しばらく二人は静かだった。

お互いにまだよく知らない者同士、打ち解けていないというか、沈黙が多い。それでも涼はあまり気遣うこともなく自然体で、それでいてこちらを鋭い目の奥で観察しているような感じだった。

きっと女慣れしているから余裕があるんだろう。


「仕事は何をしてる人?」

たまらず、ひな子から言葉を発した ― さりげなく。沈黙は苦手だ。

「広告代理店の営業」

「へえ」

ひな子は妙に納得した。ルックスだけでなく、性格も堂々としているし、男からも好かれそうなタイプだから、営業に向いているような気がした。

「ひなちゃんは?」

「商社で英文事務だよ」

英文事務といっても、ひな子の会社の場合、普段は貿易事務のアシスタントとして仕事をしていて雑用も多い。

貿易事務に転属したいが、空きがなくなかなか任せてもらえない。

が、そんなことはここではあまり話さないほうがいいことだった。

「英文?英語とか話せるの?」

「うんまあ一応…」

「スゴイじゃん。オレそういうの尊敬するなあ」

涼は目を輝かせた。

「まあね。ハワイに1年留学してたから」

本当は現地で日本人としか関わらなかったからほとんどしゃべれない。

会社でも簡単な電話の取次ぎくらいしかしていない。しかも近頃、留学も英語ができることもそんな珍しいことではない。

「ハワイかあ。いいね、オレよくサーフィンやるからハワイは一度行ってみたいんだよね」

「へえ、サーフィンやるんだー。すごいじゃん。ハワイ良かったよ。車でよくビーチに行って、帰りにバーベキューしたりホームパーティーしたりね」

「いーなあ。ひなちゃんもやるの?サーフィン」

「…昔はね」

昔1度やったけどクラゲに刺されて死ぬほど痛くて辞めた、というのが正しい。

ひな子は話題を変えた。

「家は、あのバーの近くなの?」

「ん、妙蓮寺」

「ふーん、わりと近いんだね」

かなりの至近距離に住んでいる。妙蓮寺はひな子の住む東横線白楽駅の隣だ。

「ねえ…」

「ん?」

なんであのときあのバーにいたの?

とはストレートに聞けない。

「あのバーには結構行くの?」

ソフトな質問に変えた。

「あのバー?初めて。通りがかって、帰る前にちょっと寄っただけだよ。白楽に友達が住んでるからわりと白楽には行くけど。あの日はいろいろまあ…」

それ以上、涼は言わなかった。


ふうーん、いろいろまあ…?

その友達って女?

女とただならぬ関係か?


余計な突っ込みを入れそうになった。

たぶんその疑いは正しい。


どうでもいいことだ。

女なんて涼の顔なら周りにいくらでもいるはずだし、それがどんな存在かなんて一々気にするだけムダに思えた。

大事なのは、その取り巻きの中からいかに自分が彼の愛情を勝ち取るかだ。そのための努力さえすればいい。涼にとって魅力的な女として振舞っていれば。


これは、形にならない恋愛だ。

いくら涼が魅力的にしていても、遊んでいる男だという不信感もあるし、年下だし、ひな子は涼をある意味冷めた目で見ている。でもそれはそれでいい。

これは、どちらが相手を陥落させるかが面白いチェスなのだ。


気があると見せかけて引いて。

どちらが片方の陣地に引っ張り込まれ、本気になるかの、ただのゲームだ。


ひな子の、プライドを賭けたゲーム。

こうも言えた。

20代最後の冒険にして、恋愛のブランクを埋めるための恋愛のリハビリ。


人をあざむく罪悪感は、ひな子にはもうなかった。結婚の焦りも頭から消えていた。

これは、自分に必要なゲームなのだ。

冬の間だけの。


ひな子は「何か」が降りてきたように、いい女を演じきろうとしていた。

まるで親友の美和子でも乗り移ったようだ。

自分が今何をすべきか、その「何か」が全て教えてくれた。

意味深な目線や口元や、笑うタイミング、男心をくすぐりそうな声の質、しゃべり方、話の内容まで、それによって巧みにコントロールされるようだった。

ひな子はそんな自分を楽しんでいた。涼も、そんなひな子に好奇心をくすぐられているようだった。


わたしを見る涼の目ちょっとキラキラしてない?

もしかしてあなた本気になってきちゃったわけ?


ひな子は内心笑みを浮かべていた。


店員が待ちに待ったペンネを運んできて、ひな子は1さじ口に入れた。

ペンネは、とろけたチーズとトマトが挽肉とよく絡まって濃厚な味となり、文句無くひな子のBEST3に入るくらいのおいしさだった。レシピが知りたいくらいだ。

「ほんとにおいししね、これ」

「でしょ?やっぱ来てよかった」

涼は笑みを浮かべて、上目づかいに言う。


涼はそれから、自分の趣味のサーフィンやダーツについていろいろ熱っぽく話した。

ひな子が顔をほめて、モデルの経験がありそうと言うと、高校・大学と雑誌のモデルをしていたことを話してくれた。そこでできた有名人とのつながりとか、普通の女の子だったらかなり舞い上がってしまいそうな話題をひな子は、柔らかい微笑を浮かべながら、涼の目を見つめて、黙って聞くことに徹していた。

涼は上手な聞き手を得て、満足げに話していた。


それからしばらくして、二人はレストランを出た。


やっぱり帰ろう。


ひな子は後ずさりした。

が、その時涼の背中がマンションの1階を抜けてなぜか裏へ回った。

恐る恐る様子を見に行く。


すると小さな看板が出ている。

木製の看板に「六」と書いてある。

大きくとった窓から温かい明かりが漏れている。

明らかにレストランだった。

ひな子の肩から力が抜けていった。


なんだー、よかった…。


少し足早に涼のほうへ歩いていく。涼は口元に笑みを浮かべて言った。

「まあ入って。ここ”むつ”っていうんだけど、結構おいしいよ」

「へ、へえ」

今までの不安を隠すように余裕ぶってひな子は返事した。

涼に腰を抱かれて温かい店内へ入る。

中は20畳ほどの広さで、15人くらいが入れるほどの洗練された雰囲気の小さな店だった。

「いらっしゃいませ」

若い女の子が声をかけてきた。

「予約の奥田です」

「かしこまりました。ご案内します」


予約してくれてたんだ。こんな雰囲気のいい店を。


ダークブラウンの家具やダウンライトで統一された店内は満席に近い状態だった。

こんなにわかりにくいところにあるのに満席に近いということは、よほどおいしい店なのだと思った。

ひな子は感激した。

そして今まで失礼な想像をしていた自分を恥じた。

少なくとも涼は自分を気に入ってくれているのだと感じた。

本当にどうでもいい女ならこんなところに連れてこない。そう思うと素直に嬉しかった。


案内された奥の席に座る。

「どうやってこんなところ見つけたの?」

コートを脱ぎながら聞いてみる。ひな子の狙い通り、涼が鎖骨の見えるワンピース姿に意味ありげな視線を送った。

「ん?高校の時この近くで古着屋のアルバイトしてたんだけど、仲のいいお客さんがオレに紹介してくれたんだ。しばらく来てなかったけど、今日久しぶりに食べたくなって予約した」

「え?高校生の時こんなところに?」

「…まあ、な」

あいまいな返事だった。なんとなくひな子はその「客」が年上の女のような気がした。…それは置いといて。

「なんにする?」

メニューを開いて涼が聞いてきた。どれも選びがたい香ばしそうなパスタやピザ、メインディッシュの名前が並んでいる。

「そうだね」

「これウマイよ」

涼のしなやかな指先が「茄子とトマトとチーズのペンネ・グラタン風」を指す。

名前がすでにおいしそうだった。

「じゃあこれ」

迷わず決める。

涼もそれを選んで、それから二人で食べる「海と山の幸サラダ」と「オマール海老とわたり蟹のスープ」を1品ずつ追加し、店員を呼んだ。

車はクリスマス一色のランドマークタワーとワールドポーターズを通り過ぎていく。

今年のクリスマスはきっと一人じゃない。

ひな子は窓の向こうのまばゆい夜景ににんまりと笑みをこぼした。

車に乗っている間ずっと、涼は絶対に男の子にしか理解できないようなロック(オルタナ?)を聞いてご機嫌だった。

1つわかったのは、涼は昔、CDデビューしそうなバンドにいて、ギターを弾いていたということだ。結局デビューの話は流れて解散してしまったという。

イケメンとバンドとはなぜかありがちな組み合わせだと思った。ひな子のイケメン友達もバンドを組んでいる人は多い。そして漏れなくギターかボーカルなのだ。彼らがドラムやベースをやるのは確かに想像できない。

ひな子は、涼の少し自慢げに曲作りの話なんかをするのを、多くの女がそうするように、真剣に聞き入っているふうにしながら、涼のちょっと子供っぽい部分をかわいいと思っていた。

涼は時々急に無口になった。そういう時、本当に何を考えているのか読み取れなくて不安にさせられる。

もしくは、全く何も考えていないのかもしれない。

ひな子は運転する涼のまっすぐで大きな目をそれとなく観察しながら、気になっていたことを聞いた。

「ところで、年まだ聞いてなかったね。いくつ?」

「28」

返ってきた数字にひな子はガクゼンとした。



What?



ひな子の恋愛カテゴリーに年下は存在しない。

「ひなちゃんは?」

「…29」

「へー年上だ」

涼も考えてなかったようで一瞬動揺が見られた。

その後しばらく2人は沈黙した。ひな子は別に恥じることもないのに、気まずかった。


…絶対今、おばさんって思われた。


ほどなく車は元町に入り、商店街の中をしばらく走ってから街中の立体駐車場に入った。

車を駐車場に止めて、そこから歩くことになった。

予想外にまともな展開だったので(もっとヤバイ場所で降ろされるかと思っていた)、ひな子は内心、心の底から救われた気がした。痛い目には合わないようだ。

と同時に、これからの流れに期待をせずにはいられなかった。わざわざ元町まで来て、居酒屋はない。

フレンチか高めのイタリアンか。隣に中華街があるので、中華という選択肢もある。お腹だって空いてきている。


さて、キミはどんなレストランに連れてってくれるのかな?


商店街のメイン通りではない細い小道をまっすぐ歩く。すでにレストランやバー以外はシャッターを下ろしている。

涼というグッドルッキングを隣に置いて、人が振り返るので、ひな子は年甲斐もなく得意になって、わざと年下の男の腕に抱きついてみたりした。高いダイヤモンドでも身につけたみたいに無敵な気持ちになった。寒さをすっかり忘れていた。


正直年下っていうのにはびっくりしたけど、まあいっか。


あまり気にしないように努める。

急に左に曲がり、山手方面に坂を上っていく。あたりが電灯の明かりだけになり、心細くなるほど人気もない路地をさらに曲がって。


こんなところに店が?


ちょっと、本当にどこに行くつもり~?


また怖い考えが吹き返しそうで焦る。話していて、涼がそれほど悪い人間でないことはなんとなくわかってきた。が、何を信用していいのかわからないこの世の中なだけに…。涼についてきてしまったひな子自身も悪いのだが。

「ねえ…」

ひな子が問いただそうとしたとき、

「ここだよ」

涼が急に向きを変えて、とあるマンションの中へ入っていく。

斜面に立っている、中型の何の変哲もないマンションだ。


なに?まさかここ涼のマンション?

そんな、いきなりお宅訪問!?まだ心の準備が…


涼はどんどん進んでいく。

ひな子は後をついていきながら心臓の鼓動が大きくなるのを感じた。


涼の気持ちが読めない。読むのも怖い気がするし。

何を考えてるんだろう?やっぱり怖い想像通りの男or単に遊び人なのか。


もうありとあらゆる酷いことしか浮かばなかった。

ひな子は横浜駅のルミネの前で待っていた。

仕事を6時に切り上げた後の1時間半の間に、カードで光沢のあるタイトなワンピースとブーツを買い、それをコートの下にわざと見せるように着て、しっかりとメイクをし、髪を巻き、どこからどう見てもカッコカワイイ系の女に変身している。今日会社に持ってきていたカバンが安物のカバンでなく、グッチでよかったとホッとした。



今日は金曜。中央改札口は、歩きにくいほど人でごった返している。

同僚と飲みに行くサラリーマンや、彼氏を待っている女の子があちこちにいる。



…涼はどんなところに連れてってくれるんだろう?



ひな子は涼のプランを想像した。単なる遊び相手としてなら、サプライズ的な高いレストランに行くことは多分ない。だとすると、西口の安いイタリアンかもしかしたらそこらへんの居酒屋?

そちらはあまり考えたくなかった。



お酒に酔ったあと、きっとウチに来て、大事なものを取りに来たついでにとかいって泊まっていくんだろうな。

そしてきっとセックスする。わたしは1度目は全然記憶にないから、初めてのセックスみたいなものね。

1度目ってどんなだったんだろう?



「けっこうHなんだね」



涼の言葉がこだました。

わたし感じて大声でも出してたのかな…?

涼ってどんなセックスするんだろう。

それは今日わかる。ひな子は期待してしまった。



「こんばんわ」

目の前で聞き覚えのある声がした。

涼だった。



「こ、んばんわ」

あまりに唐突でヘンなタイミングだったので、おかしな返事になった。

涼は予想を裏切ってスーツではなかった。ジーンズに黒い細身のショートコートを着て、中は数字の入ったTシャツというカジュアルかつオシャレな雰囲気だ。鼻が高く、整った顔だちに長身なので、モデルみたいによく似合っている。涼を惑わすつもりが、こっちが戸惑ってしまった。


涼はひな子の会心の出来の服装に一瞬焦点が合ってから言った。

「もしかしてけっこう待っちゃってた?ごめんな。一回家戻ったからな」

「大丈夫だよ。なんで家に戻ったの?」

「ん、まあちょっと用事あって」

「そう」

そういうこともあるかと思い、ひな子は深く聞かなかった。

「とりあえず、こっち行こう」

急に涼がひな子の手を握って引っ張ってきた。男に手を握られることには多少慣れているが、さすがに涼にはドキドキする。今までのどんな美形の男とも次元が違う、完璧ともいえるルックスがそうさせるのかもしれない。


涼に引っ張られる形で西口の高島屋方面に抜けていく間、それとなく女子からの視線を感じるようだった。涼の顔はとにかく目立つのだ。ジロジロとはっきり見てくる視線もある。が、ひな子にはそれが心地よく、思わず優越感を感じてしまった。

自慢の彼氏に手をつながれている構図。女の誰もが羨ましがる絵。



オトコってやっぱ顔?

収入でも性格でもなくて、見た目?

なんかすごい快感…


高島屋を過ぎたところに来て、涼は立ち止まった。横に黒いB系のワゴン車があった。

「乗って」

涼が言いながら運転席に乗る。

歩きでどこかに行くことを予想していたひな子はこの展開に凍った。

のろのろとドアを開け、乗ろうかどうか迷う。よく知らない男の車に乗って大丈夫なんだろうか?



コイツ、実はヤバイ男なんじゃ…


ひな子の頭がどんどん悪いイメージを作り出した。

涼が途中で豹変してひどい暴力を受けるとか、脅されて金を騙し取られる。

車で行った先に仲間が居て、何人にも暴行されるかもしれない。

心配するのはひな子の悪いクセだったとしても、世の中にはそんなニュースが日々あふれている。注意するには十分すぎる状況だった。自分の浅はかさを呪った。



「大丈夫だって。俺ってアヤシイ感じ?」

戸惑うひな子を察して涼が優しく声をかけてくる。

「そんなことないけど…」

そんなことある。

中から好きなRBが流れてきた。Ne-Yoだ。少し親近感を覚えた。

涼に対する好奇心はやはり抑えられなかった。このまま拒否すればもうこの魅力的な男には会えない気がした。見たままの涼の人柄を信じ、ひな子は覚悟を決めて助手席に乗った。



「とりあえず、メシね」

「そうだね。ねえねえどこ連れてってくれるの?」

猫が甘えるようにひな子はきいた。

涼のカッコよさに圧倒されていたが、圧倒するのは本来ひな子でなくてはならなかった。だから、一緒に居る間はできるだけ計算高く、魅力的にふるまうことにしようと思っている。なんといっても、このゲームに勝つのはひな子なのだ。

「着いてからのお楽しみ」

不敵に涼が笑った。その瞳がいたずらっぽく光って魅力的だった。


涼はi-podをいじって、全く知らない曲になった。ROCKとラップを合わせたようなもので(レイジアゲインストザマシーンだと教えてくれた)、ウーファーから出るガンガンの低音とギターとが骨と頭に来るようだ。ほとんど未知との遭遇だ。



へえ、意外とやんちゃなんだ。



車は高島屋を離れ、ひな子の運命を乗せてどこかに向けて走り出した。

!?彼からのメールだ…

これってもしかしてわたしに会いたいってこと?


彼のほうもわたしのことが気になってたりして…

でもわたしなんかに?大事なものってなんだろう…


ひな子は驚くと同時に心が少しどきどきするのを感じた。


彼に会える!ヤダもしかしてこのどきどきって恋のはじまり?

ひな子は久しぶりの恋の予感に気持ちの高まりを感じていたが、その、上がっていった感情の波が急にフラットになった。



待ってよ。なんかこの展開おかしくない?できすぎてない?



ひな子の防衛本能がチクチク働く。

世の中そんなに甘くない。福袋でも宣伝過剰な化粧水でも金儲けができるとウタった金融商品でも、できすぎた話にこそ注意しなければならない。


簡単に返事をしちゃっていいんだろうか?


ダメ。絶対ダメ。


どこに住んでてどこの会社のどんな人間かも知らない男に本気になるなんてダメ。

これは完璧に遊び相手だと思われてるパターンよ。

大事なものを取りに行くっていうのは口実で、ヤリモクだって!大体いかにも女に不自由しなそうな男がバーなんかで会った女を相手にするわけがない。


今までだって何人かいたじゃない。怪しい男。クラブで知り合った妻子持ちっぽいDJとか、大学の飲み会で突然隣に座ってきた超モテる金持ちの先輩とか。みんなどこかウソっぽかった。

本命じゃないけど、ちょっとひっかけてやるかっていうウサンくささがぷんぷんしてたじゃない。


顔にだまされるな、絶対危険な男なんだから!


強い自制心が、うねる好奇心を押さえつけようとしていた。


急に非常階段の扉が開いて、タバコを吸っていた人が出てきた。

12月の風が吹き込んでくる。

なんだか寂しい気持ちにさせる風だった。


彼の目、キレイだったな。。

シャワーから出てきたときもなんか期待を裏切らずオトコ前で…


携帯を握り締める。

冬の間だけ…

一緒にいられたら…


そのあとちゃんと結婚に向けてまともな人を見つけるとか…

寒さが心を弱くするようだった。

ひな子は迷いながら親指を動かした。


「どうしようかなあ。ちょっと今日は予定が…」


その後の言葉をどう続けようかしばらく思案して、次の言葉を続ける。



「でも大事な忘れ物なら、しょうがないね。何時に来るの?」



ひな子の防衛本能は結局、彼に対する好奇心や期待に勝てず、もろく崩れ去った。

期待と後悔をしながら席に戻ると、再びメールが入る。こっそり見ると、



「よかった。じゃあ7時半ころ横浜で待ち合わせよう!せっかくだからご飯でもどう?その後取りに行くから」


彼のメールだった。



ご飯一緒に食べてくれるんだ。もしかしてわたしのこと真剣に考えてくれてるから??


― 無い無い。

はあ。もう何をしてんだろわたし…



自分から罠にかかりに行っているようなものだ。

今からでも引き返せば、傷つかず、また波のない穏やかな毎日が待っている。

結婚相談所に登録するなり何なりして、まっすぐ結婚に向けて準備する。これが29才のまともな考え方だ。


それとは真逆に、20代はあと少しで、恋愛に冒険するなら今のうちという考えもひな子の心の中でドクドクと激しくうねっていた。


パッと、ひな子の頭にある考えがひらめいた。

それは同じ年の親友・美和子の奔放ぶりだった。


彼女はかなりの美人で、女王様で、男に貪欲だった。

結婚するような男がいないと言いながら、天然癒し系から年収3000万まで常に5人の男を携帯にストックしていて、どんな出会いにも前向きで、いつでも楽しそうだ。

男から遊ばれるということは彼女のプライドが許さないらしく、むしろ自分から相手をうまく転がしている、まるでハンターみたいな女だ。

彼女だったら、こういう出会い方でも、相手が自分の好みなら確実に相手をしとめてコントロールしているだろう。。

決してマネはできないが、ひな子にとってある意味羨ましい存在だった。


わたしだって…
できる…わよ。


狩られるより、むしろ狩る方がなんだかかっこいいじゃない。


―そんなこと絶対ダメ!今すぐ食事を断って、日を改めて大事な忘れ物を渡すっていうメールを送りなさい!


なーに言ってんの!

どうせ遊びなら、美和子みたいにわたしが相手をものにしちゃえばいいのよ。

食っちゃえ食っちゃえ!

うまくいったら、これが縁で彼と結婚する可能性だって全くなくはないんだし~。


てゆーか、面白そう!


天使と悪魔がぶつかって、悪魔が微笑んだ。

急におかしな自信とやる気が湧き上がってきた。


首洗って待ってなさいよ、奥田涼!

極上のいい女からあなたは離れられなくなるんだから!


…こうしてひな子は、自分からゲームをスタートさせたのだった。