・エマヌエル・スウェーデンボルグ
“主の神性のために、すなわち主と父〔なる神〕とは一つであるがゆえに神はひとりであるという真理のために戦い、また、信仰の生命のために、すなわち仁愛と呼ばれる生命のために戦った者たちは、すべて「ミカエル」と呼ばれている。これに反して、主の神性を承認しない者たちはみな、霊的なことがらを、すなわち天界に属することがらを、心の底で無視してしまう。彼らは神について語る。しかし彼らは意に介さない。彼らは、悪霊の意見であっても、どんな意見にもなびいてしまう。しかも大方は最初の試練でそのようになびいてしまう。「ミカエル」であった者たちは、おもに古代人の諸天界から来ており、彼らはみな確固とした信仰をもち続けた。また「ミカエル」であった者たちは、古代人の諸天界にいた異教徒や、いたるところにいた幼児たち――このときは成人だった――から構成されていた。”
(エマヌエル・スウェーデンボルグ「霊界日記」(角川文庫ソフィア)より)
*スウェーデンボルグの言う「ミカエル」とは、伝統的なキリスト教の教義における「大天使ミカエル」、あるいはルドルフ・シュタイナーの天使論などとは異なる存在のようですが、ワンネスの真理のため、主神への信仰を貫くために殉教した人々や、無垢のまま死んだ幼児たちが、死後は天使的な存在となるということであれば納得できます。日本人で「ミカエル」となった方々も、相当数いらっしゃると思います。
“スウェーデンボルグはまた、子供の死がどんなに心に傷を、特に後に残された者の心に傷を残すものであっても、死んでしまった子供にはその傷がいつまでも残ることはない、と確証しています。霊界にいる子供はただ前方だけを見て、後ろを見ません。その子供にとって、失ったように思われる未来は、その価値が高まります。神は、天界にやって来た子供達が、たとえまだいろいろな記憶を持っているにしても、家族や慣れ親しんだ環境を失ったことで悲しんだり恐れを感じたりすることのないよう配慮されます。
子供達は、その時が来れば、自分の家族たちに再び会える、みんなで喜び合える、と知っています。そして天界には、私たちの習性となっている時間と空間の制限はないので、首を長くして待つといった感覚はありません。子供はただ現在を生き、過去も未来も意識しません。新しい天界の生活に自分を適応させることだけを切望し、これに熱中し、これが関心のすべてです。しかもその新しい生活には、子供を没頭させ満足させるものがたくさんあります。
そこでの生活では、この世をどれほど悲劇的に終わったとしても、ただちに明るい幸せな世界がくり広げられます。私たちは、「なぜ?この小さな子がなぜ?神よ、どうして私に?」との疑問に悩みます。子供達は素早く天界の愛と幸福をつかみ取るので、このようなことを思いわずらうひまはありません。
スウェーデンボルグはその著作で、大人と同様、なぜ子供がこの世の生命を終えて、霊的ないろいろな発達段階の中で目覚めるのか、このことについて深い洞察を展開しています。私たちはしばしば、「まだ死ぬには早かった」と言います。しかし、その死の時は、神の摂理にあって、つねに正しいのです。人がこの世で他人のために何かをするというその人の成長にとって、また来世で他人のために何かができるというその人の霊的成長のために、その時は正しいのです。
もちろん、私たちはどうしてその時が正しいのか分らないでしょう。それで悲しみ、疑問に思うのです。神だけが、私たちにとって、この世で、さらに引き続き来世で、最もよいことが何であるかをご存知です。これは、神が子供の死を望まれたり、引き起こされたりすることを意味するのではありません。(「この小さい者の一人が滅びることは、天界のあなたがたの父のみこころではありません」(マタイ伝 18:14))。けれども神は、ご自分の望まないことが起こることも許されます。私たちの自由、私たち一人一人の潜在的な霊的可能性のためにです。
主だけが、子供にしろ大人にしろ、この世を離れて霊界に行くのにちょうどよい時とその理由をご存知です。無知である間は疑問に思い、疑うかもしれませんが、主だけが、この世で「否定的なもの」をご自分の霊の御国で究極的に「肯定的なもの」へ変えることができます。
スウェーデンボルグは、私たちの直接の行動や人格の影響を通じて、私たちはお互いに何ができるかという、そうした「時」を決定するのは私たちである、と述べています。けれども、私たちの役立ちは私たちの自覚を超えたものです。それで、「不慮の死」というものが、もしかしたらちょうどよい「時」かもしれないと知るのは難しいことなのです。”
(ブルース・ヘンダーソン「スウェーデンボルグの死後世界」たま出版より)
“幼児の周りには天使がいつもいて保護しており、幼児の時に死ぬことがあっても、一人残らず天界に入る。”
“敬虔な両親から生まれようが、不信心な両親から生まれようが、洗礼を受けようが受けまいが、子供はすべて天界に入って天使になる。”
(高橋和夫「スウェーデンボルグの「天界と地獄」」PHP研究所より)
・一神教、主神信仰の重要性について
“神の概念〔神についての考え〕は凡ゆる観念の中でも主要なものである。なぜならこの観念〔考え〕のいかんに、人間の天界との交流とまた人間の神との連結が左右され、また人間の照示〔明るくされること〕と真理と善とに対する人間の情愛と認識と理知と知恵が左右されるからである、なぜならこれらのものは人間から発しないで、主との連結に従って主から発しているからである。神の観念は主と主の神的なものとの観念である、なぜなら主御自身がマタイ伝に教えられているように、天の神と地の神とは主以外の者ではないからである。”
(イマヌエル・スエデンボルグ 「霊的な生命・神の聖言」静思社より)
・ルドルフ・シュタイナー
“多神教の方が、実は神界の現実に則しており、その意味で正しいのである。一神教は永遠の真理なのではない。世界の根底の統一性を開示する存在が自我の力を人間に与えるとき、一神教という思想が生まれるのである。その意味で、一神教は非常に重要なものなのであるが、これからは一神教によって強められた思考を保ちながら、数多くの神々に向かい合う時代に来ている。たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。”
(松澤正博・西川隆範共著「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」(イザラ書房)より)
・「日本神道は一神教」
“半可通論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だと云って居るが、斯かる連中は我国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主大神と称え奉り、其の他の神名は何れも天使や古代の英雄に神名を附されたまでである事を知らないからである。真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にドコまでも我神道は一神教であるのだ。”
(木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)
・「バガヴァッド・ギーター」より
“ひたすら私を崇拝し、他を思わず、敬虔であれば、私は必要な一切を彼に与え、彼の持つものを保護する。他の神々を礼拝し、神々に信仰を捧げる者も、誤った道ではあるが確かに私を礼拝している。なぜなら、私はあらゆる祭祀の唯一の享受者であり、あらゆる祭祀を受ける唯一の神であるから。しかし彼等は私の本性を理解していないので再び地上の生活に戻る。神々を祭る者はその神々のもとに行く。祖先を崇拝する者は祖先に行く。精霊を崇拝する者は精霊に行く。そのように、私を熱愛する者は私のもとに来る。”
(「バガヴァッド・ギーター」ヴェーダーンタ文庫)