瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私が生まれたのは昭和三十三(一九五八)年九月六日。サンザンクローするって生まれなの。

 九月に生まれて十二月、年越の直前に一回死にかかっている。

 「年越されへんから今からお寺さん頼んでおかんと、お正月はお寺さん忙しいから」

って、これ誰が言ったのか、そう言う人がいて、お祖母さん怒って、酸素ボンベとマスクを病室に持ち込んで、必死で看病しながら、片方でお葬式の準備をはじめたのね。

 そこへお坊さんが托鉢にまわってきて、

 「この家は、今、お祓いをせなあかん」

 そういったんだって。でも、今、家の中で死にかかっているもんがいるのに、験の悪いこと言うなって、祖母ちゃんが追い返したそうです。でもあとで、あのとき、ちゃんとお祓いをしといてもらえば、こんな子にならんかっただろうと、そう嘆いていた。

 何とか死なずに命をとりとめたんですけど、やっぱり育てるのは大変な子だったみたい。突然ひきつけたり、町のなかで火のついたように泣きだしたり、今思うと目には見えないけど何かを感じて、ひきつけたり、泣いたりしたのでは、と思うけれど。

 一歳になるかならないかの記憶もあるんですよ。お祖母ちゃんのふところに抱かれて、出ないおっぱいを吸っていたこと。たらいでからだを洗ってもらっているとき、そのたらいのふちに、自分の指が当たったり当たらなかったりするときの感覚とか、寝がえりを打てないで、ただじっと天井を見ていた記憶。

 見えるようになったのは九歳のとき、私はすごい育てにくい子だったらしく、親ともそりがわるくて、学校にもなじめない。自分のいき場がなくて、で、もう、母の実家の庭に井戸があるんですけど、そこでぼーっと考えていたんです。なにか半分、この世に未練がないというか、何しに生まれてきたのかと思って、もう死のうと思って、そのとき声が聞こえてきたんです。あ、兄さんだって思ったんですね。でも私に兄はいないんですよ。

 そこで私は気を失ったんですけど、気がついたら私は兄さんと空を飛んでいた。空といってもなんだか、天井くらいの高さで、私にいまいる世界を見せてくれたのね。いま母親が何をしているかも見えたの。

 兄はそのとき、私に言ってきかせたの。

 「まだついてきてはいかん」

って。

 「お前のいるところは、ここじゃなくてもとの世界だって」

 そしてまた、ふっと気がついたら、もとの井戸のところにいました。井戸のふちにしがみついていたんです。

 で、それまでは感じだけだったけど、何かがきたとき、何かが判るようになったのね。そのときから。

 それから十年くらいして、十八か十九のとき、駅のロータリーのところでバスを待っていたら、全然知らないお婆さんが私のところにやってきて、両手をつかんでぽろぽろ涙こぼして、

 「かわいそうにー」

って言うんですよ。

 「ああ、こんなに若いのに」

って言って、すすすっと去っていったんだけど、私、それきいたとき、

 「あ、私、死ぬんだ、これで私も行くところへ行けるんや」

って、すごいうれしかったんですよ。

 「行くべきところへ行けるんや、帰れるんや」

と思っていたのに、何もなくて、私のまわりで友達が三人、ばたばたと、突然。

 一人なんか夕方、四時くらいかな、学校でて、バイバイ、またねって、別れて、その晩死んだって電話がかかってきた。

 もう一人は、ものすごい喧嘩して、電話でやり合った友だち。やり合って、話つけにくるからって、男の子なんだけど、無視して放っておいたら、家へくる途中、交通事故にあって死んじゃった。

 私は実は泊まりがけで二週間くらい家空けていて、出先から電話かけてやり合ったの。でもその子、家にいると思って、私に会って話そうと思って出てきた途中、死んだの。

 あとひとりも、私と最後に口きいて、死んじゃった。

 ああ何で、私がいかれへんやったん、ってほんとに落ち込んだけど、これは絶対、私はこの世で何かしなければいけないことが、あるんやろ、思って、それをしてないからいかれへんのや、って。

 エドガー・ケーシーの本やとか、チベットの死者の書やとか、読みふけって、肉食はしない、菜食の生活をするようになったの。

 それから、姿も見えるようになった。お兄さんがいるでしょ。会ったことがある、っていったら、母が心配して、生まれる前に死んだけど、男の子がいたって。

 ああほんとに、兄さんはいたんやって思った。

 

 あるとき偶然判ったんだけど、自分の魂を自分のところから出してというか、脱け出してどこかへ行ったりできるようになっていたの。私のまわりにそういう人がいて、自分ができるとは思っていなかったのに、最初は寝てて、ふっと気がついたらすーっとあがってた、それが何回か続いているうちに、もうほんとにこの辺に天井がくるようになって、首をぐぐーっとねじって下を見ると自分が寝てるんですよ。

 あるとき、もう天井に当たると思ったら、すっと抜けて外へ出たんです。

 それからは結構好きなところへ行けるようになって、そういう話って出来る人が限られているから、話が出来る家に行ったんです。からだから抜けてる状態で遊びに行っちゃうの。そしたらむこうは判るらしくて、次の日とかに電話がかかってきて、ゆうべ来たね、とかって。

 自分で意識してたのは、いつも寝てて夜ですね。昼間は意識してないけど、気がついたら抜けてる、って感じじゃないけど、すっとずれる、って感じ、ぼうっとしていると何センチか横にずれるっていうのかしら、ひえーっと思って、気がつくと戻るんだけど。”(205P~P209)

 

 “判るんですよ、私、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも死んだの判ったから。

 祖母のときはね、母の母親なんだけど、朝起きて顔洗っていたら、水をすくったときにお祖母ちゃんの顔がワッと出て、

 「お祖母ちゃんが来た」

って叫んだら、母があっと言って、それから十分もしないうちに知らせが来た。

 祖父のときは、もう危ないかもしれないって事で、父が運転していたんだけど、父も焦っていて信号が赤なのに行こうとするの。そのとき、すーっとお祖父ちゃんが来たのが判ったから、

 「あっ、もう間に合わへんから、焦ってもあかん」

って、思わず言ったの。

 父方のお祖母さんが亡くなった時は、お葬式のときだったかな、人がいっぱい集まっているときに、上から天使みたいな白い衣の人がたくさん降りて来たの。足のところは見えないんですよ。ひざくらい。昼間なの、まるで絵のようだった。

 死んだあと母は、そのお祖母さんをとっても嫌っていて、姑になる人だから、でも死んだ時、憎んだままで死なれては辛かったのね。

 「あのお祖母さん、成仏したと思うか」

って私に聞くの。

 「白い衣を着た人が、空から迎えに来てたから大丈夫」

って言ったら、母は安心した。あの人にはあれなりの生き方があったんだと。”(P215~P216)

 

 “私の友だち、犬が死ぬときにすごく可愛がっていた犬でね。兄弟みたいに育った犬だったから死ぬのがいやでね、工合がわるくなって死んじゃいそうな犬に、「死なないで、死なないで」って、すごく言ったんだって。

 そうすると、「死なないで」と言うと目をあけるんだって犬が。そしてまた苦しそうな顔をして、また「死なないで」って言うと、一生懸命目をあけるんだって。そんなこと何回もやっていたら、おばあちゃんが来て、

 「あんた、悲しいけどもうあの世に行かせてあげなさい。あんたが死なないでって言ってるから、行けないでいるのよ」

って言われたの。

 そうかー、って思って、泣く泣く死なせてあげたんだよって。”(P221)

 

 “私ね、一時期僧籍に入って、お寺のお葬式や法事の手伝いに行ったことがあるんです。普段は静かなお寺なのに、通夜の晩、きらきら、きらきら、まるでお祭りのように、寺のまわり全部がきらきら光るの。イメージとしてはきらきら光るスパンコールが舞いながら落ちて行くような感じなの。

 

 敦子さんの話はここで終わる。

 私はきらきら輝く寺の話を聞いたとき、あっと思った。十六、七歳の頃、私は法華経をよく読んでいた。信仰というより文学として読んでいたのである。

 そのなかの「妙法蓮華経見宝塔品第十一」というくだりに、七宝の塔が地より湧出して空中に住在す。種々の宝物をもって之を荘校せり、とある。

 無数ののぼりを立て、宝の瓔珞を垂れ、万億の宝の鈴を懸け、金・銀・瑠璃・瑪瑙・真珠など七宝で飾り、栴檀などの香りが世界に充満し、天からは曼荼羅華が降り注ぎ、伎楽は鳴りひびき……。

 音楽のように重ねられていく経文を空襲のさなか、私は楽しんでいたが、矢部敦子さんの、通夜などの夜、寺院がスパンコールが落ちてくるようにきらきら輝く話を聞いて、ああそうなのか、お経のなかの宝塔は、まさしくあったことなのだろうと思った。

 矢部さんの話を聞書きしたのは、一九九七年三月のことで、ちょうど七年経つ。この間、井戸のそばにしゃがんでいたまだ幼い敦子さんの姿や、きらきら輝く寺の話を、忘れることはなかった。”(P222~P223)

 

(松谷みよ子「異界からのサイン」(筑摩書房)より)

 

 

*神仏の世界に入らねばならない因縁のある人というのは、実は結構いらっしゃるのではないかと思います。以前古い信者さんが、『そのような人は、いくら拒んでも結局はその道に入らざるを得ない、いつまでも拒んでいたら、いずれお気づけがある。酷い目に遭って泣くような思いをしてから信仰の道に入るよりは、そうなる前に信仰に入って残っている罪障(めぐり)を神様にとっていただければ、もう辛い思いをせずに済む。せっかくご神縁をいただいているのに気がつかない人が多いが、いつまでも世間に流されていないで、自分の生きる道についてよく考えてみなさい』というようなことを言われていました。出口ナオ開祖の「お筆先」にも『きかねばきくようにしてきかす』というのがありますが、これまでの人生で辛い目にばかり遭われていた人の中には、そのように、信仰の道に入って神仏に意識を向けることを促されている人もいるのではないかと思います。ただ、数ある宗教のなかにはカルトが偽装しているものもありますし、そのあたりは充分気をつけねばなりません。「智慧正覚の最もすぐれたる宗教」が一番よいのは言うまでもありませんが、古くからある日本の伝統的な宗教(神道や仏教各派)や、明治以降に出た黒住教や金光教などの教派神道はかなりレベルが高いですし、因縁ということを考えれば、実家の宗教・宗派を無視することはできません。

 

*『きかねばきくようにしてきかす』と言っても、神様が人間の自由意志に干渉されるわけではなく、信仰を強要されるわけでも罰せられるというわけでもありません。そうではなくてこれまで神様が自分自身の過去世のカルマの清算を猶予して下さっていたのが停止され、それが集中的に押し寄せてくるために立て続けに不幸な目に遭うのであって、結局すべては自分が蒔いた種を刈り取らされているにすぎません。

 

・神様のご用をする手相(神秘十字)

 

山川日出子 「私の初めてのご面会は女学生のころです。おばさんにつれられて、四国の大洲から参拝にきたときのことです。そのとき聖師さまは、『手を見せい』とおっしゃられ、私の手相をみてくださいました。そして、

 『お前はここ(感情線と頭脳線の間)に十の字があるから、神さんのご用をせなあかんで』

とおっしゃられました。そのときの事が今でも強く印象に残っております。」

 

(「おほもと」昭和53年8月号 『座談会 ああ瑞霊真如聖師さま』より)

 

*もちろん、手相は一つの目安にすぎず、神秘十字がない人は該当しない、というわけではありませんし、結局は遅かれ早かれ万人が神に立ち返らなければなりません。

 

*矢部敦子さんについては、日本民話の会編「新しい日本の語り1 矢部敦子の語り」という本(DVD付)が悠書館から出版されています。内容は紀州の民間伝承がほとんどで、敦子さんご自身の霊体験はありませんが、帯に「語り継ぐ文化遺産」とあるように、この「新しい日本の語りシリーズ」は文化的にも貴重なものだと思います。

 

*今はお葬式はほとんど業者に任せられ、専用の葬祭場で行なわれるようになっていますが、遺族や会葬者の都合よりも亡くなられた方の霊魂のことを思えば、やはり通夜や葬儀は教会や寺院で行なわれる方がよいように思います。もちろん、そこの聖職者の霊的レベルにもよるでしょうが、日々祈りが捧げられ聖典が読誦されているところには、他よりも濃密な神霊の顕現のようなものが存在していますし、聖典そのものにも霊力があります。

 

・「望気」 気を望み見る

 

 “京都から午後四時過ぎの汽車で天恩郷に帰るとき、園部の南陽寺の和尚と乗り合わせた。和尚は、「聖師は綾部からまだ帰られんのかね。いつ帰られます?」と聞くので、「さあ早ければ明日は帰られる予定です」と答えた。「そう、いつ汽車の窓からお城をながめても、その気配がないので。今度はエライ綾部に長く行かれておられたものだなと思っていた」「和尚さん、汽車の窓から見られて、聖師さまがおられる、おられないかが判りますか」「ハイ判りますじゃ。霊気(レイキ)が高う立っておりますでな」。この和尚、ほんとうに判るのかいなあと思って疑っていた。保津川を経て南桑平野に汽車がはいると、「おお、聖師は帰っておられる。それじゃあちょっと、あんたのお供してお城に寄って行こう」と言い出した。一体、どこを見れば、その霊気とやらが判るのか、たしか明日でないと聖師さまは帰られぬことになっているがと思ったが、和尚がそう言うので同道して天恩郷に帰ってみた。すると聖師さまは二時間前の上り汽車で帰って来られたという。

 その夜、聖師さまに、和尚のことを話し、どこに霊気があるのでしょうと尋ねた。

 「わしがおるときは、天恩郷に、時には二十丈くらいの明るい水気のような柱が立っているはずじゃ。和尚はそれを見るので、わしがおるか、おらぬか汽車の窓からながめて用件のあるときは途中下車して会いに来る。わしがおらぬときは、天恩郷全体がまだ、ただ僅かに明るい程度じゃ。これから神殿などができ、神霊が充実して来るにしたがって霊気は増すようになる。」

と言われた。それはちょうど、人に霊衣があるように、その霊場には霊場としての霊衣があるものらしい。

 高級の神霊がいますときは、その霊場は輝きを増すものだということであった。

 各地の神社仏閣の所在地を歩いてみても、霊的な感覚を持たない者でも、高い霊気のあるところは、何か崇高な明るい雰囲気が感じられ、そうでない霊域は、寂しい、あるいは気分の悪くなる霊域の感じがする。それはやはり現幽一致の相応の理にもとづくものであると言われた。一家庭のうちでも、それと同様に、明るい家庭もあり、いやな気分の家庭もある。だから訪問したときなどは、まずそれを感得することが大切だ。本来ならばその家の前に行ったとき、霊気を見れば判るのだが、今の人にはそれはできないなあ、と嘆息された。

 神様を祭っている家と、祭っていない家とは格段の差があるし、常に霊界物語か神書の拝読、また祝詞の声のする家は、霊気が違っていると教えられた。

 

(「おほもと」昭和45年6月号 大国以都雄『天恩郷建設の神秘(7)』より)

 

 

・経典の読誦による霊性の開花 (大無量寿経)

 

 “『手の妙用』(東明社)は昭和六十一年に出版された本であるが、著者(吉田弘氏)は昭和四十六年に死去しているので、原著はもっと古いものであろう。著者は大正十一年に京大文学部哲学科を卒業し、宇都宮高農(現宇都宮大学)の教授や高等女学校長を歴任した人であるが、大学院では西田哲学の西田幾多郎教授について「心魂」(Psyche)を研究テーマとして霊媒や霊能者を研究した人である。

 吉田氏はもともと岐阜県のお寺の長男で、宗教的素養はあったようであるが、京大在学中には一燈園の西田天香に道を求めたり、出口王仁三郎に鎮魂帰神を教えた長沢雄楯の講習会に参加したり、南禅寺で南針軒老師について参禅して「無字」の公案について「無々々……」と模索したりしていたが、心は一向に定まらなかった。

 そこで親鸞の著書「教行信証」に『教とは大無量寿経是れ也』とあるのに啓発され、既成観念の一切を捨てて、素直に、『大無量寿経』を何百回も読んだのである。するとある日、忽然としてまったく別な世界が眼前に開けてきたのである。吉田氏はこの時の状態を次のように書いている。

 

 「見る木も家も何もかもがすっかり変わって見える。いずれも何か光り輝いているようである。大無量寿経に極楽の相が書いてあるが、あたかもそれと同じように見える。木の幹や葉が、金銀、瑠璃、玻璃、蝦蛄、瑪瑙でできているように見え、鳥の声も何か微妙な音楽に聞こえ、池の水は八功徳水のような感じがし、人はみな菩薩のような感じがする。 気が狂ったのではないかと思い、世間の人と話してみるが、別段変わったこともない。ただ明るい光に満ちた世界が眼前に開けてきたのである」

 

 吉田氏が書いているような外界が光り輝く世界に一変する体験は、求道者が苦行の末に到達する〈悟り〉の最初の境地のようである。余談であるが、数年前に目白メディカルクリニックを見学し、色盲治療に活躍している和同会会長の山田武敏氏にお目にかかった際に、同氏が開発した色盲治療器を使用すると、外界が色彩鮮やかな環境に一変し、患者が景色とはこんなにきれいなものかと驚嘆するという話をうかがった。色盲が治った患者やその家族の体験談を聞いた後で、私自身も治療器を頭部に装着して実際に体験した。確かに視界が鮮明になったようであった。

 ちなみに山田氏が開発した治療器は、コンピューターに組み込んだ特殊波形の微弱な電流を、皮膚上から通電して脳を刺激し、人体の生理機能を向上させる装置であり、色盲だけでなく、自律神経失調症、アレルギー性鼻炎、喘息などにも有効だそうである。

 余談が長くなったが、求道者の心機一転と、脳の物理刺激と、まったく異なった条件が、視界の鮮明化という同じ状態を招来するのは興味深い。

 吉田氏は前記の視界一変の経験の直後から他人の苦痛を自分で感覚することができるようになった。遊びに来た友人に、「君は頭が痛くないか」などと、身体の具合を言い当てるので、気味がわるいといって誰も来なくなったそうである。”

 

(勝田正泰「気をめぐる冒険」柏樹社より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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