瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “あえて私が言うとすれば、大本は「一神教」であり「単一神教」であるという、全く独自の神観を持つ宗教のように思う。”

 

 “「一神教」では、宇宙創造主であるただ一柱の神の存在を断言している。この場合、神と宇宙との間には画然たる区別がある。「汎神教」では、宇宙のすべての事象は、究極的存在である神的本質の現われであると見なしている。この場合、神と宇宙との間を区別することはできない。「多神教」では多くの神々、または無限の神々(男神、女神)がそれぞれ個性を有して存在することが信じられている。 一方「単一神教」は、一神教と多神教の性格を同時に兼ねそなえたような神観である。「単一神教」では唯一神への祭祀が行われるのであるが、その一方でそのほかの神々の存在を否定していない。また他の神々を崇拝することも否定していない。祭祀を行う際、その時の対象となる神が、その時だけはあたかも唯一神であるかのように崇められる信仰をさして「単一神教」という。(ヘリット・ベルヴェリング記)”

 

月刊モナート誌 精神テーマ

(「おほもと」平成11年1月号 ヘリット・ベルヴェリング『神の言葉が聞こえてくる』より)

 

*ヘリット・ベルヴェリング(Gerrit Berveling)氏(1944~ )は、オランダのエスペランティストで神学者であり、プロテスタント教会(レモンストラント派)の牧師としても活動しておられる方です。上記の文章は、エスペラント語に訳され出版された出口王仁三郎著「道の栞」についてのベルヴェリング氏による書評(エスペラント語雑誌「MONATO」に掲載)からの抜粋です。

 

 

・汎神教的多神教的一神教

 

 “同じ一人の人間が、さまざまな名で呼ばれる。戸籍名で呼ばれることもあれば、通名、愛称、あだ名で呼ばれる場合もある。子どもからは親といわれ、妻からは夫、弟からは兄と呼ばれる。会社では課長、団体では幹事、委員会では委員長と呼ばれることもあるだろう。

 その立場とはたらき、また見る角度など、さまざまな事情によって、たくさんな名前が出てくる。さらに、一人の人間のはたらきを、詳細にわけると、手の働き、足の働き、目、耳、口などと、無数の働きを挙げることができる。真神のさまざまなおはたらきや、御分霊に対して一々神名をつけると、多くの神々となるわけで、日本の古神道その他、多くの神々をもつ宗教は、こういう考え方に立っている。しかし根本は独一真神から出たものであるから、巻けば一神に帰し、開けば八百万となるのである。したがって、一神論と多神論も矛盾しない。

〈一柱(ひとはしら)のいさおを八百万わかちて説ける大本の道〉

 また、一神論、多神論のほかに、汎神論というのがあり、それは『一切万有が神であり、神が一切万有有であるとする宗教観、哲学観で、仏教哲理、ギリシャ思想、近代ではスピノザ、ゲーテなどの思想は、これに属する』(「広辞苑」)とされているが、大本の教よりすれば、これまた大きな矛盾なく包含しうるのである。その意味において、大本は一神教的、多神教的、汎神教といってもよし、また汎神教的、多神教的、一神教ということもできる。大本がそうだというよりも、この三者が同時的に存立しているのが、宇宙の真相である。

 

(「大本のおしえ」(天声社)より)

 

 

 “……ここに特に注意すべき事実は、太古の宗教には教祖の無いことである。ある人は、事があまりに古いため、その名が亡失せられたであろうと云ふかもしれぬが、人心をかくも強烈に支配し来たれる宗教が、その開祖の名を亡失せしめると云ふが如きは断じて首肯し得べき事ではないのである。

 この事実は蓋し太古の人々は、そのすべてが天啓に接し得たことを証明するものであろう。中古以来人類が漸進的なる普遍的堕落のため次第に神と隔離し、交霊上困難なる障壁を築くに至ったので、神界からは其の中の特殊なる霊性神縁を有する人に特別なる身心の錬磨を賦し、之を通じて天啓を一般に與ふると云ふ手段を執らるることとなったのである。斯の種の人が、所謂宗教の開祖たるべき人で、基督、マホメット、釈迦、また近くでは天理教祖及び大本教祖の如き皆これである。併し、太古の純真な、神諭の所謂「まことに結構な神代」に於いては、かかる間接な手段に出づるまでもなく、すべての人が皆自由に神霊と感合し、神示を得ることができたのである。而して神界に現世界と等しく、此の数千年間は混乱不統一の状態を演出して居るが、太古には我が日本の神界を中心として整然たる統一状態にあったのである故に、世界各地の神啓も自ら統一されて居なければならないのである。これ等の論証よりして、太古の宗教の統一状態に在りし消息は愈々明らかになって来る。

 この太古の宗教は、先づ天地の祖神に最大の崇拝を捧ぐるものであって、この点にては、最上神崇拝であるが、同時に独一真神の応現たる八百万の天津神国津神及び祖先の霊魂にもそれぞれに相応しき崇敬を拂ったものである。即ち太古の世界的宗教には最上神崇拝も、自然崇拝も、祖先崇拝、精霊崇拝も総てがうるわしく渾一されたる、最も完全なる宗教であったのである。

 

(「神の國」大正10年9月号 井上亮『皇道大本に立脚せる宗教論(二)』より)

 

出口王仁三郎の肖像

 “「半可通論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だと云って居るが、斯かる連中は我国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主大神と称え奉り、其の他の神名は何れも天使や古代の英雄に神名を附されたまでである事を知らないからである。真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にドコまでも我神道は一神教であるのだ。」”

    (木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)

 

 

 “「祈りは天帝にのみすべきものである。他の神様には礼拝するのである。私はそのつもりでたくさんの神様に礼拝するのである。そはあたかも人に挨拶するのと同様の意味においてである。誠の神様はただ一柱しかおはさぬ。他はみなエンゼルである。」”(大正十五年二月)

 

(出口王仁三郎述・加藤明子編「如是我聞 水鏡」天声社より)

 

 

信者はな、自分のご先祖さんを一生懸命拝むけれども、本当の誠の、天地の神様のことはも一つ分らんのや。本当は天地を創造された、誠の神様をこれからしっかり信仰するようにせんといかん。”

 

アメリカやヨーロッパはまだキリスト教の影響もあってなあ、主神信仰というものはどっかに残っとるわいな。しかし日本には主神に対する信仰がないさかい。今後どないなるかなあ。手がつけられんようになってしまうなあ。困ったことやけど。どないもしょうがないわ。”

 

(出口栄二「王仁三郎精神に生きる」(愛善世界社))
      

 

スウェーデンボルグの肖像

・神の概念 (E・スウェーデンボルグ)

 

 “神の概念〔神についての考え〕は凡ゆる観念の中でも主要なものである。なぜならこの観念〔考え〕のいかんに、人間の天界との交流とまた人間の神との連結が左右され、また人間の照示〔明るくされること〕と真理と善とに対する人間の情愛と認識と理知と知恵が左右されるからである、なぜならこれらのものは人間から発しないで、主との連結に従って主から発しているからである。神の観念は主と主の神的なものとの観念である、なぜなら主御自身がマタイ伝に教えられているように、天の神と地の神とは主以外の者ではないからである。”

 

    (イマヌエル・スエデンボルグ「霊的な生命・神の聖言」(静思社)より)

 

“神から、人のたましいに注がれる流入によって、神がおひとりであることがわかります。そのわけは、個々全体にわたって、すべて神的なもの omne Divinum として把握されるものは、神Deus にましますからです。そして神的なものは、すべて首尾一貫していて、唯一の神のイメージをもって、人にインスピレーションをあたえています。このようなイメージは人が神によって、天界の光にあげられるに応じて、日毎に強まっていきます。
 天使たちは、各自いただいている光のもとで、「神々」というコトバを発音しようと無理をしたところで、うまくいきません。だからかれらの場合、どんな意味をもったコトバでも、話の終わりには、神の唯一性を強調してしまいます。これは、神がおひとりであることを分からせる流入が、たましいに注がれているからに他なりません。”

 

(エマヌエル・スヴェーデンボルイ「真のキリスト教」(アルカナ出版)より)

 

ルドルフ・シュタイナーの肖像

・I AM THAT I AM  (主なる神の御名)  〔エドガー・ケイシー〕

 

 “出エジプト記(3.14)によると、モーゼ80歳の時、神は神の山ホレブに顕現され、エジプトからイスラエルの民を脱出させる使命をモーゼに授けたとされる。モーゼが「イスラエルの民に対して、わたしに使命を授けた方の名前を何と説明すればいいのでしょうか」と尋ねると、神は、“I AM THAT I AM”という名の神が授けたと答えよ」と告げられた。
 この“I AM THAT I AM”は、日本語聖書では一般に「われは在りて在る者」という直訳的な訳がなされており、新共同訳でも「わたしはある。わたしはあるという者だ」という訳になっている。この謎のような名前故に、神学者たちもさまざまな解釈を示してきた。
 たとえば、カール・バルトは、神は客観的な定義を超えた存在であり、「名前の拒否にこそその本質を持つ」絶対的な「われたること」の告知であろうと解釈する。また、エルンスト・ブロッホは「わたしは、わたしが有るであろう者であるだろう」と訳し、それを「現実的な歴史状況に未来変革的な力としてかかわり続ける者のしるし」という風に理解する。あるいはユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは「わたしは、(まさに)そこにいるであろう者として、そこにいるであろう」と訳し得るとしている。
 一方、リーディングはこの“I AM THAT I AM”にきわめて明解な解釈を与えている。すなわち、最初の“I AM”は自己の内なる霊を表わし、次の“I AM”はより大いなる霊、つまり神を表している。つまり、“I AM THAT I AM”は、神の属性をあますところなく反映したところの自己(=神我)を意味する。あるいは自分(“I AM”)という個でありながら、全体(“THAT I AM”)と一体であることを意味すると考えることもできる。
 “I AM THAT I AM”という神の名の中に、すでに自己(“I AM”)を知ることが神(“THAT I AM”)を知る道であることが示されているのである。

 さらなる探究を望まれる方は、877-2、1158-9、1376-1、2533-8、3574-2等のリーディングが手掛かりになるだろう。”

       (エドガー・ケイシー口述「神の探求Ⅰ」たま出版より)

 

*エドガー・ケイシーは晩年、ある人から「あなたの最大の業績は何ですか」と問われた時、躊躇なく「『神の探求』というテキストをこの世に遺したことです」と答えたと伝えられています。このテキストは、日本エドガー・ケイシー・センター会長の光田秀氏によって翻訳・出版されましたが(「神の探求Ⅰ」「神の探求Ⅱ」)、これらは途轍もなく貴重な本で、霊的な財産ともなるものです。あと、同じく光田秀氏が訳された「キリストの秘密」も素晴らしい内容で、特にクリスチャンの方にはぜひ読んでいただきたいと思います。キリスト教について多くの人が抱いている様々な疑問に解決を与えてくれます。

 

ルドルフ・シュタイナーの肖像

・一神教と多神教 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “ユダヤ人の使命である一神教については、シュタイナーは『民族魂の使命』で、つぎのように説明している。

 「アトランティス後の時代に、はるかなインドから、広大なアジアを通ってヨーロッパまで、さまざまな霊的存在、さまざまな位階の存在を認める見方が形成されていった、ということができます。
 この多数性肯定主義に対立し、それを補うものとして単一主義があります。一神教に霊感と衝動を与えるのが、セム民族です。彼らの本性、血の中に一神教を代表するものが存在しているのです。
 偉大な世界存在を見ると、先に進むことができず、いつも、『ただ一柱の神が世界の基盤になっている』と、強調するしかありません。一神教は最終的な理想しか示せません。一神教は決して現実的な世界理解、具体的な世界観に導くことができません。しかし、アトランティス後の時代に一神教の流れも存在しなければならなかったのです。セム民族が一神教に活力と衝動を与えるのです。抽象的な厳格さ、抽象的な仮借なさをともなって、一神教がセム民族のなかに現われたのです。セム民族が一神教を代表します。ほかの民族は一神教の影響を受けて、さまざまな神的存在に統一をもたらす衝動を得ました。一神教の衝動は、いつもセム民族からやってきます。ほかの民族は多元論の衝動を持っています。
 このことを心にとめておくことは非常に重要です。古代ヘブライ人の衝動の作用を研究すると、今日でもユダヤ教のラビに極端な一神教の要素があるのがわかります。世界原則は単一的でしかあり得ないという衝動を与えるのが、この民族の課題なのです。ですから、『ほかの国家、民族、時代精神は分析的な課題を持っていた。世界原則をさまざまな存在の中に組み込んで表象するという課題である。たとえば、インドでは抽象的な一はブラフマ、ヴィシュヌ、シヴァの三神に分解された。キリスト教では、一なる神は父、子、聖霊の三位に分解された』と、いうことができます。ほかの民族はすべて、宇宙の根底を分析し、宇宙の根底の個々の部分に豊かな内容を与えるという課題を持っていました。ほかの民族はすべて、愛情を持って現象を包括することのできる豊かな表象に満たされたのです。セム民族は多数性を無視し、単一性に没頭するという課題を持っていました。この衝動から、思弁の力、総合的思考の力が考え得る限りもっとも大きく成長していきました。」
 
 一神教か多神教かという議論ではなく、それぞれが有している意味を知ることが大切なのである。霊的な存在を身近に感じていると、霊的な存在について思考する必要が感じられない。霊的体験が豊かにあって、思考力を鍛錬する方向に向かわないのである。
 脳を使って思考することによって、魂は自我という中心点、統一の力を得る。こうして得られた内的な統一から、一神教が生まれる。これは、旧約聖書ふうにいえば、ノアが見えざる神を示唆したことによって、人間に思考力が芽生え始め、アブラハムにいたって、一なる創造主を探求するようになった。一神教は、思考力による統一的世界観であり、この能力が生じるためには太古の霊視力が消えて、見えざるものについて思考するという過程が必要だったのである。太古の霊視力を振り払い、一神教的な方向へと向かう思考力を形成することが、地上に生きる人間の進化のもっとも大きな課題であった。
 
 ただし、多神教の方が、実は神界の現実に則しており、その意味で正しいのである。一神教は永遠の真理なのではない。世界の根底の統一性を開示する存在が自我の力を人間に与えるとき、一神教という思想が生まれるのである。その意味で、一神教は非常に重要なものなのであるが、これからは一神教によって強められた思考を保ちながら、数多くの神々に向かい合う時代に来ている。たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。

(松澤正博・西川隆範共著「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」(イザラ書房)より)

 

*「霊界物語」では、登場する宣伝使達によく『神は一株である』と語らせています。これは一神即多神・多神即一神をあらわすよい表現です。

 

*出口王仁三郎聖師は、『神は順序である』とも言われています。最近神社参拝を趣味とする方々が増えたのは喜ばしいことですが、シュタイナーの言う通りであれば、ただ八百万の神々を崇拝するだけでは単なる先祖帰りで霊的な退化になってしまうようです。やはりまず第一に崇拝対象とされるべきは主神です。

 

*カトリックでは、唯一なる神(父と子と聖霊の三位一体)へは「崇拝(worship)」、聖母マリアや天使、聖人達にたいしては「崇敬(veneration)」の言葉が使われ、ちゃんと創造主と被造物の区別がなされています。私は、神観の混乱を防ぐためにも、このような区別は必要だと思います。

 

*ちなみに、イスラムは言うまでもなく一神教ですが、アッラー(アラビア語で「唯一の神」の意味で固有名詞ではありません)の他に、天使や精霊(ジン)の存在も認められています。また唯一なる神は、アッラー以外にラフマーン(慈愛深き者)やラヒーム(慈悲厚き者)など99の名を持つとされ(『神は美しいもろもろの名前を持っている。されば、それらの名でお呼びせよ』「クルアーン」第7章180)、それら異なる名での崇拝も認められています。

 

 

・真の一神教とは 〔スーフィーズム(イスラム神秘主義)〕

 

 “アブー・サイード(注:11世紀イランのスーフィー)は、悪とは何か、そして最大の悪とは何かと質問されたときに、次のように答えたと伝えられております。

 「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、汝が汝であることが悪であるのに、それを汝が知らないでいる状態のことだ」

と。そしてまた、

 「汝が汝であることよりも大きな災いはこの世にはありえない」

とも。汝が汝であること、これをペルシャ語(イラン語)で「トゥウィー・エ・トゥ」と申します。有名な表現です。「トゥウィー・エ・トゥ」、そのまま訳しますと、原文の語順を逆にして、トゥ=「汝」、エ=「の」、トゥウィー=「汝性」、「汝の汝性」ということ。つまり人間の我、自我の意識ということです。
 では、なぜ「汝の汝性(トゥウィー・エ・トゥ)」が悪であり、災いであり、罪ですらあるのか。この問いは、ご承知のように、仏教などでも非常に大きな働きをする意義重大な問いですが、それに対する答えは、仏教とイスラームではだいぶ違ってきます。元来イスラームは人格的一神教でありまして、スーフィーズムもイスラーム神秘主義である限りは、やはり人格的一神教ということをそのイスラーム性の最後の一線としてあくまで守りぬこうとするからであります。
 人格的一神教の神秘主義、スーフィーズムの、この問いに対する答えは、おおよそ次の通りです。私が我の意識をもつ限り、我と神が対立する、それが悪なのだ。私が神に第二人称で汝と呼びかけるにせよ、あるいは神を第三人称で彼と呼ぶにせよ、ともかく存在は二つの極に分裂し、意識もまた二つに割れてしまうからだ、と。実を申しますと、我と神との分裂、対立こそ共同体的宗教としてのイスラームはもとより、ふつう一般に宗教と呼ばれるものにおけるいちばんノーマルな状態でありまして、信者が神をはるか向こうに望み見ながらこれに祈りかけ、これを拝む、それが宗教なのですけれど、スーフィーズムに言わせれば、これでは神と信者が対立してしまう。つまり神のほかに、それに対立して何か別のものがあるということになってしまう。これでは二元論です。

 “……人間に我の意識がある限り、人は我として、神に汝、と呼びかけなければならない。あるいは、神を彼と見なければならない。どこまでも人間的我と神的汝、または人間的我と神的彼の関係であって、神だけではない。神だけでなければ二元論です。一神教ではありません。真に実在するものは、ただ神だけ、全存在界ただ神一色でなければならない。それでこそ純粋な一元論であり、本当の一神教だというのです。
 この点について、アブー・サイードがこういいます。「もし汝が存在し、彼が存在するならば(つまり人間が存在し神が存在するならば)、二人が存在する、これでは二元論だ。だから何が何でも汝の汝性を払拭し去らなければならないのだ」と。こういう意味で、スーフィーはその修行道において、まず何をおいても自己否定、つまり自我意識の払拭に全力を尽くすのであります。”


 “……十五世紀イランのスーフィー詩人・哲学者、ジャーミーは散文で、「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現が、人間の内部空間を占拠し尽くして、その人の内にもはや神以外の何ものの意識もまったく残さないことだ」といっております。これらの言葉によってわかりますように、スーフィーの体験的事実としての自我消滅、つまり無我の境地とは、意識が空虚になりうつろ’になってしまうことではなくて、むしろ逆に、神的実在から発してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものもなくなってしまうということなのであります。

              (井筒俊彦「イスラーム文化」岩波書店より)

 

*結局、我々を最終的に神人合一の境地へと導いてくれるものが真の一神教であって、その意味でも出口王仁三郎聖師の宗教は一神教です。

 

〔大本教旨〕

 

「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰也。神人合一して茲に無限の権力を発揮す」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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