神の見えない手 (堕胎の回避) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・グラディス・テイラー・マクギャレイ博士  (A.R.E.クリニック創立者)

 

 “……自分自身がまだ子供であるティーンエイジャーが望まぬ妊娠をしてしまった時、神はとりわけ、この「見えない手」を使って、守って下さるような気がしてならない。

 私のクリニックには、かつて十五歳にして身ごもった、早熟で可愛らしい少女がやって来たことがある。彼女は一般に良家といわれる家庭の出身で、少女の妊娠に家族は途方に暮れていた。私は彼らに、お祈りをして、決心するように促した。両親、そして家族全員が不本意ながら堕胎という結論に達した。

 しかし堕胎に否定的な気持ちを抱いていた私は、自然流産を願った。彼女の家族は最良の解決法を求めて祈り、私自身も就寝前の祈りにそのことを加えた。すると、手術を予定していた日の前夜、その家族から電話があった。母親はほっとした調子で、少女が無理なく自然流産したことを告げてきたのだ。

 この時はしなかったが、通常私は堕胎を望む女性に、堕胎したい理由と、堕胎に反対する感情の両方を書き出すようにアドバイスする。個人的な感情だけにとらわれずに、関連する人びと全員にとって最良の結論を出してほしいからだ。すると、結果的に産むことを決心する女性が増えるのは、驚くほどだ。

 子どもがお腹にいる間、胎児と母親は巧妙に交信することがわかっている。母と子は何といっても一つの肉体を共有し、同じ波長の中にある。だから母子間に霊的な絆が確立したとしても、何ら不思議はないのだ。

 私はいつも母親に、誕生を心待ちにしている赤ん坊に話しかけ、どれほどその子が愛され、また待ち望まれているか教えてあげなさいと言う。逆に、それがどうしても難しい状況にあるのなら、まだ生まれていない子どもに、そのことを知らせてあげる必要もあるのだ。

 とはいえ、自分勝手な都合で堕胎を望むのは話が別だ。何といっても、選択権は子どものほうにあるのだから。子どもは、その子自身が望むなら生まれて来る権利があり、望まれない家庭に生まれて来るくらいなら、生まれないほうを選ぶ権利もある。この考え方は奇抜に聞こえるかもしれないが、本当のことなのだ。

 以前、実の父親に妊娠させられた十二歳の少女がいたが、その少女に赤ん坊を産むようにと勧めることは、さすがの私もできなかった。しかし、この時もありがたいことに、少女は自然流産したのだった。

 自然流産とは、まだ生まれぬ子どもと母親の間の同意に基づいて起こるものだと私は考えている。それは、堕胎という罪の意識を取り去ってくれる神の慈悲であり、「見えない手」と言ってもいい。ただし胎内の赤ん坊はその前提として、母親は単に用意ができていないだけであって、自分を愛していないわけではないと感じ、もっと良い家庭、良い時期を見つけられると理解する必要がある。

 私は北インドで生まれ育ったせいか、輪廻転生に関する東洋の信仰をよく理解している。人生の初期にキリスト教を体験したから、キリスト意識が指導してくれたこともある。そのような信仰的な背景もあって、フランスの哲学者、ヴォルテールの次の言葉には深い共感を覚える。

 「一度でも生まれるということは、二度生まれるのと同じくらい驚くべきことなのだ」

 赤ん坊の誕生は、実に創造の奇跡そのものである。それはあらゆる制限を超えた神の御業なのだから、子どもが生まれる時期や場所を選び直して再来したとしても、驚くには値しないと私は思う。

 連続する生命の概念が真実として認識されるにつれ、私の中で、物事の辻褄が少しずつ合ってきている。それでは、霊的創造物としての私たちには、初めも終わりもないのだろうか?私たちは両親を選べるのだろうか?すべての経験が私たちの理解を深め、成長を促しているのだろうか?イエス様が言ったように、死は永遠の命への前奏曲にすぎないのだろうか?

 

 赤ん坊を取り上げることは、私にとって特別な喜びに満ちた仕事である。私は出産のたび、生命の再生に歓喜せずにはいられない。何しろ一つひとつの誕生が冒険であり、それぞれ異なった、決して終わることのない奇跡なのだから。

 赤ん坊は一人残らず、間違いなくそれ独自の意志をもっている。しかし、なぜか堕胎の反対派も賛成派も、赤ん坊自身が思っていることについては、あまり興味がないらしい。私はかねがね、そのことを不思議に思っている。

 もちろん、強姦、近親相姦、貧困、病、あるいは胎児の父親不在といった事情があって、女性が出産を困難に感じることはあるだろう。それでも、このような事情を抱えたすべての母親が堕胎を選ぶわけではない。

 私が知っている、ある年若い女性もその一人だった。彼女が妊娠に気づいた時、当てにできるものは何もなかった。お金もなく家族もなく、頼れる男性もいなかった。しかし、堕胎は考えるだけでもゾッとした。自分自身も見捨てられた子だったのに、その自分も赤ん坊を見捨てるのかと思うと、狼狽せずにはいられなかった。

 そこで彼女は、結論をお腹の子に任せることにした。そう決心すると、彼女はやっと平穏な気持ちになれた。そしてお腹の子に、愛しているけど今は無理だからストップしてほしい、また別の、都合の良い時期に戻って来てほしいとメッセージを送り続けたという。

 彼女は私に、こう打ち明けてくれた。

 「あの夜ベッドの中で、自分の意識を子宮まで降ろすことができたの。そこは洞窟に似た、安全な避難所のような感じだったわ。そこで私は、お腹にいる霊魂と真剣な交信をした。まったく自然な感じで、今は適切な時期じゃないと説明したのよ。愛をもって、あなたのせいではない、もし急ぐのなら他の母親を探してほしいと伝えた。すると翌日、私は出血して、まもなく正常な生理がまた始まったの。その霊魂は男の子だったと感じたから、私は〈リチャード〉と命名したわ」

 その後彼女は、霊魂の不滅を信じる医者に予約を入れた。

 「先生は私が流産したことを確認して、それからリチャードを送り出すために、霊的な洗浄を行なってくれた。私は、彼をすっぽり愛で包んで、そして解放したわ」

 彼女は、リチャードの誕生を遅らせただけで、いつか同じ魂として戻って来てくれると自分に言い聞かせた。しかし永い歳月を経た後、リチャードとしか思えない青年に出会ってしまった。彼の名は「リチャード」で、年齢もぴったり符号していた。”

 

(グラディス・テイラー・マクギャレイ/ジェス・スターン「内なるドクター 自然治癒力を発動させる、奇跡の処方箋」(太陽出版)より)

 

*グラディス・テイラー・マクギャレイ博士は、「ホリスティック医学の母」として世界的にも有名な方で、夫であるビル・マクギャレイ博士と共に、エドガー・ケイシーのリーディングに基づく治療を行なう病院A.R.E.クリニックの創立者でもあります。ここに引用させていただいた文章のあとには、神の恩寵によって自然流産に至った他の例や、夢解釈など霊的なヒーリングについて実際に博士が体験されたことなどが詳しく紹介されており、さらに帯には死生学の権威エリザベス・キューブラロス博士の推薦文もあります。特にエドガー・ケイシーに関心がおありの方にはお薦めの本です。

 

*幕末の岡山に立教した金光教でも、父親が不在で女性一人では産み育てるのが困難な場合、神様にお詫びをして天に引き取って(自然流産)いただけるようにお願いすることは許されるとされています。

 

・金光大神の教え  〔金光教〕

 

 “金光大神は、封建時代以来の男尊女卑の社会通念をはっきり否定し、女性を尊重すべきことを教えた。「女は神に近い。信心は女からじゃ」(『理解』七八九)「……これ迄は『男でなければ家が立たぬ』と云えども、これからは女、家を持つ事を、金神が教えてやるぞ……」(『理解』一七六)という金光大神の開明的な女性観は、階級の差別に加えて性による差別の重荷を背負わされ、家のため子を産む道具と見做されていた当時の農工商民の女性たちから、感動を込めて迎えられたであろうことは想像に難くない。”

 

 “金光大神が説くおかげは、旧来の観念にとらわれず、現に生きている人間が助かり幸せになることを第一義としていた。この姿勢は、夫のいない女性に対する、

 「子供ができたら、娘や寡婦(ごけ)は月流しを願えい。亭主があっては、そういうわけには行かぬぞ」

(『理解』六三)という教えにも余すところなく示されていた。このことばは、もとより放縦を肯定したものではなく、出産がその女性を不幸に陥れることのないように、という意味であった。

 金光大神にとっては、人間が神からおかげを受け、難儀を助けられることは、神が願ってやまないことであり、このうえない神の喜びなのであった。”

 

(村上重良「金光大神の生涯」講談社より)

 

*スウェーデンボルグや出口王仁三郎聖師によれば、乳幼児の霊魂は死後は無条件に救われ天界に入って天使となるとされており、それは胎児の霊についても同じはずです。しかし、それでは世間で言われる「水子霊の祟り」とは何なのか?という疑問が生じます。実は私も、過去の「おほもと」誌に水子の霊による障りの話が載っているのを読んだことがありますし、以前お会いしたことのある霊能のある方が、水子霊の障りと供養の必要を説いておられましたので、やはり「天国に行けずに苦しんでいる胎児の霊」というのも存在するように思われます。そもそも人間の霊体は一つではなく、例えば大本霊学では本守護神・副守護神、神智学ではアストラル体・エーテル体などの区別があり、つまり複数の霊体があるとされていますので、おそらくは胎児の本霊は天界へ救われているが、霊体の一部あるいは中絶されるときの恐怖や悲しみの想念体が残存しているということではないかと思います。また、親が犯した堕胎の罪・カルマが本人に対して悪い影響を及ぼすということもあり得るはずです。

 

*赤ん坊のことを考えれば出産が最も望ましいことに変わりはありませんし、どうしても育てることが出来ないのであれば、出産後に養子に出すという選択肢もあります。ただ、諸外国に比べて日本では法整備が進んでおらず、また血縁にこだわる人も多く、なかなか養子縁組を成立させることは難しいらしく、これは現在の我々に課せられている課題です。ただこれは強調しておきたいのですが、養子と養父母は、たとえ血はつながっておらずとも、霊的には実の親子です。

 

 “御子生みの神業は人間として重大なる御用であるが、子が出来ぬからと云うて、それが罪の結果であるなどと思ふのは間違ひである。それは唯だ単なる体の欠陥に過ぎない。石の上に播かれた種と同様で育たない。故にうまず女の事を石女といふのである。人は二人の子供を自分等夫婦の代償として生んで育つべき義務があるのであるが、生まない人があるので、其代りに多くの子供を生まされるのであつて、神諭に「自分が生んでも自分の子ではない。神の子の世話がさしてある」とあるのは其の意味である。子のなき人は、最初に誰かが貰へと云うて呉れた子が、自分の霊統の子なのであるから、それを貰ふがよい。人間心を出してあれが気に入らぬ、これが不足だと云うて、この最初のものを断ると、次に云うて来るのは、もはや自分の霊統の子ではないのであつて、他人の子を貰ふことになるのである。”

 

(加藤明子編「出口王仁三郎玉言集 玉鏡」より)

 

*「霊統の子」というのは「霊的な跡継ぎ」で、その家を継承する子どものことです。なので養子を複数もらったとして、その皆が霊統の子ではありませんが、それでもやはり全員が養父母と何らかの霊的・カルマ的なつながりを持っていることには変わりありません。

 

*エドガー・ケイシー・センターの方から、ケイシー・リーディングの中に、堕胎をした女性は、そのカルマによって次の生では子どもが欲しくても妊娠が難しくなる、というのがあると聞いたことがあります(とはいえ、妊娠が不可能というわけではありません)。このことから考えると、日本を含む先進国における近年の出生率の減少には、生活様式や若者の意識の変化だけでなく、戦後の中絶件数の急激な増加もまた関係しているのではないかという気がします(個人だけでなく民族にもカルマがあります)。ならば出生率を上げるためには、そのための政策が色々と実施されねばならない一方で、いまだ浄化されていない堕胎された胎児の霊のための供養も必要ですし、さらにこれ以上中絶件数を増やさないためにも、望まぬ妊娠をした方々には、中絶以外の選択があるということをぜひ知っておいて頂きたいと思います。

 

*特にカトリックは中絶には絶対反対の立場で、ガラバンダルやメジュゴリエにご出現になられた聖母マリアも繰り返し人びとに堕胎の罪を犯さぬよう訴え続けておられます。ならば、聖母マリアに祈り、胎児の運命を託するなら、必ずや良いようにして下さるはずです。

 

 

 

 

 


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