・エドガー・ケイシー・リーディング
“早くも一九三六年にエドガー・ケイシーのリーディングはかつてカルメル山(訳注:パレスチナの地中海岸に臨む山脈。エリヤが祭壇を築いた。列王記上一八-一六、二〇、三〇参照)に住んでいたエッセネ派の共同生活体に間接的に言及しており、この共同体における過去の生活、さらにはその宗教的実践や理想や目的について詳しく述べている。ケイシーの透視によって届けられた情報は、エッセネとは『期待』を意味していたことを述べ、さらにこの集団がエリヤの時代に創立された預言者の養成所に逆らい、
救世主(メシア)の到来のための通路(チャンネル)を用意することに専念した、
と主張している。
ケイシーがこの秘教的な宗教団体を熟知していたことを、彼の聖書に関する知識のせいにするわけにはいかなかった。なぜなら聖書にはエッセネ派のことなど出て来ないのだから。また、これほどふんだんに細かな点を詳細に語っていることを例の死海写本(訳注:一九四八年死海付近で発見された旧約聖書の古い写しを含む写本)に対する関心のせいにするわけにもいかない。なぜならエッセネ派が写本の発見により世間の注意を引いたとき、こうした注意が集中したのはクムラン(訳注:死海の北端付近の地区。この近くで写本が発見された)であってカルメル山ではなかったのだし、エドガー・ケイシーもすでにこの世の人ではなかったからである。
このカルメル山とエッセネ派についての最初の言及から三十年後に、ある調査団が最終的な証拠に向かいそうな手がかりを捜しにこの地方に赴いた。リーディングは今日のカルメル修道会の起源がこのエッセネ派共同体にあると述べていたが、手もとの参考資料ではその起源は十字軍までさかのぼれるだけである。
調査団はステラ・マリス修道院のエリアス神父と会談するうちに、今日のカルメル会が自分たちの生活様式をエリアにまでさかのぼるとする豊富な伝説と言い伝えを今に残していることを知って驚いた。さらに驚いたことに同会は、その存在を長い間忘れられていたユダヤ人修道士の一団とともに暮らしているというのである。エリアス神父は多くの言い伝えが史実というよりむしろ熱心な信仰に基づくものであることを忘れずに指摘する一方で、とりわけこのあたりの地方では伝説にしばしば真実の萌芽が含まれていることがあることも指摘した。
カルメル会とエッセネ派の間にはそれ自体としては何一つ関係が認められていないが、にもかかわらずエリアス神父は、エッセネ派がイエスの時代にあって、修道会に似ていると言いうる唯一の知られているユダヤ人集団であることを認めたのである。神父の語るところでは、エッセネ派は正真正銘の修道士であった。なぜなら修道士とは神への誓願によってなるものだからである。まだカルメル山はわずかに考古学的な接触を受けただけであるから、ケイシーの記録の中で言及されているエッセネ派の共同体が存在した証拠がいつか発見されることも大いにありうることである。”
“……当時と同じ様に、人間の体験の発展は、ある一つの実例のように、すなわち――「人の子」イエスによって示された――「神の愛」の現われのように、同胞との関係におけるもろもろの活動にますます精通するようになるというめいめいの個人的な目的に向けられたものなのである。そしてこのイエスがお示しになった例とは、めいめいが、そして一人一人の魂が、誰かの魂の救済者とならねばならぬし、そうあらねばならぬ!ということである。それも実に「神の御子」がこの世界の中へ入り給うた目的を理解し――人間が生ける神のほかならぬ心臓のよりお近くを歩めるように、いやそれどころか、そこへ通ずる扉が開かれんがために!”
“質問-六 マリアとヨセフは最初どのようにしてエッセネ派と接触したのですか?またイエスの到来に対する二人の準備はどのようなものだったのでしょうか?
解答-六 すでに述べたように、二人の両親たちにより神に捧げられたことによってである。”
“エッセネ派はその目的において偽りのない者たちの集まりではあったが、ほかならぬこの時代のラビ(律法学者)たちに関しては正統派と異なる態度を取っていた。したがってある種の宗教的集会も、彼らの瞑想的立場からすれば、一種の儀式一点張りの因襲的やり方と評されることがあったのである。そうした宗教的集会については、幕屋(訳注:ユダヤ人が荒野を流浪した時分の移動神殿)が確立された初期の時代における祭司の活動から推定できなそうなもろもろの活動の中のあるものから概略をつかめるかもしれない。
よくよく思い出すがよい。例の最も高位にあった二人でも、大祭司の指導のもとにありながら、さほどうまくは行なわなかったのだ。それは彼らが場違いな火を捧げたからであった(訳注:レビ記一〇章には、大祭司アロンの二人の息子が異火(ことび)を主の前に捧げたために主に焼き滅ぼされた、とある)。
したがってこの世で捧げられるかもしれぬものが異火のごときものとならぬように努め、あの『わたしと父なる神は一つのものである』というイエスの教えとともにあらしめるがよい。そして教義や戒律を身をもって適用する際は、目的においても適用面においてもひとり我が道をゆくのではなく、父なる神と一体であるようにするがいい。
したがってこのような集会も今までに成された聖約の一つ一つの解釈となるであろう。すなわち、いつ、いかにして「約束された御方」がお出ましになられるかに関して。それ故に心の中で、聖約を創世記の第三章からマラキ書のまさに最後の章に至るまでよく分析してみるがいい。分析の結果を取っておくようにせよ。それを、さまざまなグループが望ましいかたちにまとまりそうなときに、討議の基礎として用いるがいい。めいめいが輪番で教師役を、つまりほかならぬこうした集会の講師役を務めるようにしながら。そして、すべての集会が秘密裏の集まりであったことを思い起こしつつ。”(バイオレット・M・シェリー『エッセネ派とカルメル山』より)
(ヒュー・リン・ケイシー編「精神革命ガイド・ブック」(たま出版))
*明日はクリスマス・イブです。エッセネ派については、これまでも何度か紹介させていただきましたが、彼らはユダヤの地で数世代にわたって救世主の降誕を準備してきた集団で、イエスの復活と昇天の後には、初代キリスト教会へとかたちを変えました。カルメル山を本拠地とし、マリアとヨセフの婚礼もまたカルメル山の神殿で行われました。エドガー・ケイシーのエッセネ派に関するリーディングは、たま出版から出ている、リチャード・ヘンリー・ドラモント著「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」やグレン・D・キドラー著「エドガー・ケイシーの死海写本 リーディングの実証」に詳しく載っています。
*エッセネ派の霊性は、特にカトリックのカルメル修道会に引き継がれているようですが、カルメル会は日本にもいくつか修道院があり、定期的に司祭による黙想会や勉強会が開かれています。カルメル会の聖人としては、16世紀スペインの「十字架の聖ヨハネ」や「アビラの聖テレジア」、19世紀フランスの「リジューの聖テレジア」などが有名です。
「カルメル山の聖母子」(ステラ・マリス修道院)
*ケイシーによると、エッセネ派はエジプトなど海外にも同種の組織があり、異教徒の協力者たちも存在しました。有名な「東方の三博士」は、それぞれエジプト、ペルシャ、インドからやって来たのだそうです。
“一九三二年六月二十八日、ヴァージニアビーチのアークティック・クレサントにあるケイシーの家で行われたリーディングが残されている。このリーディングには、AREのノーフォーク研究グループ№1に属する多くのメンバーが参加していた。このリーディングの目的は、主に、メンバーたちにこの現象の実際の姿を見せることにあり、さらに興味を増すために、リーディングのテーマも参加者全員にとって興味あるものが選ばれた。その部屋に居合わせた誰一人として、その日のリーディングで言われることが、十五年先に事実となるであろうとは、また今日なお測り知らぬほどの価値を持とうとは知るべくもなかった。
ケイシーが催眠状態に入った後、ガートルード・ケイシーがいつもの調子で質問を開始した。
「どうか今回は、イエス・キリストの生涯とその活動の輪郭を、生誕の時から三〇歳頃にパレスチナで伝道を開始されるまでの期間、生誕地、教育、旅行などの経緯を含めてお教え下さい」
ケイシーは答えた。
「諸々の約束と、多くの国におけるその約束の実現に関して当時なされた記録から見られるように、『汝ユダの地ベツレヘムよ―― 偉大なる新来者、聖なる者、人の子にして父に受け容れられたる者の生誕地よ』(訳注:マタイ伝2-6参照)〔イエスの生誕は〕かの律法や統治に従っている時期に、父親の家庭で〔起きた〕。そして庇護と付き添いの下に、エルサレム訪問の時期から、まずインド、次にペルシャ、そしてエジプトに〔滞在した〕、なぜなら『わが子はエジプトから呼ばれるであろう』(訳注:この通りの記載はないが、ホセア書11-1に、「私はエジプトから私の子を呼んだ」とある)から。そしてヨルダン川の傍らの流域ではじめて宣せられるかの先ぶれの人との短期の逗留。その後最初の伝道の町となるカペナウムへの帰還。そしてカナンとガリラヤでの滞在。準備の一部となった研究の対象としては、まず律法として与えられたものの土台となるものが含まれていた。かくてかの偉大な新来者に、律法の次に来たるべきものは愛・慈悲・平安であり、こうして主がそのために呼ばれ、またその一部となられたところのかの目的の、完全な実現が生じたのである」
「どの時期から、またどれだけのあいだ主はインドにおられたのですか?」
「十三歳から十六歳まで。一年間は旅行とペルシャ滞在に。より大きな部分はエジプト滞在に割かれた。この点については、その大部分はエジプトのピラミッドの中に蔵されている記録によって示されるであろう。というのも、教えを授かることを許された者たちが教育を受けたのはこの場所であったのだから」
「誰の指導の下に、主はインドで学ばれたのですか?」
「クシュジュアル」
「「ペルシャでは誰の下に?」
「ジュンナー」
「エジプトでは?」
「ツァー」
「インドで授けられた教えの概要をお教え下さい」
「人間の精神面および肉体面における力の準備に関連した、身体のもろもろの浄化法。旅行とペルシャ滞在中は、ツおよびラーの教えの中に与えられたものについてのもろもろの教えに関連した、多様な力の合一。エジプトでは、〔後にエルサレムの〕神殿での教えの中で説かれることになるすべての教えの土台、および成し遂げられることになっていたことを遂行する能力を助長するもろもろの理想との関連において、自らを磔刑に委ねるという将来の行動の土台となったことを。これらの教師たちの誰の物質生に思いを至すときにも、これらのことを研究者たちは決して不自然な条件であるとみなすべきではない。むしろ自己の体験の中に、すべての個別的存在が自らのちっぽけな領域の中でそうあらねばならぬものとなることを可能にするものを確立した人々に、正しき父なる神が呼びかけているのだとみなすべきである。個々の存在はそうした領域を徐々に拡大することによって、彼ら―― 個別的存在—― が意図・目的・理想において主とひとつになるまで包括的な存在となっていくのである」
「どのピラミッドにキリストの記録は残されているのですか?」
「まだそれが明らかにされる時は来ていない」
「三人の賢者とのあいだには、教育においてはどのような関係がありましたか?」
「成長の三つの段階を表している。なぜならこの三人はその成長を待望していた人々であり、飼葉桶の中で幼な子に祝福が捧げられると同時に与えられたものの性格によって、この成長は象徴されている(訳注:東方の賢者たちによって捧げられた黄金・乳香・没薬を指す。なお本書264ページ参照)」
「教えに関する、まだ未発見の書かれた記録が存在しますか?」
「親密な同胞たちの記録は、むしろ未発見のものの方が多いくらいであり、また人の子イエスの準備については、墓の中や、ピラミッドに眠ったままとなっている記録の中に多くの記録が残されている」
「いつになったら、これらの記録の発見される機会が訪れるでしょうか?」
「この世界がそれを通じて今動いている、かの『計算』が充ちた時に。三六……三八……四〇…」
彼は十年もしないうちにこの世を去った。
「主は再び来ると述べておられます。主の再臨についてはどうでしょうか?」
「その時を知る者はいない。主(訳注:父なる神)の望まれるがままに。神の子ご自身も御存じないのだ。御存じなのは父なる神のみ。 神のもろもろの敵―― そしてこの地上―― が完全に神の御意志、神の御力に従うようになってはじめて」
「私たちは、主の降臨の準備期間に入りつつあるのですか?」
「むしろ試練の時期に入りつつあるというべきである」
「ここに集まった人々に、何か伝言は?」
「汝らの導き手となるであろう主〔の再臨へ〕の準備の仕方を知ろうと努めるに際し、汝らはまた、ここでの探求を早めたこの勤勉さと同じ勤勉さをもって、主の僕になるために自らを備えるよう努めよ。今日はここまで」
グラダス・デイビスは、それまで何千回となくやってきたように、またそれから先の何千回となくくり返すことになるように、このリーディングの速記録をとった。いつものとおり、彼女はエドガー・ケイシーが目醒めるまで待ち、それから彼の同意を得ると同時に彼にリーディングの内容を知らせるため、彼女の速記録を読み上げた。集まりが解散した後、彼女は事務所に行って筆記したものをタイプし、再度同意を求めてケイシーに見せた。彼は彼女に何かを語った。彼女はデスクに戻り、次の一文を速記録に付け足した。
「GD(グラダス・デイヴィス)のメモ。私が居合わせた人々に向かってノートを読み上げているとき、EC(エドガー・ケイシー)は人間の大きさをした白い姿の幻(ヴィジョン)が海の方から来るのを見た。彼は車をはじめすべての物体をつき抜け―― 街路を下り、パシフィック街を過ぎてわれわれの方角に向かい、私が読み終えた瞬間姿を消した」”
(グレン・D・キドラー「エドガー・ケイシーの死海写本 リーディングの実証」(たま出版))
*最後の、ケイシーの秘書であったグラディス・デイヴィスのメモの内容は、聖書の中のイエスの言葉「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ伝18-20)を思い起こさせます。
・歴史家フラウィウス・ヨセフス(1世紀、「ユダヤ戦記」の著者)の記述
“「……というのは、ユダヤ人たちは三つの宗派に分かれているためである。第一の宗派はパリサイ派で、第二はサドカイ派である。第三の宗派は前二派より厳格な規律を課する一派で、エッセネ派と呼ばれている。この最後の宗派に属する人々は、生まれはユダヤ人であるが、他の二派に属する人々に比べ、相互の愛情が強いように思われる。これらエッセネ派の人々は、快楽を悪として退け、禁欲と感情抑制を美徳とみなす。彼らは結婚生活を軽視し、外部の人々の子供を、素直で学問に向くあいだに選び出してひきとり、その子供たちを彼らの親族とみなして彼らの方法で教育する。彼らは、結婚の合目的性を絶対的に否定しているわけではない。現に、それによって人類は存続してきた。しかし、彼らは女性たちの好色な行為を警戒し、女性は皆ただ一人の男性のために貞操を守ることはできないものと信じている。」
「エッセネ派の人々は富を軽蔑し、またわれわれを感服させるほど雄弁である。彼らの中には、他の者より多くを持つ者は一人も見当たらない。なぜならば、彼らの間には、彼らの許を訪れる者はその持てるすべてをエッセネ派全体の共有物としなければならないという掟があるからである。それは彼ら総ての間に貧富の差をなくすためで、こうして各人の財産が他の成員の財産と混じり合った結果、エッセネ派は、同胞全員が共有する、いわば、一つの世襲財産を持つことになったのである。彼らは油を汚れとみている。そのため、無断で身体に塗油されると拭き取ってしまう。それは、彼らが白い衣服を着ることと同様、汗にまみれることをよしとみなしているためである。彼らは、また、彼らの身のまわりの世話をするよう特に指名された雑務係を使っている。これらの人々は、特定の人々のために特定の用事をすることは一切なく、全員に共通する用事だけをすることになっている。」
「エッセネ派信徒たちは、特定の都市を自分たちの住処としているのではなく、その多くの成員があらゆる都市に分散して住んでいる。また、他の土地から同じ派の人がやって来ると、彼らは、持てる物すべてをその人にあたかもその人自身の物であるかの如く広げて見せるばかりか、知らない人をもずっと以前からの知り合いであるかの如く遇する。このため、彼らは遠方へ旅するときも、盗難に備えて武器を携帯する他は何も持たない。したがって、エッセネ派信徒たちが住む各都市には、その土地に不案内な信徒の世話をしたり、また彼らに衣類その他の必要品を提供したりする信徒が一人ずつ特に指定されている。彼らの体型や身のこなしは、いつも教師に厳しくされている子供たちのそれに似ている。衣服や靴は、時が経つにつれぼろぼろになるほどに着古され、また、はき古されるまで、取り替えることは許されない。また、彼らのあいだでは売買は一切行われない。彼らは、自分が持っている物を望む人に与えたり、その代りにその人から自分にとって便利と思われる物を受け取ったりする。一切謝礼なしに、欲しい物は誰からでも手に入れて差し支えないことになっている。」
「また、神に対する彼らの敬虔さといえば、それは並外れている。というのは、彼らは日が昇る前には、神と関わりのない卑俗なことは一言も語らず、日の出を嘆願するかの如く、先祖から引き継いできた祈りの言葉を捧げる。この後で、彼らは一人残らず彼らの監督により各仕事場に派遣され、各自が得意とする仕事に就き第五時まで一生懸命働く。それから再び一か所に集まり、白いヴェールを身にまとうと、冷水で沐浴する。こうして身を潔め終わった後、彼らは皆彼らの宿舎の一室に集合する。このとき別の宗派の者は誰も入室を許されない。彼らは、神聖な寺院に入る時のように浄らかななりで食堂の中に入り、静かに腰を下ろす。それから、パン焼き係が彼らの前に順々にパンの一塊を置いてゆき、炊事係は一種類の料理を持ち込み皆に一皿ずつ配る。食事の前に、祭司が食前の祈りを捧げる。食前の祈りの前に食事の味をみることは、誰であっても許されないこととされている。同じ祭司が、食事を終えると、再び食後の祈りを捧げる。彼らは、食前食後に、彼らに食物をお与えになる存在としての神に対し感謝の祈りを捧げるのである。食事を終えると、彼らは白い衣服を脱ぎ、また夕方まで各自の仕事に精を出す。それから夕食を取りに帰宅し、昼と同じように身を潔め食事をする。このときそこに訪問客たちがいれば、一緒に坐る。彼らの住居の静寂を破るような騒音や騒動は一切なく、各自は順番に話すことが許されている。このようにして保たれている彼らの家の静けさは、訪問客たちにとっては、何か大変な神秘のように思われる。この静けさの原因は、彼らが常に実践している節制と、彼らに割り当てられるいつも同量の飲食物であり、彼らにとってはそれだけで十分なのである。」
「さらに他の点に関しても、事実彼らは監督たちの指示によらずしては何もしようとしないのであるが、次の二つのことだけは、各自の自由意思に基づいて彼ら自身の判断で行っている。それは、援助を求める人々を援助し、困っている人々に慈悲を施すことである。彼らには、援助を受けるにふさわしい人々が援助を必要としているときには、自発的にその人々に援助の手を差し伸べ、食べ物がなくて困っている人々には食べ物を与えることが許されているが、自分たちの親族には監督の許可なくしては何も与えることができない。彼らはしかるべき流儀で怒りの感情を発散させ、また感情を抑制する。彼らは誠実さにかけては卓越しているとともに、平和の使徒でもある。また、彼らの言うことは誓いの言葉よりも確実である。彼らは誓うことを避け、誓うことは偽ることよりもさらに悪いこととみなしている。というのは、彼らによれば、神かけて誓わなければ信頼されない者は、すでに非難されているも同然だからである。さらに、彼らは古文書の研究に骨身を惜しまず、古文書の中から彼らの霊魂と肉体にとってもっともためになるものを選び出す。また、心身の病を治す草木の根や薬石についても研究している。」
「しかし、今もし誰かがエッセネ派に加わろうと思っても、彼はすぐには中に入れてもらえず、一年間エッセネ派の人々が追放の身にあるとき送らねばならぬ生活と同じ暮らし方をするよう指示されることになる。志願者には、小さい手斧と前述の白い衣服が与えられる。そして、志願者はその一年間にエッセネ派の人々と同じように自制できることを立証した場合に、彼らの生活にさらに一歩近づき、潔めの水を分かち合うことができる。しかし、それでもまだ彼らとともに暮らすことは許されない。というのは、前述のように不屈の精神を立証した後も、志願者はさらに二年間その気質を試されるからである。そうして適格と認められた場合にはじめて、彼はエッセネ派に加わることができるのである。さらに、志願者は共同の食事に手を付ける前に、恐るべき誓いを立てることを義務付けられる。第一に、神に対して敬虔でなくてはならない。次に、人に対しては正義を守らなければならない。さらに、自らの意志によっても、また他者の命令によっても、人に害をなしてはならない。常に悪しき者を憎み、正しき者に味方しなければならない。すべての人々、特に権威ある人々に対し常に誠実を尽くさなければならない。なぜなら、いかなる者も神の援助なくして人の上に立てるはずがないからである。権威あるものとなったときは、いかなるときにもその権威を乱用してはならず、また衣服や装飾品でもって下の者よりも立派に見えるように努めてはならない。常に真理を愛し、虚言を語るものを叱責するよう心がけねばならない。自らの手を盗みの罪で汚してはならず、また自らの魂を不当な利益で汚してはならない。そして、同胞に対しては何事も隠さず、またその教義を他派の者に明かしてはならない。さらに、何人に対してもエッセネ派の教義を自らが伝えられた方法以外の方法で伝えないこと、また、略奪をしないばかりか、エッセネ派、および天の御使いたち(または使者たち)の御名に属するすべての書物を保存することを誓わなければならない。以上が、エッセネ派が改宗者を加入させる際の誓いの数々である。」
「しかし、極悪な罪を犯している現場を押さえられた信徒は、エッセネ派の社会から追放される。このように同胞たちから隔絶された信徒たちは、悲惨な状態で死ぬ場合が多い。なぜなら、彼らは自らが立てた誓いと自らが実践してきた慣習により束縛されているため、他所で見つけた食べ物を自由に食べることが出来ず、草を食べ、飢えで身を苛まれながら死に追い込まれざるをえないためである。そのため、彼らの多くは死ぬ間際になると、憐憫の情から再度エッセネ派の社会に受け入れられる。死の瀬戸際まで悲惨な状態に耐えたことをもって、犯した罪が十分に償われたと考えられるからである。」
「しかし、エッセネ派信徒たちが下す判決は非常に正確で公平である。彼らは、法廷で百票未満の票しか集まらない場合には判決を下さない。しかし、いったんその数で決定されたことに関しては、変更は許されない。彼らが神の次に最も尊崇しているものは、彼らの立法者の名前(モーセ)である。モーセを冒涜するものは誰でも極刑に処せられる。さらに、彼らは長老たちまたその大多数に従うをよしと考えている。したがって、長老たち10人が同席していて、そのうち9人までが反対しているときは、彼らは誰でも発言しようとしない。彼らはまた、自分たちの中や右側につばを吐くことをしない。さらに、彼らは他のいかなるユダヤ教徒よりも、第七日に仕事を休むことを厳守している。彼らは、第七日に火を燃やす必要がないように前日に食事の用意をしておくばかりでなく、その日は食器を片づけることも、手洗いに行くこともしない。否、他の日であれば、彼らは鋤(最初にエッセネ派に加わったときに与えられる)で深さ1フィートの小さい穴を掘り、神々しい陽の光を汚さないように自分たちの衣服で身を包み、穴の中に排泄するのである。その後で、彼らは掘り出した土を穴の中に戻す。しかもこのような排泄行為を行う際は、必ずその目的のためにいっそう人気のない場所を選ぶ。そして、排泄が自然現象であるにもかかわらず、まるでそれが不潔な行為であるかの如く、その後で身体を洗うことを定めとしているのである。」
「さて、志願者たちは試練期間が終わると四組に分けられる。後進の者たちは先進の者たちよりもはるかに劣るため、先進の者は、後進の者に触れられたときは、異国の者と交わった場合の如く、身体を洗わなければならない。彼らは長命である。百歳以上生きる者が多い。それは粗食のせいである。それのみならず、規則正しい生活を守っているせいでもあろう。彼らはその心の広さから人生の不幸を意に介せず、また苦悩を超越している。彼らの死生観はというと、死が彼らに栄光をもたらす場合には、末永く生きるよりも死ぬ方に価値を置く。事実、彼らは、われわれとローマ人たちとの戦争において彼らがいかに偉大な魂を持っていたかを証明する、数多くの証拠を残した。彼らは裁判で拷問されたり、身体をねじられたり、焼かれたり、ばらばらに引き裂かれたり、ありとあらゆる拷問道具を体験させられることを通じて、彼らの立法者を冒涜したり、彼らに禁じられている食べ物を食べたりするよう強制されたが、決して屈することがなかった。それどころか、一度たりとも拷問にへつらったり、涙を一滴たりとも流したりすることなく、苦痛のさなかに微笑みをうかべ、拷問者達を嘲笑し、再び自分の霊魂を受け取ることを期待してすみやかに自らの霊魂を放棄したのである。」
「その理由は、彼らの教義にある。……すなわち、肉体は滅びるべきものであり、肉体を形作っている物質は不滅ではない。しかし、霊魂は不滅で、永遠に存続する。霊魂はもっとも微妙な気体の中から出現して、牢獄の如き肉体と結合する。霊魂は、ある種の自然な誘導によってその牢獄の中へと引き入れられるのである。しかし、肉体の束縛から解き放たれたときは、霊魂は長い間の幽閉を解かれたかの如く、歓喜して上昇する。この考え方はギリシャ人たちの霊魂説に似ている。すなわち、よい魂は海のかなたにある豪雨や豪雪や猛暑に悩まされることのない地方にその住処を持ち、また、そこはいつも海から優しく吹いてくる西風のおかげで気分爽快な場所となっている。一方、悪い魂はたえまなく無数の刑罰が加えられる、暗く嵐の吹き荒れる洞窟の中に入れられることになっている。ギリシャ人たちが英雄とか半神半人とか呼んでいた勇猛果敢な人々には祝福された人々の島々を用意し、邪悪な人々の霊魂には、シシフォス、タンタロス、イクシオン、ティティオス(訳注:いずれもギリシャ神話に登場する英雄の名。神にそむいたため冥府で罰せられた)の如き人々が罰せられていると寓話で語られている、かの冥府にある神を畏れない人々の国を用意していることを考えると、私には、彼らが実にエッセネ派信徒たちと同じような観念を持っていたように思われる。その観念は、霊魂は不滅であるという前述の最初の仮説に基づいている。そこから、美徳の勧めと悪徳の戒めが説かれるのである。それによって、善人の場合にはその生涯における行為は死後の報償を期待してますます善良となり、一方、悪人の場合にはたとえ今生においてその悪事を隠し通せたとしても死後永遠に刑罰に苦しまなければならないという恐れと予想のために、悪事への激しい傾斜に歯止めがかけられるのである。以上が霊魂に関するエッセネ派の教義である。かつて一度でも彼らの哲学をかじった者には、それは逃れられない魅力があるのである。」
「また、エッセネ派信徒たちの中には、神聖な書物を読み、さまざまな禊(みそぎ)を行い、常に預言者たちの教えに親しむことをつうじて、起こるべきことを予言する役割を荷っている人々がいる。彼らの予言がはずれることはめったにない。」
「さらにまた、エッセネ派の教団の中には、生活の仕方やしきたりや掟の面では他の同胞たちと同意見であるが、結婚に関しては意見を異にする一派がある。その一派は、人類の存続を保証する結婚をしないことは、人間生活の主要な部分を切り捨てることであると考える。否、むしろ、もしすべての人々が意見を同じくするならば、全人類は滅びてしまうだろうと考える。彼らはその配偶者たちと三年間試験的な結婚生活を送り、そのあいだに三回正常な月経があれば、それを子供が産めるであろうあかしとみなし、その後はじめてその配偶者と本当に結婚するのである。しかし彼らは、妻が妊娠しているときには妻と交わらないことを習わしとしている。それは、彼らが結婚したのは快楽のためではなく、子孫を残すためであることを示すためである。ところで、女たちは着衣の一部を身に付けたままで入浴し、一方、男たちも腰の周囲に巻いていたものを一部身に付けたままで入浴する。以上が、このエッセネ派と呼ばれる人々の慣習である。」
(グレン・D・キドラー「エドガー・ケイシーの死海写本 リーディングの実証」たま出版)










