にはごちゃまぜで使っているようなところもありますけれど、
「覚えてない」の方は「記憶されていない」、

つまり「記憶されるべき事実があったかどうかも定かでない」ことで、
「思い出せない」の方はぼんやりながらも

「記憶されるべき事実はあったが、詳細はわからない」ようなことかなと。


してみると「思い出せない」というのは記憶の出し入れの問題で、
年輪を増すにつれて読み出しにかかる速度が低下する傾向が見られたりもするように
「ありそうな」どころか「ある、ある!!」という話ですが、
「覚えていない」になると、人智の及ばぬ何かが影響しているようにも思われてきたりするわけです。
とりわけ「フォーゴットン」を見たり、本書を読んだりした後には、ですね。


人智の及ばぬ何か…

とかくそれを「神さま」としてしまいがちなところはありますけれど、

それが何ものであるにせよ、そもそも人間の人生を手玉にとっているというか、

どうあがいたところで予め路線が決められているという考え方もありますね。


でも、いくら人智の及ばぬ存在があったとしても、

地球上に人間なるものは60億人もいて好き勝手に動いてるわけで、

冷静に考えれば「そんなの面倒見てられっかよ!(怒)」というのが実際ではなかろうかと。


では、せめて事後処理ながら「これはさすがに不都合だぁね」と思しきことがあったら、

それを「消去」するてなことくらいはやるかもねえ…と思ったり。

そんなことを思うと、「そも記憶とは何ぞや」みたいな遠大な話になりそうですけれど。

早い話が、老人力の賜物(!)を小難しい話にしてるだけかもですが。


ところで、本書では確かに「トロンプルイユ」が最後に関わってくるところではありますけれど、
印象としてはそれよりも「デジャヴ」的意味合いで捉えた方がいいのかなと

思ったりもしたのでありました(端から錯覚です、では話になりませんが…)。

先週はバタバタしていて見逃したましたけれど、
なんだかんだ言うわりには見てしまっているNHKの「タイムスクープハンター」でありまして…。
昨日もまたニッチ狙いというわけで、戦国初期の尾張で雑兵たちの襲撃に合う百姓たちの話でしたね。


日本史に疎い者としては、

1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降武家社会になっていくということは
(年号暗記の賜物で?)分かるのですけれど、

その後の状況はどうも混沌としたイメージが続き、
結局は信長、秀吉、家康と続く大河ドラマで再三再四取り上げられるあたりになって、
ようやくあれこれ知識がついてくるといった具合。

ましてや、1505年(室町時代後期らしい)頃のお百姓の生活には知識のかけらもない…。


当時は荘園領主と在地領主とのせめぎ合いがあって、

どっちに転んでもお百姓は苦労するという状況。


またまた襲撃(まあ食糧・物品の強奪ですね)がありそうだとなると、
大事なものは村中で近在の寺に隠してもらい、あとは地面に埋めたりするわけですが、
我が身を守る手立てとしても裏山に隠れ穴を掘って

(突然掘るんでなくてシェルターとして用意してあったそうな)
雑兵の立ち去るまでひっそりとしのいだという。


さりながら、雑兵もなかなか立ち去らず備蓄の食糧も尽き果てたとなると、
いささか破れかぶれながらも逆襲の挙に出る者も出てきたのだとか。


番組では触れていないところながら、
こうして「武力には武力で」といった発想が増幅していくのかなと思ったのですね。


もちろん自らの生活を守るためでもありましょうけれど、
高ずると後の時代の落武者狩りのようにもなっていくのでしょう。
山﨑の戦いに敗れた明智光秀が討たれたように…。


こうしたことを思うとですね、ついついドラマ「JIN」の中で、
内野龍馬が長州藩に武器を横流しして争いの火に油を注ぐがごとき場面、
そして南方せんせが「争いは争いしか生まない」みたいなことを言う場面を思い出してしまいますね。


大がかりなところで戦争みたいものは言うに及ばず、
たとえ小競り合いのようなものであっても、武力に訴えることは連鎖を呼ぶと考えれば、
虚しさを思って余りあるのではないかと。


これまでに散々争いを繰り返す歴史があって、
かつてあったような多国間戦争が軽々に起こらないだけの学習を人類は積んだとは思いますけれど、
どうももそっと卑近な、日常的な部分で武力、暴力に訴えるようなケースが散見されたりするような。


その点では今でも学習過程にあると考えねばならんのやもですが、
室町後期のお百姓が取ったような自衛的武装の必要がないようであって欲しいものだなと思ったり。


唐突な結びではありますけれど、例の6億円強奪事件の現場がわりと近いということもありますし、
数年前には歩いて50mもないくらいの郵便局が襲われたこともあったものですから。
(といって、無法地帯に住まっているわけはありませんが…)

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電車のドアが閉まりかけても、
「駆け込んで挟まれるところまで行けば、こっちのもの!」ということでありましょうかね。

車掌にしても、あるいはドアのセンサーにしても、
人ががっつり挟まった状態で発車することはないでしょうから、
いったんは再開扉(業界用語?)するわけで、その隙にしっかり乗り込むという。

とはいえ、挟まり方によっては
バッグが車内にストラップを持つ手(つまりは人体)は車外にとなってしまい、
ストラップくらいではドア・センサーも感知できずに
引き摺られて怪我をするとかいう危険がないわけではない。

それでも、閉まりかけのドアに飛び込む人がいるのはなぜ?

至ってシンプルに考えれば「急いでいる」ということにつきるのではないかと。
では、なぜ急がなくてはならないのでありましょうかね。

理由はいろいろであろうとは思うのですけれど、
その理由の元はといえば、要するに自分の都合なのですよね、きっと。

ただ朝の通勤時に朝寝坊でもしたのなら、
自分の都合、自分のせいと言われても仕方がないけれど、
客の都合で取引先に急ぐということもあるではないか!てな声も聞かれそうでありますね。
個人的な経験からしてもひと言いいたくなる気持ちはわからないではない。

が、よおく考えてみると、
自分が急がねばならない理由が同じ電車に乗り合わせる人には全く関係がない…という点では、
やはり自分の側の都合なのではないかと思うところです。

計算上のだけかもしれませんけれど、ちと乱暴な想像をしてみることに。
JR中央線の快速電車は朝の通勤時間帯に2分間隔のダイヤが組まれているのですね。
もし電車に飛び乗ろうとした人が扉に引っかかって、扉を開けたり閉めたりした結果、
出発時刻が10秒遅れたとします。

こうした遅れが、高尾から東京まで24の停車駅の内の
どこかしらで12回起こったと考えるのですね。
もちろん一本の列車である必要はなく、
たくさん走っている列車がちょっとずつ遅れるとしても結果はおんなじだとは思いますが、
とりあえずここでは10秒の遅れが12回、つまり120秒の遅れが生じたとするわけです。

120秒は2分でありますから、
2分間隔で走る列車が一本、ダイヤの上で消えた(走れない)ことになるのですね。

一本あたり10両の車両が満杯の状態で運行しているが一本消える?!
ダイヤ通りに走っていても混んでるのに一本無くなるのですから、どこかしらにしわ寄せが行きますね。
つまりは「何となく、今日混んでんじゃね?」てなことになりましょうか。

まあ、例としては適切ではないのでしょうけれど、
駆け込み乗車は、こうしたことで関係ない他の人を巻き込む可能性があるのではと。
また駆け込み乗車に対しては、「危険ですので、おやめください」といったことを
車掌が苛立ちを隠すことなく車内放送でアナウンスしますけれど、
「んなこと、やってねえよ」という人にしてみれば、あの苛立ち口調を聞かされるだけで、
朝からイラっとしてしまうものです。

ということで全ては逞しい想像力の産物やもしれませんけれど、
個人的には電車もバスもギリギリになるかなと思った段階で
次を考えるようにしておるわけでありました。

先日来携わっておりました内輪の出来ごとの事後処理めいたこともひと段落いたしました。

儀式らしきことに接するに及び、またまた思うところはあれこれありますけれど、

それは追々時機を見て触れると致しまして、さも何事もなかったかのように、

弊店「Chain reaction of curiosity」は営業を再開致して、

皆さまのおこしをお待ちする次第でございます。




先ごろ読んだ「悪魔はすぐそこに 」にこんな一節があったのですね。

あの委員会ときたら、ジェームズ・ボンドの映画のようだったからな。

『読後ただちに焼却すべし』―まったく、ばかげたことをしていたものだ。

007 」がお好きな方なら「おや?」と思われるのではないでしょうか。


「悪魔はすぐそこに」の出版は1966年ですから、
1962年にショーン・コネリーの主演で始まったボンド映画に言及されていてもおかしなことはありません。


それに「読後ただちに焼却すべし」を機密書類の類いとして考えれば、

スパイ映画にこれが出てきても何もおかしくない。


とはいえ(「悪魔はすぐそこに」の原文を見ないとはっきりとは言えないものの)、

「読後ただちに焼却すべし」という言葉は、イアン・フレミング原作のボンドもの短編の

邦訳版の題名「読後焼却すべし」を意識してるとしか思われないのですね。
この短編の原題は「For your eyes only」であります。


もうお分かりとは思いますが、

確かに「007/ユア・アイズ・オンリー」というボンド映画はありましたけれど、
これは
ロジャー・ムーア の主演した1981年制作の映画なのですね。


つうことはですよ、D.M.ディヴァインが「悪魔はすぐそこに」を書いた1966年には
イアン・フレミングの短編「For your eyes only」はあったけれど映画化はされていないのでして、
文中でボンド映画と「読後焼却すべし」が繋がってくる点に「おや?」と思ったというわけです。


でもって、ついでに気がついたことですけれど、原作が短編ながら、

映画としては2時間超の作品になっていますからどんな具合に作りこまれたのかを
この際見ておこうと思ったのでありますよ。
まずは、原作短編を読み、そして映画を見てみるということで。


「読後焼却すべし」所載「007/薔薇と拳銃」(創元推理文庫)/イアン フレミング ユア・アイズ・オンリー (デジタルリマスター・バージョン) [DVD]/ロジャー・ムーア,ジュリアン・グローヴァー,キャロル・ブーケ


早速にその結果ですが、

ボンド映画が原作に忠実とか言う路線を端から持ってないことは知りつつも、
「こうなりますか?!」と改めて思うところでありました。


まず、舞台設定はといえば、
原作がジャマイカ、ロンドン(これは一瞬)、そしてアメリカ・カナダ国境あたりの山中の湖畔のみながら、
映画はアルバニア沖、ロンドン(やはり一瞬)、マドリッド近郊、コルティナ・ダンペッツォ、コルフ島、

そしてギリシアのメテオラといつも通りにあちこち連れていってくれてます。


ですが、このうち原作との関わりがあるのはマドリッド近郊の部分までで
それから後は全くのオリジナル・ストーリーと言ってよさそうなのですね。


つまり原作に相当する部分は(最初のお遊び系シークエンスを入れても)

映画の中では最初の30分で終わってしまい、あとは自由に展開した大冒険であったと。


理不尽な理由で殺害されてしまったハヴロック夫妻。
英国諜報部のMにとって旧知の仲であったハヴロック夫妻の敵討ちは言わば私怨であって、
惑いながらもボンドに犯人暗殺を(命令でなく)することになります。


大きく考えて英国への脅威であると受け止めることで、いわゆる私刑を承諾したボンド。

そしてボンドに渡された犯人に関するファイルに「For your eys only」と記されていたことが、

この話のタイトルなわけですけれど、Mも私怨により依頼であることを重々承知しているがために、
「くれぐれも、この書類はお前の目以外には触れさせるなよ」というのが意図でありましょう。


いつもの諜報活動の秘密ファイルとは赴きが異なるからこそタイトルにもなるところですが、
これを映画のようにいつもの秘密ファイルにしてしまっては、

どの映画も「For your eyes only」になってしまうように思われないでもない。


もっとも映画では「For your eyes only」と記された帯封付きの書類に

ボンドが目をやったときに流れる音楽が、アクセントの利いたものになってはいますけれど。

そして、最後の最後、例によってボンドとヒロインの艶っぽい場面ではまた
「For your eyes only」と囁かれるのですけれどね(ま、これもこの映画だけの話じゃないか…)


ともあれ、ハヴロック夫妻殺害犯ゴンザレス(原作ではゴンザレスとその黒幕ハマースタイン)の

暗殺に赴いた先で出くわすのがボウガン(原作では弓矢)でゴンザレスを狙うひとりの女性。


映画では、いかにも両親を殺されて静かに復讐の炎を燃やす一人娘メリサ役に

キャロル・ブーケがぴたりと来る感じでありました。
これまた映画の中ではエレクトラから連なるギリシア人の血が流れていると言ってましたが、
原作の娘というのはジャマイカのプランテーション育ちのイギリス人で名前もジュディとなってます。


でもって、映画ではゴンザレスがプールに、原作ではハマースタインが湖に飛び込む一瞬を狙って、
矢が放たれる点は極めて類似しているのですけれど、

原作はこののちボンドも交えた銃撃戦を制し二人で逃げ延びて終了。
ところが、映画ではこれからが本番みたいなふうに進んでいくのでありました。


それにしても、改めて余りの違いを思い知った感があります。
これだけ自由な脚本だったら、書いていて楽しいだろうなぁと。
実際、その印象に違わぬ娯楽映画に仕上がってるとは思いますし。

そもそもボンドものが30分で終わるというのはあんまりピンと来ないのも事実ですが…。


そうはいっても、フレミングの原作も捨てたものではないのでして、
ひとつの例としてはボンドとジュディが出くわす瞬間でしょうか。


両親の敵討ちのため、ひとり山中に踏み込んでアジトを狙い撃ちしようというジュディには
周り中が敵と思える状況でボンドと遭遇するのですから、端から相手を疑ってかかり、
なまなか打ち解けようとはしない状況が描かれています。


この点、映画の中では先に銃撃戦が始まってから出くわして、
やおら二人手を携えて逃亡に及び、逃げる車の中で自己紹介してるのには戸惑ってしまいましたですよ。


何度も見ている映画で気にも留めてなかったシーンだったりしますけれど、
こたびはなかなか新鮮な感じで見ることができたかなと。
何事も複眼的に見てみれば愉しさもひとしおということになりましょうかね。