2016.1.27
泉南市埋蔵文化センターフィールドワーク「歴史倶楽部」も今年度で11年目に入りました。
平成27年度のテーマは題して「古代のみやこ」ということで、一年を通じて飛鳥京から平安京への遷都の流れを、現地見学しながら学ぶことになりました。
過去にいろいろなテーマで何度か訪れたところもあります。
復習をかねて頂いた資料や先生にお聞きしたことを中心に整理しています。聞き違いもあると思いますが・・
泉南市埋蔵文化センターフィールドワーク「歴史倶楽部」も今年度で11年目に入りました。
平成27年度のテーマは題して「古代のみやこ」ということで、一年を通じて飛鳥京から平安京への遷都の流れを、現地見学しながら学ぶことになりました。
過去にいろいろなテーマで何度か訪れたところもあります。
復習をかねて頂いた資料や先生にお聞きしたことを中心に整理しています。聞き違いもあると思いますが・・
享年12月に最後の見学地、長岡京跡でした。例年は12月で終了でしたが、今年度は特別に1月も実施。
平城京の「外京(げきょう)」を訪ねました。平城京はその東北、二条から五条にかけて東に3区画張り出していて一般にこの部分を「外京」と呼んでいて平城京の大きな特徴になっています。
「外京」には興福寺や元興寺などの大寺院があり、また東の高台になっていて、平城宮を見下ろすような位置にあることから平城遷都を積極的に推進した藤原氏が氏寺である興福寺を建てる為に、わざわざ「外京」を造ったという意見もあるようです。
二回に分けて報告します。後半は頭塔の続きからです。
平城京の「外京(げきょう)」を訪ねました。平城京はその東北、二条から五条にかけて東に3区画張り出していて一般にこの部分を「外京」と呼んでいて平城京の大きな特徴になっています。
「外京」には興福寺や元興寺などの大寺院があり、また東の高台になっていて、平城宮を見下ろすような位置にあることから平城遷都を積極的に推進した藤原氏が氏寺である興福寺を建てる為に、わざわざ「外京」を造ったという意見もあるようです。
二回に分けて報告します。後半は頭塔の続きからです。
今日のコース
JR奈良駅~興福寺~奈良公園・浮見堂~頭塔~元興寺極楽坊~元興寺塔跡~
JR奈良駅
頭塔(ずとう)の見学中です。
方形7段の土塔の周りを一周できるように通路が整備されています。
下層の基壇は一辺が33mで、各面には仏龕(ぶつがん)と呼ばれる仏像や経文を安置するための小室が全部で44も確認されており、そこに石仏が安置されてるようです。北西の角から見た頭塔です。
見晴らしの良い位置にこの頭塔は造られているようで、奈良の町が一望できます。
頭塔の北面は綺麗に復元されていますが南面は復元前の状態が保たれていて大変参考になります。
神護景雲元年(767)に東大寺の僧実忠が土塔を築いたと古文書に記録があり、
見晴らしの良い位置にこの頭塔は造られているようで、奈良の町が一望できます。
頭塔の北面は綺麗に復元されていますが南面は復元前の状態が保たれていて大変参考になります。
神護景雲元年(767)に東大寺の僧実忠が土塔を築いたと古文書に記録があり、
それがこの頭塔のようで、五重塔のように仏舎利を納める仏塔と考えられているそうです。
板の擁壁で保存されている南東部です。
発掘調査当時の写真なども掲示されていました。復元整備の様子が目に浮かびます。
見学を終えて頭塔の南側の道路を西に「ならまち」の方へ向かいます。
板の擁壁で保存されている南東部です。
発掘調査当時の写真なども掲示されていました。復元整備の様子が目に浮かびます。
見学を終えて頭塔の南側の道路を西に「ならまち」の方へ向かいます。
高台になっている頭塔が見えます。
古い町屋が並んだ道を元興寺に向かいます。
福地院の前を通り。地蔵大仏が本尊だそうです。
古い町屋が並んだ道を元興寺に向かいます。
福地院の前を通り。地蔵大仏が本尊だそうです。
大きな裳階付の本堂が目につきました。
酒屋さんも目につきます。その一つ「春鹿」醸造元です。
「春鹿」]醸造元の今西家書院がありました。ちょっと覗いてみました。
興福寺大乗院家の坊官を努めた福智院氏の居宅を大正13年に今西家が譲り受けたそうです。お食事、喫茶などができるようです。
元興寺の前に来ました。元興寺は崇峻天皇元年(588)にあすかで蘇我馬子が造営した法興寺(飛鳥寺)を養老2年(718)に平城京に移転したもので、南都七大寺の一つとして栄えたそうです。
興福寺の南に接した広大な寺地でしたが平安時代中期以降しだいに衰え、室町、江戸時代と火災で大半を焼失、現在はここ中院町の極楽坊と称している元興寺と後で行く芝新屋町の元興寺に分かれています。
元興寺極楽坊の正門。東門です。
酒屋さんも目につきます。その一つ「春鹿」醸造元です。
「春鹿」]醸造元の今西家書院がありました。ちょっと覗いてみました。
興福寺大乗院家の坊官を努めた福智院氏の居宅を大正13年に今西家が譲り受けたそうです。お食事、喫茶などができるようです。
元興寺の前に来ました。元興寺は崇峻天皇元年(588)にあすかで蘇我馬子が造営した法興寺(飛鳥寺)を養老2年(718)に平城京に移転したもので、南都七大寺の一つとして栄えたそうです。
興福寺の南に接した広大な寺地でしたが平安時代中期以降しだいに衰え、室町、江戸時代と火災で大半を焼失、現在はここ中院町の極楽坊と称している元興寺と後で行く芝新屋町の元興寺に分かれています。
元興寺極楽坊の正門。東門です。
東大寺の西南院にあったものを室町時代に移築したそうです。
本堂にあたる国宝極楽堂です。僧侶の居住施設である僧房の一部のみが極楽坊として発展しここに曼荼羅がまつられ浄土信仰の発展とともに存続されたそうです。
本堂にあたる国宝極楽堂です。僧侶の居住施設である僧房の一部のみが極楽坊として発展しここに曼荼羅がまつられ浄土信仰の発展とともに存続されたそうです。
屋根には飛鳥・奈良時代の古い瓦が混じり、丸瓦を重ねた行基葺きといわれる葺き方も見受けられます。
極楽堂の西にある禅室(国宝)は鎌倉時代に改築されているものの元興寺の僧房を今に伝えています。
こちらの北側の窓は後ほど紹介する南側と違って窓が小さく配光や防寒を考慮したようです。
極楽堂の北にかえる石と言う石がありました。詳細はこのページにありました。
南側に回りました。
手前が禅室。向こうが極楽堂。禅室の窓が北側に比べ大きく開かれています。
屋根瓦がカラフルです。
屋根瓦がカラフルです。
前述のように奈良・鎌倉・室町時代の瓦が入り混じっています。
禅堂の屋根瓦です。左が本瓦葺き。右が行基葺き。
極楽堂の南には収蔵庫があり国宝の五重小塔が収められています。
禅堂の屋根瓦です。左が本瓦葺き。右が行基葺き。
極楽堂の南には収蔵庫があり国宝の五重小塔が収められています。
高さが5.5mもある大きな模型です。
瓦や組物も内部構造も本来の塔と同様に見事に精密に造られています。
瓦や組物も内部構造も本来の塔と同様に見事に精密に造られています。
もう一つの元興寺・小塔院の本尊や国分寺などの他の寺塔の雛形との説が有力視されているそうです。
仏像以外の収納品の中には昭和の解体修理で取り外された古材があり「年輪年代法」で調査したところ飛鳥の法興寺が造り始められたころのものと判明し法興寺の一部が移築されたと考えられています。
禅室の屋根裏の頭貫も飛鳥時代の部材で今も現役で使用されているとのことです。
中新屋町から発掘された講堂跡の礎石が収蔵庫の前に並べられていました。
極楽坊を後にして南に約130m芝新屋町の元興寺まで来ました。
大和名所図会などから江戸時代後期まで奈良時代に建てられた五重塔が残されていたようです。基壇と17個の礎石が残っていました。
塔跡の北には観光客もなくひっそりとした観音堂。啼燈籠と言うそうです。
延享年間に大丸呉服店の伏見下村家が代わりの灯籠を奉納してこの古燈籠を自宅に置いたところそれからは夜ごと家鳴り震動して、根元がこの燈籠と言うことで元に戻したという燈籠だそうです。
正嘉元年(1257)の刻銘があり、奈良市内では2番目に古い刻銘入りの灯籠とのこと。昭和19年に地震で倒壊したものを平成22年に修理したそうです。
今日の見学は終了。「ならまち」を抜けて三条通りへ。
仏像以外の収納品の中には昭和の解体修理で取り外された古材があり「年輪年代法」で調査したところ飛鳥の法興寺が造り始められたころのものと判明し法興寺の一部が移築されたと考えられています。
禅室の屋根裏の頭貫も飛鳥時代の部材で今も現役で使用されているとのことです。
中新屋町から発掘された講堂跡の礎石が収蔵庫の前に並べられていました。
極楽坊を後にして南に約130m芝新屋町の元興寺まで来ました。
大和名所図会などから江戸時代後期まで奈良時代に建てられた五重塔が残されていたようです。基壇と17個の礎石が残っていました。
塔跡の北には観光客もなくひっそりとした観音堂。啼燈籠と言うそうです。
延享年間に大丸呉服店の伏見下村家が代わりの灯籠を奉納してこの古燈籠を自宅に置いたところそれからは夜ごと家鳴り震動して、根元がこの燈籠と言うことで元に戻したという燈籠だそうです。
正嘉元年(1257)の刻銘があり、奈良市内では2番目に古い刻銘入りの灯籠とのこと。昭和19年に地震で倒壊したものを平成22年に修理したそうです。
今日の見学は終了。「ならまち」を抜けて三条通りへ。
庚申さんの身代わり猿。魔よけの「さるぼぼ」が。
帰り道にあった小塔院跡の標識。
帰り道にあった小塔院跡の標識。