卯年の飢饉 (天明の大飢饉) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “ひもじさのあまり、見境なしに野山の草を食い、毒に当って死んでいった。病人は布団からはい出し、無人の家の中で、「水……みず……」とかつえながら、枯木のようになってこと切れていった。

 死んでいった者は、むしろ幸せだったかもしれない。大飢饉のはじまる天明二年、江戸近辺は七月入りと同時に、遠雷のような山なりが連日のように続いて、ひとびとを不安がらせていたが、はたして同年十四日の寝入りばな地震が発生。続いて同月十五日の夕刻、地われと共に前日を上回る大地震となり、往来に亀裂が走り、家屋が倒壊した。実に八十年来の激しさであった。

 この年は異常つづきで、十二月になってからぽかぽかと暖気が加わり、畑には菜の花が咲きそい、竹藪にはタケノコが発生し、あたかも春爛漫の四月の陽気であった。しかるに年明けと共に、にわかに寒気加わり、連日の降雨となった。その後天候は回復したが、五月になっても寒気は去らず、綿入れを重ね着するありさまであった。七月に入ると浅間山が未曾有の大爆発をおこし、土砂を降らした。

 鳴動は数十里まで不気味に響き、周辺数百の町村は、天にたちこめた厚い黒煙のために、およそ一週間は昼夜の区別がつかず、昼も灯を用いなければ物の形もわからなかった。山は始終火柱を噴きあげ、落下する岩石で人家を圧し潰し、人畜をおびただしく死傷させた(『天明年度凶歳日記』)。

 

 火山灰による被害も甚大で、場所によっては三尺も降りつもったという。他の諸国は天候異変で苦しめられていた。六、七月と稲作にとって最も重要な時期に、しとしとと長雨が続き、その間一日の晴天もなかった。このため稲草や畑作物ばかりでなく、野の草木までことごとく萎れおとろえ、見るかげもなかった。「……秋は冷え、二百十日前後に丑寅の風がつよく、四、五日も昼夜の別なく吹き通した。夏のはじめより九月の末まで長雨で、ついに田畑のみのりなく、大凶作となった」(『飢饉考』上)。

 この年が『卯年』に当ることから、『卯年の飢饉』として、その惨禍が後々までの語り草となるのである。”(P202~P203)

 

 “江戸時代の飢饉で、犠牲者の数を増やした原因にはいろいろあるが、その内のひとつは山菜や野草を盛んに食いながら、それに見合った塩分の摂取をおこたったことだろう。もっとも、しまいには味噌や漬けものさえも切れ、大部分の者は塩をあがなう銭さえ果てていた。

 こうして草の毒で惣身青腫れになり、道を歩き歩きこときれていった。往来で倒れた者は、二度と立ち上がらなかった。草食と塩分の生理的な関係を識者はすでに見抜き、塩分をとるようしきりに呼びかけている。

 そうじて、飢饉のときに人が死ぬのは、食べものがないせいばかりではない。数日もの間、塩も穀類もとらずにいるところへ、草木の葉や根を塩気を加えずに食うため、毒にあたって死ぬのである。塩さえ少しずつ加えて食えば、めったに死ぬものではない。だから、塩は飢饉第一の毒消しなのである。心をつくして村々の塩の貯えには注意しなければならない(『飢饉考』下)。

 塩を加えて十分に煮れば、草木の葉、十種のうち九種は食用になる。木の内皮や根も同じで、塩を加えて十分に煮れば、食用になるものが多い(『海国兵談』)。

 味噌を用いないで木葉草根のみを食うから、その毒にあたると味噌の重要性を説いたのが、『民間備荒録』で、この中には、ダイズ、塩、米糠を原料とする『糠味噌』の製法までのっている。

 凶年に当って、穀物に次ぐだいじなものは味噌と塩である。平素の穀食でさえも、味噌や塩がなくては殻の用をなさないのに、穀物の代わりに、木の葉や草の根を食する場合はいうまでもないだろう。だから、塩と味噌には、心をつくさなければならない(『かてもの』)。同書には、凶年用の味噌をはじめとして、さまざまな味噌のつくり方が示してある。”(P210~P211)

 

(永山久夫「たべもの江戸史」(河出文庫)より)

 

*来年は「卯年」です。もちろん卯年は十二年ごとに巡ってくるもので、別に卯年になったら飢饉が起こるというわけではないですし、ある日突然食糧がなくなってしまうということもないでしょうが、現在ロシアによるウクライナへの軍事侵略によって世界的な穀物不足、肥料不足となっているのは事実であり、更に地震や火山の噴火など、天明のときと同じような前兆もいくつか起こっておりますので(ちなみに天明三年も令和五年も同じ「癸卯(みずのと・う)」です)、ある程度の備えはしておくべきだと思います。

 

*昔読んだ何かの本で、戦時中に大量の餓死者を出したインパール作戦について、『行軍中に食糧が尽きてからは、兵士達はジャングルの草を食べることになった。しかし塩分を摂らなかったのでカリウム中毒となり、体がだるく動けなくなり、さらに意識も次第に朦朧となって、そのまま衰弱死した。これは厳密に言えば餓死ではない。もし軍が塩を支給しておれば多くの者が助かったはずだ』というようなことが書いてあったのを思い出しました。食糧の備蓄を考える上で、『塩』というのは意外と盲点かもしれません。

 

*永山久夫先生は、日本の食文化について数多くの本を書いておられますが、この「たべもの江戸史」は、江戸時代に起こった飢饉のことについても詳しく書かれており、「松皮だんご」や「わら餅」などの救荒食のつくり方や、更には「土粥」のような土食についての紹介もあります。ただ、それらのカロリーはほぼゼロであり、空腹感はいくらかまぎれるかもしれませんが、まったくエネルギーにはなりません。だいたい救荒食をつくろうにも、都市部にお住まいの方々には不可能でしょうし、それを考えると『備蓄』以外に対策はないのではないかと思います。手っ取り早いカロリー源は糖分であり(穀物は煮炊きせねばならず、燃料が手に入らないことも想定すべきです)、砂糖(黒砂糖とか甜菜糖)や飴、羊羹などは何年も保存できますし、蜂蜜は腐らないだけでなく各種の栄養素を含み、更には薬効もあります。蛋白質は、スキムミルク(脱脂粉乳)や高野豆腐、脂肪は植物油や乾燥バターミルクなどがあり、これらは業務用のものがキロ単位で販売されています。また、飲み物としては、柿の葉茶はビタミンCが特に豊富で、ワインなんかは年月が経てば経つほど熟成しますし、できるだけストックしておくとよいと思います。もちろん、ここに書かれているように、塩(藻塩であればヨードも補給できます)や乾燥味噌なども貯蔵しておく必要があります。また、よく旅館での食事で使われる一人鍋用の七輪やコンロを固形燃料(燃焼時間は一個が20分前後はあります)と合わせて用意しておくと安心です(ただし固形燃料は密封容器で保管しないとアルコール分が蒸発してしまいます)。

 

*家庭での野菜の自給については、レタスであればプランターで栽培できます。レタスは一年草ですが、虫がつかないので誰でも簡単に栽培でき、冬期にはビニールで覆えば一年中収穫できます。エドガー・ケイシーは、レタスはクレソン、セロリ、ニンジンなどとともに、血液を浄化する作用が特に高い野菜であると言っています(なお、ケイシーはレタスは葉が丸くならずに立っている品種の方が良いとも言っています)。外側の葉からちぎって食べていけば、土に生やしたままで食用に使えます。庭もベランダもない場合は、室内でモヤシなどのスプラウトを栽培するという方法もあります。明代に宦官・鄭和が指揮した大艦隊では船内でモヤシを栽培し、そのおかげで船員の誰も壊血病にならずに済みました。また、最近スーパーで目にする豆苗(エンドウ豆)は、根の部分を残して収穫すれば、すぐにまた生えてくるので何回か収穫が可能です。豆苗の種はAmazonでも販売しています。

  

*伊藤桂一著「かかる軍人ありき」(光公人社NF文庫)には、戦時中の軍隊での食料確保や保存のためのノウハウが紹介されています。野草食についての記述では、植物毒の大半はアルカロイドなので200℃で毒性を失うため、充分に加熱すればほとんどの野草は食べられるとありました(ただし、カリウム中毒を防ぐために塩分も摂らねばなりません)。また、水は一日に一回、瓶を揺すって振盪させれば腐らないそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 


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