大本開祖と熊野玉置山の三柱神社(三光稲荷) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “開祖が明治二十五年旧正月から帰神に入り、大本を開教したのは周知である。

 一方では帰神の二年前(明治二十三年)から、既に開祖は水行をしていた逸話が残っている。開祖の水行には、いつも塩見じゅんが同行していた。

 開祖が水行をした若宮清水(新町)は、寺山にある若宮神社(京都の石清水八幡宮を勧請した社)の元鎮座地で、井戸は自然湧水を囲ったものだった。

 若宮清水の水行は、真冬でも塩見じゅんが柄杓に汲んだ水をチョロチョロと開祖の頭にかけていた。極寒の壮絶な行たるや想像し難い。かなり厳しい行を、開祖は自らに課していた。

 開祖の帰神を知る逸話としては、大正十年の第一次大本事件の折に、反大本サイドに立った旧綾部藩主九鬼家が、「開祖が帰神前に九鬼邸の本興稲荷に度々参籠していた」と主張した。

 江戸時代の九鬼藩邸は、上野町の現在の農業試験場と長生殿の範囲に当たる。

 長生殿の敷地は元綾部小学校で、そこに「九鬼嘉隆顕彰碑」が昭和初期に建碑されていた。この碑は現在隆興寺に移転されている。

 九鬼藩邸、本興稲荷は隆興寺の南側隣地に鎮座し、城下町経営に際して菩提寺を建立後に、守護神として伏見稲荷から勧請された。

 隆興寺は九鬼家の菩提寺だが、住職によれば数は少ないが町家の墓地もあり、本興稲荷は商家の信仰も強かったという。

 隆興寺と本興稲荷は藩邸の図面で確認すると、九鬼藩邸と外部の境界線上に鎮座し、外部の人間も参詣することは可能だった。

 問い合わせたところ、寺にも

「開祖は大本を開く前、度々本興稲荷に参拝していた」

と、同じ伝承が残っていた。

 開祖帰神の逸話が、隆興寺の住職の家に残されていたのは驚きだが、今まで誰も隆興寺の取材をしなかったのは、「灯台もと暗し」の典型のようだ。

 本興稲荷をめぐる逸話には、開祖が稲荷信心をしたような形跡は見出せず、この伝承はどうも納得がいかなかった。

 すると『神の国』昭和八年十一月号に興味深い記事があるのを知った。開祖が十年間、水行事に水を注いでいた二つの石を熊野神社に祀ったというのだ。

 『氏神様の庭の白藤……』のお筆先で有名な綾部の熊野神社に去る十一月十一日に御神体として二個の石が納まった。

 この石は曾て開祖様が水行をされた時、十年の間この石にも水をおかけになったと云ふ因縁のもの。その後御神命によって熊野神社に納めたのであったが、時期未だ到らなかったと云ふものか、それがそのまま神社の苑内の隅に置き忘れられてゐた。それを今回出口聖師が思ひ出されたやうに、急に神殿に納めるやうにと話されたのがもとで町の産土様であるに何の異議もなく御鎮めすることになったのである。この問題に関する神意のほどは吾々にはわからないが、兎に角時機の到来を物語る面白い話だと思ふ。」(『神の国』昭和八年一月号「聖都消息」)

 開祖の本興稲荷の参籠や、若宮清水の水垢離、熊野神社に納めた二ツ石に水を注いだ逸話は、或る神業をしていたのだろう。

 開祖の水行には願掛けの要素もあったろう。二つの石に水を注いだのは、石が誰かの形代(身魂)を表わしていたのだろう。

 この時期、開祖自らの行で鎮めなければならなかった人物は当然肉親であろう。それは開祖の長女大槻米と三女福島久の二人しかいない。

 開祖が本興稲荷に参籠し、若宮清水で水垢離したのは、大槻米と福島久の神懸りを鎮める為の行だったのではないか。

 開祖が水行を始めたのは明治二十三年で、同じ年に福島久が八木で神懸りが始まった年でもある。大槻米の神懸りは明治二十五年の事である。

 わが国で憑き物と言えば、まず「稲荷憑き」が思い浮かぶ。福島久に懸かった神は、自ら金毛九尾と名乗った。稲荷落とし祈願に稲荷神社に参籠するのは、古くからの風習である。

 本興稲荷は伏見稲荷から勧請したとされるが、熊野の玉置山から勧請したという説もあるようである。熊野別当の末裔とされる九鬼家の関係からすれば、玉置山から勧請したとする説も根拠がないわけではあるまい。

 紀伊の熊野大社の奥の院、玉置山に鎮座する三柱神社は、日本初めの稲荷で伏見稲荷の元宮と伝承されている。

 白木造りの三柱神社は、「悪魔祓い」「憑き物落とし」に効験があるとされる。

 悪魔祓いといえば今ではキリスト教を思い浮かべるが、本来は修験道の用語である。

 三柱神社の三柱とは、狐を御食津(みけつ)神として三狐(みけつ)と表記され、三狐=三光とされた。

 三光信仰は古代の中国と日本の星辰信仰が習合し、天台教学に於いて理論化されたのである。図像として稲荷は辰狐王菩薩として結び付けられた。

 三光は、日・月・星の三光で三狐とされた。三つの神霊を三柱と称したのだ。

 お筆先に登場する「天の御三体の大神」は、国祖に対する天祖の称号である。

 後に聖師により宇宙の造化三神として理論化され、大本教学の中に体系付けられた。

 開祖の生きた素朴な民間信仰の世界では、御三体とは三光稲荷であったろう。丹波周辺に分布する三柱神社は、元は三光神社であったと考えられる。

 大正期、九鬼家当主の九鬼隆治は「開祖は本興稲荷に参籠して霊感を得た。艮の金神の元祖は九鬼家である」と主張したが、開祖は稲荷信心していたのではなく、本興稲荷に福島久の平癒祈願をしていたのであろう。

 もちろん大本と熊野神社や三光稲荷と霊的なつながりは否定できない。

 開祖の水行に縁の二つの石が熊野神社に納まり、峻烈な第二次大本事件も乗り越えたのは、聖師の計らいとは故、まさに神のなさる業といえるだろう。

――三光は近世関東地方で隆盛を極めた富士講でも重要な要素があるが、大本に対する富士講の影響は改めて論じたい。――(本稿は敬称略しました)”

(「愛善世界」2008年8月号 三浦美津雄『開祖の水行』)

 

*江戸時代に丹波国綾部を治めていた九鬼氏は、もともとは紀伊国熊野の領主だったのであり、ゆえに開祖様が参籠していた本興稲荷もまた、伏見稲荷ではなくて玉置神社の三柱神社から勧請された可能性の方が高いと思われます。それに文中にも書いてあるように、そもそも京都の伏見稲荷も熊野の三柱神社が元宮です(共に渡来系の秦氏の関係する神社でもあります)。出口王仁三郎聖師は『出雲と熊野はここ(丹波)と霊的に繋がっている』と言われたことがあり(確か出雲が「霊」、丹波が「力」、そして熊野が「体」)、皇道大本においては熊野もまた重要な経綸の地とみなされています。

 

*スピリチュアルがブームとなり、最近は玉置神社もパワースポットとしてかなり注目されているようです。実は玉置神社のご祭神も『国常立尊』であり、浅からぬ因縁を感じます。以前にも書きましたが、『国常立尊』は伊勢外宮の『豊受大神』と同一神であり、さらに、この食物を司る『豊受大神』を全国各地で祀られている『稲荷大神』と同一神とする説もあります。ちなみに木曾の御嶽教の『御嶽大神も『国常立尊・大己貴命・少彦名命』の三神一体としての御神号ですし、国祖国常立尊が『これまで世界を陰から守護してきた……』と言われるのは本当にその通りなのですが、ほとんどの日本人は「国常立尊」のご神名すらも知りません。まことに申し訳ないことです。

 

*出口ナオ開祖の三女で出口王仁三郎聖師の義理の姉にあたる福島久は、開祖が御昇天になられて後、金毛九尾の悪狐に魅入られて霊懸かりとなり、「日之出神諭」なるものを書き始めます(昭和19年に終了)。開祖の「お筆先」で『艮の金神は開祖と聖師の二人にしか懸からぬ』とあったので、さすがに大本教団の幹部でもあった久には艮の金神・国祖国常立尊は名乗れず、ご神業を継承する「義理天上日之出の神」の筆先と主張しましたが、内容は完全に「大本神諭」のパクリでした。しかし、だからこそ教えとしては素晴らしいものでしたが、結局『世界を救うのはこの神である』と主張して、多くの信徒を主神への信仰から逸らせて魔道へと導き、久のあとも別の肉体に懸かってご神業を妨害し続けたといわれています。このような邪神の妨害、ニセの神示については出口王仁三郎聖師も信徒達に何度も警告されましたが(『最後の時、悪魔も悪あがきをするもんじゃ。それに惑わされる者は餌食じゃ』)、おかしな神示に惑わされることのないよう、よくよく注意せねばなりません。

 

 “変性男子(出口ナオ)と女子(出口王仁三郎)との筆先より他の筆先は信じては成らぬぞよ。外から出るのは皆受売りや入れ言ばかりで、真偽相半ばして居るから、初めから目を通さぬが能(よ)いぞよ。大本の中にも参考の為じゃと申して、隠れ忍んで写したり読んだり致して居るものが在れど、其んな事に骨を折るより、一枚なりと表と裏の筆先を腹へ入れるが結構で在るぞよ。”(「伊都能売神諭」(『神霊界』大正八年三月十五日号))

 “憑依された人間が、例へば開祖の神諭を読み耽(ふけ)り、之を記憶に止め想念中に蓄へおく時は、侵入し来たりし悪霊即ち妖魅は、之を基礎として種々の予言的言辞を弄し、且つ又た筆先などと称して、似たり八合なことを書き示し、頑迷無智なる世人を籠絡し、遂に邪道に引き入れむとするものである。”(「霊界物語 第五十巻 真善美愛 丑の巻」 『第一章 至善至悪』)

 “実際を言いへば、某に憑依してをる守護神は、私の書いた霊界物語を、ある肉体を通じてあちらこちらを読み覚え、さうして何もかも自分が知つてゐるやうに言つて、某の肉体までも誑惑してゐるのであります。またそれに随喜渇仰して金言玉辞となし、憧憬してをる立派な人たちのあるのには、呆れざるを得ないのであります。”(「霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻」 『序文』)

 

 

*熊野の玉置神社は、過去にはいろいろと問題も起こっていたようですが、現在は新しい宮司のもとで徐々に甦りつつあります。現在、令和の大改修工事が行なわれており、そのための奉賛金を受付中ですが、これは大神様と御神縁を結ぶまたとない良い機会ではないでしょうか。境内に三柱神社が鎮座する玉置神社には、もしかしたら金毛九尾を鎮める力があるかもしれませんし、ここが日本のため、世界のために特に重要な経綸の地であることは確かだと思います。

 

 

*あと、「霊界物語」においては、宣伝使が危機に陥ったときに助けてくれるのが「三五教(あなないきょう)の守護神」とされる、大江山の鬼武彦率いる旭、高倉などの白狐神です。大神様の眷属として、白狐もまた龍神や天狗たちとともに重要な役割を果たしています。

 

・直会(なおらい)の小豆 (白狐神への感謝)

 

 “大本では、春秋の大祭の直会の弁当には、必ず小豆と黒豆を入れることになっている。黒豆は、御節料理やお祝いごとに、黒豆を御飯の上にのせる綾部地方の風習が取り入れられている。小豆については、明治三十六年旧六月八日の神諭に「明治二十六年に出口直が牢にはいりておる折に、推量節(明治中期の流行歌)が作りてあるぞよ。『今度の推量節は何処から流る、綾部出口の屋敷から推量々々』と申してあるぞよ」とあるように、この推量節には悪神によって艮に押し込められていた艮の金神がこの度ご再現したから、その艮の金神のみ心を推量してカイシン(改神、改信、改心)をするようにという意味がこめられているといわれる。この推量節を高倉、鬼嶽稲荷が全国にひろめられたので、その労をねぎらい、忘れないように、少しでもいいから直会の弁当には小豆を入れるように、という開祖様のお言葉ではじめられ、受け継がれている。”

 

(「愛善世界」第四号 柳田信夫『大本のフォークロア 神饌と直会』)

 

 

 

 

 

 

 

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